「征服者」(コンキスタドール)とは
コンキスタドール、すなわち「征服者」たちは、15世紀から16世紀にかけての「大航海時代」に、イベリア半島を越えてアメリカ大陸、アフリカ、アジア、オセアニアの一部を探検し、征服したスペインおよびポルトガルの探検家であり兵士でした。 彼らの活動は、新世界の広大な領域をスペインとポルトガルの支配下に置き、現代のヒスパニック・アメリカの基礎を築くことになりました。
コンキスタドールの出現は、ヨーロッパ、特にイベリア半島の歴史的背景と深く結びついています。その最も重要な要素の一つが、レコンキスタ(再征服運動)です。これは、イベリア半島をイスラム教徒の支配からキリスト教徒の手に取り戻すために行われた約800年にも及ぶ長い闘争でした。 1492年1月、カトリック両王として知られるイサベル1世とフェルナンド2世がグラナダを陥落させ、レコンキスタが完了すると、スペインには軍事的な経験を積んだ多くの兵士たちが存在していました。 これらの兵士たちは、長年の戦争で培われた戦闘技術と、キリスト教を広めるという強い宗教的情熱、そしてそれに伴う好戦的なカトリックのアイデンティティを持っていました。 しかし、レコンキスタの終結により、彼らは国内での活躍の場を失いました。
時を同じくして、1492年にコロンブスがアメリカ大陸に到達し、「新世界」の存在がヨーロッパに知れ渡りました。 この発見は、富と新たな機会を求める人々にとって、まさに天からの啓示のように映りました。 ヨーロッパ、特にスペインでは、長子相続制が一般的であり、貴族の次男や三男、あるいは庶子たちは、財産を相続する見込みがほとんどなく、社会的な成功の道は限られていました。 彼らにとって、新世界は、自らの力で富と名声、そして土地を手に入れることができる絶好の機会を提供したのです。 多くのコンキスタドールは、専門的な訓練を受けた戦士ではなく、職人や小貴族、農民など、スペインでの限られた機会を捨てて新世界での立身出世を夢見た人々でした。
彼らの動機は、しばしば「金、栄光、神」という三つの言葉で要約されます。
第一に「金」、すなわち富への渇望です。 コロンブスが新世界から持ち帰った金の装飾品や、そこに広がるであろう豊かな資源の報告は、スペイン人の間に黄金への熱狂を巻き起こしました。 当時のヨーロッパでは、金銀の保有量が国の豊かさと力を示す重商主義の考え方が主流であり、スペイン王室もヨーロッパでの戦争資金を調達するために新たな収入源を渇望していました。 コンキスタドールたちは、アステカやインカのような文明が莫大な富を蓄えているという噂に駆り立てられ、一攫千金を夢見て危険な航海へと乗り出しました。
第二に「栄光」、すなわち名誉欲です。 レコンキスタの時代を通じて、軍事的な成功は社会的な地位の向上に直結していました。 戦いで手柄を立てた者は、貴族の称号や土地、そして労働力を与えられました。 ヨーロッパでは手に入れることが困難だった広大な土地が、新世界には広がっていました。 個人の武勇伝や偉大な功績によって名声を得ることは、多くのコンキスタドールにとって強力な動機付けとなりました。
そして第三に「神」、すなわち宗教的情熱です。 レコンキスタはキリスト教徒による宗教戦争という側面を強く持っており、その勝利はスペイン人の間に熱烈なカトリック信仰を育みました。 彼らは、新世界の先住民をキリスト教に改宗させることを、神から与えられた神聖な義務であり、道徳的な責務であると見なしていました。 この「精神的な征服」は、軍事的な征服と分かちがたく結びついていました。 1493年、教皇アレクサンデル6世は教皇勅書「インテル・カエテラ」を発し、スペインとポルトガルがキリスト教を広めることを条件に、西半球の土地に対する権利を分割することを承認しました。 これにより、コンキスタドールの征服活動は、カトリック教会によって公式に正当化されることになったのです。 宣教師たちはしばしばコンキスタドールの遠征に同行し、征服地で宗教施設を設立しました。 この宗教的な使命感は、彼らの残虐な行為を正当化するイデオロギーとしても機能しました。
これらの動機に突き動かされ、コンキスタドールたちは、スペイン王室から「アデランタード」という称号を与えられて、自らの資金とリスクで遠征隊を組織しました。 アデランタードは、発見し征服した土地の富の80%を保持する権利を認める代わりに、王室に20%を納めるという契約でした。 このシステムにより、王室は莫大な費用とリスクを負うことなく、帝国の拡大と富の獲得を進めることができたのです。
