スウェーデンとは
スウェーデンは、ヨーロッパの片隅に位置する貧しく人口の少ない国から、大陸の政治と軍事を左右する主要な大国へと、劇的な変貌を遂げた驚くべき存在です。この時代は、スウェーデン史における「大国時代」の幕開けと重なり、その中心には、軍事の天才と謳われた国王グスタフ2世アドルフと、彼の死後その遺産を受け継いだ稀代の政治家アクセル=オクセンシェルナという、二人の傑出した人物がいました。スウェーデンの三十年戦争への介入は、ドイツのプロテスタントをハプスブルク家の圧政から救うという宗教的使命感を掲げて始まりましたが、その背後には、バルト海を「スウェーデンの湖」にしようとする冷徹な国家戦略と、国家の生存そのものを賭けた安全保障上の懸念が深く横たわっていました。スウェーデン軍がドイツの地で繰り広げた輝かしい勝利と、それがもたらした破壊の爪痕は、三十年戦争の様相を一変させ、最終的にヴェストファーレン条約による新たなヨーロッパ秩序の形成に決定的な役割を果たすことになります。この時代のスウェーデンの物語は、小国がいかにして効率的な国家機構と革新的な軍事力によって大国へと成り上がるかを示す、歴史上稀に見る実例と言えるでしょう。
「大国時代」の黎明 介入前夜のスウェーデン
グスタフ2世アドルフが1630年にドイツへ歴史的な上陸を果たす以前のスウェーデンは、すでに国内の基盤を固め、バルト海東岸で着実に勢力を拡大していました。この時期の国内改革と対外戦争の経験こそが、三十年戦争という大舞台でスウェーデンが主役級の役割を演じることを可能にしたのです。
グスタフ2世アドルフとアクセル=オクセンシェルナ
1611年、わずか17歳で父カール9世の跡を継いで即位したグスタフ2世アドルフは、多大な困難を抱えた王国を受け継ぎました。スウェーデンは、デンマーク、ポーランド、そしてロシアという三つの敵との戦争状態にあり、国内の貴族層は王権に対して反抗的でした。しかし、若き国王は、その治世の初めから非凡な才能を発揮します。
彼の成功の鍵となったのが、5歳年上の大法官アクセル=オクセンシェルナとの緊密な協力関係でした。グスタフ=アドルフがカリスマ的な軍事指導者であったとすれば、オクセンシェルナは冷静沈着な行政家であり、優れた外交官でした。国王が戦場で軍を率いる間、オクセンシェルナはストックホルムで国政を預かり、戦争遂行に必要な資金と人材を確保し続けました。この国王と宰相の「二頭体制」は、スウェーデンの国力を最大限に引き出す原動力となり、ヨーロッパの他の絶対君主制国家には見られない強みとなりました。
二人はまず、国内の安定化に取り組みました。グスタフ=アドルフは、貴族の特権を認め、彼らを王政に協力させることに成功します。オクセンシェルナは、中央政府の行政機構を改革し、効率的な税収システムと地方行政のネットワークを構築しました。これにより、スウェーデンは、その人口や経済規模に不釣り合いなほど、効率的に資源を動員できる近代的な国家機構を持つに至ったのです。
軍事革命と国家建設
グスタフ2世アドルフの名は、何よりもまず「軍事革命」の推進者として記憶されています。彼は、16世紀のオランダのマウリッツ=ファン=ナッサウの軍事改革をさらに発展させ、ヨーロッパで最も先進的で強力な軍隊を創り上げました。
スウェーデン軍の強さの根幹には、国民皆兵制に近い独自の徴兵制度がありました。各教区から一定数の壮健な男子を徴兵し、国民的なアイデンティティと高い規律を持つ常備軍を形成したのです。これは、金で雇われ、忠誠心が低く、しばしば略奪に走る多国籍の傭兵に依存していた当時の他のヨーロッパ諸国の軍隊とは一線を画すものでした。
