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18_80 ヨーロッパの拡大と大西洋世界 / 大航海時代

「新世界」(「新大陸」)とは わかりやすい世界史用語2278

著者名: ピアソラ
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「新世界」(「新大陸」)とは

「新世界」という言葉は、15世紀末から16世紀初頭にかけて、ヨーロッパの探検家たちがアメリカ大陸に到達したことにより生まれた地理的、文化的な概念です。この表現は、それまでヨーロッパ、アジア、アフリカから成る旧世界しか知らなかったヨーロッパ人の視点から、新たに発見された広大な陸地を指すために用いられました。クリストファー・コロンブスが1492年に現在のバハマ諸島に上陸したことは、この新しい時代の幕開けを象徴する出来事でした。当初、コロンブス自身はアジアの東端に到達したと信じていましたが、その後のアメリゴ=ヴェスプッチをはじめとする探検家たちの航海によって、そこが全く新しい大陸であることが明らかになりました。ヴェスプッチが1503年に出版した書簡『新世界』は、この呼称をヨーロッパ社会に広く定着させるきっかけとなりました。

この「発見」は、ヨーロッパ社会に計り知れない影響を及ぼしました。新しい航路の開拓は、スペインやポルトガルといった海洋大国に莫大な富をもたらし、ヨーロッパの経済構造を大きく変えました。アメリカ大陸から流入した金、銀、そしてトウモロコシ、ジャガイモ、トマトといった新しい作物は、ヨーロッパの食生活や農業に革命をもたらし、人口増加を支える一因となりました。 同時に、この出会いはアメリカ大陸の先住民にとっては悲劇の始まりでもありました。ヨーロッパ人が持ち込んだ疫病、特に天然痘や麻疹は、免疫を持たない先住民の人口を激減させました。さらに、征服者による暴力的な支配や過酷な労働は、多くの先住民社会を崩壊へと追い込みました。

新世界の概念は、単なる地理的な区分にとどまらず、ヨーロッパ人の自己認識や世界観にも大きな変革を迫りました。聖書や古代ギリシャ・ローマの文献に記されていない大陸の存在は、それまでの知識体系の権威を揺るがし、科学的な探求心や実証主義的な思考を促進しました。ルネサンス期に花開いたヒューマニズムの精神と相まって、新世界の発見は、近代ヨーロッパの知的な発展を加速させる重要な要因となったのです。 このように、新世界という言葉は、希望と機会、そして暴力と破壊という二つの側面を内包しており、その後の世界史の展開を決定づける極めて重要な概念として位置づけられています。



大航海時代の到来と新世界の「発見」

15世紀以前のヨーロッパ人の世界観は、キリスト教の教義と古代ギリシャ・ローマから受け継がれた地理的知識によって大きく規定されていました。プトレマイオスの『地理学』に描かれた世界地図が最も権威あるものとされ、世界はヨーロッパ、アジア、アフリカの三つの大陸から構成されていると考えられていました。 これらの大陸は広大な海によって囲まれていると想像されていましたが、その外側に何が存在するのかについては、ほとんど知られていませんでした。地球が球体であるという知識は古代ギリシャ時代から存在し、中世の学者たちの間でも受け入れられていましたが、一般の人々の間では、世界の果ては危険な怪物や灼熱の海が広がる未知の領域であるという迷信が根強く残っていました。

経済的には、ヨーロッパは東方との交易に大きく依存していました。特に、香辛料、絹、宝石といったアジアの奢侈品は、ヴェネツィアやジェノヴァといったイタリアの都市国家がイスラム商人との仲介貿易を独占することでヨーロッパにもたらされ、莫大な利益を生み出していました。 しかし、1453年にオスマン帝国がコンスタンティノープルを征服し、東地中海の支配権を確立すると、従来の交易ルートは大きな打撃を受けました。これにより、アジアとの直接的な交易路を開拓する必要性が、ヨーロッパの君主や商人たちの間で急速に高まっていきました。

この時代、イベリア半島ではレコンキスタ(国土回復運動)が最終段階を迎えていました。数世紀にわたるイスラム勢力との戦いを通じて、ポルトガルとスペインは強力な中央集権国家を形成し、キリスト教の布教という宗教的情熱と、新たな領土や富を獲得しようとする世俗的な野心を併せ持つようになりました。 これらの国々は、大西洋に面しているという地理的な利点を活かし、アフリカ西岸への探検を積極的に進めていました。ポルトガルのエンリケ航海王子は、航海学校を設立し、キャラベル船のような新しい造船技術や、アストロラーベや四分儀といった航海術の改良を支援しました。 これらの技術革新と、アジアへの新たな道を見つけ出そうとする経済的・宗教的動機が組み合わさった結果、ヨーロッパは大航海時代へと突入していくことになります。

コロンブスの航海とその衝撃

ジェノヴァ出身の航海士クリストファー=コロンブスは、地球球体説に基づき、西回りで大西洋を横断すればアジアに到達できると確信していました。彼はこの計画をポルトガル王に提案しますが、アフリカ南端を回るルートの開拓に集中していたポルトガルに拒否されます。その後、コロンブスはスペインのイサベル1世とフェルナンド2世に支援を求め、数年にわたる交渉の末、ついに航海の許可と資金を得ることに成功しました。レコンキスタを完了させたばかりのスペインにとって、コロンブスの計画は、宿敵ポルトガルに対抗し、アジア貿易の主導権を握るためのまたとない機会と映ったのです。

1492年8月3日、コロンブスはサンタ・マリア号、ピンタ号、ニーニャ号の3隻の船団を率いてパロス港を出航しました。約2ヶ月間の困難な航海の末、同年10月12日、船団は現在のバハマ諸島に属する島(彼がサン・サルバドルと名付けた島)に上陸しました。 そこで彼らが出会ったのは、タイノ族と呼ばれる穏やかな先住民でした。コロンブスは、彼らをインディアンと呼び、自分がアジアの一部に到達したと固く信じ続けました。彼はその後もキューバやイスパニョーラ島を探検し、金や香辛料の存在を示す証拠を探し求めました。

