ラサとは
チベット高原の南部に位置するラサは、標高3,650メートルに広がる都市であり、その名はチベット語で「神々の地」を意味します。 この都市は、何世紀にもわたってチベットの宗教的、政治的中心地としての役割を果たしてきました。 その歴史は、古代の神話と伝説に始まり、チベット帝国の興隆、仏教の伝来と発展、そして近現代における政治的変革に至るまで、数多くの出来事によって彩られています。ラサの歴史を紐解くことは、チベット文化の核心に触れることであり、その精神的支柱がいかにして形成されてきたかを理解する上で不可欠です。ポタラ宮、ジョカン寺、ノルブリンカといった世界遺産に登録された建造物群は、この都市が歩んできた豊かな歴史の証です。
古代のラサとチベット帝国の台頭
ラサの歴史は、7世紀にチベットを統一したソンツェン・ガンポ王の時代に大きく動き出します。 古代のチベットの文書や碑文によれば、この地はラサと呼ばれており、これは「ヤギの地」を意味していました。 当時、この地域は主に牧畜が行われる場所であったことが示唆されています。ソンツェン・ガンポがこの地を拠点として選んだ背景には、いくつかの要因が考えられます。ラサ渓谷は、ヤルンツァンポ川の支流であるキチュ川によって形成された比較的穏やかな気候の土地であり、周囲を標高4,400メートルから5,300メートルの山々に囲まれています。 この地理的条件は、厳しい自然環境で知られるチベット高原において、定住と都市の発展に適していました。
ソンツェン・ガンポは、チベット帝国の首都をヤルン渓谷の南西に位置するチングワ・タクツェ城からラサに移し、637年にマルポリの丘(赤い丘)に最初の宮殿を建設しました。 この宮殿が、後のポタラ宮の原型となります。 当時のチベットは、遊牧民の戦士文化を基盤とし、隣接する唐王朝やウイグル、時にはペルシャとも領土を争う軍事国家でした。 王宮は季節ごとに移動する野営地のような性格を持っていましたが、ソンツェン・ガンポはラサを恒久的な王都として確立しようと試みました。
この都市の発展において決定的な役割を果たしたのは、仏教の導入です。ソンツェン・ガンポは、ネパールのブリクティ王女と唐の文成公主を妃として迎えました。 彼女たちはそれぞれ、仏教の信仰とともに貴重な仏像をチベットにもたらしました。 ブリクティ王女は不動明王(阿閦如来)の像を、文成公主は釈迦牟尼像(ジョウォ・リンポチェ)を持参したと伝えられています。 これらの神聖な像を安置するため、ソンツェン・ガンポは641年にジョカン寺(トゥルナン寺)とラモチェ寺を建立しました。 特にジョカン寺は、文成公主がもたらした釈迦牟尼像を祀るために建てられ、その建立には伝説が残されています。寺院の建設地はもともと湖でしたが、ヤギが土を運んで埋め立てたと言われており、これが当初の地名「ラサ(ヤギの地)」の由来とも関連付けられています。 ジョカン寺の建立後、この地は「神々の地」を意味する「ラサ」と呼ばれるようになり、都市の性格は宗教的なものへと大きく転換しました。
ソンツェン・ガンポの治世下で、ラサは単なる政治の中心地から、チベット仏教の聖地としての地位を確立し始めました。王の宮殿、寺院、后たちの住居、そして役人や兵士、商人のための居住区が整備され、都市としての体裁を整えていきました。 キチュ川の氾濫を防ぐための堤防も建設され、ジョカン寺とラモチェ寺の間には絹や毛皮を取引する市場が形成されました。 このようにして、7世紀のラサはチベット帝国の政治、宗教、そして経済の中心として、その礎を築いたのです。
分裂と再興の時代