戦術面では、グスタフ=アドルフは機動力と火力の連携を重視しました。彼は、歩兵部隊のパイク兵(長槍兵)の比率を減らし、マスケット銃兵の割合を増やしました。そして、兵士たちに、より迅速に装填し、一斉射撃を行う訓練を施しました。特筆すべきは、砲兵の革新的な運用です。彼は、軽量で機動性に富む「レザーキャノン」(実際には革で補強された金属製の砲)を開発し、歩兵連隊に直接配備しました。これにより、スウェーデン軍は、戦闘中に砲兵を柔軟に移動させ、敵の陣形に集中的な砲火を浴びせることが可能となったのです。騎兵もまた、従来のピストルを撃って後退する戦法(カラコール)を捨て、サーベルによる突撃を敢行するよう訓練されました。
これらの革新的な軍隊は、単なる軍事力の問題ではなく、スウェーデンの国家建設プロジェクトそのものでした。効率的な徴兵と兵站は、オクセンシェルナが整備した中央集権的な行政機構なしには不可能でした。また、軍備の維持に必要な鉄や銅、そして大砲は、国内の豊富な鉱物資源と、オランダ資本の導入によって発展した製鉄業によって供給されました。スウェーデンの軍事力は、その国家機構と経済基盤に深く根差していたのです。
バルト帝国への道 対ロシア・ポーランド戦争
グスタフ2世アドルフは、その治世の初期に、まず東方の敵との戦いにその軍事力を投入しました。1617年、ストルボヴァの和約によってロシアとのイングリア戦争を終結させ、スウェーデンはイングリアとケックスホルムを獲得しました。これにより、ロシアはバルト海への出口を完全に失い、スウェーデンはフィンランド湾を内海化することに成功します。
次なる目標は、ポーランド=リトアニア共和国でした。この戦争には、王朝間の対立という個人的な動機も絡んでいました。ポーランド王ジグムント3世は、グスタフ=アドルフの従兄であり、かつてスウェーデン王位を追われた人物でした。彼は、スウェーデン王位への要求を取り下げず、両者は不倶戴天の敵でした。
1621年から始まった対ポーランド戦争で、スウェーデン軍はリヴォニアに侵攻し、その中心都市リガを占領しました。さらに1626年には、プロイセンにまで戦線を拡大し、ヴィスワ川河口の港湾都市を支配下に置きます。これらの港湾から徴収される関税は、スウェーデンの国家財政を潤し、来るべきドイツ遠征の重要な資金源となりました。1629年、フランスの仲介でアルトマルクの休戦条約が結ばれ、スウェーデンはリヴォニアとプロイセンの港湾の支配を6年間認められました。
このポーランドとの戦争は、グスタフ=アドルフの軍隊にとって、三十年戦争という本番前の貴重な実戦経験の場となりました。ここで試され、完成された軍事組織と戦術が、まもなくドイツの地で猛威を振るうことになるのです。
ドイツへの介入 スウェーデン戦争(1630年ー1635年)
1629年のデンマークの敗北と、皇帝フェルディナント2世による「復旧勅令」の発布は、ドイツのプロテスタントを窮地に陥れました。この状況は、グスタフ2世アドルフに、ドイツへ介入するための絶好の機会と、避けては通れない戦略的必要性の両方をもたらしました。
介入の動機 宗教、安全保障、そして帝国
グスタフ2世アドルフが1630年にドイツ遠征に踏み切った動機は、重層的であり、一つの理由に還元することはできません。
宗教的動機:グスタフ=アドルフは、自らをヨーロッパのプロテスタントの大義の擁護者と見なしていました。彼は敬虔なルター派であり、ハプスブルク家によるドイツの強制的な再カトリック化を、神に対する冒涜であり、プロテスタント信仰への脅威であると考えていました。彼の遠征は、多くのドイツのプロテスタントから、圧政からの解放者として熱狂的に迎えられました。この宗教的使命感は、彼の行動を正当化し、兵士たちの士気を高める上で重要な役割を果たしました。
安全保障上の動機:これが最も現実的で切実な動機でした。皇帝軍の司令官ヴァレンシュタインが北ドイツを席巻し、メクレンブルク公となってバルト海沿岸に拠点を築き、皇帝艦隊の創設を試みたことは、スウェーデンにとって国家の存亡に関わる脅威でした。バルト海が「ハプスブルクの湖」になることは、スウェーデンの生命線が断たれることを意味しました。グスタフ=アドルフは、自国の安全を確保するためには、敵を自国の領土から遠く離れた場所、すなわちドイツで叩く必要があると考えました。これは「予防戦争」という側面を強く持っていました。