コロンブスの帰国と彼の発見の報告は、ヨーロッパ中に大きな衝撃を与えました。彼が持ち帰ったわずかな金、未知の植物、そして数人の先住民は、西回りの航路の可能性を人々に確信させ、新たな探検への熱狂を巻き起こしました。スペインとポルトガルは、新たに発見された土地の領有権を巡って対立しましたが、1494年にローマ教皇の仲介でトルデシリャス条約を締結し、大西洋上に設定された境界線の西側をスペイン、東側をポルトガルの領土とすることで合意しました。 この条約は、他のヨーロッパ諸国を無視して世界を二分割するものであり、その後の植民地支配の正当化に利用されることになります。コロンブス自身は生涯、自分が到達した場所がアジアであると信じて疑いませんでしたが、彼の航海はヨーロッパ人の世界観を根底から覆し、アメリカ大陸の植民地化への道を開いたという点で、世界史における決定的な転換点となりました。

アメリゴ=ヴェスプッチと「新世界」の命名

クリストファー=コロンブスの航海後も、多くの探検家が西への航路を求めて大西洋に乗り出しました。その中でも、フィレンツェ出身の航海士であり商人でもあったアメリゴ=ヴェスプッチの役割は極めて重要です。ヴェスプッチは、1499年から1502年にかけて、スペインとポルトガルの支援を受けて少なくとも2度の航海を行い、南米大陸の沿岸を広範囲にわたって探検しました。 彼はブラジルからパタゴニア南部に至る海岸線を詳細に調査し、その過程で、この広大な陸地がコロンブスが信じていたようなアジアの一部ではなく、全く新しい大陸であるという結論に達しました。

ヴェスプッチは、この発見の重要性を認識し、ヨーロッパの友人や後援者に宛ててその詳細を記した手紙を送りました。特に、1503年に出版された『新世界』と題された書簡は、ラテン語に翻訳されてヨーロッパ中でベストセラーとなり、大きな反響を呼びました。 この中で彼は、新たに発見された土地の動植物、天文学的な観測結果、そしてそこに住む人々の風習について生き生きと描写しています。彼が用いた「新世界」という言葉は、それまで知られていたヨーロッパ、アジア、アフリカという旧世界とは異なる、独立した大陸の存在を明確に示唆するものでした。

ヴェスプッチの功績は、ドイツの地図製作者マルティン・ヴァルトゼーミュラーによって不滅のものとなります。1507年、ヴァルトゼーミュラーは、ヴェスプッチの報告に基づいて新しい世界地図『宇宙誌入門』を製作しました。 この地図の中で、彼は南米大陸に、ヴェスプッチのラテン語名にちなんでアメリカという名前を初めて記しました。当初はこの名前は南米のみを指していましたが、やがて北米大陸にも適用されるようになり、最終的に西半球全体を指す呼称として定着しました。 皮肉なことに、最初に到達したコロンブスではなく、その地が新大陸であることを見抜いたヴェスプッチの名が、この大陸に与えられることになったのです。この命名は、ヨーロッパがアメリカ大陸を自らの知識体系の中に位置づけ、理解しようとする試みの象徴であり、新世界の概念がヨーロッパ社会に完全に受容されたことを示しています。

コロンブス交換:生態系の衝突と変容

ヨーロッパ人によるアメリカ大陸への到達は、それまで何万年もの間、隔絶されていた二つの生態系を劇的に結びつけました。この生物学的な交換は、歴史家のアルフレッド・クロスビーによってコロンブス交換と名付けられ、その影響は両大陸の環境、社会、文化に永続的な変革をもたらしました。 旧世界から新世界へもたらされたものの中で、最も破壊的な影響を与えたのは、ヨーロッパ人が無意識のうちに持ち込んだ病原菌でした。天然痘、麻疹、インフルエンザ、腺ペスト、チフスといった疫病は、ユーラシア大陸では古くから存在し、多くの人々が世代を超えてある程度の免疫を獲得していました。しかし、アメリカ大陸の先住民はこれらの病原菌に一度も接触したことがなく、全く免疫を持っていませんでした。

その結果、疫病は先住民のコミュニティで爆発的に流行し、壊滅的な被害をもたらしました。最初の接触から1世紀ほどの間に、先住民の人口は地域によっては90%以上も減少し、メキシコ中央部やアンデス地域で栄えた高度な文明社会は、人口基盤そのものを失い崩壊しました。 この人口の激減は、ヨーロッパ人による征服を容易にしただけでなく、広大な土地を無人化させ、植民地化を加速させる要因ともなりました。

疫病に加えて、ヨーロッパ人は馬、牛、豚、羊、山羊といった家畜を新世界に持ち込みました。これらの動物は、アメリカ大陸には存在しなかったものであり、現地の生態系に大きな変化を与えました。馬は、輸送、戦争、そして狩猟の手段として、特に平原インディアンの文化を劇的に変容させました。 牛や羊は広大な牧草地を必要とし、その放牧は土地利用の形態を大きく変え、森林伐採や土壌侵食の一因となりました。豚は野生化して急速に繁殖し、在来の動植物の生息環境を脅かしました。これらの家畜は、食料源や労働力として植民地経済の基盤を支える一方で、先住民の伝統的な農業や狩猟採集の生活を圧迫しました。

さらに、小麦、大麦、米、サトウキビ、コーヒー、ブドウといった旧世界の作物が新世界に導入されました。これらの作物は、ヨーロッパからの入植者の食生活を支えるとともに、プランテーション農業の基盤となりました。特にサトウキビは、カリブ海地域やブラジルで大規模に栽培され、ヨーロッパ市場向けの砂糖生産の主軸となりました。 この単一栽培は、現地の生態系の多様性を損なうだけでなく、後述するように、アフリカからの奴隷労働への需要を爆発的に増大させることになります。このように、旧世界から持ち込まれた生物は、意図的であるか否かにかかわらず、新世界の生態系と社会を根底から作り変えていったのです。

新世界から旧世界へ:食糧革命と経済的影響

コロンブス交換は一方的なものではなく、新世界からも多くのものが旧世界にもたらされ、ヨーロッパ、アジア、アフリカの社会に大きな影響を与えました。その中でも最も重要なのは、トウモロコシ、ジャガイモ、カボチャ、トマト、ピーマン、インゲン豆、カカオ、バニラ、そしてタバコといった新しい作物でした。 これらの作物は、単位面積あたりのカロリー収量が高く、旧世界の伝統的な作物では育ちにくい痩せた土地や気候でも栽培が可能であったため、世界的な食糧生産の増大に大きく貢献しました。

