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豊臣秀吉とは わかりやすい世界史用語2210

著者名: ピアソラ
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豊臣秀吉の生涯

豊臣秀吉は、日本の歴史において最も重要な人物の一人であり、16世紀後半の戦国時代の終焉と日本の統一に決定的な役割を果たしました。彼は農民という低い身分から、日本で最も権力のある人物の一人へと上り詰めました。彼の生涯は、野心、戦略的才能、そして日本の社会と政治の構造を永遠に変えた数々の改革によって特徴づけられます。



出自と若き日々

豊臣秀吉は、通説によれば1537年、尾張国の中村(現在の名古屋市中村区)で生まれました。当時の日本は、足利幕府の権威が失墜し、各地の大名が互いに覇権を争う戦国時代の真っ只中にありました。秀吉の出自は武士階級ではなく、彼の父である木下弥右衛門は、侍に雇われる足軽、つまり農民兵でした。そのため、秀吉には武士としての家系を示す姓がありませんでした。幼名は日吉丸と伝えられています。1543年、秀吉が7歳の時に父が亡くなりました。

多くの伝説では、若き日の秀吉は寺に預けられたものの、そこでの生活を嫌い、冒険を求めて旅に出たとされています。彼は木下藤吉郎と名乗り、まず今川氏に仕え、松下之綱という地元の支配者の下で働きました。しかし、しばらくしてそこを去り、故郷の尾張国に戻ります。

織田信長への仕官と台頭

1558年、秀吉は、当時尾張国を支配していた有力な大名である織田氏に足軽として仕えることになりました。織田氏は、野心的な指導者である織田信長によって率いられていました。秀吉はすぐに信長の草履取りという、比較的高い地位の役職に就きました。伝記によれば、彼は清洲城の修復を監督したり、台所の管理をしたりしたとされていますが、これらの話の信憑性は定かではありません。1561年、秀吉は浅野長勝の養女であるおねと結婚しました。

秀吉は、その機知と能力で信長の信頼を徐々に獲得していきました。1564年には交渉役として成功を収め、その外交手腕を発揮しました。1567年の稲葉山城の攻略における信長の容易な勝利は、秀吉の働きによるところが大きかったと言われています。彼は一夜にして墨俣に砦を築き、敵地に秘密の通路を発見したことで、守備隊の多くを降伏させたと伝えられています。この功績により、彼は農民出身であるにもかかわらず、信長から高く評価されました。

1570年、金ヶ崎の戦いにおいて、秀吉は浅井・朝倉連合軍から撤退する信長軍の殿を務め、その窮地を救いました。同年6月の姉川の戦いでは、信長は徳川家康と連合し、浅井・朝倉両氏の二つの砦を包囲しましたが、この戦いで秀吉は初めて織田軍を率いて野戦に参加することを任されました。

1573年、浅井氏と朝倉氏に対する戦いで勝利を収めた後、信長は秀吉を近江国北部の三郡の大名に任命しました。当初、秀吉は浅井氏のかつての本拠地であった小谷城に拠点を置きましたが、その後、国友に移り、信長に敬意を表してその地を「長浜」と改名しました。秀吉の統治下で、この地域の鉄砲生産は飛躍的に増加し、信長の軍事力に大きく貢献しました。彼はまた、多くの敵対する侍を説得して信長に服従させるなど、外交官としてもその価値を証明しました。

1577年からは、信長の命令により、秀吉は西日本の制圧に着手しました。播磨国の姫路城を拠点とし、備中国(現在の広島県の一部)に侵攻し、高松城で毛利輝元を包囲しました。

信長の死と権力の掌握

1582年6月21日、高松城を包囲している最中に、織田信長とその長男で後継者の信忠が、家臣である明智光秀の謀反によって本能寺で殺害されるという事件(本能寺の変)が起こりました。この暗殺により、信長の天下統一事業は中断されました。

主君の死に対する復讐を誓った秀吉は、交戦中であった毛利氏と速やかに和睦を結びました。そして、驚異的な速さで軍を東に向け、13日後には山崎の戦いで明智光秀を破り、信長の仇を討ちました。この勝利により、秀吉は信長の権威と権力を自らのものとしました。