帝国建設の野心:グスタフ=アドルフは、この戦争を、バルト海を「スウェーデンの湖」にするという、スウェーデンの長年の野望を実現するための機会と捉えていました。ドイツ北部のポメラニアやメクレンブルクの沿岸地域を恒久的に支配下に置くことは、バルト海の制海権を確固たるものにし、スウェーデンをヨーロッパの強国(「バルト帝国」)の地位へと押し上げることを意味しました。
これらの動機は、相互に絡み合っていました。ドイツのプロテスタントを救うことは、スウェーデンの安全保障を確保することに繋がり、そしてその結果として得られる領土は、スウェーデンの帝国としての地位を固める、という論理です。
「北方の獅子」の進撃
1630年7月、グスタフ2世アドルフは、1万3000の兵を率いて、北ドイツのポーメルン(ポメラニア)にあるウーゼドム島に上陸しました。彼の遠征は、フランスの宰相リシュリューとの間に結ばれたベールヴァルデ条約による、年間40万ターラーという多額の財政援助によって支えられていました。
当初、ブランデンブルク選帝侯やザクセン選帝侯といったドイツの有力なプロテスタント諸侯は、スウェーデンへの協力をためらいました。しかし、1631年5月、皇帝軍のティリー伯がマクデブルク市を攻略し、市内で2万人以上が虐殺されるという残虐行為が起こると、状況は一変します。この事件は、プロテスタント諸侯に皇帝との妥協の道がないことを悟らせ、彼らをスウェーデンとの同盟へと走らせました。
1631年9月17日、ライプツィヒ近郊のブライテンフェルトで、グスタフ=アドルフ率いるスウェーデン=ザクセン連合軍は、歴戦の将ティリー伯が率いる皇帝=カトリック連盟軍と激突しました。戦闘の序盤、ザクセン軍が皇帝軍の猛攻を受けて潰走し、スウェーデン軍の側面ががら空きになるという危機的状況に陥ります。しかし、グスタフ=アドルフは冷静に予備兵力を投入して陣形を立て直し、スウェーデン軍の優れた機動力と火力を駆使して、逆に皇帝軍の側面を攻撃しました。結果は、スウェーデン軍の圧倒的な勝利でした。ティリー伯の軍は壊滅し、三十年戦争の開始以来、プロテスタント側が初めて収めた大規模な会戦での勝利となりました。
ブライテンフェルトの戦いは、ヨーロッパの軍事史における転換点でした。それは、柔軟な線形陣と機動的な砲兵を特徴とするスウェーデンの新しい戦術が、旧来の巨大な方陣(テルシオ)を特徴とする戦術に対して、決定的優位性を持つことを証明したのです。
この勝利の後、グスタフ=アドルフは「北方の獅子」と称えられ、その進撃を阻むものはもはやありませんでした。彼は南ドイツへと軍を進め、マインツ、フランクフルトといった都市を次々と占領し、1632年の春にはバイエルンの首都ミュンヘンにまで入城しました。ハプスブルク家の支配は、崩壊寸前に見えました。
リュッツェンの悲劇とオクセンシェルナの継承
窮地に立たされた皇帝フェルディナント2世は、かつて罷免したヴァレンシュタインを再起用するしかありませんでした。ヴァレンシュタインは再び巨大な軍団を組織し、グスタフ=アドルフの前に立ちはだかります。
1632年11月16日、両雄はライプツィヒ近郊のリュッツェンの野で対決しました。濃い霧と硝煙が立ち込める中、両軍は一進一退の激しい戦闘を繰り広げました。戦闘のさなか、グスタフ=アドルフは近視のために方向を見失い、少数の供回りと共に敵の騎兵部隊のただ中に迷い込んでしまいます。彼は複数の銃弾と刺し傷を受け、壮絶な戦死を遂げました。38歳の若さでした。