特にジャガイモは、ヨーロッパの食糧事情を劇的に改善しました。冷涼な気候や痩せた土壌でもよく育つジャガイモは、アイルランド、ドイツ、北欧、東欧といった地域で主食となり、それまで頻繁に発生していた飢饉のリスクを軽減し、人口の急増を支えました。 同様に、トウモロコシは地中海地域やアフリカ、中国に広まり、重要な食料源および飼料となりました。これらの新しい作物の導入は、世界の人口を16世紀から19世紀にかけて倍増させる上で決定的な役割を果たしたと考えられています。 トマトやピーマンは、イタリア料理やハンガリー料理など、各国の食文化を豊かにし、カカオから作られるチョコレートは、ヨーロッパの王侯貴族の間で人気の飲み物となりました。

経済的な側面では、新世界からヨーロッパへ流入した莫大な量の金と銀が、ヨーロッパ経済に価格革命として知られる激しいインフレーションを引き起こしました。 特に、現在のボリビアにあるポトシ銀山などから採掘された銀は、スペインを通じてヨーロッパ全土に流れ込み、物価を数倍に高騰させました。このインフレは、固定収入に頼る地主貴族の没落を招き、一方で価格上昇から利益を得た商人や資本家の台頭を促し、西ヨーロッパにおける資本主義の発展を加速させました。 また、スペインはアメリカ大陸の銀を用いて、アジアとの貿易赤字を補填し、中国から絹や陶磁器を輸入しました。これにより、アメリカ、ヨーロッパ、アジアを結ぶ最初のグローバルな貿易ネットワークが形成されることになりました。タバコは、当初は薬用として導入されましたが、すぐに嗜好品としてヨーロッパ全土に広まり、巨大な市場を生み出して、植民地の重要な換金作物となりました。このように、新世界の富と作物は、旧世界の経済構造と人々の生活様式を根底から変える力を持っていたのです。

生態学的帝国主義:意図せざる征服

ヨーロッパ人によるアメリカ大陸の征服と植民地化の成功は、単に軍事技術や政治組織の優位性だけでは説明できません。歴史家のアルフレッド・クロスビーは、この現象を生態学的帝国主義という概念で説明しました。これは、ヨーロッパ人が意図せずして持ち込んだ病原菌、雑草、そして家畜といった生物兵器が、彼らの征服活動において決定的な役割を果たしたという考え方です。

前述の通り、天然痘や麻疹といった疫病は、アメリカ大陸の先住民社会に壊滅的な打撃を与え、その抵抗力を著しく削ぎました。アステカ帝国やインカ帝国といった強力な国家が、比較的少数のスペイン人征服者によって短期間で滅ぼされた背景には、疫病の大流行によって社会が混乱し、指導者層を含む多くの人々が命を落としたという事実があります。 征服者たちは、この人口減少を神が自分たちに味方している証とみなし、自らの侵略行為を正当化しました。

ヨーロッパから持ち込まれた植物もまた、侵略の道具となりました。クローバーやタンポポといったヨーロッパ原産の雑草は、家畜の放牧によって攪乱された土地や、先住民の農地が放棄された場所に急速に広まりました。これらの植物は、在来の植物相を駆逐し、土地の景観をヨーロッパ的なものへと変えていきました。 ヨーロッパの入植者たちは、見慣れた植物が繁茂する様子を見て、その土地が自分たちの居住に適していると確信し、故郷の環境を再現しようとしました。

家畜、特に豚や牛、羊の導入も、生態系への侵略という側面を持っていました。これらの動物は、先住民の農地を荒らし、食料を奪う存在でした。囲いのない放牧は、先住民の土地所有の概念とは相容れないものであり、両者の間で深刻な対立を引き起こしました。 ヨーロッパ人が自分たちの家畜を保護するために先住民を攻撃することも珍しくありませんでした。

このように、ヨーロッパ人は、自らの生態系の一部を構成する生物群(クロスビーはこれを移植されたヨーロッパと呼んだ)を新世界に持ち込むことで、現地の環境を自分たちに有利なように作り変えていきました。この生態学的な変化は、軍事的な征服と並行して、あるいはそれに先立って進行し、ヨーロッパによるアメリカ大陸の支配を確固たるものにする上で不可欠な要素でした。生態学的帝国主義という視点は、ヨーロッパの拡大が、人間の意図や計画だけでなく、より広範な生物学的・環境的なプロセスによってもたらされた複雑な現象であったことを示しています。

征服と植民地化の現実

スペインの征服者たち:アステカとインカの崩壊
コロンブスの航海によってアメリカ大陸への道が開かれると、富と名声、そしてキリスト教の布教という野心に燃えるスペイン人たちが次々と新世界へ渡りました。彼らはコンキスタドール(征服者)と呼ばれ、その中でもエルナン・コルテスによるアステカ帝国の征服と、フランシスコ・ピサロによるインカ帝国の征服は、その後の植民地化のパターンを決定づける象徴的な出来事となりました。

1519年、エルナン・コルテスはわずか数百人の兵士、十数頭の馬、そして数門の大砲を率いてメキシコ湾岸に上陸しました。 当時、メキシコ中央高原は、皇帝モクテスマ2世が治める強力なアステカ帝国によって支配されていました。コルテスは、アステカの支配に不満を持つトラスカラ族などの先住民と同盟を結び、首都テノチティトランへと進軍しました。アステカ側は、スペイン人の馬や火器、そして白い肌を持つ彼らを神の使いではないかと畏怖し、当初は友好的に迎え入れました。しかし、コルテスはモクテスマ2世を人質に取り、帝国の支配権を奪おうと画策します。 これがきっかけで激しい戦闘が勃発し、スペイン人は一時テノチティトランから撤退を余儀なくされます(悲しき夜)。しかし、コルテスは同盟軍の助けを得て体勢を立て直し、1521年、首都を包囲します。この時、スペイン人が持ち込んだ天然痘がテノチティトランで大流行し、アステカの戦士たちの多くが命を落としました。疫病によって弱体化したアステカ帝国は、ついにコルテスの前に崩壊し、その壮麗な首都は徹底的に破壊されました。

