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18_80 アジア諸地域世界の繁栄と成熟 / 清代の中国と隣接諸地域(清朝と諸地域)

ポタラ宮殿とは わかりやすい世界史用語2426

著者名: ピアソラ
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ポタラ宮殿とは

ヒマラヤ山脈の壮大な景観の中に、チベットの精神的、政治的、そして文化的な心臓部として聳え立つ建造物があります。それがポタラ宮殿です。ラサの街を見下ろすマルポ・リ(赤い丘)の上に位置し、その壮麗な姿は、何世紀にもわたるチベットの歴史、信仰、そして芸術の集大成と言えます。標高3,700メートルを超える高地に建設されたこの宮殿は、世界で最も高い場所に位置する古代宮殿として知られ、その存在自体が畏敬の念を抱かせます。 ポタラ宮殿は、単なる建造物ではなく、チベット仏教の宇宙観、ダライ=ラマの権威、そしてチベット民族のアイデンティティが深く刻み込まれた生きた遺産です。
その歴史は、7世紀のチベット統一王朝の時代にまで遡りますが、現在の壮大な姿は、主に17世紀に第5代ダライ=ラマによって築かれました。 以来、歴代ダライ=ラマの冬の宮殿として、またチベット政府(ガンデンポタン)の政庁として、チベット世界の中心であり続けました。 宮殿は、世俗的な政治を司る白宮(ポタン・カルポ)と、宗教的な儀式や研究の中心である紅宮(ポタン・マルポ)という、二つの主要な部分から構成されています。 この二元的な構造は、チベットにおける政教一体の統治体制を象徴しています。
白く塗られた壁が平和と慈悲を、そして赤く塗られた壁が力と知恵を象徴するように、ポタラ宮殿の隅々にまで深い意味が込められています。 1000を超える部屋、1万を超える祠、そして20万体にも及ぶ仏像を内包し、その内部は壁画、仏画(タンカ)、彫刻、経典、そして金銀宝石で飾られた貴重な工芸品で満ち溢れています。 これらの膨大なコレクションは、チベットだけでなく、インド、ネパール、中国など、周辺地域の文化との交流の歴史をも物語っています。
1994年には、その卓越した普遍的価値が認められ、ユネスコの世界遺産に登録されました。 この登録は、ポタラ宮殿が人類共通の宝であることを示しています。宮殿は、建築、芸術、歴史、そして宗教が織りなす壮大なタペストリーであり、その一つ一つの糸が、チベットという土地の精神性を物語っています。



起源と初期の歴史:ソンツェン・ガンポの時代

ポタラ宮殿の歴史の源流は、7世紀のチベットに遡ります。この時代、チベット高原を統一し、強力なチベット帝国(吐蕃)を建国したのが、第33代国王ソンツェン・ガンポでした。 彼は、チベットの歴史における極めて重要な人物であり、政治的な統一者であっただけでなく、仏教を導入し、チベット文字を制定するなど、文化的な基盤を築いた王として知られています。
ソンツェン・ガンポは、首都をヤルルン地方から、戦略的に重要な中央チベットのラサ谷に移しました。 そして、ラサの街を見渡すマルポ・リ(赤い丘)の頂に、宮殿を建設することを決定しました。 この丘が選ばれたのには、いくつかの理由が考えられます。まず、その急峻な地形は、敵からの攻撃を防ぐための防御拠点として理想的でした。 また、伝説によれば、この丘は観音菩薩(チベットではチェンレジとして知られる)が住まう聖なる場所と信じられていました。 ソンツェン・ガンポ自身も観音菩薩の化身と見なされていたため、この地に宮殿を築くことは、彼の神聖な権威を象徴する上で極めて重要でした。
史料によれば、ソンツェン・ガンポが建設した最初の宮殿は、999の部屋を持ち、さらに丘の洞窟にあった瞑想室を加えて合計1000の部屋からなる、壮大な規模を誇っていたと伝えられています。 この宮殿は、石、木材、そして突き固めた土を用いて建設され、外壁は白く塗られていました。 この初期の宮殿は、王の住居であると同時に、チベット帝国の行政の中心地としての機能を果たしていました。
また、ソンツェン・ガンポは、ネパールのブリクティ王女と、中国・唐の太宗皇帝の姪である文成公主を妃として迎えました。 特に文成公主との結婚は、チベットと唐との間の文化交流を促進する上で大きな役割を果たしました。一般的に、ポタラ宮殿は文成公主のために建てられたという説が広く知られていますが、歴史的な記録によれば、宮殿の建設は彼女がラサに到着する8年も前の635年に始まっており、その主な目的は、統一されたチベット高原を統治するための強力な政治的中心を確立することにあったと考えられています。 とはいえ、宮殿内には彼女のための部屋も用意され、彼女が唐から持参した仏像や文化が、チベットにおける仏教の発展に大きな影響を与えたことは間違いありません。
しかし、ソンツェン・ガンポが築いたこの最初の宮殿は、その後の歴史の中で、落雷による火災や、チベット帝国の崩壊に伴う内戦などによって、ほとんどが破壊されてしまいました。 9世紀に吐蕃王朝が崩壊すると、チベットは長い分裂の時代に入り、かつての壮大な宮殿は廃墟と化しました。しかし、ソンツェン・ガンポが瞑想を行ったとされる洞窟や、観音菩薩を祀った礼拝堂など、ごく一部の建造物は奇跡的に残り、後世に受け継がれることになります。 これらの遺構は、現在のポタラ宮殿の最も神聖な場所として、今もなお大切に保存されています。
第5代ダライ=ラマによる再建:ガンデンポタン政権の確立

