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18_80 ヨーロッパの拡大と大西洋世界 / 大航海時代

コルテスとは わかりやすい世界史用語2292

著者名: ピアソラ
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コルテスとは

エルナン・コルテスは、16世紀初頭にアステカ帝国を征服したスペインのコンキスタドールとして、世界の歴史にその名を刻みました。彼の行動は、アメリカ大陸とヨーロッパの運命を永遠に変え、新しい世界の秩序を形成する上で決定的な役割を果たしました。コルテスの生涯は、野心、勇気、策略、そしてしばしば冷酷さが絡み合った複雑な物語です。彼の遠征は、単なる軍事的な征服に留まらず、文化、宗教、社会構造の劇的な衝突でもありました。



コルテスの出自と初期の人生

エルナン・コルテス・デ・モンロイ・イ・ピサロ・アルタミラーノは、1485年にスペイン南西部のエストレマドゥーラ地方にあるメデジンという町で生まれました。 彼の家系は、下級貴族、すなわちイダルゴの階級に属していました。 父親のマルティン・コルテス・デ・モンロイは歩兵隊の大尉であり、母親はカタリナ・ピサロ・アルタミラーノでした。 コルテスの家は貴族の血を引いていましたが、裕福ではありませんでした。 このような環境は、当時の多くの若いイダルゴたちと同様に、コルテスに富と名声を求めて故郷を離れる動機を与えたと考えられます。
14歳の時、コルテスはサラマンカ大学に送られ、法律を学びました。 サラマンカ大学は当時、スペインで最も権威のある教育機関の一つであり、ここで法律を学ぶことは、将来、王室の行政官僚として成功するための一般的な道でした。 しかし、コルテスは学問に対して強い情熱を持っていたわけではなく、2年後には大学を去り、メデジンに戻りました。 この短い大学での経験は、彼に法律の知識と、後の交渉や統治において役立つことになる論理的思考の基礎を与えた可能性があります。
大学を中退した後、コルテスは軍人になるか、あるいは当時発見されたばかりの新世界で幸運を試すかという選択肢に直面しました。 1502年、彼はニコラス・デ・オバンドが率いるイスパニョーラ島への遠征に参加する予定でしたが、直前に怪我をしたため、この機会を逃しました。 その後2年間、彼はスペイン南部を放浪し、冒険と富を求める多くの若者たちと交流しました。
1504年、19歳になったコルテスは、ついに新世界へ渡る決意を固め、イスパニョーラ島(現在のハイチとドミニカ共和国)へ向かう船に乗りました。 当時、イスパニョーラ島はスペインによるアメリカ大陸植民地化の拠点でした。島に到着したコルテスは、総督ニコラス・デ・オバンドに迎えられました。 彼は公証人としての地位を与えられ、アズア・デ・コンポステーラという町に定住しました。 また、彼はエンコミエンダ制に基づき、土地と先住民の労働力を与えられました。 エンコミエンダ制は、スペイン国王がコンキスタドールや植民者に、特定の地域の先住民をキリスト教化し保護する義務を課す代わりに、彼らから貢納や労働力を得る権利を与える制度でした。しかし、実際には多くの先住民が過酷な労働を強いられる結果となりました。コルテスは数年間、イスパニョーラ島で植民者として比較的穏やかな生活を送りました。