9世紀半ば、チベット帝国は内紛により崩壊し、政治的な統一を失いました。 ランダルマ王による仏教弾圧が行われ、ラサの寺院や聖地は破壊され、冒涜されました。 これにより、ラサは政治の中心地としての地位を失い、その後約800年間にわたり、チベットの政治権力はサキャ、ネドン、シガツェなど、他の地域に置かれることになります。 しかし、政治的な重要性が低下した一方で、ラサの宗教的な権威は失われませんでした。ジョカン寺は、伝説によればパドマサンバヴァが地の悪魔を鎮め、その心臓の上に建てられたと信じられており、チベット仏教徒にとって最も重要な巡礼地であり続けました。
帝国の崩壊から約100年後、9世紀末から10世紀初頭にかけて、チベット仏教は西チベットのグゲ王国や北東部の青海地方から再び広まり始め、「後伝期」として知られる復興期を迎えます。 この仏教復興の波は中央チベットのウー・ツァン地方にも及び、ラサとその周辺地域は再び仏教文化の隆盛を見ることになりました。 この時代、ラサはツェルパ万戸長家の支配下に置かれました。彼らは元朝から「司徒」の称号を得て、ラサとラサ川流域を統治しました。 ツェルパの支配者たちは、河川の堤防の強化、水路の浚渫、市街地の整備、バルコル通りの修復、ジョカン寺とラモチェ寺の改修、そしてポタラ宮殿遺跡の保護など、都市のインフラ整備と文化遺産の保護に努めました。 また、様々な僧院での仏教活動を管理し、仏教教義に関する講義を組織するなど、宗教活動も積極的に支援しました。この時期、ラサ周辺にはサンポ、ジョルモルン、ゲドン、ツルプ、チグン、ダクルン、ジョといった多くの僧院が建立され、ラサは依然として仏教徒にとっての聖地であり続けました。
ゲルク派の台頭と三大寺院の建立
14世紀末から15世紀にかけて、ラサの歴史は再び大きな転換点を迎えます。これは、ツォンカパ(1357-1419)による宗教改革と、彼が創始したゲルク派(黄帽派)の台頭によるものです。ツォンカパは、当時のチベット仏教界に見られた戒律の緩みを批判し、厳格な戒律主義と顕密二教の体系的な学習を重視する改革運動を展開しました。彼の教えは多くの支持者を集め、チベット仏教の新たな潮流を形成しました。
15世紀、ツォンカパとその弟子たちは、ラサ近郊に3つの主要なゲルク派僧院を建立しました。 これが「ラサの三大寺院」として知られるガンデン寺、デプン寺、セラ寺です。
ガンデン寺: 1409年にツォンカパ自身によって建立された最初のゲルク派僧院です。ラサの東方、ワンクル山の頂上に位置し、ゲルク派の総本山と見なされています。ツォンカパはここで教えを説き、多くの弟子を育てました。ガンデン寺の座主(ガンデン・ティパ)は、ダライ=ラマ、パンチェン・ラマに次ぐゲルク派の最高位の指導者とされています。
デプン寺: 1416年にツォンカパの弟子であるジャムヤン・チューイェによって建立されました。ラサの西方のガンポ・ウツェ山の麓に位置し、かつては世界最大の僧院と言われるほどの規模を誇りました。最盛期には1万人以上の僧侶がここで学び、チベット仏教の学問の中心地として重要な役割を果たしました。ダライ=ラマ5世がポタラ宮に移るまで、デプン寺内のガンデン・ポダン(兜率宮)がダライ=ラマの居住地であり、政権の拠点でした。
セラ寺: 1419年にツォンカパのもう一人の弟子、ジャムチェン・チューイェによって建立されました。ラサの北の郊外に位置し、特に問答(ディベート)による仏教哲学の学習で知られています。僧侶たちが問答を交わす光景は、セラ寺の大きな特徴となっています。
