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18_80 内陸アジア世界の形成 / モンゴル民族の発展

西夏(大夏)とは わかりやすい世界史用語2020

著者名: ピアソラ
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西夏の歴史

西夏(1038年-1227年)は、タングート族が中国北西部を支配して建国した帝国です。 正式名称を大夏としても知られています。 その領土は最盛期には現在の寧夏、甘粛、青海東部、陝西北部、新疆北東部、内モンゴル南西部、そしてモンゴル国最南部にまで及び、面積は約80万平方キロメートルに達しました。 首都は興慶(現在の銀川)に置かれました。 西夏はシルクロードの重要な交易路である河西回廊を支配し、その地理的優位性を活かして繁栄しました。 しかし、1227年にモンゴル帝国によって滅ぼされ、その歴史や文化の多くは失われました。



黎明期:タングート族の台頭

西夏の建国者であるタングート族は、チベット系の民族と関連があるとされる人々です。 彼らの起源は、もともと現在の四川省西部の高地にありました。 6世紀後半には、多くのタングート部族が隋王朝の宗主権を受け入れましたが、一部は吐谷渾の支配下に留まりました。 7世紀には、唐王朝の招きに応じて現在の四川省、青海省、甘粛省に移住し、チベットからの侵攻に対する緩衝地帯としての役割を期待されました。

唐王朝後期、880年に黄巣の乱で首都長安が陥落すると、タングートの指導者であった拓跋思恭は唐軍を支援して反乱軍の鎮圧に貢献しました。 この功績により、881年に夏州、綏州、宥州、銀州などの支配権を与えられ、この地域は定難軍節度使として知られるようになりました。 883年には、反乱鎮圧の功績を称えられ、唐の皇帝から李姓を賜り、「夏国公」に封じられました。 これ以降、拓跋氏は李姓を名乗るようになります。

唐王朝が907年に滅亡すると、その後の五代十国時代においても、タングートの指導者たちは巧みな外交戦略で自らの地位を維持しました。 彼らは後梁の宗主権を受け入れる見返りに、陝西北部の軍事委員(節度使)の称号を得ました。 930年代には、指導者の一人である李彝超が中国王朝への朝貢を拒否し、夏王を自称して後唐の軍隊を破り、タングート諸部族の最高指導者として認められました。

960年に宋王朝が成立し、中国の大部分を統一すると、タングートの指導者たちはその勢力に押され、人質を首都の開封に送ることを余儀なくされました。 しかし、984年に李継遷が宋への反乱を起こし、北東の遼(契丹)と同盟を結んで軍事支援を得るなど、独立への動きを活発化させます。 李継遷の息子である李徳明は、宋と遼の双方と協定を結び、大夏王として認められる一方で、西方のチベット系やウイグルの勢力を破り、領土を拡大しました。 李徳明は興州(現在の銀川)を拠点に、内陸アジアとの交易路沿いという地の利を活かして、比較的平和な統治を行いました。

建国:李元昊と西夏帝国の成立

西夏帝国の建国者として歴史に名を刻んだのは、李徳明の息子である李元昊(後の景宗)です。 彼は野心的で保守的な指導者であり、タングート民族の伝統への回帰を目指しました。 1032年に父の跡を継ぐと、彼は宋から与えられた趙姓を廃し、タングート固有の姓である嵬名(ウェイミン)を名乗りました。 さらに、タングート人男性に頭を剃ることを命じ、服装や文字の改革にも着手するなど、独自の文化を確立しようとしました。

李元昊は軍事面でも積極的な行動を取りました。彼は15歳から60歳までの全ての成人男性を徴兵し、強力な軍隊を組織しました。 1036年までには、西方の甘州ウイグル王国と帰義軍を併合します。 そして同年、タングート文字が公布され、政府の公文書で使用されるとともに、中国語やチベット語の文献の翻訳が開始されました。 この文字の創案は、野利仁栄(イェリ・レンロン)の功績とされています。