信長の死後、織田家の後継者を決めるための清洲会議が開かれました。秀吉は、信長の三男である織田信孝を推す柴田勝家らに対抗し、信忠の幼い息子である織田秀信(三法師)を後継者として支持しました。丹羽長秀や池田恒興といった他の織田家の重臣の支持を得ることに成功した秀吉は、秀信の地位を確立すると同時に、織田家における自らの影響力を強めました。

秀吉と、織田家の筆頭家老であった柴田勝家との間の緊張は急速に高まりました。翌1583年の賤ヶ岳の戦いで、秀吉は勝家の軍を壊滅させ、自らの権力を確固たるものにしました。この勝利により、彼は織田家のほとんどを自らの支配下に置くことになりました。同年、秀吉は大阪城の建設を開始しました。この城は、信長によって破壊された石山本願寺の跡地に建てられ、後に豊臣氏の最後の拠点となりました。

信長の次男である織田信雄は、依然として秀吉に敵対的でした。彼は徳川家康と同盟を結び、両者は1584年に小牧・長久手の戦いで衝突しました。この戦いは決着がつかず、膠着状態に終わりましたが、秀吉軍は大きな打撃を受けました。最終的に、秀吉は信雄と和睦し、徳川氏と羽柴氏(当時の秀吉の姓)の間の戦争の口実を終わらせました。秀吉は、妹の朝日姫と母の大政所を人質として家康に送り、家康は最終的に秀吉の家臣となることに同意しました。

日本の統一

信長の後継者としての地位を固めた秀吉は、1世紀以上にわたる内戦で分裂した日本を統一するという野心的な事業に取り掛かりました。彼の統一事業は、軍事征服、巧みな外交、そして戦略的な統治改革を組み合わせたものでした。

1585年、秀吉は四国に侵攻し、長宗我部氏を打ち破りました。この勝利は、彼の軍事的な手腕と戦略的な洞察力を示すものでした。同年、彼は朝廷から関白の地位に任命されました。これは、貴族出身ではない者がこの地位に就いた初めての例でした。翌1586年には、後陽成天皇から豊臣の姓と、最高位の官職である太政大臣の地位を与えられました。これらの高い地位を得ることで、秀吉は自らの支配の正当性を強化しました。

朝廷の後ろ盾を得た秀吉は、大名間の私的な戦闘を禁じる惣無事令を発布しました。1587年、九州の島津氏がこの命令に従うことを拒否すると、秀吉は大規模な軍隊を率いて九州に遠征し、島津氏を降伏させました。この九州平定により、彼は九州全土を支配下に置きました。

秀吉の統一事業の最後の大きな障害は、関東地方を支配する北条氏でした。1590年、秀吉は20万人以上とも言われる大軍を動員し、北条氏の本拠地である小田原城を包囲しました(小田原征伐)。数ヶ月にわたる包囲の後、北条氏は降伏し、当主の北条氏政とその弟の氏照は自害を命じられました。この勝利により、秀吉の権威に対する最後の抵抗勢力は排除され、戦国時代の終わりが告げられました。1591年には、東北地方の九戸政実の乱を鎮圧し、日本の統一を完成させました。

国内政策と改革

日本を統一した後、秀吉は自らの権力を固め、国を安定させるために、いくつかの重要な国内政策と改革を実施しました。これらの政策は、日本の社会と経済の構造に永続的な影響を与えました。

太閤検地(土地調査)

秀吉が実施した最も重要な改革の一つが、全国的な土地調査、いわゆる太閤検地です。この調査は、織田信長によって始められたものを拡張し、改良したものでした。統一された単位の升や竿を用いて、全国の田畑の面積と生産性を正確に測定しました。これにより、日本で初めて、指導者層は区画ごとの生産能力を正確に把握することができるようになりました。この調査結果に基づいて、石高制が確立され、各土地の米の生産量(石高)が算出されました。この石高は、年貢(税)を徴収するための基準となり、より効率的で中央集権的な税制システムを可能にしました。また、大名に課される軍役の基準ともなりました。検地によって、農民は土地の耕作者として台帳に登録され、土地に対する権利が認められる一方で、土地に縛り付けられることにもなりました。