国王の死の報はスウェーデン軍に衝撃を与えましたが、それは兵士たちを恐慌ではなく、復讐の念に燃え上がらせました。副官のベルンハルト=フォン=ザクセン=ヴァイマールが指揮を引き継ぎ、猛反撃の末にスウェーデン軍は戦場を確保し、戦術的には勝利を収めました。
しかし、指導者の喪失は計り知れない打撃でした。スウェーデンのドイツ遠征は、その求心力を失い、崩壊の危機に瀕します。この危機を救ったのが、大法官アクセル=オクセンシェルナでした。彼は直ちにドイツに渡り、スウェーデンの戦争指導の全権を掌握しました。彼は、巧みな外交手腕を発揮し、1633年に南ドイツのプロテスタント諸侯を束ねてハイルブロン同盟を結成し、フランスからの財政支援も継続させることに成功します。オクセンシェルナの指導の下、スウェーデンは国王の死という最大の危機を乗り越え、戦争を継続する体制を再構築したのです。
しかし、スウェーデン軍のかつての勢いは失われていました。1634年9月、ネルトリンゲンの戦いで、スウェーデン=ハイルブロン同盟軍は、皇帝=スペイン連合軍の前に壊滅的な敗北を喫します。この敗北により、スウェーデンは南ドイツにおける影響力を完全に失い、ハイルブロン同盟は崩壊しました。多くのドイツ諸侯はスウェーデンを見限り、翌1635年に皇帝とプラハ条約を結んで、戦争から離脱していきました。スウェーデンはドイツで孤立し、その遠征は失敗に終わるかに見えました。
消耗戦と勝利 フランス戦争の時代(1635年ー1648年)
ネルトリンゲンの敗北とプラハ条約は、スウェーデンを窮地に追い込みましたが、それは同時に戦争の性格を決定的に変える転機ともなりました。ハプスブルク家の勢力回復を恐れたフランスが、ついに直接介入に踏み切ったのです。これにより、戦争は宗教戦争としての性格を完全に失い、ブルボン家(フランス)とハプスブルク家(オーストリアとスペイン)の覇権をめぐる国家間戦争へと移行しました。スウェーデンは、今やフランスの同盟国として、この新たな戦争を戦い抜くことになります。
フランスとの同盟と戦争の継続
オクセンシェルナは、フランスとの同盟をスウェーデンが戦争を継続するための唯一の道と見なし、交渉を進めました。1635年以降、フランスはスウェーデンに対する財政支援を継続・増額し、両国は共通の敵であるハプスブルク家に対して共同で戦うことになります。
この時期のスウェーデン軍は、グスタフ=アドルフ時代とは大きく様変わりしていました。長年の戦争でスウェーデン人の兵士は消耗し、軍の大部分はドイツ人の傭兵で占められるようになっていました。しかし、ヨハン=バネール、レナート=トルステンソン、カール=グスタフ=ウランゲルといった、グスタフ=アドルフの薫陶を受けた有能な司令官たちが、その軍隊を率いました。彼らは、敵地での徹底的な徴発によって軍を維持し、機動性に富んだ作戦を展開して、皇帝領の奥深くへと繰り返し侵攻しました。
1636年のヴィットストックの戦いでは、バネールが皇帝=ザクセン連合軍に圧勝し、スウェーデン軍の健在ぶりを示しました。1642年の第二次ブライテンフェルトの戦いでは、トルステンソンが再び皇帝軍を破り、ライプツィヒを占領します。トルステンソンの軍隊は、その驚異的な機動力から「空飛ぶ軍団」と恐れられ、ボヘミアやモラヴィア、さらにはデンマークにまで電撃的な侵攻を行いました。
トルステンソン戦争とデンマークの屈服
戦争の最終段階において、スウェーデンは長年のライバルであるデンマークとの決着をつける機会を得ます。デンマーク王クリスチャン4世は、スウェーデンの成功に嫉妬し、皇帝側と通じるなど、スウェーデンの背後を脅かす動きを見せていました。
1643年、オクセンシェルナは、ドイツ戦線にいたトルステンソンに対し、突如として軍を北に向け、デンマークを攻撃するよう命じます。この奇襲攻撃は完全に成功し、デンマークのユトランド半島は瞬く間に占領されました。海上ではデンマーク海軍が奮戦したものの、スウェーデンが同盟国オランダの艦隊を呼び寄せたことで、制海権もスウェーデン側に移りました。