ソンツェン・ガンポの宮殿が廃墟と化してから約800年後、チベットは再び統一の時代を迎えます。その中心となったのが、チベット仏教ゲルク派の指導者であり、「偉大なる第5代」と称されるダライ=ラマ、ロサン・ギャツォ(1617-1682)でした。 彼は、モンゴルの指導者との戦略的な同盟を通じて、数十年にわたる内戦を終結させ、1642年にチベットを再統一しました。 そして、ダライ=ラマを最高指導者とするチベット政府、ガンデンポタンを樹立しました。
新たな政権の確立に伴い、第5代ダライ=ラマは、その権威とチベットの統一を象徴する新たな拠点を必要としました。彼の精神的な助言者であったコンチョク・チョペルは、かつてソンツェン・ガンポが宮殿を築いたマルポ・リこそが、新たな政府の所在地として理想的であると進言しました。 この場所は、ラサの旧市街と、ゲルク派の三大寺院であるデプン寺とセラ寺の間に位置するという地理的な利点に加え、観音菩薩の聖地であり、チベット帝国の王と結びつくという歴史的・宗教的な正統性をも備えていました。
この進言を受け入れた第5代ダライ=ラマは、1645年にポタラ宮殿の建設を開始しました。 この再建事業は、単なる建物の建設にとどまらず、チベットという国家のアイデンティティを再構築するための壮大な国家プロジェクトでした。 宮殿の名称「ポタラ」は、インドの南端にあるとされた観音菩薩の神話的な住処であるポータラカ山に由来します。 この名前を選ぶことで、第5代ダライ=ラマは、自らが観音菩薩の化身であり、チベットの守護者であることを明確に示しました。
建設はまず、宮殿の西側に位置する白宮(ポタン・カルポ)から始まりました。 白宮は、ダライ=ラマの居住空間であり、政府の行政機能を担う場所として設計されました。 わずか3年後の1648年にはその外装が完成し、1649年には第5代ダライ=ラマと政府機関が、それまでの拠点であったデプン寺からこの新しい宮殿へと移りました。 これにより、ポタラ宮殿は名実ともにチベットの政治と宗教の中心地となったのです。
白宮の建設は、当時のチベットで利用可能な最高の技術と資源を結集して行われました。厚さ平均3メートル、基底部では5メートルにも達する頑丈な石壁は、地震から建物を守るために基礎部分に溶かした銅を流し込むなどの工夫が凝らされています。 その壁は、チベットの伝統的な建築様式である、内側に傾斜した構造になっています。
第5代ダライ=ラマは、この白宮を拠点として、チベットの政治的・宗教的な統治を確立しました。彼の治世下で、チベットは安定と繁栄の時代を迎え、文化や芸術も大いに発展しました。ポタラ宮殿の建設は、この「偉大なる第5代」の時代を象徴する、最も偉大な功績の一つとして、後世に語り継がれています。
紅宮の増築と完成:摂政サンギェ・ギャツォの役割