刀狩令

1588年、秀吉は刀狩令を発布し、農民から刀、弓、槍、鉄砲などの武器を没収しました。この政策の表向きの理由は、没収した金属で京都に大仏を建立するためとされましたが、真の目的は農民一揆を防ぎ、武士階級以外の者が武装することを禁じることにありました。これにより、武器を所有する権利は武士階級に限定され、社会の安定化が図られました。刀狩は、兵農分離を徹底させ、武士と農民の身分を明確に区別する上で重要な役割を果たしました。

身分制度の固定化

秀吉は、社会の安定を図るために、厳格な身分制度を確立しました。1591年に発布された人掃令(身分統制令)により、武士、農民、職人、商人という四つの階級(士農工商)が法的に定められました。この制度は社会的な流動性を制限し、人々が生まれた身分から移動することを困難にしました。例えば、武士が町人や農民になること、あるいは農民が商業活動に従事することが禁じられました。翌年には全国的な戸口調査が命じられ、各階級の人口と世帯数が把握されました。皮肉なことに、農民から日本の支配者へと上り詰めた秀吉自身が、このような硬直した身分制度を施行したのです。この身分制度は、その後約300年間、江戸時代を通じて日本の社会構造の基礎となりました。

城郭建設と都市整備

秀吉は、自らの権威を誇示し、統治の拠点とするために、壮大な城郭を数多く建設しました。その中でも最も有名なのが、1583年に建設を開始した大坂城です。大坂城は、京都への西からの玄関口を守るための、日本で最も大きく、最も堅固な城となることを意図して建てられました。その他にも、京都には政庁兼邸宅である聚楽第を、晩年には伏見城を築城しました。これらの城は、単なる軍事拠点ではなく、豪華絢爛な桃山文化を象徴する政治と文化の中心地でもありました。

キリスト教への対応

秀吉のキリスト教に対する政策は、彼の治世を通じて変化しました。当初、彼は織田信長と同様に、貿易上の利益などからキリスト教宣教師の活動を容認していました。しかし、1587年に九州を平定した際、キリシタン大名が領地をイエズス会に寄進したり、神社仏閣を破壊したりしていることを知りました。また、ポルトガル商人によって日本人が奴隷として海外に売られているという事実も、彼の態度を硬化させる一因となりました。

これらの状況を、自らの権威に対する脅威と見なした秀吉は、1587年にバテレン追放令を発布し、すべての外国人宣教師に20日以内の国外退去を命じました。しかし、ヨーロッパとの貿易による利益は大きかったため、この法令はすぐには厳格に施行されず、宣教師の活動は水面下で続けられました。

しかし、彼のキリスト教に対する不信感は根強く、1597年には、フランシスコ会の宣教師6名と日本の信者20名を長崎で処刑するという事件(二十六聖人の殉教)が起こりました。この処刑は、追放令に違反して宣教師が流入し続けたことへの見せしめとして行われました。秀吉は、キリスト教の一神教の教えが、日本の伝統的な神道や仏教の価値観、そして天皇を頂点とする政治体制と相容れないものだと考えていたのです。

文化の庇護と桃山文化

秀吉の治世は、安土桃山時代の一部をなし、特に桃山文化として知られる、壮大で豪華な文化が開花した時期でもあります。秀吉自身、芸術の偉大な後援者であり、特に茶の湯、能、絵画などを奨励しました。彼は、茶聖として名高い千利休を側近として重用し、茶の湯を政治的な駆け引きや大名との交流の場としても利用しました。しかし、1591年、秀吉は利休に切腹を命じます。その理由は諸説あり、明らかではありません。

秀吉の城や邸宅は、狩野派の絵師たちによる金箔を多用した豪華な障壁画で飾られました。彼の美意識は、力強さと富を誇示するものであり、新興の武士階級の気風を反映していました。彼はまた、京都の寺社の修復や建設にも力を入れ、その一部は現在も見ることができます。

朝鮮出兵(文禄・慶長の役)

1592年、国内統一を成し遂げた秀吉は、次なる野望として海外への領土拡大に乗り出します。彼の目標は明(当時の中国)を征服することであり、その足がかりとして朝鮮への侵攻を開始しました。この二度にわたる朝鮮出兵は、文禄の役(1592-1593年)と慶長の役(1597-1598年)として知られています。