キューバでの経験と遠征への野心

1511年、コルテスの運命は新たな転機を迎えます。イスパニョーラ島の初代総督ディエゴ・コロンの代理であったディエゴ・ベラスケス・デ・クエリャルが、キューバ島の征服を計画したのです。 コルテスはこの遠征に財務官として参加し、その有能さと指導力を発揮しました。 遠征は成功し、ベラスケスはキューバの総督に任命されました。コルテスは、その功績を認められ、ベラスケスの秘書官となり、サンティアーゴ・デ・クーバの市長にも任命されました。 彼は再びエンコミエンダを与えられ、金鉱や牧畜業で大きな富を築きました。
キューバでの成功にもかかわらず、コルテスとベラスケスの関係は常に順風満帆ではありませんでした。 コルテスは、ベラスケスの義理の姉妹であるカタリナ・スアレス・マルカイダと結婚しましたが、この結婚を巡る経緯から二人の間には緊張が走りました。 一説には、コルテスが結婚の約束を破ろうとしたため、ベラスケスが彼を一時的に投獄したとも言われています。 最終的に結婚は成立しましたが、この出来事は二人の関係に亀裂を残しました。
この頃、スペインの探検家たちはユカタン半島沿岸の探検を進めていました。1517年のフランシスコ・エルナンデス・デ・コルドバ、1518年のフアン・デ・グリハルバによる遠征は、高度な文明を持つ豊かな王国の存在を示唆していました。 グリハルバの遠征隊は、マヤの都市と接触し、金製品を交換してキューバに帰還しました。 この報告は、キューバの植民者たちの間に大きな興奮を巻き起こし、ベラスケスはさらなる探検と征服、そして交易のための大規模な遠征隊を組織することを決定しました。
ベラスケスは、この重要な遠征の指揮官としてコルテスを指名しました。 コルテスが選ばれた理由には、彼の指導力、行政手腕、そして遠征資金の一部を自己負担する財力があったことが挙げられます。 しかし、コルテスの野心と独立心の強さを警戒する声もベラスケスの周囲にはありました。 指名を受けたコルテスは、精力的に遠征の準備に取り掛かりました。彼は自身の財産の多くを投じて船、馬、武器、食料を調達し、兵士を募集しました。 彼のカリスマ性と説得力により、約500人の兵士、100人の船員、11隻の船、16頭の馬、そして数門の大砲からなる遠征隊が組織されました。
しかし、遠征隊の規模とコルテスの熱心な準備は、逆にベラスケスの疑念を増幅させることになりました。 ベラスケスは、コルテスが彼の権威に従わず、独立した行動を取るのではないかと恐れ始めました。 出航直前になって、ベラスケスはコルテスの指揮官解任を決定し、彼を交代させようとしました。 この動きを察知したコルテスは、命令が公式に届く前に、1519年2月18日、急いでサンティアーゴ・デ・クーバの港から出航しました。 彼はベラスケスの権威に公然と反抗し、自らの運命を切り開くために、未知の大陸へと船を進めたのです。この大胆な行動は、コルテスの征服者としてのキャリアの始まりを告げるものでした。