白宮が完成し、ガンデンポタン政権の基盤が固まった後、ポタラ宮殿の建設は次の段階へと進みます。それが、宮殿の中央部分を占める紅宮(ポタン・マルポ)の建設です。 紅宮は、主に宗教的な目的のために設計され、歴代ダライ=ラマの霊廟や、数多くの礼拝堂、仏殿などを収めるための神聖な空間でした。
紅宮の建設が始まったのは1690年のことです。 しかし、この時、壮大な宮殿の建設を主導してきた第5代ダライ=ラマは、すでに1682年に遷化していました。 彼の死は、紅宮の建設を完遂し、政治的な安定を維持するために、摂政であったデシ・サンギェ・ギャツォによって12年間もの間、秘密にされました。 サンギェ・ギャツォは、第5代ダライ=ラマが長期の瞑想に入っていると公表し、その間に建設事業を強力に推進しました。この大胆な決断がなければ、現在のポタラ宮殿の壮大な姿は存在しなかったかもしれません。
サンギェ・ギャツォの指揮のもと、紅宮の建設には7000人以上の労働者と、1500人以上の芸術家や職人が動員されたと言われています。 彼らは、チベット全土から集められた最高の技術者たちであり、その卓越した技術は、紅宮の精緻な装飾や複雑な構造の随所に見ることができます。建設は急ピッチで進められ、わずか4年後の1694年に紅宮は完成しました。
紅宮の完成により、ポタラ宮殿は、政治を司る白宮と、宗教を司る紅宮が一体となった、政教両面の機能を備えた複合施設として、その威容を整えました。 紅宮の外壁は、力と威厳を象徴する赤色で塗られ、白宮との鮮やかな対比を生み出しています。 その屋根は金箔で覆われた銅で葺かれ、太陽の光を浴びて黄金色に輝きます。 この黄金の屋根は、内部に歴代ダライ=ラマの霊塔が安置されていることを示しています。
紅宮の中心には、西大殿と呼ばれる最も大きな広間があります。 この広間の壁は、第5代ダライ=ラマの生涯における重要な出来事を描いた壮大な壁画で埋め尽くされています。 例えば、1652年に清の順治帝と会見した場面などが描かれており、歴史的にも貴重な資料となっています。
また、紅宮には、第5代、第7代から第13代までの8人のダライ=ラマの遺体を安置した霊塔(ストゥーパ)が納められています。 中でも、第5代ダライ=ラマの霊塔は最も壮麗で、高さ14.86メートル、3700キログラム以上の金で覆われ、ダイヤモンドや真珠、トルコ石などの宝石で贅沢に装飾されています。 これらの霊塔は、単なる墓ではなく、ダライ=ラマの聖なる遺徳を祀り、信仰の対象となる極めて神聖なものです。
サンギェ・ギャツォの卓越した指導力によって完成した紅宮は、ポタラ宮殿をチベット仏教の最高の聖地へと昇華させました。彼の功績は、第5代ダライ=ラマの偉業を完成させ、ポタラ宮殿の歴史において不可欠なものとして記憶されています。
建築様式と構造:要塞、宮殿、僧院の融合

ポタラ宮殿は、その壮大なスケールと複雑な構造において、チベット建築の最高傑作とされています。 その建築様式は、単一の様式ではなく、チベット古来の城塞(ゾン)建築を基盤としながら、宮殿、そして僧院という三つの異なる機能を巧みに融合させている点に最大の特徴があります。 さらに、中国やインド、ネパールといった周辺地域の建築様式の影響も随所に見られ、国際的な文化交流の歴史を物語っています。
要塞としての機能

ポタラ宮殿は、マルポ・リという岩山そのものに埋め込まれるように建てられています。 建物の基礎は岩盤と一体化し、外壁は厚い石を積み上げて作られています。 壁の厚さは平均で3メートル、基底部では5メートルにも達し、内側に向かって傾斜しています。 この構造は、建物の安定性を高めると同時に、敵の侵入を防ぐための防御的な役割を果たしています。 基礎部分には溶かした銅を流し込むことで、地震に対する耐性を高める工夫も凝らされています。 釘を使わずに石や土を組み合わせる伝統的な工法が用いられており、その堅牢さは何世紀もの風雪に耐えてきた歴史が証明しています。 全体として、ポタラ宮殿は外部に対して閉鎖的で、まるで難攻不落の要塞のような印象を与えます。
宮殿としての機能(白宮)