一方、南米では、フランシスコ・ピサロがインカ帝国の征服を狙っていました。インカ帝国は、アンデス山脈に沿って広がる巨大な国家でしたが、ピサロが到着した1532年頃、皇帝アタワルパとその兄弟ワスカルとの間で激しい内戦が終わったばかりで、国内は疲弊していました。 ピサロは、わずか168人の兵士を率いて、カハマルカで皇帝アタワルパと会見します。この会見の場で、ピサロは奇襲をかけてアタワルパを捕虜にすることに成功しました。インカ側は、皇帝の身代金として部屋一杯の金と銀を提供しましたが、ピサロは約束を破り、アタワルパを処刑してしまいます。 指導者を失ったインカ帝国は混乱に陥り、スペイン人は首都クスコを容易に占領しました。アステカの場合と同様に、スペイン人の火器や馬、鉄製の武器が軍事的に優位に働いたことは事実ですが、それ以上に、内部対立を利用した策略、指導者の捕縛という大胆な戦術、そして疫病の蔓延が、少数の征服者による巨大帝国の征服を可能にした決定的な要因でした。これらの征服は、ヨーロッパによるアメリカ大陸の暴力的支配の始まりを告げるものであり、先住民社会の構造を根底から破壊しました。

植民地統治システム:エンコミエンダ制と副王制

スペインは、征服した広大な領土を効率的に統治し、その富を搾取するために、精緻な植民地統治システムを構築しました。その中核をなしたのが、エンコミエンダ制と副王制です。

エンコミエンダ制は、征服に功績のあったスペイン人(エンコメンデーロ)に対し、一定地域の先住民を委託する制度でした。 理論上は、エンコメンデーロは委託された先住民をキリスト教に改宗させ、保護する義務を負う見返りとして、彼らから貢納や労働力を徴収する権利を与えられるというものでした。しかし、実際には、この制度は先住民を事実上の奴隷として酷使するための隠れ蓑となりました。 エンコメンデーロたちは、先住民を銀山での過酷な労働や、プランテーションでの強制労働に従事させ、多くの人々が命を落としました。この非人道的な搾取に対して、ドミニコ会修道士バルトロメ・デ・ラス・カサスのような人物がスペイン本国にその惨状を訴え、先住民の権利を擁護しました。 彼の尽力もあり、スペイン国王は1542年にインディアス新法を公布し、エンコミエンダの新規設定を禁止し、世襲を制限するなど制度の改革を試みましたが、植民地のエンコメンデーロたちの強い抵抗に遭い、その実効性は限られたものでした。エンコミエンダ制は次第に衰退しますが、それに代わってレパルティミエント制(ミタ制)と呼ばれる、国家が直接先住民の労働力を割り当てる制度が導入され、搾取の構造は形を変えて存続しました。

広大なアメリカ植民地を統治するため、スペインは本国にインディアス枢機会議を設置し、植民地に関する全ての立法、行政、司法を統括させました。 現地では、国王の代理人である副王(ビレイ)が最高権力者として君臨しました。当初、ヌエバ・エスパーニャ副王領(メキシコシティが首都)とペルー副王領(リマが首都)の二つが設置され、後にはヌエバ・グラナダ副王領とリオ・デ・ラ・プラタ副王領が加えられました。 副王の下には、アウディエンシアと呼ばれる高等司法機関が置かれ、行政と司法の両方の機能を担いました。地方行政は、コレヒドールやアルカルデ・マヨールといった役人によって管理されました。この中央集権的な官僚システムを通じて、スペイン本国は植民地からの富(特に銀)を確実に吸い上げ、植民地社会のあらゆる側面を厳格に管理しようとしました。しかし、広大な領土と本国との距離は、しばしば現地の役人の腐敗や権力乱用を許し、本国の意図通りに統治が進まないことも少なくありませんでした。

宗教と文化の変容:キリスト教化

スペインによるアメリカ大陸の植民地化は、軍事・経済的な支配であると同時に、文化・宗教的な征服でもありました。カトリック教会の宣教師たち、特にフランシスコ会、ドミニコ会、イエズス会といった修道会は、征服者と共に新世界へ渡り、先住民のキリスト教への改宗を精力的に進めました。 彼らにとって、先住民の伝統的な信仰は悪魔的な偶像崇拝であり、根絶すべき対象でした。宣教師たちは、先住民の神殿や神像を破壊し、その代わりに教会を建設しました。そして、集団洗礼を行い、カテキズム(教理問答)を通じてキリスト教の教義を教え込みました。

しかし、この改宗プロセスは、一方的なものではありませんでした。先住民たちは、自らの伝統的な信仰や世界観を完全に捨て去ったわけではなく、キリスト教の要素を自分たちの文化の枠組みの中に取り込み、融合させていきました。この現象はシンクレティズム(宗教混淆)として知られています。 例えば、多くの地域で、キリスト教の聖人たちが、先住民の神々や自然の精霊と同一視されるようになりました。メキシコにおけるグアダルーペの聖母は、その最も有名な例です。グアダルーペの聖母が出現したとされるテペヤックの丘は、もともとアステカの母なる女神トナンツィンが祀られていた聖地でした。 先住民たちは、聖母マリアの姿の中に、自分たちの女神の姿を重ね合わせたのです。同様に、アンデス地域では、大地の母なる女神パチャママへの信仰が、聖母マリア信仰と結びついて存続しました。

祝祭や儀式においても、シンクレティズムは顕著に見られます。メキシコの死者の日は、カトリックの万聖節と諸死者の日の伝統に、アステカ時代から続く死者と共に過ごすという死生観が融合した独特の祭りです。 このように、先住民たちは、支配者であるスペイン人が強要するキリスト教を受け入れつつも、その中に自らの文化的アイデンティティを巧みに織り込み、保持し続けました。表面的にはキリスト教化が進んだように見えても、その内実では、ヨーロッパ文化と先住民文化が複雑に混じり合った、新しいハイブリッドな文化が形成されていったのです。この文化的な抵抗と創造性は、過酷な植民地支配の下で先住民が自らの尊厳を保ち続けるための重要な手段でした。

大西洋奴隷貿易とプランテーション経済

ヨーロッパ人がアメリカ大陸で植民地経営を始めるにあたり、最も重要な課題は労働力の確保でした。当初、スペイン人入植者たちは、エンコミエンダ制などを通じて先住民を強制労働に従事させ、鉱山や農園で働かせました。しかし、前述の通り、ヨーロッパから持ち込まれた疫病と過酷な労働条件により、先住民の人口は激減しました。 特に、カリブ海の島々や沿岸部の低地では、先住民はほぼ絶滅に近い状態に陥りました。労働力の枯渇は、植民地の経済活動、特に利益率の高いサトウキビプランテーションの経営を深刻な危機に陥れました。