メキシコへの上陸と初期の接触

キューバを離れたコルテスの艦隊は、まずユカタン半島のコスメル島に立ち寄りました。 ここでコルテスは幸運な出会いを果たします。彼は、数年前に難破してマヤ人に捕らえられていたスペイン人の聖職者、ヘロニモ・デ・アギラールを発見し、救出しました。 アギラールはマヤ語を流暢に話すことができたため、コルテスの遠征隊にとって貴重な通訳となりました。
艦隊はさらに海岸線に沿って西へ進み、タバスコ地方のポトンチャンという町に到着しました。 ここでスペイン人たちは、マヤの戦士たちと最初の大きな戦闘を経験します。シンコ・デ・セントラの戦いとして知られるこの戦闘で、スペインの騎兵隊と火器の威力は、数の上で優勢だったマヤ軍を圧倒しました。 戦闘後、敗北したタバスコの首長たちは、コルテスに和平を申し入れ、食料や織物などの貢物を捧げました。 この貢物の中に、コルテスの遠征、ひいてはアメリカ大陸の歴史において極めて重要な役割を果たすことになる一人の女性が含まれていました。彼女は、後に洗礼を受けてマリーナとして知られるようになる、ナワトル語とマヤ語の両方を話すことができる先住民の女性でした。
当初、通訳はアギラールがスペイン語とマヤ語の間で行い、マリーナがマヤ語とナワトル語(アステカ人の言語)の間で行うという二段階のプロセスでした。 しかし、マリーナはすぐにスペイン語を習得し、コルテスにとって不可欠な通訳者、顧問、そして側近となりました。 彼女の言語能力と、アステカの文化、政治、社会に関する深い知識は、コルテスがアステカ帝国の内部事情を理解し、交渉や策略を巡らす上で計り知れない価値を持ちました。彼女は単なる通訳ではなく、スペイン人とアステカ人の間の文化的な橋渡し役となり、征服の過程で重要な外交的役割を果たしました。
タバスコを離れたコルテス一行は、1519年4月21日、聖金曜日に現在のベラクルスに近い海岸に上陸しました。 この場所は、後にサン・フアン・デ・ウルアと名付けられました。 上陸後まもなく、彼らはアステカ皇帝モクテスマ2世の使者と接触しました。 使者たちは、遠征隊の目的や指導者について尋ね、豪華な贈り物を携えていました。これには、金と銀でできた巨大な円盤(それぞれ太陽と月を象徴していた)や、精巧な羽毛細工、宝石などが含まれていました。 これらの贈り物は、スペイン人たちを懐柔し、首都テノチティトランに近づかせないようにするためのものでしたが、結果は逆効果でした。 莫大な富を目の当たりにしたコルテスと彼の部下たちは、この帝国の中心部へ進軍する決意をさらに固めることになりました。
一方で、コルテスは自身の法的な立場を固める必要がありました。彼はキューバ総督ベラスケスの権威に反して出航したため、その行動は反逆と見なされる可能性がありました。 この問題を解決するため、コルテスは巧妙な法的手段を用いました。彼は部下たちを説得して、ベラ・クルス・デ・ラ・ベラ・クルス(真の十字架の豊かな町)という新しい町を建設させ、その町の自治政府を設立させました。 そして、この新しい町の自治政府が、コルテスを遠征隊の総司令官兼最高司法官に任命するという形をとったのです。 これにより、彼はベラスケスではなく、スペイン国王カルロス1世(後の神聖ローマ皇帝カール5世)に直接責任を負う立場にあると主張することが可能になりました。 彼は国王に宛てた手紙と、アステカから得た財宝の一部をスペインに送る船を派遣し、自らの行動の正当性を訴えました。
さらに、コルテスは後退の可能性を断ち切るため、大胆な決断を下します。彼は、ベラスケスへの忠誠を主張する一部の兵士による反乱の企てを鎮圧した後、艦隊のほとんどの船を沈めるか、あるいは航行不能にすることを命じました。 この有名な「船を焼く」という逸話(実際には沈めたか解体したとされる)は、兵士たちに前進以外の選択肢はないことを示し、彼らの決意を固めさせるための劇的な行動でした。 これで、コルテスと彼の小さな軍隊は、広大で未知の帝国を前に、退路を断たれた状態で内陸への進軍を開始することになったのです。

トラスカラ人との同盟

アステカ帝国の首都テノチティトランへの道中で、コルテスが下した最も重要な戦略的決断の一つは、トラスカラ人との同盟でした。トラスカラは、アステカ三国同盟の支配に屈することなく、独立を維持していた強力なナワ族の国家でした。 彼らは長年にわたりアステカと敵対関係にあり、「花戦争」と呼ばれる儀式的な戦争を繰り返していました。この戦争は、捕虜を生け贄として確保することを主な目的としていました。
1519年8月、コルテスの軍勢がトラスカラの領土に入ると、彼らはすぐに激しい抵抗に遭いました。 トラスカラの戦士たちは勇敢で数が多く、スペイン軍は数週間にわたる激しい戦闘を強いられました。 特に、オトンコ族の戦士を率いるシコテンカトル・アクシャヤカトル(若きシコテンカトル)は、スペイン人に対して執拗な攻撃を仕掛けました。 スペイン軍は、その優れた武器(鋼鉄の剣、クロスボウ、火縄銃)と戦術、そして騎兵の力によってなんとか持ちこたえましたが、多大な損害を被り、絶体絶命の危機に瀕しました。
しかし、トラスカラの指導者層の意見は一枚岩ではありませんでした。年長のシコテンカトル(若きシコテンカトルの父)やマシスカツィンといった指導者たちは、スペイン人との戦いを続けることの不利を悟り、彼らと手を組んで共通の敵であるアステカを打倒する好機と捉えました。 彼らは、スペイン人の軍事力がアステカの支配を覆す上で強力な武器になると考えたのです。 激しい議論の末、和平派の意見が通り、トラスカラはスペイン人との同盟を受け入れました。
1519年9月23日、コルテスはトラスカラの首都に歓迎されて入城しました。 この同盟は、コルテスの征服活動において決定的な転換点となりました。トラスカラは、コルテスに数千人規模の精強な戦士を提供しただけでなく、食料、補給路、そして安全な避難場所をもたらしました。 トラスカラの兵士たちは、アステカの戦術や地理を熟知しており、後の戦闘においてスペイン軍にとって不可欠な戦力となりました。 この同盟がなければ、コルテスの小規模な軍隊が広大なアステカ帝国を征服することは、ほぼ不可能だったでしょう。
トラスカラとの同盟は、コルテスの外交手腕と、現地の政治状況を利用する能力の高さを示しています。彼は、アステカ帝国が多くの従属都市国家からの恨みを買っていることを見抜き、これらの不満分子を自らの陣営に引き入れることで、敵の内部から崩壊させようとしました。 トラスカラとの同盟は、その戦略の最も成功した例でした。
チョルーラでの虐殺