これらの三大寺院の建立により、ラサは再びチベットの宗教的・学術的な中心地としての地位を不動のものとしました。 ゲルク派の学問的な成果と政治的な手腕は、やがてチベット全土に影響を及ぼすようになり、ラサをチベットの歴史の表舞台へと押し戻す原動力となったのです。 16世紀頃には、チベットを支配していたパクモドゥパ政権が衰退し、シガツェを拠点とするリンプンパ政権やデシ・ツァンパ政権が台頭しました。 これらの政権はカルマ・カギュ派を支持しており、ゲルク派としばしば対立しました。しかし、三大寺院を中心とするゲルク派の勢力は着実に拡大し、次の時代への布石を打っていきました。
ガンデンポタン政権の確立とラサの黄金時代
17世紀、チベットは再び統一され、ラサはその首都として黄金時代を迎えます。この変革の中心人物が、卓越した政治家であり宗教的指導者でもあったダライ=ラマ5世、ロサン・ギャツォ(1617-1682)です。 当時、チベットは様々な宗派や地方勢力が争う分裂状態にあり、ゲルク派はシガツェを拠点とするツァンパ政権から圧迫を受けていました。この危機的な状況を打開するため、ダライ=ラマ5世とゲルク派の指導者たちは、モンゴル・ホショート部の指導者グシ・ハンに支援を要請しました。
グシ・ハンは1642年にツァンパ政権を打倒し、チベットを平定しました。 そして、シガツェで行われた儀式において、チベット全土の宗教的および政治的権威をダライ=ラマ5世に奉献しました。 これにより、ダライ=ラマを最高指導者とするチベット政府「ガンデンポタン」が樹立されました。 「ガンデンポタン」という名称は、もともとデプン寺にあったダライ=ラマの僧坊の名前に由来します。 ダライ=ラマ5世は、ラサをチベットの首都と宣言し、政治と宗教の中心地をこの地に移しました。 グシ・ハンは名目上の王として君臨しましたが、実際の統治はダライ=ラマ5世とその側近たちによって行われ、歴史家たちはこの政権を「ラサ国家」とも呼んでいます。
ポタラ宮の建設と都市の発展
首都をラサに定めたダライ=ラマ5世は、都市の威容を内外に示すための壮大な建設計画に着手します。その象徴が、ポタラ宮の再建です。 7世紀にソンツェン・ガンポが宮殿を建てたマルポリ(赤い丘)の遺跡の上に、1645年に建設が開始されました。 この場所は、デプン寺とセラ寺という二大僧院と旧市街の中間に位置し、政府の所在地として理想的であると、彼の宗教顧問の一人であったコンチョク・チョペルが助言したことによります。
ポタラ宮の建設は二段階に分けて行われました。まず、ダライ=ラマの住居や政庁として機能する「ポトラン・カルポ(白宮)」が1645年から1648年にかけて建設されました。 1649年、ダライ=ラマと政府はデプン寺から完成した白宮に移り、以降、ポタラ宮は歴代ダライ=ラマの冬の宮殿として使用されることになります。
次に、宗教儀式や歴代ダライ=ラマの霊廟を収めるための「ポトラン・マルポ(紅宮)」の建設が1690年から1694年にかけて行われました。 興味深いことに、紅宮の建設はダライ=ラマ5世が1682年に死去した後に始まりました。彼の死は、摂政であったデシ・サンギェ・ギャツォによって、紅宮の完成と政治的安定を維持するために12年間も秘匿されました。
「ポタラ」という名前は、観音菩薩が住むとされる南インドの神話上の山「ポータラカ山」に由来します。 ダライ=ラマは観音菩薩の化身と信じられているため、この宮殿をそのように名付けることで、ダライ=ラマの神聖性と権威を象徴づけました。 ポタラ宮は、標高3,700メートルの丘の上にそびえ立ち、13階建て、1,000以上の部屋、10,000の祭壇、約20万体の彫像を擁する巨大な建造物です。 その建築様式はチベット、中国、インド、ネパールの影響を受けたもので、壁画、タンカ(仏画)、彫刻、絨毯など、数多くの芸術品や文化財が収められています。