この労働力不足を補うために、植民者たちが目を向けたのがアフリカ大陸でした。ポルトガルは、15世紀からアフリカ西岸を探検し、現地の王国との間に交易関係を築いていました。当初の交易品は金や象牙でしたが、やがて人間、すなわち奴隷が主要な商品となっていきました。 アフリカ人、特に熱帯地域出身の人々は、旧大陸の病気に対してある程度の免疫を持っており、また、ヨーロッパ人にとっては未知の熱帯農業に関する知識を持っている場合もありました。これらの理由から、彼らはアメリカ大陸のプランテーションにおける過酷な労働に適していると見なされました。

バルトロメ・デ・ラス・カサスのように、先住民の窮状を訴えた人物でさえ、当初は先住民の労働をアフリカ人奴隷で代替することを提案したことがありました(彼は後にそのことを深く後悔しています)。 1518年、スペイン国王カルロス1世は、アフリカ人奴隷を直接アメリカ大陸の植民地へ輸送することを許可する勅許(アシエント)を初めて発行しました。 これを皮切りに、アフリカからアメリカ大陸へ、数世紀にわたって続く大規模かつ組織的な強制移住、すなわち大西洋奴隷貿易が本格的に開始されることになります。この決定は、アメリカ大陸、アフリカ、そしてヨーロッパの三つの大陸の歴史を永遠に変える、重大な転換点となりました。

三角貿易:ヨーロッパ、アフリカ、アメリカを結ぶシステム

大西洋奴隷貿易は、ヨーロッパ、アフリカ、アメリカ大陸の三つの地域を結びつける、いわゆる三角貿易のシステムの中で展開されました。この貿易ネットワークは、16世紀から19世紀にかけて、大西洋世界の経済を動かす巨大なエンジンとなりました。

第一の航路は、ヨーロッパからアフリカへ向かうルートです。イギリスのリヴァプール、フランスのナント、ポルトガルのリスボンといったヨーロッパの港から、船は銃、火薬、アルコール(特にラム酒)、織物、金属製品、ビーズといった工業製品を積み込んで出航しました。 これらの品物は、アフリカ沿岸に築かれた要塞や商館で、アフリカの王や商人たちが捕らえた奴隷と交換されました。ヨーロッパの商人たちは、アフリカの部族間対立や戦争を利用し、武器を供給することで奴隷狩りを助長しました。

第二の航路は、中間航路として知られる、最も悲惨な区間です。 アフリカの港で買い付けられた奴隷たちは、船倉に鎖で繋がれ、非人道的な環境でアメリカ大陸へと輸送されました。船内は極度に密集しており、衛生状態は劣悪で、食料や水もわずかしか与えられませんでした。病気、栄養失調、そして絶望による自殺が蔓延し、航海の途中で命を落とす奴隷の割合は、平均して15%から20%にものぼったと推定されています。 この中間航路は、奴隷貿易の残虐性を象徴するものであり、数百万人のアフリカ人が経験した筆舌に尽くしがたい苦しみの記憶として刻まれています。

第三の航路は、アメリカ大陸からヨーロッパへ戻るルートです。カリブ海、ブラジル、あるいは北米南部の港に到着した奴隷たちは、オークションでプランテーションのオーナーなどに売却されました。奴隷を降ろした船は、今度は彼らの労働によって生産された産品、すなわち砂糖、糖蜜、ラム酒、タバコ、綿花、コーヒーといった植民地の換金作物を満載して、ヨーロッパの母国へと帰港しました。 これらの商品はヨーロッパで加工され、高い利益を上げて販売されました。この利益が、再びアフリカへ向かう次の航海の資金となり、三角貿易のサイクルが維持されていきました。このシステムは、ヨーロッパの産業資本の蓄積に大きく貢献した一方で、アフリカ社会を疲弊させ、アメリカ大陸に人種に基づく奴隷制という深刻な社会問題をもたらしました。

プランテーションの過酷な現実と奴隷の抵抗

アメリカ大陸に到着したアフリカ人奴隷たちの多くは、サトウキビ、タバコ、綿花などを栽培するプランテーションで働くことを運命づけられていました。プランテーションは、単一作物を大規模に栽培し、輸出市場向けに生産を行うための効率的な農業システムであり、その労働力のほぼ全てを奴隷に依存していました。

プランテーションでの生活は、極めて過酷なものでした。奴隷たちは夜明けから日没まで、監督者の鞭の監視の下で、灼熱の太陽に焼かれながら働き続けました。特にサトウキビプランテーションでの労働は危険を伴い、サトウキビを刈り取る作業や、それを圧搾し煮詰めて砂糖を精製する過程で、多くの奴隷が怪我をしたり、命を落としたりしました。 彼らに与えられる住居は粗末な小屋で、食事も栄養価の低いものがわずかに支給されるだけでした。家族は、所有者の都合で簡単に引き裂かれ、売買されました。奴隷は法的には人間ではなく、所有者の財産と見なされ、いかなる権利も認められていませんでした。所有者による暴力や性的虐待は日常茶飯事であり、奴隷の命は極めて軽く扱われました。 高い死亡率と低い出生率のため、プランテーションの労働力を維持するためには、常にアフリカから新たな奴隷を輸入し続ける必要がありました。

このような非人道的な状況に対して、奴隷たちは決して無抵抗ではありませんでした。彼らの抵抗は、様々な形で行われました。日常的な抵抗としては、労働のサボタージュ、道具の破壊、放火、逃亡などがありました。 逃亡した奴隷たちは、しばしば山間部や密林地帯に逃げ込み、マルーンと呼ばれる独自のコミュニティを形成しました。これらのコミュニティは、ジャマイカの山岳地帯やブラジルの内陸部(キロンボ・ドス・パルマーレスが有名)などで、数世代にわたって存続し、植民地当局に対して武装闘争を繰り広げました。

より組織的な抵抗として、大規模な奴隷反乱が各地で発生しました。これらの反乱は、植民地社会を根底から揺るがす脅威と見なされ、植民地当局によって徹底的に、そして残忍に鎮圧されました。しかし、反乱の試みは後を絶たず、その中でも1791年にフランス領サン=ドマング(現在のハイチ)で始まった奴隷反乱は、唯一成功を収めた例として歴史に刻まれています。トゥーサン・ルーヴェルチュールらに率いられたこの反乱は、十数年にわたる闘争の末、ナポレオン軍を打ち破り、1804年に世界初の黒人による共和国、ハイチの独立を達成しました。ハイチ革命の成功は、アメリカ大陸中の奴隷たちに希望を与え、奴隷所有者たちに恐怖を植え付け、奴隷制度廃止運動に大きな影響を与えました。