主要なコンキスタドールとその征服活動
コンキスタドールの時代には、数多くの探検家や兵士が新世界に渡りましたが、その中でも特に歴史に名を残した人物がいます。彼らの活動は、アメリカ大陸の主要な文明の運命を決定づけ、その後の歴史の流れを大きく変えました。
エルナン・コルテスは、最も有名で、かつ最も物議を醸すコンキスタドールの一人です。 彼は1485年にスペインのエストレマドゥーラ地方の小貴族の家に生まれました。 1504年にイスパニョーラ島に渡り、キューバ征服などに参加した後、1519年にメキシコ本土への遠征隊を率いることになります。 当時、キューバ総督であったディエゴ・ベラスケス・デ・クエリャルの命令に背く形で、約500人の兵士、100人の船員、そして16頭の馬というわずかな兵力でユカタン半島に上陸しました。
コルテスの目標は、当時中央メキシコに広大な帝国を築いていたアステカ王国でした。 アステカ帝国は、首都テノチティトランを中心に、多くの都市国家を支配下に置いていましたが、その支配はしばしば過酷な貢納や人身御供の要求を伴い、従属させられた部族からの強い反感を買っていました。 コルテスはこの内部対立を巧みに利用します。彼は、アステカの支配を快く思っていなかったトラスカラ人をはじめとする先住民の部族と同盟を結び、自軍の兵力を増強しました。
1519年11月、コルテス一行はアステカの皇帝モクテスマ2世に歓迎され、首都テノチティトランに入城します。 しかし、コルテスは間もなくモクテスマ2世を捕らえ、人質とすることで帝国の支配権を握ろうとしました。 その後、コルテスの部下であるペドロ・デ・アルバラードが、宗教的な祭りの最中にアステカの貴族たちを虐殺するという事件(トシュカトル祭の虐殺)を起こしたことで、アステカの民衆の怒りが爆発します。 これにより、スペイン人たちはテノチティトランからの撤退を余儀なくされ、多くの犠牲者を出す「悲しき夜」として知られる敗走を経験しました。
しかし、コルテスは諦めませんでした。彼はトラスカラなどの同盟軍の助けを借りて体勢を立て直し、テノチティトランを包囲します。スペイン軍が持ち込んだ天然痘などのヨーロッパの病がアステカ社会で猛威を振るい、その人口を激減させたことも、スペイン側に有利に働きました。 1521年8月、数ヶ月にわたる激しい攻防の末、テノチティトランはついに陥落し、アステカ帝国は滅亡しました。 コルテスは、テノチティトランの廃墟の上にメキシコシティを建設し、この地をニュースペイン(ヌエバ・エスパーニャ)副王領の首都としました。
フランシスコ・ピサロもまた、コルテスと並び称されるコンキスタドールです。 彼はコルテスの遠縁にあたり、同じくエストレマドゥーラ地方の出身でした。 庶子として生まれ、読み書きもできなかったと言われています。 1509年に新世界に渡り、パナマ市の市長になるなど、徐々に地位を築いていきました。 南方に黄金の帝国があるという噂に惹かれ、ピサロは数度にわたる探検の末、南米大陸のアンデス山脈に広がるインカ帝国に到達します。
ピサロがインカ帝国に到着した1532年、帝国は皇帝アタワルパとその兄弟ワスカルとの間で繰り広げられた激しい内戦の直後でした。 内戦に勝利したばかりのアタワルパは、カハマルカの地でピサロと会見します。ピサロはわずか180人の兵士と37頭の馬しか率いていませんでしたが、この会見の場でアタワルパを奇襲し、捕虜にすることに成功しました。 皇帝を人質に取られたインカ軍は混乱し、スペイン軍のなすがままでした。
アタワルパは解放の代償として、部屋一杯の金と二部屋分の銀をスペイン人に提供することを約束します。 しかし、ピサロは莫大な身代金を受け取った後もアタワルパを解放せず、最終的には彼を処刑しました。 皇帝を失ったインカ帝国は統制を失い、ピサロはインカの敵対勢力とも手を組みながら、1533年11月には首都クスコを征服しました。 こうして、南米大陸で最も広大で組織化された帝国であったインカ帝国もまた、少数のコンキスタドールによって滅ぼされたのです。ピサロはその後、リマ市を建設し、ペルーを拠点として、エクアドルやチリ方面へと征服活動を拡大していきました。
コルテスやピサロ以外にも、多くのコンキスタドールがアメリカ大陸の各地で活動しました。
ペドロ・デ・アルバラードは、コルテスの腹心としてアステカ征服で重要な役割を果たし、その残虐さで知られました。 彼は後にグアテマラやエルサルバドル方面を征服し、マヤ文明の末裔たちと戦いました。