完全に敗北したデンマークは、1645年のブレムセブルーの和約で、ゴットランド島やノルウェーの一部などをスウェーデンに割譲し、スウェーデン船のサウンド海峡通行税を免除するという、屈辱的な条件を受け入れさせられました。この勝利により、スウェーデンはバルト海における覇権を確立し、南からの脅威を完全に取り除いて、ドイツでの戦争に集中することが可能となったのです。
戦争の最終局面とヴェストファーレン条約
デンマークを屈服させた後、スウェーデン軍は再びドイツへと矛先を向けました。1645年、ボヘミアのヤンカウの戦いで、トルステンソンは皇帝軍に壊滅的な打撃を与え、その軍勢は皇帝の本拠地ウィーンの郊外にまで迫りました。フランス軍もまた、テュレンヌとコンデ公の指揮の下でバイエルンに侵攻し、1648年のツースマルスハウゼンの戦いで最後の皇帝とバイエルン連合軍を破りました。戦争の最終盤には、スウェーデン軍がプラハの一部を占領するという、戦争の始まりを想起させる象徴的な出来事も起こりました。
ハプスブルク家は、もはや戦争継続が不可能であることを悟り、ヴェストファーレンの講和会議で大幅な譲歩を余儀なくされます。1648年に締結されたヴェストファーレン条約において、スウェーデンは、その多大な犠牲と貢献に見合うだけの、輝かしい戦果を手にしました。
スウェーデンは、西ポメラニア全域と東ポメラニアの一部(シュテッティン港を含む)、ヴィスマール市、そしてブレーメン=フェルデン司教領を獲得しました。これらの領土(「スウェーデン領ポメラニア」など)は、オーデル川、エルベ川、ヴェーザー川といった、北ドイツの主要な河川の河口をスウェーデンの支配下に置くことを意味しました。これにより、スウェーデンはバルト海と北海の交易をコントロールする戦略的優位性を確保し、「バルト帝国」としての地位を不動のものとしました。また、これらのドイツ内の領土の君主として、スウェーデン王は神聖ローマ帝国の帝国議会に議席を持つことになり、ドイツの政治に直接介入する権利を得ました。さらに、スウェーデンは500万ターラーという莫大な賠償金(軍隊の解散費用として)を受け取りました。
スウェーデンの遺産
三十年戦争は、スウェーデンをヨーロッパの政治地図の片隅から、大陸の運命を左右する主要な軍事大国へと押し上げました。グスタフ2世アドルフの軍事的才能と、アクセル=オクセンシェルナの政治的手腕が両輪となり、効率的な国家機構と革新的な軍隊を創り上げたことが、その成功の根幹にありました。
スウェーデンの介入は、三十年戦争の様相を決定的に変えました。ブライテンフェルトの勝利は、ハプスブルク家の野望を打ち砕き、ドイツのプロテスタントを救いました。その後のフランスとの同盟による粘り強い戦いは、最終的にハプスブルク家を屈服させ、ヴェストファーレン条約による新たなヨーロッパ秩序の形成を可能にしました。この条約によって確立されたスウェーデンの「バルト帝国」は、その後半世紀以上にわたって北ヨーロッパに君臨することになります。
しかし、その栄光の代償は大きなものでした。スウェーデンは、その人口に比して過大な軍事負担を強いられ、多くの人命が失われました。また、スウェーデン軍がドイツの地で行った破壊と略奪は、解放者として迎えられた当初のイメージとは裏腹に、ドイツの人々に深い傷跡を残しました。
三十年戦争の時代は、スウェーデンが国家としてのアイデンティティを確立し、ヨーロッパ史の表舞台に躍り出た、輝かしくも過酷な時代でした。それは、小国が強大な敵に立ち向かい、自らの運命を切り開いていく英雄的な物語であると同時に、戦争というものが必然的にもたらす破壊と悲劇を内包した物語でもあります。ヴェストファーレンの平和が訪れた時、スウェーデンは紛れもなく大国となっていましたが、その地位を維持するためには、さらなる戦争の時代が待ち受けていたのです。