また、奴隷たちは文化的・精神的な領域でも抵抗を続けました。アフリカから持ち込んだ音楽、踊り、物語、宗教的信念を密かに実践し、それらをキリスト教やヨーロッパ文化の要素と融合させながら、独自の文化を創造しました。これらの文化表現は、奴隷たちのアイデンティティを維持し、過酷な現実を生き抜くための精神的な支えとなりました。ブルース、ジャズ、ゴスペルといった音楽ジャンルや、ブラジルのカポエイラ、カンドンブレといった文化・宗教は、すべてこの奴隷たちの文化的抵抗の中から生まれたものです。このように、プランテーションという極限状況の中で、奴隷たちは人間としての尊厳をかけて戦い、その抵抗と創造の遺産は、現代に至るまでアメリカ大陸の文化に深く刻み込まれています。

新世界の多様な植民地モデル

ポルトガル領ブラジル:砂糖と金のサイクル
ポルトガルのアメリカ大陸における植民地化は、スペインとは異なる道を歩みました。1500年にペドロ・アルヴァレス・カブラルがブラジルに到達した後、ポルトガルは当初、アジア貿易に注力していたため、この新しい領土への関心は薄く、主にブラジルボク(赤い染料の原料となる木)の伐採に限定されていました。しかし、フランスなどの他国がブラジル沿岸に関心を示し始めると、ポルトガル王室は領土の恒久的な支配を確立する必要に迫られました。1530年代、王室は沿岸部を15のカピタニア(キャプテンシー)と呼ばれる封土に分割し、ドナタリオと呼ばれる貴族に統治と開発を委ねる制度を導入しましたが、成功したのは一部の地域に限られました。

ブラジル植民地の経済が本格的に発展するのは、16世紀半ばに北東部のバイーアやペルナンブーコでサトウキビプランテーションが導入されてからです。肥沃な土壌と豊富な降雨に恵まれたこの地域は、砂糖生産に最適でした。ポルトガルは、すでにマデイラ諸島やサントメ島で砂糖生産とアフリカ人奴隷労働を組み合わせた経営の経験を持っており、そのモデルをブラジルに移植しました。 セニョール・デ・エンジェーニョと呼ばれるプランテーション所有主は、広大な土地と多数の奴隷を所有し、植民地社会の頂点に君臨する貴族階級を形成しました。ブラジルは17世紀には世界最大の砂糖生産地となり、その富はポルトガル本国に莫大な利益をもたらしました。この砂糖経済は、前述の通り、アフリカからの奴隷貿易に完全に依存しており、ブラジルはアメリカ大陸で最も多くの奴隷を受け入れた地域となりました。

17世紀末になると、カリブ海地域のオランダやイギリス、フランスの植民地との競争激化により、ブラジルの砂糖経済は停滞期に入ります。しかし、時を同じくして、内陸部のミナス・ジェライス地方で巨大な金鉱が発見され、ブラジルは新たな経済的活況期、いわゆるゴールドラッシュに突入しました。 一攫千金を夢見る人々がポルトガル本国や沿岸部から殺到し、ミナス・ジェライスは急速に発展しました。金の採掘にも、アフリカ人奴隷が主要な労働力として大量に投入されました。18世紀を通じて、ブラジルから産出された金は、ポルトガル王室の財政を潤し、豪華な教会やバロック様式の都市(オーロ・プレットなど)の建設を可能にしました。しかし、この富の多くは、ポルトガルが工業製品を輸入していたイギリスへと流出し、ポルトガル自身の産業発展にはあまり繋がりませんでした。金の産出量が減少すると、18世紀後半にはコーヒーが新たな主要産品として台頭し、ブラジル経済は再び大きな転換期を迎えることになります。このように、ブラジルの植民地経済は、砂糖から金、そしてコーヒーへと、単一の輸出産品に依存するサイクルを繰り返しながら発展していきました。

フランスとオランダ:カリブ海の拠点と交易帝国

スペインとポルトガルがイベリア半島で先行して広大な植民地帝国を築く一方、17世紀になると、フランス、オランダ、そしてイギリスといった後発の海洋国家もアメリカ大陸への進出を本格化させました。これらの国々は、イベリア両国が支配する大陸本土よりも、戦略的に重要で経済的価値の高いカリブ海の島々(西インド諸島)に狙いを定めました。

フランスは、17世紀初頭からカナダ(ヌーベルフランス)で毛皮交易の拠点を築いていましたが、より大きな利益を生み出したのは、サン=ドマング(イスパニョーラ島の西半分)、マルティニーク、グアドループといったカリブ海の島々でした。これらの島々は、サトウキビプランテーションの導入により、世界で最も収益性の高い植民地へと変貌しました。特にサン=ドマングはアンティル諸島の真珠と称され、18世紀後半にはヨーロッパで消費される砂糖とコーヒーの約半分を生産する、フランス植民地帝国の至宝となりました。 この繁栄は、言うまでもなく、アフリカから強制的に連れてこられた数十万人の奴隷による過酷な労働の上に成り立っていました。フランスの植民地経営は、本国の重商主義政策と密接に結びついており、植民地は本国の産業に必要な原料を供給し、本国製品の市場となることが義務付けられていました。

一方、オランダは、広大な領土の支配よりも、交易の支配を通じて利益を上げることを目指す、商業的な帝国を築きました。17世紀、世界最強の海運国であったオランダは、強力なオランダ西インド会社を設立し、ポルトガルやスペインの船を襲撃する私掠行為や、密貿易を積極的に行いました。彼らは、ポルトガルから一時的にブラジル北東部を奪い、砂糖生産のノウハウを習得した後、それをカリブ海の他の地域へ広める役割を果たしました。また、キュラソー島やシント・マールテン島といった戦略的な島々を拠点に、奴隷貿易を含む中継貿易のハブとして機能しました。ニューヨークの起源となったニューアムステルダムのように、北米大陸にも植民地を築きましたが、イギリスとの競争に敗れ、その関心は主にカリブ海と南米のスリナム(旧オランダ領ギアナ)に向けられました。オランダの植民地モデルは、領土の広さよりも、効率的な交易ネットワークと金融システムを重視する点に特徴があり、近代資本主義の発展に大きな影響を与えました。フランスとオランダのカリブ海における活動は、この地域をヨーロッパ列強の熾烈な競争の舞台へと変え、砂糖と奴隷を中心とするプランテーション社会を確立させました。