エルナンド・デ・ソトは、ピサロのインカ征服に参加した後、1539年から1542年にかけて北米大陸南東部の大規模な探検を率いました。 彼は現在のフロリダ、ジョージア、アラバマ、ミシシッピなどの地域を探検し、ヨーロッパ人として初めてミシシッピ川を渡ったとされています。 しかし、彼の遠征もまた、先住民との絶え間ない衝突と暴力に満ちたものであり、彼らが持ち込んだ病気は地域の人口に壊滅的な打撃を与えました。
フランシスコ・バスケス・デ・コロナドは、黄金の七都市「シボラ」の伝説に駆り立てられ、1540年から1542年にかけて、現在のアメリカ南西部を大規模に探検しました。 彼の探検隊はグランドキャニオンなどの雄大な自然を発見しましたが、目的であった黄金を見つけることはできず、遠征は経済的な失敗に終わりました。
これらのコンキスタドールたちは、探検家、軍人、そして時には残虐な征服者として、アメリカ大陸の歴史に深くその名を刻んでいます。彼らの行動は、ヨーロッパ人によるアメリカ大陸の植民地化を決定的なものとし、その後の世界のあり方を根底から変えていくことになりました。
コンキスタドールの軍事技術と戦術
コンキスタドールが、しばしば数で圧倒的に勝る先住民の軍隊を打ち破ることができた背景には、彼らが有していた軍事技術と戦術の優位性がありました。 これらの要素は、物理的な破壊力だけでなく、先住民に与えた心理的な衝撃においても大きな役割を果たしました。
最も重要な技術的優位性の一つは、鉄と鋼の武器でした。 スペイン製の鋼の剣は、長さ約1メートルで両刃であり、斬るのにも突くのにも適していました。 これらの剣は、先住民が使用していた木や石、黒曜石で作られた武器に比べてはるかに鋭く、耐久性がありました。 先住民の戦士が身に着けていた、キルティングされた綿や動物の皮で作られた鎧を容易に貫通することができたのです。
火器、特にアルケブス(火縄銃)やマスケット銃も、スペイン軍の象徴的な武器でした。 これらは装填に時間がかかり、命中精度も低かったものの、その轟音と煙は火薬を知らない先住民に大きな恐怖を与えました。 心理的な威嚇効果は絶大で、先住民の戦士たちは、スペイン人が雷を操ることができると考えたこともあったと言われます。 また、大砲は、先住民の都市や要塞の防御施設を破壊するのに強力な力を発揮しました。
騎兵の存在もまた、決定的なアドバンテージでした。 アメリカ大陸には馬が存在しなかったため、先住民は馬に乗って突撃してくる騎兵の姿を初めて目にしました。 馬の機動力とスピードは、広大な土地を迅速に移動し、奇襲をかけることを可能にしました。 戦場では、騎兵の突撃は敵の陣形を打ち破る絶大な破壊力を持ち、その高さから槍や剣を振り下ろすことで、歩兵に対して圧倒的に有利に戦うことができました。
これらの攻撃的な武器に加えて、防御装備の差も歴然としていました。コンキスタドールは、鋼鉄製の兜や胸当て、盾などで身を固めていました。 特に兜は、先住民が遠距離から使用する投石や矢、近接戦闘で用いる棍棒などによる頭部への致命的な一撃を防ぐ上で、非常に重要な役割を果たしました。 鋼鉄の鎧は、先住民の武器に対してほぼ無敵であり、コンキスタドールは敵の攻撃を恐れることなく前進することができたのです。
しかし、コンキスタドールの成功は、単に武器の優位性だけによるものではありませんでした。彼らが用いた巧みな戦術もまた、勝利に大きく貢献しました。
その最も効果的な戦術の一つが、「分割して統治せよ」という戦略でした。 コルテスがアステカ帝国内の不満分子と同盟を結んだように、コンキスタントドールは先住民社会の内部対立や部族間の敵対関係を巧みに利用しました。 彼らは、あるグループを支援して別のグループと戦わせることで、自軍の消耗を最小限に抑えながら、敵対勢力を弱体化させていったのです。 実際、アステカ帝国やインカ帝国の征服において、スペイン軍の兵力はごくわずかであり、その軍隊の大部分は同盟を結んだ先住民の戦士たちで構成されていました。
また、コンキスタドールは心理戦にも長けていました。彼らは、自らの軍事技術を誇示することで相手を威嚇し、戦わずして降伏させようと試みました。 馬や火器が与えた恐怖に加え、彼らはしばしば先住民の宗教的な信仰や予言を利用しました。 例えば、コルテスは、アステカの神であるケツァルコアトルが東から再来するという伝説を利用し、自らをその神の化身であるかのように見せかけようとしたと言われています。