トラスカラで兵力を増強し、補給を整えたコルテスは、次なる目的地としてチョルーラへ向かいました。チョルーラは、アステカ三国同盟の重要な同盟都市であり、ケツァルコアトル神の信仰の中心地として宗教的にも大きな影響力を持つ大都市でした。 トラスカラ人たちは、チョルーラがアステカと共謀してスペイン人を待ち伏せしていると警告しましたが、コルテスは自らの力を誇示し、敵対勢力に恐怖を植え付けるため、あえてチョルーラへ進軍することを決定しました。
当初、チョルーラの人々はコルテス一行を丁重に迎え入れました。 しかし、数日が経つと、コルテスと彼の同盟者であるトラスカラ人たちは、街の様子に不穏な空気を感じ取り始めました。マリーナ(マリンチェ)は、チョルーラの貴族の妻から、街の外にアステカ軍が潜んでおり、スペイン人を奇襲して皆殺しにする計画があることを聞き出しました。 街の通りにはバリケードが築かれ、屋上には石が積まれているのが発見されました。
この陰謀を察知したコルテスは、先手を打つことを決断します。1519年10月、彼はチョルーラの指導者たちを中央広場にあるケツァルコアトルの神殿の中庭に集めました。 指導者たちが集まると、コルテスは彼らの裏切りを非難し、合図とともにスペイン兵は武装していない貴族や聖職者たちに襲いかかりました。 同時に、街の外で待機していたトラスカラの戦士たちが市内に突入し、チョルーラ市民への攻撃を開始しました。
続く数時間にわたり、凄惨な虐殺が繰り広げられました。スペインの年代記によれば、数千人(一説には3,000人から6,000人)のチョルーラ市民が殺害され、街は略奪され、神殿は焼き払われました。 この出来事は、コルテスの征服活動の中でも特に残虐で物議を醸すものの一つです。コルテス自身は、裏切りに対する先制攻撃であり、自衛のための必要悪であったと正当化しました。 彼は、この虐殺によって、アステカ帝国とその同盟者たちにスペイン人に逆らうことの恐ろしさを知らしめ、今後の抵抗を未然に防ぐ狙いがあったと考えられます。
チョルーラでの虐殺のニュースは、アステカ帝国内に衝撃と恐怖をもって広まりました。 アステカ皇帝モクテスマ2世は、スペイン人の力とその冷酷さを目の当たりにし、彼らを武力で排除することへの自信を失っていきました。 抵抗が無駄であると悟ったモクテスマは、ついにコルテス一行が首都テノチティトランへ入ることを許可せざるを得なくなりました。チョルーラの悲劇は、テノチティトランへの道を血で染め上げましたが、同時にその扉を開くことにもなったのです。
テノチティトランへの入城とモクテスマの捕縛