ダライ=ラマ5世の時代には、ポタラ宮の建設と並行して、ジョカン寺も大幅に拡張されました。 ラサは名実ともにチベットの宗教的・政治的首都となり、その中心にあるバルコル地区は、外国製品が取引される活気ある市場へと発展しました。 1716年にラサを訪れたイエズス会宣教師イッポリート・デジデーリは、モンゴル人、中国人、モスクワ人、アルメニア人、カシミール人、ネパール人、北インド人など、多様な商人たちが集まる国際的な都市であったと報告しています。 このようにして、17世紀のラサは、ガンデンポタン政権の下で前例のない繁栄を遂げ、その後のチベット史における中心的な地位を確立したのです。
清朝の保護下でのラサと国際情勢の波
18世紀に入ると、ラサとチベットの政治情勢は、北方の大国である清朝の動向と深く結びつくようになります。17世紀にダライ=ラマ5世が清の皇帝と築いた「施主と帰依処(プリースト・パトロン)」の関係は、チベットの宗教的権威と清の政治的保護という相互依存関係を意味していましたが、時代が下るにつれて清のチベットに対する影響力は増大していきました。
1717年、モンゴルのジュンガル部がチベットに侵攻し、ラサを占領するという事件が起こります。 この混乱を収拾するため、清の康熙帝は1720年に軍隊を派遣し、ジュンガル軍を駆逐しました。 これを機に、清朝はチベットの統治に直接関与するようになり、ラサに「駐蔵大臣(アンバン)」と呼ばれる2人の弁務官を常駐させる制度を確立しました。 アンバンは、チベットの政治を監督し、清朝皇帝に報告する役割を担っていました。
しかし、アンバンの存在は必ずしも平穏をもたらしませんでした。1750年11月11日、当時の摂政がアンバンによって殺害されるという事件が発生し、これに激怒したラサ市民が暴動を起こしました。 この暴動でアンバンを含む100人以上が殺害されました。 清の乾隆帝は直ちに軍を派遣して暴動を鎮圧すると、チベットの統治体制を再編しました。1751年、乾隆帝は「カシャク」と呼ばれる、4人の大臣(カロン)から成る内閣評議会を設立し、政治の実権をダライ=ラマとカシャクに委ねる一方で、アンバンの権限を強化してカシャクを監督させる体制を整えました。 また、清朝はラサに軍隊を駐留させ、その兵舎は市内の北郊外に置かれました。
18世紀後半には、7代ダライ=ラマの時代にノルブリンカ(宝の庭)が夏の離宮として建設され始めました。 1755年に建設が始まり、7代ダライ=ラマによってケルサン・ポタン(宮殿)が加えられました。 以降、歴代のダライ=ラマは冬をポタラ宮で、夏をノルブリンカで過ごすのが慣例となりました。 この時期、1750年の暴動を除けば、ラサは比較的安定した平和な時代を享受し、貴族の邸宅、僧院、政府機関、商店、工房、茶館などが数多く建設されました。
1904年のイギリスによるチベット遠征
19世紀末から20世紀初頭にかけて、中央アジアを舞台にイギリスとロシア帝国が覇権を争う「グレート・ゲーム」が繰り広げられると、その影響は孤立を保ってきたチベットにも及びました。インドを植民地支配していたイギリスは、ロシアがチベットを通じてインドへ影響力を拡大することを警戒していました。 当時のインド総督であったカーゾン卿は、13世ダライ=ラマがロシア人の顧問を通じてロシアと接触しているとの情報を得て、チベットに対する強い懸念を抱きました。
イギリスは当初、シッキムとの国境問題を解決し、通商関係を確立するための交渉を試みましたが、チベット側はこれを拒否しました。 これに対し、カーゾン卿はフランシス・ヤングハズバンド大佐を隊長とする使節団を派遣することを決定しました。 この使節団は、表向きは外交交渉を目的としていましたが、実際には数千人の兵士と最新兵器を備えた軍事遠征隊でした。