1038年、李元昊はついに皇帝(「青き天の子」を意味する「兀卒」)を名乗り、国号を「大夏」と定め、首都を興慶(現在の銀川)に置きました。 これが西夏帝国の正式な成立です。 彼は中国の制度を参考に官僚機構を整備・拡充する一方で、タングートの伝統を維持しようとしました。 この二つのアプローチは時に矛盾をはらみ、旧来の伝統に固執する貴族を弾圧することにも繋がりました。

皇帝を名乗った李元昊は、宋王朝に対して対等な国家としての承認を求めましたが、宋は彼を「皇帝」ではなく「統治者」としてしか認めませんでした。 これが引き金となり、西夏と宋は長年にわたる戦争状態に突入します。 西夏軍は騎兵、戦車、弓兵、盾兵、そしてラクダの背に乗せた大砲などを統合した効果的な軍事組織を擁し、宋軍を相手にいくつかの戦いで勝利を収めました。 激しい戦闘の末、1044年に両国は和平条約を締結し、宋は西夏に対して絹、銀、茶などを歳貢として送ることに同意しました。 これにより、西夏は経済的な安定を得るとともに、国際的な地位を確立したのです。

安定と繁栄の時代

景宗李元昊の死後、西夏はいくつかの内紛や権力闘争を経験します。景宗が1048年に亡くなると、わずか2歳の息子、李諒祚(後の毅宗)が即位し、母方の没蔵氏が摂政として実権を握りました。 毅宗の治世中、遼が西夏に侵攻し、西夏は遼の属国となることを余儀なくされました。 毅宗は後に没蔵氏を排除し、中国式の宮廷儀礼や服装を取り入れるなど、宋の制度に倣った統治を目指しましたが、今度は皇后の一族である梁氏が台頭し、タングートの伝統を重んじる勢力との間で緊張が生じました。

毅宗の跡を継いだのは、7歳の李秉常(後の恵宗)でした。 彼の治世もまた、母方の梁氏による摂政政治が続きます。 この時期、宋は西夏の内部対立を見て攻勢に出ますが、決定的な勝利を収めることはできず、数年にわたる一進一退の攻防が続きました。 1085年に宋の神宗が亡くなると戦争は終結し、西夏は捕虜と引き換えに占領されていたいくつかの都市を取り戻しました。

西夏の政治が安定し、文化が大きく花開いたのは、崇宗李乾順と仁宗李仁孝の治世です。 崇宗の時代(1086年-1139年)、西夏の社会は封建的な土地所有制度が成熟期を迎えました。 彼はまた、女真族が建国した金が台頭すると、1123年に金に服属し、宋との戦争に参加しました。

崇宗の息子である仁宗(1139年-1193年)は、16歳で即位しました。 彼は儒教教育を非常に重視し、1143年には各州に学校を建設するよう命じ、皇族の子弟のための帝国アカデミーを設立しました。 さらに、孔子を「文宣帝」として祀り、各地に孔子廟を建立させました。 1147年には、官吏登用のための科挙制度も導入されています。 仁宗の治世は、西夏が最も文化的・経済的に繁栄した時期とされています。 漢文化の影響が支配階級の間で広まり、多くの漢籍がタングート語に翻訳され、詩作も盛んに行われました。

社会と経済

西夏は、タングート族が支配する多民族国家でした。 その社会は、建国当初は原始的な封建制の性格を帯びていましたが、次第に地主による土地所有が中心となる社会へと移行していきました。

経済の基盤は、シルクロード交易の支配にありました。 河西回廊という、中国本土と中央アジアを結ぶ最も重要な交易路を領有していたことで、西夏は中継貿易によって莫大な利益を上げることができました。 ウイグルや中央アジアの商人から商品を買い付け、あるいは通行税を徴収して再販することで富を蓄積したのです。 主要な輸入品は絹製品、薬草、陶磁器、漆器、香辛料、そして最も人気があった茶でした。 一方、輸出品としては家畜、毛織物、毛皮製品、そして特産品として名高い大黄(だいおう)などがありました。

宋や金との間には、国境付近に大規模な取引を行うための国営市場や、近隣住民が日用品を購入するための小規模な市場が設けられていました。 また、朝貢使節団が貿易代表団としての役割を兼ねることもありました。 交易を円滑にするため、西夏は領内全域に駅伝路のネットワークを整備しました。