チョルーラを後にしたコルテスの軍勢は、ついにアステカ帝国の心臓部であるテノチティトランへと向かいました。1519年11月8日、彼らはテスココ湖に浮かぶ壮麗な都市、テノチティトランに到着しました。 スペイン人たちは、湖を渡る長大な土手道、整然とした街並み、巨大な神殿や宮殿、そして活気あふれる市場など、その規模と美しさに驚嘆しました。兵士の一人であったベルナル・ディアス・デル・カスティリョは、その著書『メキシコ征服記』の中で、初めて目にした光景を「魔法にかけられたようだった」と記しています。
皇帝モクテスマ2世は、自らコルテスを出迎えるために、豪華な行列を率いて現れました。 彼は神のように崇められており、誰も彼の顔を直接見たり、体に触れたりすることは許されていませんでした。 モクテスマはコルテスを丁重にもてなし、贈り物を交換し、彼らを先王アクサヤカトルの旧宮殿に滞在させました。
モクテスマがなぜこれほどまでにスペイン人を歓迎したのかについては、様々な説があります。一つの有名な説は、モクテスマがコルテスを、東の海から帰還すると予言されていた神ケツァルコアトル、またはその使者であると信じていたというものです。 コルテスが到着した1519年は、アステカの暦で「葦の1の年」にあたり、これはケツァルコアトルの帰還が予言されていた年と一致していました。 しかし、この説は征服後にスペイン人によって強調された可能性も指摘されており、現代の歴史家の中には、モクテスマがより現実的な政治的判断から行動したと考える者もいます。 彼はおそらく、スペイン人の軍事力を警戒し、彼らの意図を探り、可能であれば平和的に彼らを追い払うか、あるいは自らの支配のために利用しようと考えていたのかもしれません。
宮殿に滞在するうちに、スペイン人たちの立場は次第に不安定になっていきました。彼らは巨大な都市の中で孤立しており、アステカ人の慈悲に頼っている状態でした。 コルテスは、この危険な状況を打開し、主導権を握るため、大胆かつ冷酷な計画を実行に移します。彼は、海岸のベラクルスで起きたスペイン人とアステカ人との小競り合いを口実に、モクテスマを自らの宮殿からスペイン人の宿舎であるアクサヤカトルの宮殿に「保護」の名目で連行し、軟禁状態に置きました。
1519年11月14日、コルテスはモクテスマを訪ね、彼を人質としました。 驚くべきことに、神聖な皇帝であったモクテスマは、大きな抵抗を見せずにこの要求に従いました。 彼は依然として皇帝としての体面を保ち、宮殿から国政を執り行っていましたが、事実上はコルテスの操り人形となりました。 コルテスはモクテスマを通じてアステカ帝国を間接的に支配し、貴族たちにスペイン国王への忠誠を誓わせ、大量の金を貢納させました。 この大胆な行動により、コルテスは一時的にテノチティトランの支配権を掌握することに成功しました。しかし、この不安定な均衡は長くは続きませんでした。
悲しき夜 (ラ・ノーチェ・トリステ)