白宮は、主に世俗的な機能を担う部分であり、歴代ダライ=ラマの居住空間と、チベット政府の行政機関が置かれていました。 7階建てのこの建物には、謁見の間、儀式用の広間、そしてダライ=ラマの私室などがあります。 最上階にある「太陽の広間」は、ダライ=ラマが日常生活を送り、政務を執った場所として知られています。 白宮の内部は、木彫りの柱や梁、色鮮やかな壁画、そして豪華な絨毯やカーテンで装飾されており、チベットの最高権力者の住まいにふさわしい壮麗な空間が広がっています。 東側の大広間(ツォクチェン・シャル)は白宮で最も大きなホールで、面積は717平方メートルに及び、ダライ=ラマの即位式などの重要な政治的・宗教的儀式が執り行われました。
僧院としての機能(紅宮)

紅宮は、ポタラ宮殿の宗教的な中心であり、その構造は仏教の宇宙観を体現しています。 内部には、歴代ダライ=ラマの霊塔を安置する霊廟、数多くの礼拝堂、仏殿、そして経典を収める図書館などがあります。 紅宮の中心に位置する西大殿は、4つの主要な礼拝堂に囲まれており、その壁面は第5代ダライ=ラマの生涯を描いた壁画で飾られています。 また、紅宮には、ソンツェン・ガンポの時代に遡る二つの古い礼拝堂、パクパ・ラカンとチョギャル・ドゥプクが保存されています。 パクパ・ラカンには、観音菩薩の神聖な像が祀られ、チョギャル・ドゥプクはソンツェン・ガンポが瞑想した洞窟と伝えられています。 これらはポタラ宮殿の中で最も古く、最も神聖な場所とされています。
色彩の象徴性

ポタラ宮殿の建築において、色彩は極めて重要な象徴的意味を持っています。 白宮の白い壁は、観音菩薩の慈悲や平和、純粋さを象徴しています。 一方、紅宮の赤い壁は、力、知恵、そして宗教的な権威を表しています。 この白と赤の対比は、チベットにおける俗権と教権の統合、すなわち政教一体の体制を視覚的に表現しています。 また、窓枠の周りに施された黒い塗装は、魔除けの意味を持つとされています。 そして、紅宮の屋根を飾る黄金色は、最高の聖性と権威の象徴です。 これらの色彩は、単なる装飾ではなく、チベット仏教の世界観と深く結びついた、意味豊かな記号なのです。
このように、ポタラ宮殿は、堅固な要塞、壮麗な宮殿、そして神聖な僧院という三つの要素が、岩山の地形と一体となり、色彩の象徴性と相まって、他に類を見ない独特の建築空間を創り出しています。その複雑かつ調和のとれた構造は、チベットの精神文化が生み出した偉大な成果と言えるでしょう。
内部の至宝:芸術と信仰の宝庫

ポタラ宮殿は、その壮大な建築だけでなく、内部に収められた膨大な数の文化財によっても知られています。1000を超える部屋は、さながら巨大な博物館のようであり、チベットの芸術、宗教、そして歴史の精髄が凝縮されています。 これらの至宝は、何世紀にもわたって蓄積されたものであり、チベット文化の豊かさと多様性を物語っています。
壁画(ムラル)

宮殿の内部の壁は、広範囲にわたって壁画で覆われています。 その総数は698面にものぼり、描かれているテーマは多岐にわたります。 紅宮の西大殿には、第5代ダライ=ラマの生涯における重要な出来事、例えば清の皇帝との会見やポタラ宮殿の建設風景などが、詳細かつ生き生きと描かれています。 これらの壁画は、単なる装飾ではなく、文字を読むことができない人々にも歴史や仏教の教えを伝えるための重要な媒体でした。また、チベットの神話、仏教の宇宙観、医学的な知識、そして当時の人々の生活様式など、様々な情報が描き込まれており、チベットの歴史と文化を研究する上で非常に貴重な視覚資料となっています。
仏画(タンカ)