1903年12月、ヤングハズバンド率いるイギリス軍はチベットに侵攻を開始しました。 古い火縄銃や刀剣で武装したチベット軍は、近代的な装備を持つイギリス軍の前に全く歯が立ちませんでした。 1904年3月31日のチュミク・シェンコの戦いでは、イギリス軍のマキシム機関銃によって数百人のチベット兵が一方的に虐殺されるという悲劇も起こりました。
数々の戦闘を経て、イギリス軍は1904年8月3日にラサに到達しました。 しかし、13世ダライ=ラマはすでにモンゴルのウルガ(現在のウランバートル)へ向けて避難していました。 ヤングハズバンドは、ラサに残されたチベット政府の代表者や摂政に対し、条約への署名を強要しました。
1904年9月7日、ポタラ宮において「ラサ条約」が調印されました。 この条約の主な内容は以下の通りです。
ヤトゥン、ギャンツェ、ガルトクを通商市場として開くこと。
750万ルピーという莫大な賠償金をチベットが支払うこと(後に3分の1に減額)。
賠償金が完済されるまで、イギリスがチュンビ谷を占領すること。
シッキムとチベットの国境を承認すること。
イギリスの事前の同意なしに、チベット領土を他国に割譲、売却、貸与したり、他国のチベット問題への介入や代表者の駐在を認めたりしないこと。
この条約により、チベットは事実上イギリスの保護国となりました。 しかし、イギリス政府はヤングハズバンドが権限を越えたと判断し、条約の内容を修正しました。 1906年には、イギリスと清朝の間でアングロ・チャイニーズ条約が結ばれ、イギリスはチベットを併合したり内政に干渉したりしないことを約束する代わりに、清朝は他国にチベットへの干渉を許さないことを約束しました。 これにより、清朝のチベットに対する宗主権が再確認される形となりました。この一連の出来事は、チベットが国際政治の渦に否応なく巻き込まれていく時代の始まりを告げるものでした。
20世紀の激動と現代のラサ
1904年のイギリスによる侵攻とラサ条約の締結は、清朝のチベットに対する影響力の低下を露呈させました。清朝は宗主権を回復しようと、1910年に軍隊をラサに派遣し、都市を占領しました。 このため、モンゴルから帰国していた13世ダライ=ラマは、今度はインドへの亡命を余儀なくされました。しかし、清朝の支配は長くは続きませんでした。1911年に辛亥革命が勃発して清朝が崩壊すると、ラサに駐留していた清国軍内部でも混乱が生じました。1912年、チベット人は清国軍を追放し、13世ダライ=ラマはチベットに帰還しました。
帰国した13世ダライ=ラマは、チベットの独立を宣言し、国家の近代化に向けた改革に着手しました。彼はインド亡命中に西洋の近代技術や制度に触れ、その必要性を痛感していました。改革は、軍隊の近代化、郵便制度の導入、紙幣の発行、西洋式の学校の設立など、多岐にわたりました。しかし、これらの改革は、保守的な僧侶や貴族層からの強い抵抗に遭い、必ずしも順調に進んだわけではありませんでした。それでも、この時期のチベットは、中華民国の内戦や国際情勢の隙間で、事実上の独立国家として機能していました。ラサは再びチベットの政治の中心地として、独自の歩みを進めていました。1940年代、共産党による支配が始まる前のラサは、人口約2万人のうち半数が僧侶で占められる宗教都市であり、伝統的なチベット様式の建物が立ち並ぶ、村のような趣の場所でした。
中華人民共和国の統治と文化的変容