コルテスがテノチティトランで権力を固めつつあった頃、新たな脅威がキューバから迫っていました。コルテスの反抗に激怒したキューバ総督ディエゴ・ベラスケスは、彼を逮捕し、その指揮権を奪うために、パンフィロ・デ・ナルバエス率いる約900人の兵士からなる大規模な遠征隊をメキシコに派遣しました。 ナルバエスの軍隊は1520年4月にベラクルスに上陸し、コルテスに降伏を要求しました。
この危機に際し、コルテスは迅速に行動しました。彼は、テノチティトランの守備を信頼する部下のペドロ・デ・アルバラードに任せ、自身は少数の兵を率いて海岸へ急行しました。 コルテスは夜陰に乗じてナルバエスの陣営を奇襲し、巧みな交渉と買収工作を併用して、ナルバエスの兵士の多くを自らの味方に引き入れることに成功しました。 ナルバエス自身は捕らえられ、彼の軍隊は武器や馬とともにコルテスの軍に吸収されました。これにより、コルテスの兵力は大幅に増強されました。
しかし、コルテスが海岸で勝利を収めている間に、テノチティトランでは壊滅的な事態が発生していました。コルテスの不在中、アルバラードはアステカの貴族たちが反乱を企てていると疑心暗鬼に陥りました。 ウィツィロポチトリ神を祝うトシュカトルの祭りの最中、主要な神殿の中庭に集まっていた武装していないアステカの貴族や聖職者たちを、アルバラードの兵士たちが突如襲撃し、虐殺しました。 この「大神殿の虐殺」は、アステカ市民の怒りを爆発させ、彼らは一斉に蜂起してスペイン人の宿舎を包囲しました。
ナルバエス軍を吸収してテノチティトランに戻ったコルテスは、街が完全な戦争状態にあることを知りました。 彼はアルバラードの愚行を非難しましたが、もはや手遅れでした。包囲されたスペイン軍は食料も水も尽きかけ、絶望的な状況に追い込まれました。コルテスは、人質であるモクテスマに民衆を鎮めるよう命じました。モクテスマが宮殿のバルコニーから人々に語りかけたところ、激怒した群衆から投石を受け、これが致命傷となって数日後に死亡しました。 (ただし、彼がスペイン人によって殺害されたという説もあります)。
モクテスマの死により、和平の望みは完全に絶たれました。コルテスは、テノチティトランからの脱出以外に道はないと判断しました。1520年6月30日の夜、雨と霧に紛れて、スペイン軍は街からの脱出を試みました。 彼らは、アステカ人が破壊した土手道の隙間を埋めるために、移動式の木製の橋を用意しました。しかし、脱出はすぐにアステカの戦士たちに察知され、湖上から無数のカヌーによる猛攻撃を受けました。
この夜の撤退は、スペイン人にとって完全な惨事となりました。多くの兵士が、略奪した大量の金を身に着けていたために動きが鈍り、湖に落ちて溺死しました。 騎兵はぬかるんだ土手道で役に立たず、次々と討ち取られました。この混乱の中で、コルテスは兵士の半数以上(600人から800人)、そして同盟者であったトラスカラ兵の数千人を失いました。 この壊滅的な敗走は、後に「ラ・ノーチェ・トリステ(悲しき夜)」として知られるようになりました。コルテス自身も命からがら脱出し、伝説によれば、生き残った部下たちと合流した後、一本の木の下で涙を流したと伝えられています。 スペインによる最初のテノチティトラン支配は、こうして血塗られた失敗に終わりました。

テノチティトランの包囲と陥落

「悲しき夜」の壊滅的な敗北の後、コルテスと彼の疲弊しきった軍隊は、同盟国であるトラスカラの領土を目指して撤退しました。その途中、オトゥンバの谷で、彼らは追撃してきた優勢なアステカ軍と対峙しました。 絶望的な状況にもかかわらず、スペイン軍は決死の覚悟で戦いました。コルテスは、アステカ軍の指揮官であるシワコアトルを見つけ出し、自ら突撃して彼を討ち取りました。 指揮官を失ったアステカ軍は混乱に陥り、撤退を始めました。このオトゥンバの戦いでの奇跡的な勝利により、スペイン軍は全滅を免れ、無事にトラスカラにたどり着くことができました。
トラスカラでは、コルテスは同盟者たちに温かく迎え入れられました。彼はここで数ヶ月間を費やし、軍の再編成と次なる攻撃の準備に専念しました。 彼はナルバエス軍の残党や、キューバやジャマイカから新たに到着したスペイン人たちを加えて兵力を回復させました。 しかし、彼の最も強力な味方となったのは、目に見えない敵、すなわち天然痘でした。 スペイン人が新大陸に持ち込んだこの病気は、免疫を持たない先住民の間で爆発的に流行しました。テノチティトランでは、天然痘によって人口の40%近くが死亡したと推定されています。 この疫病はアステカ社会に壊滅的な打撃を与え、多くの戦士や指導者の命を奪いました。モクテスマの後を継いだ皇帝クイトラワクも、即位後わずか80日で天然痘により病死しました。
コルテスは、テノチティトランが湖上の都市であるという地理的特徴を攻略の鍵と考え、湖の支配権を握るための計画を立てました。彼は、ベラクルスで解体した船の部品を陸路でテスココ湖まで運ばせ、そこでブリガンティン船(小型の帆船)13隻を建造させました。 これらの船には大砲が搭載されており、アステカ軍の主な水上戦力であるカヌーに対して圧倒的な優位性を誇りました。
1521年5月、コルテスはテノチティトランに対する本格的な包囲作戦を開始しました。 彼は軍を三つに分け、都市に通じる主要な3本の土手道(トラコパン、コヨアカン、イスタパラパ)を封鎖しました。 ブリガンティン船団は湖を制圧し、都市への食料や水の供給を断ち切りました。 新たなアステカ皇帝となった若きクアウテモックの指揮の下、アステカの戦士たちは勇敢に抵抗しました。彼らはスペイン軍の進撃を何度も押し返し、激しい市街戦が繰り広げられました。
包囲戦は3ヶ月近くに及びました。スペイン軍と同盟軍は、建物を一つ一つ破壊しながら、ゆっくりと都市の中心部へと進んでいきました。 都市の住民は、飢餓、渇き、そして病気に苦しみましたが、降伏を拒み続けました。 しかし、状況は絶望的でした。1521年8月13日、最後の抵抗拠点であったトラテロルコ地区で、皇帝クアウテモックがカヌーで脱出を試みているところをスペインのブリガンティン船に捕らえられました。 彼の捕縛をもって、アステカの抵抗は終わりを告げました。
かつて壮麗を誇った首都テノチティトランは、包囲戦によって完全に破壊され、廃墟と化しました。この戦いによるアステカ側の死者数は、戦闘、飢餓、病気によって10万人から24万人に上ると推定されています。 アステカ帝国の陥落は、アメリカ大陸の歴史における画期的な出来事であり、スペインによる広大な植民地帝国の始まりを告げるものでした。