ポタラ宮殿には、約1万点に及ぶ仏画(タンカ)が収蔵されています。 タンカは、布地に仏、菩薩、高僧などを描き、軸装して掛け軸にしたもので、チベット仏教において重要な礼拝の対象となります。宮殿に所蔵されているタンカは、刺繍、織物、アップリケなど、様々な技法で作られており、その芸術的な価値は非常に高いものです。これらのタンカは、チベットだけでなく、ネパール、インド、中国など、各地の工房で作られたものも含まれており、幅広い文化交流の証となっています。
彫像

宮殿内には、約20万体もの彫像が安置されていると言われています。 これらの彫像は、金、銀、銅、木、粘土など、様々な素材で作られており、大きさも数センチメートルの小さなものから、数メートルの高さに及ぶ巨大なものまで様々です。特に重要なものとして、パクパ・ラカンに祀られている観音菩薩像が挙げられます。 この像は、ネパールから請来されたと伝えられる神聖なもので、ポタラ宮殿で最も崇拝されている仏像の一つです。また、歴代ダライ=ラマの霊塔の周囲にも、数多くの仏像や守護神像が配置されています。これらの彫像群は、1000年以上にわたるチベット、ネパール、インド、モンゴル、中国の工房の歴史を代表するものであり、仏教美術の変遷をたどる上で欠かせないコレクションです。
経典と古文書

ポタラ宮殿は、膨大な数の経典や歴史的な古文書を所蔵する、チベット最大の図書館でもあります。 これらの中には、サンスクリット語で書かれた貴重な貝葉経や、金や銀で文字が書かれた豪華な装丁の経典も含まれています。 また、チベット政府の行政記録、法律、歴代ダライ=ラマの伝記など、歴史的に重要な文書も数多く保管されています。 これらの文献は、チベットの宗教、歴史、政治、文化を研究するための第一級の資料であり、その価値は計り知れません。
その他の宝物

上記の他にも、ポタラ宮殿には、歴代ダライ=ラマが使用した儀式用の法具、金銀や宝石で飾られた豪華な工芸品、絨毯、天蓋、カーテン、陶磁器、翡翠製品など、数えきれないほどの宝物が収められています。 これらは、チベットの職人たちの卓越した技術を示すとともに、近隣諸国との交易や外交を通じて献上された品々も多く含まれており、当時の国際関係を垣間見ることができます。
これらの至宝は、ポタラ宮殿が単なる政治の中心地や住居ではなく、チベットの精神文化と知識が集積された聖なる場所であったことを示しています。宮殿を訪れることは、チベットの魂の深奥に触れる旅でもあるのです。
歴代ダライ=ラマとポタラ宮殿

ポタラ宮殿の歴史は、ダライ=ラマの歴史と分かちがたく結びついています。17世紀半ばに第5代ダライ=ラマがこの地を政権の拠点と定めて以来、1959年に第14代ダライ=ラマが亡命するまでの約300年間、ポタラ宮殿は歴代ダライ=ラマの冬の宮殿として、その主の変遷と共に歴史を刻んできました。
冬の宮殿としての役割

チベットの気候は厳しく、特に冬の寒さは格別です。ラサ郊外のノルブリンカに夏の離宮が建設されてからは(18世紀)、歴代ダライ=ラマは夏をノルブリンカで過ごし、冬になるとポタラ宮殿へと移るのが慣例となりました。 ポタラ宮殿の厚い石壁は、冬の厳しい寒さから内部を守るのに適していました。 ダライ=ラマは、白宮の最上階にある「太陽の広間」で暮らし、そこからチベット全土の政務を執り行い、宗教儀式を主宰しました。
霊廟としての紅宮

ポタラ宮殿がダライ=ラマにとって特別な場所であるもう一つの理由は、紅宮が歴代ダライ=ラマの霊廟となっている点です。 紅宮には、第5代、そして第7代から第13代までの合計8人のダライ=ラマの遺体をミイラ化して保存し、それを納めた壮麗な霊塔(ストゥーパ)が安置されています。 これらの霊塔は、金や宝石で豪華に飾られ、単なる墓所ではなく、信仰の対象として崇められています。 特に、ポタラ宮殿の再建者である第5代ダライ=ラマの霊塔は最大かつ最も壮麗であり、紅宮の中心的な存在となっています。 ダライ=ラマが遷化すると、その遺体は紅宮の新たな霊塔に納められ、宮殿の神聖性はさらに増していくことになりました。
各代のダライ=ラマによる増改築