さらに、外交や交渉における策略も彼らの常套手段でした。ピサロがインカ皇帝アタワルパを会見の場で騙し討ちにしたように、彼らは和平交渉や外交使節を装って敵の指導者に近づき、その身柄を拘束するという手段をしばしば用いました。 指導者を失った組織は混乱し、統率の取れた抵抗が困難になることを彼らは熟知していたのです。
そして、意図せざる最大の「武器」となったのが、ヨーロッパから持ち込まれた病気でした。 天然痘、麻疹、インフルエンザといった病気に対して、アメリカ大陸の先住民は全く免疫を持っていませんでした。 これらの病気は、征服地で爆発的に流行し、先住民の人口を壊滅的なレベルまで減少させました。 メキシコでは、1520年に2500万人いた人口が、1556年には300万人にまで激減したという推定もあります。 この人口減少は、先住民社会の抵抗力を著しく削ぎ、スペインによる支配を容易にする上で決定的な役割を果たしました。
このように、コンキスタドールの征服は、優れた武器、狡猾な戦術、そして目に見えない病原菌という三つの要素が組み合わさることで達成されたのです。
エンコミエンダ制と植民地支配
コンキスタドールによる征服が完了した後、スペイン王室は広大な新領土とそこに住む膨大な数の先住民を統治する必要に迫られました。 この統治と、征服の功労者であるコンキスタドールたちに報いるために導入されたのが、エンコミエンダ制でした。
エンコミエンダという言葉は、スペイン語の「エンコメンダール(委託する)」に由来します。 この制度は、レコンキスタの時代にイベリア半島でイスラム教徒から奪還した土地の統治に用いられたシステムが原型となっています。 アメリカ大陸においては、1503年に王室の公式な承認を受け、イスパニョーラ島で初めて導入され、その後メキシコ、ペルーへと広がっていきました。
この制度の下では、国王への功績を認められたコンキスタドールや入植者(エンコメンデロと呼ばれる)に、特定の地域の先住民の労働力と貢納を徴収する権利が「委託」されました。 理論上、エンコメンデロは、その見返りとして、配下にある先住民たちに軍事的な保護を提供し、カトリックの教えを授けてキリスト教に改宗させる責任を負うことになっていました。 先住民はスペイン王室の自由な臣民と見なされ、その奴隷化はイサベル女王によって禁じられていたため、エンコミエンダ制はあくまで労働と保護・教化の交換という建前をとっていました。
しかし、実際には、エンコミエンダ制は偽装された奴隷制に他なりませんでした。 エンコメンデロたちは、保護や教化の義務をほとんど果たすことなく、自らの富を最大化するために、先住民たちを過酷な労働に従事させました。 先住民たちは、金や銀の鉱山、サトウキビ農園などで、しばしば死に至るまで働かされたのです。 貢納の要求も過酷を極め、金銀、農作物、家畜など、その土地で産出されるあらゆるものが奪われました。 抵抗する者は容赦なく罰せられ、多くの人々が命を落としました。
エンコミエンダ制は、コンキスタドールたちを新世界の新たな貴族階級へと変貌させました。 彼らは広大な土地と多数の労働力を手に入れ、莫大な富を築き上げました。 この制度は、征服軍を植民地の定住者に転換させる上で効果的な手段であった一方で、先住民社会に壊滅的な影響を及ぼしました。 過酷な労働と、ヨーロッパから持ち込まれた病気により、先住民の人口は激減しました。 彼らの伝統的な社会構造、文化、宗教は破壊され、生き残った人々も奴隷同然の生活を強いられたのです。
この制度の非人道的な実態は、スペイン人の中からも批判の声を生みました。特に有名なのが、ドミニコ会の修道士であり、かつては自身もエンコメンデロであったバルトロメ・デ・ラス・カサスです。 彼は、コンキスタドールによる残虐行為とエンコミエンダ制の弊害を告発する『インディアスの破壊についての簡潔な報告』を著し、先住民の権利を擁護するために生涯を捧げました。 ラス・カサスらの訴えは、スペイン本国での議論を呼び起こし、1542年には先住民の保護を目的とした「新法」が制定されるに至ります。この法律は、エンコミエンダの世襲を禁止し、その段階的な廃止を目指すものでした。
しかし、新法は、新世界のエンコメンデロたちからの激しい抵抗に遭いました。彼らにとって、エンコミエンダは既得権益そのものであり、その廃止は経済的基盤を揺るがすものでした。ペルーでは、新法に反対する反乱が起きるなど、植民地での抵抗は根強く、結局、王室は譲歩を余儀なくされ、新法の骨子は事実上、撤回されることになりました。