イギリス領北米:多様な植民地社会の形成

イギリスによる北米大陸の植民地化は、スペインやポルトガルの中央集権的なモデルとも、フランスの重商主義的なモデルとも異なり、多様な動機を持つ人々によって、地域ごとに大きく異なる社会が形成された点に特徴があります。

南部植民地(ヴァージニア、メリーランド、カロライナ、ジョージア)は、当初から経済的な利益の追求を主な目的として設立されました。1607年に設立されたジェームズタウン(ヴァージニア植民地)は、当初は金や銀の発見を期待していましたが、やがてジョン・ロルフが導入したタバコの栽培が成功し、植民地の経済的基盤を確立しました。 タバコ栽培は多くの労働力を必要としたため、当初はイギリスから年季契約奉公人(一定期間の労働と引き換えに渡航費用を支払ってもらう人々)が導入されました。しかし、より安価で永続的な労働力として、17世紀後半からアフリカ人奴隷への依存が急速に高まっていきました。サウスカロライナでは、米や藍の栽培がプランテーション経済の中心となり、カリブ海の植民地と同様の、少数の白人プランターが多数の黒人奴隷を支配する社会構造が形成されました。

一方、ニューイングランド植民地(マサチューセッツ、コネチカット、ロードアイランド、ニューハンプシャー)は、主に宗教的な動機によって設立されました。1620年にメイフラワー号でプリマスに到着したピルグリム・ファーザーズや、その後に続いたピューリタン(清教徒)たちは、イギリス国教会の改革が不十分であると考え、自らの信仰を自由に実践できる丘の上の町を築くことを目指しました。 彼らは、家族単位で移住し、自作農を中心とする比較的平等な社会を形成しました。寒冷な気候と岩がちな土壌は大規模なプランテーション農業には適さなかったため、奴隷制は南部ほど広まりませんでした。その代わり、農業、漁業、造船、そしてラム酒などを扱う商業が経済の中心となりました。教育熱心なピューリタンは、ハーバード大学(1636年設立)のような高等教育機関を早くから設立し、後のアメリカの知的な伝統の基礎を築きました。

中部植民地(ニューヨーク、ニュージャージー、ペンシルベニア、デラウェア)は、これらの地域の中間的な性格を持っていました。元々オランダの植民地であったニューヨークは、イギリスに割譲された後も、多様な民族と言語が共存する国際的な商業都市として発展しました。ペンシルベニアは、クエーカー教徒のウィリアム・ペンによって、聖なる実験の場として設立されました。ペンは、信教の自由、先住民との公正な関係、そして民主的な政治を理想に掲げ、ヨーロッパ各地から迫害されていた様々な宗派の人々(ドイツ系のメノナイトやアーミッシュなど)を受け入れました。 その結果、中部植民地は、北米で最も民族的・宗教的に多様な地域となり、肥沃な土地での小麦生産(パン籠植民地と呼ばれた)と商業によって繁栄しました。このように、イギリス領北米では、単一のモデルではなく、経済志向の南部、宗教志向のニューイングランド、そして多様性を特徴とする中部という、三つの異なるタイプの社会が並行して発展し、後のアメリカ合衆国の地域的な多様性の原型となりました。

新世界の知的・文化的影響

ヨーロッパ世界観の変革:ルネサンスから科学革命へ
アメリカ大陸の発見は、ヨーロッパの地理的知識を塗り替えただけでなく、その世界観、知識体系、そして自己認識そのものを根底から揺るがす、知的な大革命を引き起こしました。それまでヨーロッパの知識の源泉は、聖書と、プトレマイオスやアリストテレスといった古代ギリシャ・ローマの権威たちでした。しかし、これらの古典的文献のどこにも、西半球に広がる巨大な大陸の存在は記されていませんでした。この事実は、古代の賢者たちの知識が完全ではなく、未知の領域が存在することをヨーロッパ人に突きつけました。

この衝撃は、伝統や権威よりも、直接的な観察や経験を重んじる新しい知的な態度を育む上で決定的な役割を果たしました。新世界から次々と報告される未知の動植物、異なる文化を持つ人々、そして新しい星空の情報は、既存の分類体系や理論では説明がつかないものでした。これにより、自然をありのままに観察し、記録し、分類しようとする博物学的な探求が盛んになりました。植物園や標本室がヨーロッパ各地に作られ、新しい知識を体系化しようとする試みがなされました。この実証主義的な精神は、16世紀から17世紀にかけてヨーロッパで起こった科学革命の思想的な土壌となりました。天文学におけるコペルニクスやガリレオ、物理学におけるニュートン、そして哲学におけるフランシス・ベーコンやルネ・デカルトといった近代科学の父たちは、皆、古い権威に疑問を呈し、経験と理性に基づいて世界を再解釈しようとしました。新世界の存在が示した未知の発見の可能性は、科学的な探求心に大きな刺激を与え、近代科学の発展を加速させたのです。

さらに、新世界はヨーロッパ人の想像力をかき立て、ユートピア思想の発展にも影響を与えました。トマス・モアが1516年に著した『ユートピア』は、アメリゴ=ヴェスプッチの航海記に触発されたと言われており、ヨーロッパ社会の悪弊から切り離された、理想的な社会がどこか遠い島に存在するという考えを描き出しました。 新世界は、腐敗した旧世界とは対照的な、純粋で汚れない自然や、高貴な野蛮人が住む場所として理想化されることがありました。このイメージは、後にジャン=ジャック・ルソーのような啓蒙思想家によって、文明社会を批判するための道具として用いられることになります。このように、新世界は、ヨーロッパが自らを映し出し、批判し、そして未来を構想するための、巨大な鏡の役割を果たしたのです。

ヨーロッパ人がアメリカ大陸で出会った先住民たちは、彼らの好奇心と憶測の的となり、ヨーロッパの文学や哲学において、二つの対照的なステレオタイプとして描かれることになりました。

一つは、高貴な野蛮人というイメージです。これは、先住民を、私有財産や貨幣経済、そしてヨーロッパ社会の偽善や腐敗に染まっていない、純粋で素朴、高潔な存在として理想化する見方です。 彼らは自然と調和して暮らし、共同体的な価値観を持ち、肉体的に美しく健康であるとされました。このイメージは、コロンブスがタイノ族について「彼らは非常に素朴で、武器を持たず…非常に穏やかで、悪を知らない」と記した初期の報告にその起源を見ることができます。フランスの思想家ミシェル・ド・モンテーニュは、エッセイ『カンニバルについて』の中で、ブラジルの先住民の社会を引き合いに出し、彼らの野蛮さは、ヨーロッパ社会の洗練された残酷さに比べれば、はるかに自然で人間的であると論じ、ヨーロッパ文明を批判しました。 この高貴な野蛮人の概念は、啓蒙時代を通じて、自然状態の人間を論じる際のモデルとして、また、既存の社会制度や道徳を相対化するための思考実験として、広く用いられました。