ポタラ宮殿は、第5代ダライ=ラマと摂政サンギェ・ギャツォによって基本的な形が完成された後も、歴代のダライ=ラマによって少しずつ増改築が続けられました。
第6代ダライ=ラマ、ツァンヤン・ギャツォの時代(1690年代):紅宮の建設はこの時代に完了しました。
第7代ダライ=ラマ、ケルサン・ギャツォの時代(18世紀):夏の離宮であるノルブリンカを建設しました。 これ以降、ポタラ宮殿は冬の宮殿としての性格を強めます。
第13代ダライ=ラマ、トゥプテン・ギャツォの時代(1922年頃):ポタラ宮殿における最後の大規模な改修が行われました。 彼は白宮のいくつかの部屋を改修し、紅宮にいくつかの礼拝堂を追加しました。 また、彼の死後、1934年から3年をかけて、彼の霊塔が紅宮に建設されました。 この霊塔は、第5代ダライ=ラマのものに次ぐ壮麗さを誇ります。
このように、ポタラ宮殿は、歴代のダライ=ラマたちの生活の場であり、政治の中心であり、そして最終的には安息の地でもありました。ダライ=ラマ一人ひとりの歴史が、宮殿の壁や部屋に深く刻み込まれているのです。宮殿の各所に見られる増改築の跡は、時代の変化に対応しながら、ダライ=ラマの権威とチベットの伝統を守り続けてきた歴史の証人と言えるでしょう。
文化的・宗教的意義:チベットの魂の象徴

ポタラ宮殿は、単なる壮大な建造物や歴史的な遺産にとどまらず、チベットの人々にとって精神的な支柱であり、民族のアイデンティティそのものを象徴する、他に類を見ない存在です。 その文化的・宗教的な意義は、多層的かつ深遠であり、チベットの魂の核心に触れるものです。
チベット仏教の中心聖地

ポタラ宮殿は、チベット仏教、特にゲルク派にとって最高の聖地です。 その名は、慈悲の菩薩である観音菩薩(チェンレジ)の神話的な住処「ポータラカ山」に由来し、宮殿そのものが観音菩薩の聖なる領域、すなわち「浄土」であると信じられています。 歴代のダライ=ラマは観音菩薩の化身と見なされているため、彼らが居住するポタラ宮殿は、地上における観音菩薩の顕現の場として、絶大な崇敬を集めてきました。
宮殿内部には、数えきれないほどの仏像、仏画、経典が収められ、歴代ダライ=ラマの霊塔が安置されています。 これらはすべて、チベット仏教の教えと精神性を具現化したものであり、宮殿全体が一個の巨大なマンダラ(仏教の宇宙観を図示したもの)を構成しているとも言えます。 チベット全土から、そして世界中から巡礼者がこの地を訪れるのは、ポタラ宮殿に触れることが、仏の教えそのものに触れることであり、計り知れない功徳を積むことになると信じられているからです。
政教一体の象徴

ポタラ宮殿は、チベットにおける「チョーシ・ニュンドレル」、すなわち政教一体の統治体制を完璧に象徴しています。 世俗的な政治と行政を司る白宮と、宗教的な儀式と研究の中心である紅宮が、一つの複合体を形成していること自体が、その理念を建築的に表現したものです。 ダライ=ラマは、宗教的な最高指導者であると同時に、国家の元首でもあり、ポタラ宮殿はその両方の権威の中心でした。 この宮殿から発せられる命令は、チベット全土の隅々にまで及び、人々の精神的な生活と世俗的な生活の両方を規定していました。 ポタラ宮殿の丘の上からの眺めは、ラサの谷全体を支配しており、その視覚的な威圧感もまた、ダライ=ラマの絶対的な権威を象徴していました。
チベット民族のアイデンティティの砦