文化と宗教

西夏は、独自の文化を築き上げたことで知られています。 その最も顕著な例が、1036年に創制されたタングート文字です。 この文字は、漢字に似た外観を持つ表語文字ですが、その構成方法は漢字とは大きく異なります。 約5800以上の文字が確認されており、非常に複雑な構造を持っています。 この文字は、タングート民族の文化的アイデンティティを確立するために、景宗李元昊の命によって作られました。 政府の公文書や外交文書(二言語併記)に使用されたほか、仏教経典の翻訳にも広く用いられました。

西夏の文化は「輝き、きらめいている」と形容されるほど、文学、芸術、音楽、建築の各分野で大きな成果を上げました。 特に仏教美術は目覚ましい発展を遂げ、敦煌の莫高窟や安西の楡林窟には、西夏時代に制作された壁画が残されています。 これらの壁画は、タングート人の日常生活や信仰を知る上で貴重な資料となっています。

宗教面では、タングート族はもともと精霊や自然の力を崇拝するアニミズム的な信仰を持っていました。 しかし、建国後は仏教が国教として強力に推進されました。 多くの仏教経典がタングート語に翻訳され、領内各地に寺院が建立されました。 特に景宗の治世にはチベット仏教が広まり、西夏後期にはさらにその影響力を増しました。 12世紀半ば頃からは、支配者がチベットの僧侶を国師として招くようになり、チベット仏教が優勢となっていきました。 仏教以外にも、道教、キリスト教ネストリウス派、イスラム教なども信仰されていました。

モンゴルの侵攻と西夏の滅亡

13世紀初頭、モンゴル高原でテムジン(後のチンギス=カン)が台頭すると、西夏の平和は脅かされ始めます。 1205年から1227年にかけて、モンゴルは西夏に対して複数回にわたる軍事侵攻を行いました。

最初の本格的な侵攻は1209年に行われました。 チンギス=カンは、西夏を略奪し、属国とすることを目指していました。 モンゴル軍は首都興慶を包囲しましたが、攻城戦の経験が浅かったため、黄河の水を都市に引き込んで水攻めにしようとしました。 しかし、堤防が予期せず決壊し、モンゴル軍自身の陣営が水浸しになるという失態を演じます。 それでも、都市の城壁は弱体化し、疫病も発生したため、西夏の襄宗は1210年1月にモンゴルに降伏しました。

これにより、西夏はモンゴルの属国となり、金との戦いにおいてモンゴルを支援することになりました。 しかし、1219年にチンギス=カンが中央アジアのホラズム・シャー朝に遠征する際、西夏は援軍の派遣を拒否し、金や宋と同盟を結んでモンゴルの支配から脱しようと試みました。

この裏切りに激怒したチンギス=カンは、1225年に西夏に対する懲罰的な遠征を開始します。 約18万の兵を率いたチンギス=カンは、西夏文化の完全な殲滅を意図していました。 彼は都市や田園を組織的に破壊し、進軍していきました。 西夏軍は激しく抵抗しましたが、モンゴルの圧倒的な軍事力の前に次々と敗北します。

1226年11月、モンゴル軍は首都興慶からわずか30キロの地点にある霊州を包囲し、反撃してきた30万の西夏軍を壊滅させました。 そして1227年、ついに首都興慶が包囲されます。 包囲戦の最中である同年8月、チンギス・カンは陣中で病死しますが、その死は秘匿され、モンゴル軍の攻撃は続けられました。

食料も援軍も尽きた西夏の末帝(李睍)は、1227年9月に降伏し、直ちに処刑されました。 その後、モンゴル軍は首都興慶を徹底的に略奪・破壊し、住民を虐殺しました。 西方の皇室陵墓も略奪され、西夏帝国は文字通り地上から姿を消したのです。 この徹底的な破壊により、西夏の文字記録や建築物のほとんどが失われ、その歴史は長い間謎に包まれていました。
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『世界史B 用語集』 山川出版社

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