もう一つの対照的なイメージは、野蛮な野蛮人または残忍な野蛮人というものです。これは、先住民を、理性を欠き、暴力的で、キリスト教の神を知らない野蛮な存在として描く見方です。食人(カニバリズム)の習慣、生贄の儀式、部族間の絶え間ない戦争といった側面が強調され、彼らは文明化されるべき、あるいは征服・絶滅されるべき劣った存在と見なされました。 このイメージは、スペインの征服者たちが自らの暴力的な行為を正当化し、先住民からの労働力搾取や土地の収奪を合理化するために、特に利用されました。1550年に行われたバリャドリッド論争では、フアン・ヒネス・デ・セプルベダが、アリストテレスの自然奴隷説を引用し、先住民は生まれつき劣った存在であり、スペイン人によって支配されることが自然であると主張しました。彼の主張は、この野蛮な野蛮人というステレオタイプに依拠していました。

これらの二つのイメージは、どちらもヨーロッパ人の視点から作られた極端な表象であり、アメリカ大陸に存在した多様で複雑な先住民社会の現実を反映したものではありませんでした。しかし、これらのステレオタイプは、ヨーロッパの植民地主義的な言説の中で強力な力を持ち、先住民に対する政策や態度を形成する上で大きな影響を及ぼし続けました。

新しい文化の創造:クレオール文化とメスティーソ社会

新世界におけるヨーロッパ、アフリカ、そしてアメリカ先住民という三つの異なる文化の出会いと衝突は、支配と被支配という非対称な権力関係の中で進行しましたが、その過程で、それぞれの要素が混じり合った新しいハイブリッドな文化が数多く生まれました。

ラテンアメリカでは、植民地で生まれたヨーロッパ系の人々(クリオーリョ、またはクレオール)が、独自のアイデンティティを形成し始めました。彼らは、法的には本国生まれのスペイン人(ペニンスラール)と同等でしたが、実際には統治機構の要職から排除されるなど、差別的な扱いを受けることが多くありました。彼らは、アメリカ大陸の土地に愛着を持ち、本国の支配に対して次第に批判的になっていきました。このクレオール意識の高まりは、19世紀初頭のラテンアメリカ独立運動の原動力となります。

さらに重要なのは、異なる人種間の混血によって生まれた新しい社会階層の出現です。ヨーロッパ人と先住民の間に生まれた人々はメスティーソ、ヨーロッパ人とアフリカ人の間に生まれた人々はムラート、先住民とアフリカ人の間に生まれた人々はサンボと呼ばれました。スペイン植民地では、こうした混血の度合いに応じて人々を細かく分類するカースト制度が発達しました。 この階層社会は、人種的な出自に基づいて人々の社会的地位や職業、権利を規定する、極めて差別的なシステムでした。白人性が高いほど地位が高く、アフリカ系や先住民系の血が濃いほど低い地位に置かれました。

しかし、このような厳格な階層化の試みにもかかわらず、人種的・文化的な混淆は社会のあらゆるレベルで進行しました。メスティーソやムラートの人口は急速に増加し、植民地社会の多数派を形成する地域も現れました。彼らは、ヨーロッパ文化と非ヨーロッパ文化の仲介者として、また、新しい文化の担い手として重要な役割を果たしました。前述した宗教におけるシンクレティズム(混淆)に加え、音楽、舞踊、料理、言語、建築など、生活のあらゆる側面で文化の融合が見られました。メキシコのマリアッチ音楽、キューバのソン、ブラジルのサンバ、そして各地域の多様な食文化はすべて、このような文化のるつぼの中から生まれたものです。これらの新しい文化は、単にヨーロッパ、アフリカ、先住民の文化を足し合わせたものではなく、それらが相互に影響し合い、変容して生まれた、新世界独自の創造物でした。この人種的・文化的混淆の遺産は、現代のラテンアメリカ社会のアイデンティティを形成する上で、最も本質的な要素の一つとなっています。

新世界の遺産とその現代的意味

新世界という概念の誕生から5世紀以上が経過した現在、その歴史が世界に残した遺産は、計り知れないほど大きく、そして複雑です。コロンブス交換によってもたらされた生態系の変容は、地球全体の食糧生産のあり方を一変させ、世界人口の爆発的な増加を可能にしました。ジャガイモやトウモロコシのない現代の食卓は想像もつかないほど、新世界由来の作物は私たちの生活に深く根付いています。しかし同時に、この交換は、アメリカ大陸の先住民社会を壊滅させた疫病のパンデミックという、人類史上最大級の人口動態上の悲劇を引き起こしました。

経済的には、新世界から流入した金銀がヨーロッパの資本主義の発展を加速させ、世界的な貿易ネットワークの基礎を築きました。しかし、その富の蓄積は、アメリカ大陸の資源の収奪と、数百万人のアフリカ人を商品として扱った大西洋奴隷貿易という、非人道的なシステムの上に成り立っていました。このプランテーション経済と人種に基づく奴隷制の遺産は、現代アメリカ大陸の社会における根深い人種差別や経済格差の問題として、今なお深刻な影響を及ぼし続けています。

文化的にも、新世界は、ヨーロッパ、アフリカ、アメリカ先住民の文化が衝突し、融合する巨大な実験場となりました。その結果として生まれたメスティーソやクレオールといったハイブリッドな文化は、ラテンアメリカをはじめとする地域の豊かな多様性の源泉となっています。しかし、その一方で、植民地化の過程で多くの先住民の言語や文化が失われ、あるいは抑圧されたという事実も忘れてはなりません。

新世界という言葉そのものが、ヨーロッパ中心主義的な視点を内包していることは明らかです。それは、アメリカ大陸に何万年も前から人々が暮らし、高度な文明を築いていたという事実を無視し、ヨーロッパ人による発見という一方的な観点から歴史を語るものです。このため、この言葉の使用を批判し、遭遇や二つの世界の衝突といった、より中立的な表現を好む歴史家も増えています。
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・「新世界」(「新大陸」)とは わかりやすい世界史用語2278

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『世界史B 用語集』 山川出版社

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