ポタラ宮殿は、チベット民族の文化的アイデンティティと国家の象徴として、人々の心に深く根付いています。 そのユニークな建築様式、内部を飾る壮麗な芸術作品、そして何世紀にもわたる歴史の積み重ねは、すべてチベット独自の文化が生み出した偉大な成果です。 1959年に第14代ダライ=ラマが亡命し、宮殿がその主を失ってからも、ポタラ宮殿がチベットの象徴であることに変わりはありません。 むしろ、困難な状況の中にあって、ポタラ宮殿はチベットの人々にとって、自らの文化と伝統、そして民族としての誇りを再確認するための、より一層重要なシンボルとなっています。
宮殿は、チベットの歴史そのものであり、過去の栄光と苦難の記憶が刻まれた場所です。 その存在は、チベット文化の強靭さと永続性を世界に示す力強いメッセージとなっています。 ポタラ宮殿がユネスコの世界遺産に登録されたことは、その価値がチベット一国にとどまらず、全人類にとって守り伝えるべき貴重な宝であることを国際社会が認めたことを意味します。
1959年以降の変遷と保存活動

1959年は、ポタラ宮殿の歴史における大きな転換点となりました。この年、チベット動乱の結果、第14代ダライ=ラマはインドへ亡命し、ポタラ宮殿は300年以上にわたって担ってきたダライ=ラマの公邸としての役割を終えました。 これ以降、宮殿は新たな時代を迎え、その管理と保存が重要な課題となっていきます。
博物館としての新たな役割

主を失ったポタラ宮殿は、その後、博物館として一般に公開されるようになりました。 1961年には、中国の全国重点文物保護単位の第一陣に指定され、その歴史的・文化的な価値が公式に認められました。 宮殿は、かつてダライ=ラマとごく一部の高官、僧侶しか立ち入ることができなかった神聖な空間から、世界中の人々がチベットの歴史と文化を学ぶことができる「生きた博物館」へと姿を変えたのです。
宮殿内部は、歴代ダライ=ラマの居住空間や執務室、数々の礼拝堂、そして膨大な文化財が、ほぼ往時のままの状態で保存されています。 訪問者は、迷路のように入り組んだ通路を巡りながら、壮麗な壁画、精緻な彫刻、そして金銀で飾られた霊塔などを間近に見ることができます。 しかし、この公開は、文化財保護という観点から、多くの課題ももたらしました。急増する観光客の呼気や体温が、壁画や建材に与える影響が懸念されるようになったのです。
文化大革命期とその後の保存

1960年代から70年代にかけての文化大革命の時期、チベットの多くの寺院や文化財が破壊の対象となりました。 しかし、ポタラ宮殿は、中国の軍隊によって保護され、深刻な破壊を免れたとされています。 このおかげで、宮殿内のほとんどの礼拝堂や貴重な文化財は、今日まで良好な状態で受け継がれることになりました。
文化大革命が終結し、改革開放政策が進むと、ポタラ宮殿の本格的な修復と保存活動が始まりました。特に1989年から1994年にかけて、そして2002年からの二度にわたる大規模な修復プロジェクトは、中国政府による多額の資金援助のもとで実施されました。これらの修復作業では、伝統的な素材と技術を用いることが最優先され、チベットの職人たちが中心となって作業にあたりました。 腐食した木製の梁や柱の交換、壁画の修復、建物の構造的な補強、そして電気設備や排水システムの近代化などが行われました。
ユネスコ世界遺産への登録

こうした保存努力が国際的に評価され、1994年、ポタラ宮殿は「ラサのポタラ宮歴史地区」としてユネスコの世界遺産に登録されました。 ユネスコは、その登録理由として、ポタラ宮殿が「その壮大な構成、独創的で劇的な建築、華麗な装飾、そして歴史的・宗教的に重要な場所との調和のとれた統合により、傑出した普遍的価値を持つ」と述べています。 この登録は、ポタラ宮殿がチベットだけでなく、全人類にとって守り伝えるべき共通の遺産であることを示すものでした。
その後、2000年にはジョカン(大昭寺)、2001年にはノルブリンカ(夏の離宮)が世界遺産の拡張登録を受け、ポタラ宮殿を中心とするラサの歴史地区全体が、その文化的価値を認められることになりました。
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『世界史B 用語集』 山川出版社

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