征服後の統治と失脚

テノチティトランの陥落後、コルテスは新たに征服した領土の統治に取り掛かりました。彼は、破壊されたアステカの首都の廃墟の上に、新たな植民地の首都としてメキシコシティを建設することを決定しました。 この決定は象徴的であり、古い世界の秩序の上に新しいスペインの支配を確立することを示すものでした。彼は先住民の労働力を使って、教会、政府の建物、そしてスペイン人入植者のための住居を建設させました。
コルテスは、自らを「ヌエバ・エスパーニャ(新スペイン)」と名付けたこの地の総督兼総司令官であると宣言しました。 彼はエンコミエンダ制を導入し、彼の部下であるコンキスタドールたちに土地と先住民の労働力を分配しました。 これは、征服への貢献に報いると同時に、植民地の経済基盤を確立するための手段でした。しかし、この制度はしばしば先住民の過酷な搾取と虐待につながりました。コルテス自身は、先住民の人口が急激に減少すれば植民地の経済が成り立たなくなることを理解しており、過度の搾取を抑制しようと試みましたが、彼の部下たちの欲望を完全に制御することは困難でした。
コルテスはまた、さらなる探検と征服を推し進めました。彼の部下たちは、現在のグアテマラ、ホンジュラス、ユカタン半島など、中央アメリカの各地に派遣され、スペインの支配領域を拡大していきました。 1524年から1526年にかけて、コルテス自身も、反乱を起こした部下クリストバル・デ・オリードを追ってホンジュラスへの困難な遠征を率いました。 しかし、この長期にわたる遠征は、彼のメキシコシティでの権力基盤を弱める結果となりました。彼の不在中に、政敵たちが権力を掌握し、彼が死亡したという噂を流しました。
コルテスの成功と増大する権力は、スペイン本国の王室にとって懸念材料となりました。国王カルロス1世は、コルテスのような強力な個人が新世界で独立した王国を築くことを恐れていました。 そのため、王室は彼の権限を徐々に剥奪し、王室の役人をヌエバ・エスパーニャに派遣して統治を監督させるようになりました。1528年、コルテスは自らの行動を弁明し、正式な称号を授与されるためにスペインに帰国するよう命じられました。
スペインで、コルテスは国王カルロス1世に謁見し、丁重に迎えられました。彼は征服の功績を認められ、「オアハカ谷侯爵」の称号と広大な領地を与えられましたが、彼が最も望んでいたヌエバ・エスパーニャ総督の地位は与えられませんでした。代わりに、王室はアウディエンシア(高等法院)を設立し、後には副王を任命して、植民地を直接統治する体制を確立しました。コルテスは軍事的な権限は保持しましたが、政治的な実権は失ったのです。
1530年、コルテスはメキシコに戻りましたが、彼の立場は以前とは全く異なっていました。彼はもはや最高の権力者ではなく、新しく任命された王室の役人たちとしばしば対立しました。 彼はオアハカの領地経営に力を注ぎ、サトウキビ栽培、養蚕、鉱山開発など、新しい産業の導入を試みました。また、彼は探検への情熱を失っておらず、自費で太平洋岸の探検隊を組織し、バハ・カリフォルニア半島(当時は島だと考えられていた)を発見しました。
しかし、晩年は、法的な闘争と失望に満ちていました。彼は、自らの権利と主張する領地を巡って、副王や他の役人たちと絶えず訴訟を繰り返しました。 1540年、コルテスは再びスペインに渡り、王室に直接訴えようとしましたが、もはや彼はかつてのような影響力を持っていませんでした。彼の訴えはほとんど聞き入れられず、彼は宮廷で冷遇されました。
1547年12月2日、エルナン・コルテスは、セビリア近郊のカスティリェハ・デ・ラ・クエスタという町で、胸膜炎のため62歳で亡くなりました。 彼は、メキシコに埋葬されることを望んでいましたが、その遺言が実行されるまでには長い年月がかかりました。彼の遺骨は何度も移転され、最終的にメキシコシティのヘスス・ナサレノ病院にある教会の壁に密かに安置されました。