最終的にエンコミエンダ制は、先住民人口の減少や、より直接的な王室支配の強化という流れの中で、17世紀から18世紀にかけて徐々に廃止されていきました。 しかし、その制度がもたらした搾取の構造は、アシエンダ制(大土地所有制)などの形でラテンアメリカ社会に根深く残り、その後の歴史に大きな影響を与え続けることになります。
コンキスタドールの遺産と黒い伝説
コンキスタドールの活動がアメリカ大陸、そして世界史に残した遺産は、計り知れないほど大きく、また多岐にわたります。その影響は、政治、経済、社会、文化のあらゆる側面に及んでおり、光と影の両面を持っています。
最も明白な遺産は、スペイン帝国の成立と、それに伴う広大な植民地の形成です。 コンキスタドールたちの征服により、カリブ海の島々から、北米の南部、中央アメリカ全域、そして南米の広大な地域がスペインの支配下に入りました。 彼らが築いた拠点は、その後の植民地経営の基盤となり、メキシコシティやリマといった都市は、植民地支配の中心地として発展しました。 この広大な帝国から、スペインは莫大な量の金銀をヨーロッパへと運び込みました。 この富は、16世紀のスペインをヨーロッパ随一の強国へと押し上げ、「スペイン黄金世紀」と呼ばれる時代を現出させましたが、同時にヨーロッパ全体の経済にも大きな影響を与え、価格革命などを引き起こす一因ともなりました。
一方で、コンキスタドールがもたらした破壊と暴力の側面は、彼らの遺産の最も暗い部分を形成しています。アステカやインカといった高度な文明は、彼らの侵略によって無残にも破壊されました。 先住民の人口は、戦争、虐殺、過酷な労働、そしてヨーロッパから持ち込まれた病気によって、壊滅的な打撃を受けました。 彼らの文化、宗教、社会システムは否定され、キリスト教とヨーロッパの価値観が強制されました。 この過程は、しばしば「文化的なジェノサイド」とも評されます。
このようなコンキスタドールの残虐行為を強調し、スペインによる植民地支配全体を非難する言説は、「黒い伝説(La Leyenda Negra)」として知られています。 この言葉は、20世紀初頭にスペインの歴史家フリアン・フデリアスによって広められましたが、その起源は16世紀にまで遡ります。
「黒い伝説」の形成に大きな役割を果たしたのが、前述のバルトロメ・デ・ラス・カサスが著した『インディアスの破壊についての簡潔な報告』です。 ラス・カサス自身の意図は、スペイン王室に植民地の惨状を訴え、先住民の待遇改善を促すことにありました。 しかし、彼の著作は、当時スペインと敵対していたプロテスタント諸国、特にオランダやイギリスによって、反スペインのプロパガンダとして利用されることになります。 彼の報告は様々な言語に翻訳され、コンキスタドールを極めて残虐で非人道的な存在として描き出し、スペイン人全体に対する否定的なステレオタイプを植え付けました。
16世紀のヨーロッパは、宗教改革によってカトリックとプロテスタントが激しく対立しており、また、スペインの覇権に対して他の国々が挑戦しようとしていた時代でした。 このような国際的な対立の中で、「黒い伝説」は、スペインの信用を失墜させ、その植民地支配の正当性を揺るがすための有効なイデオロギー的武器として機能したのです。 イギリスやオランダは、自らの植民地活動を、残虐なスペインから先住民を解放するための正義の行いであるかのように正当化しようとしました。
しかし、「黒い伝説」は、歴史の一側面を過度に単純化し、誇張しているという批判もあります。 スペインの植民地支配が暴力的であったことは事実ですが、それは当時のヨーロッパ列強による植民地主義に共通する特徴であり、スペインだけが突出して残虐であったわけではない、という指摘です。 また、スペインの植民地政策の中には、ラス・カサスのような自己批判の動きや、先住民の権利をめぐる法的な議論が存在したことも事実です。 「黒い伝説」は、こうした複雑な側面を無視し、スペインを一方的に断罪する傾向があると批判されています。
コンキスタドールの評価は、征服者としての英雄的な側面と、侵略者としての残虐な側面との間で、今日に至るまで揺れ動いています。彼らは、ヨーロッパ人の世界認識を大きく広げ、大航海時代のフロンティアを切り開いた冒険家であったと同時に、その飽くなき欲望のために、アメリカ大陸の先住民社会に未曾有の破壊と苦しみをもたらした存在でもありました。