20世紀半ば、チベットとラサの運命は再び劇的に変わります。1949年に中華人民共和国が成立すると、新政府はチベットを中国の不可分の一部であると主張し、その「解放」を宣言しました。1950年、中国人民解放軍がチベットに侵攻し、抵抗するチベット軍を圧倒しました。翌1951年、チベット政府の代表団は北京で「十七か条協定」に署名させられました。 この協定は、チベットが中国の一部であることを認め、人民解放軍のチベット駐留を許可する一方で、チベットの既存の政治制度やダライ=ラマの地位、宗教の自由を尊重することを約束するものでした。
協定に基づき、人民解放軍はラサに進駐し、中国の統治が始まりました。当初、中国政府は穏健な政策をとり、チベットの社会構造に急進的な変化を加えることは避けました。しかし、土地改革や社会改革を進めようとする中国側と、伝統的な社会構造と自治を守ろうとするチベット側との間で緊張は次第に高まっていきました。特にチベット東部のカム地方やアムド地方では、社会主義改革に対する武装蜂起が頻発し、多くの難民がラサに流入しました。
1959年3月、中国軍が14世ダライ=ラマを拉致しようとしているとの噂がラサ市民の間に広まり、ダライ=ラマの夏の離宮であるノルブリンカの周りに数万人の群衆が集結しました。これが引き金となり、大規模な反中国蜂起(1959年のチベット蜂起)が発生しました。 人民解放軍は武力でこの蜂起を鎮圧し、数千人のチベット人が犠牲になったと言われています。この混乱の中、14世ダライ=ラマはラサを脱出し、インドへ亡命しました。
ダライ=ラマの亡命後、中国政府はチベットに対する直接統治を強化しました。カシャク政府は解体され、1965年にはチベット自治区が正式に発足しました。1966年から1976年にかけての文化大革命の時代は、ラサにとって特に破壊的な時期でした。 「古い文化」を破壊するスローガンの下、紅衛兵たちはラサの数多くの寺院や僧院を攻撃しました。 チベット仏教の中心であるジョカン寺も深刻な被害を受け、内部の貴重な文化財が破壊・略奪され、一時は豚小屋や兵舎として使われたと報告されています。 ポタラ宮は、周恩来首相の直接の指示により破壊を免れたと言われていますが、他の多くの宗教施設は甚大な被害を受けました。
1980年代以降、中国政府は政策を転換し、経済発展と近代化を推し進めるようになりました。ラサでもインフラ整備が進められ、道路、鉄道、空港が建設され、都市は急速に変貌を遂げました。 漢民族の移住も進み、ラサの人口構成は大きく変化しました。 観光業が主要産業となり、毎年何百万人もの観光客が訪れるようになりました。
一方で、文化遺産の保護も行われるようになり、ポタラ宮(1994年)、ジョカン寺(2000年)、ノルブリンカ(2001年)は、相次いでユネスコの世界遺産に「ラサのポタラ宮歴史地区」として登録されました。 これらの建造物は修復され、管理体制が整備されています。 しかし、急速な近代化と都市化の波の中で、伝統的なチベット文化や建築様式、そしてラサが長年育んできた独自の精神性がどのように維持されていくのかは、依然として大きな課題として残されています。
ラサの主要な歴史的建造物
ラサの歴史は、その象徴的な建造物群と分かちがたく結びついています。これらの建造物は、単なる建築物ではなく、チベットの宗教、政治、文化の中心として機能し、数世紀にわたる人々の信仰と歴史を刻み込んできました。
ポタラ宮
ラサ市街中心部のマルポリ(赤い丘)にそびえ立つポタラ宮は、チベットで最も象徴的な建造物です。 その起源は7世紀、ソンツェン・ガンポ王が唐の文成公主を迎えるために建てた宮殿に遡りますが、その後の戦乱で破壊されました。 現在の壮大な姿は、17世紀にダライ=ラマ5世によって建設が始められたものです。
ポタラ宮は、大きく分けて白宮(ポトラン・カルポ)と紅宮(ポトラン・マルポ)の二つの部分から構成されています。