侵攻の動機については、いくつかの要因が指摘されています。一つには、秀吉自身の誇大妄想的な野心があったとされています。日本統一の成功により、彼は世界征服も可能だと信じるようになったという説です。また、より現実的な理由として、国内の政治的要因が挙げられます。長年の戦乱で膨れ上がった大名の軍事力を国外に向けることで、国内の不満を逸らし、彼らの力を削ぐ狙いがあったと考えられています。さらに、征服した土地を恩賞として家臣に与えることで、自らの支配体制を強化しようという意図もありました。

1592年5月、15万人を超える日本軍の先鋒が朝鮮半島の南岸に上陸しました。当初、日本軍は破竹の勢いで進撃し、首都ソウルを陥落させ、北上を続けました。しかし、朝鮮水軍の名将、李舜臣が考案した「亀甲船」などの活躍により、日本軍の補給路は断たれました。また、各地で蜂起した朝鮮の義兵による激しい抵抗や、朝鮮を支援するために明から派遣された援軍の到着により、戦況は膠着状態に陥りました。

その後、和平交渉が行われましたが、両国の要求には大きな隔たりがあり、交渉は決裂しました。1597年、秀吉は再び14万人の兵を朝鮮に送り込み、第二次侵攻を開始しました。しかし、この戦いもまた泥沼化し、決定的な勝利を得ることはできませんでした。

後継者問題と晩年

秀吉の権力の安定は、後継者の不在によって脅かされていました。彼の息子である鶴松が1591年に幼くして亡くなると、後継者問題は深刻化しました。秀吉は甥の豊臣秀次を養子に迎え、関白の位を譲りました。しかし、1593年に側室の淀殿との間に息子の秀頼が生まれると、秀吉と秀次の関係は悪化します。

秀吉は、自らの血を引く秀頼に権力を継承させることを望み、秀次を脅威と見なすようになりました。1595年、秀吉は秀次に謀反の疑いをかけ、高野山に追放した上で切腹を命じました。さらに、秀次の妻子や家臣たちも処刑するという冷酷な措置を取りました。

晩年の秀吉は、自らの死後の豊臣政権の安泰を深く憂慮していました。彼は、幼い秀頼を補佐させるため、最も有力な大名であった徳川家康を含む五人の大老(五大老)と、実務を担当する五人の奉行(五奉行)からなる統治体制を築きました。彼は大老たちに、秀頼が成人するまで忠誠を誓わせました。

死と遺産

二度目の朝鮮出兵の最中である1598年9月18日、豊臣秀吉は伏見城で病没しました。享年61歳でした。彼の死は、朝鮮にいる日本軍の士気を維持するために、しばらくの間秘密にされました。五大老の決定により、日本軍は朝鮮から撤退し、7年間にわたる長き戦いは終結しました。

秀吉の死後、彼が築いた権力構造は急速に崩壊しました。五大老の間で権力闘争が勃発し、特に徳川家康がその影響力を強めていきました。1600年の関ヶ原の戦いで、家康率いる東軍が、秀頼を擁する石田三成らの西軍を破りました。この戦いの結果、豊臣氏の権力は事実上失われ、徳川家康が日本の新たな支配者となりました。1603年に家康が征夷大将軍に任命され、江戸幕府を開いたことで、豊臣の時代は完全に終わりを告げました。秀吉の息子である秀頼は、1615年の大坂の陣で母の淀殿と共に自害し、豊臣氏は滅亡しました。

豊臣秀吉の王朝は短命に終わりましたが、彼が日本の歴史に残した遺産は計り知れません。彼は、100年以上続いた戦乱の時代を終わらせ、日本を統一しました。彼が導入した検地や刀狩、身分制度といった政策は、その後の江戸幕府の社会経済システムの基礎を築きました。大坂城をはじめとする彼の建築物や、彼が庇護した桃山文化は、今日でもその華やかさを伝えています。一方で、朝鮮出兵は朝鮮半島に甚大な被害をもたらし、日本の国力も消耗させ、豊臣政権の弱体化を招きました。

農民の子から天下人へと駆け上がった豊臣秀吉の生涯は、日本の歴史上、最も劇的な立身出世の物語の一つです。
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『世界史B 用語集』 山川出版社

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