コルテスの遺産と評価

エルナン・コルテスの遺産は、極めて複雑で多面的であり、今日に至るまで激しい議論の対象となっています。彼は、歴史の流れを劇的に変えた人物であり、その行動は新旧両世界に計り知れない影響を及ぼしました。
一方で、コルテスは西洋の歴史において、しばしば大胆不敵な探検家、卓越した軍事戦略家、そしてキリスト教文明の旗手として称賛されてきました。 わずかな兵力で広大なアステカ帝国を征服した彼の軍事的才能は、疑う余地がありません。彼は、敵の内部対立を利用する外交手腕、困難な状況でも決して屈しない不屈の精神、そして部下を鼓舞するカリスマ的な指導力を兼ね備えていました。 彼の遠征は、ヨーロッパ人の地理的知識を飛躍的に拡大させ、アメリカ大陸の莫大な富(金、銀、新しい作物など)をヨーロッパにもたらしました。これは、ヨーロッパの経済を大きく変革し、スペインを世界的な大国へと押し上げる原動力となりました。また、彼の行動は、キリスト教の布教を促進し、アメリカ大陸におけるカトリック教会の基礎を築きました。
しかし、もう一方の側面から見れば、コルテスは冷酷で貪欲な侵略者であり、先住民文化の破壊者として厳しく非難されます。 彼の征服活動は、数え切れないほどの死と破壊をもたらしました。戦闘による直接的な暴力だけでなく、彼らが持ち込んだ天然痘などの疫病は、先住民の人口を壊滅的に減少させました。 チョルーラでの虐殺や、テノチティトランの徹底的な破壊は、彼の冷酷さを示す事例としてしばしば挙げられます。 彼はアステカの宗教や文化を「悪魔的」なものとして断罪し、神殿や偶像、古文書などを組織的に破壊しました。 エンコミエンダ制の導入は、多くの先住民を事実上の奴隷状態に置き、過酷な労働と搾取を強いるものでした。
メキシコにおいて、コルテスの評価は特に複雑です。彼は、現代メキシコ国家の基礎を築いた人物の一人であると見なされる一方で、先住民の文明を破壊し、植民地支配をもたらした侵略者として記憶されています。 彼の通訳であり伴侶であったマリーナ(マリンチェ)は、「マリンチスモ」という言葉の語源となり、自らの民族を裏切った者の象徴とされることもあります。 メキシコシティには、征服者であるコルテスの記念碑はほとんど存在せず、むしろ最後の皇帝クアウテモックのような抵抗者の像が英雄として称えられています。
エルナン・コルテスは、歴史における偉大な「創造的破壊者」の一人と言えるでしょう。彼の野心と行動は、アステカという一つの世界を終焉させ、ヨーロッパとアメリカが融合した新しい世界、すなわち現代のラテンアメリカの誕生を促しました。 彼の生涯は、人間の持つ栄光と悲劇、勇気と残虐性、そして歴史の非情なダイナミズムを体現しています。彼を単なる英雄や悪役として単純に評価することはできず、その行動がもたらした光と影の両面を理解することが、この複雑な歴史上の人物を正しく評価するために不可欠です。
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『世界史B 用語集』 山川出版社

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