白宮: 1648年に完成した白宮は、主にダライ=ラマの居住空間であり、政治的な執務が行われた場所です。 内部には、居住区、謁見の間、政府の事務所などが含まれています。1649年から1959年に14世ダライ=ラマが亡命するまで、歴代ダライ=ラマの冬の宮殿として機能しました。
紅宮: 1694年に完成した紅宮は、宗教的な儀式と学習の中心地です。 その最も重要な役割は、ダライ=ラマ5世から13世(6世を除く)までの8人のダライ=ラマの霊廟を安置することです。 これらの霊廟は金箔で覆われた巨大な仏塔(チョルテン)であり、豪華な装飾が施されています。紅宮にはその他にも、数多くの仏堂、礼拝堂、経典を収めた図書館などがあります。
ポタラ宮は、建築物としてだけでなく、チベット芸術の宝庫でもあります。内部には698枚の壁画、約1万点の巻物(タンカ)、数多くの彫像、絨毯、磁器、玉製品、金銀の美術品、そして膨大な量の経典や歴史文書が収蔵されています。 1994年、その卓越した普遍的価値が認められ、ユネスコの世界遺産に登録されました。
ジョカン寺
ジョカン寺(トゥルナン寺)は、ラサ旧市街の中心、バルコル広場に位置し、「チベット仏教の心臓」と称される最も神聖な寺院です。 647年頃、ソンツェン・ガンポ王によって建立されました。 当初は、ネパールのブリクティ王女がもたらした不動明王像を祀るために建てられましたが、後に文成公主がもたらした12歳の釈迦牟尼をかたどった像(ジョウォ・リンポチェ)が本尊として安置されるようになりました。 このジョウォ像は、釈迦牟尼自身によって清められたと信じられており、チベット仏教徒にとって最高の巡礼対象となっています。
ジョカン寺の建築様式は、チベット、ネパール、インド、そして中国の唐代の様式が融合した独特のものです。 4階建ての建物で、金色の屋根が特徴的です。 創建以来、幾度となく破壊と再建を繰り返してきました。特に文化大革命期には深刻な被害を受けましたが、後に修復されました。
寺院の周囲には「バルコル」と呼ばれる巡礼路があり、毎日多くの巡礼者がマニ車を回したり、五体投地を繰り返しながら右回りに祈りを捧げます。この光景は、ラサの信仰が今なお生き続けていることを象徴しています。2000年、ジョカン寺はポタラ宮の拡張遺産として世界遺産に登録されました。
ノルブリンカ
ノルブリンカは、ポタラ宮の西約2キロメートルのキチュ川沿いに位置する広大な庭園と宮殿群です。 チベット語で「宝の庭」を意味し、18世紀半ばに7世ダライ=ラマによって夏の離宮として建設が始められました。 以降、14世ダライ=ラマに至るまで、歴代のダライ=ラマが夏の数ヶ月を過ごす場所となりました。
敷地面積は約36ヘクタールに及び、チベット最大の人造庭園とされています。 内部には、ケルサン・ポタン(7世ダライ=ラマの宮殿)、ツォキル・ポタン(湖中の宮殿)、そして14世ダライ=ラマのために1950年代に建てられたタクテン・ミギュル・ポタン(新宮殿)など、歴代のダライ=ラマによって建てられた複数の宮殿や堂宇が点在しています。 これらの建物は、豊かな緑と花々に囲まれ、ポタラ宮の荘厳さとは対照的に、穏やかで開放的な雰囲気を醸し出しています。ノルブリンカは、チベットの宮殿建築と庭園芸術の傑作と見なされており、3万点以上の文化財を収蔵しています。 毎年夏には、チベットの伝統的なオペラが上演される「ショトゥン祭」の主要な会場となり、多くの人々で賑わいます。2001年、ノルブリンカもポタラ宮の拡張遺産として世界遺産に登録されました。
これら三つの世界遺産は、それぞれが異なる時代と目的を持って建設されましたが、一体となってラサの歴史と文化、そしてチベットにおける政教一致の体制を体現しています。