イタリアとは
843年8月に結ばれたヴェルダン条約は、イタリアとカロリング朝帝国の歴史において重要な転機となりました。この条約によって、帝国はルイ敬虔王の3人の息子、ロタール1世、ルイ・ドイツ人、シャルル禿頭王の間で分割されました。この結果、西フランク(現在のフランス)、東フランク(現在のドイツ)、および中フランクが設立され、中フランクには北イタリアの一部も含まれていました。
ヴェルダン条約の締結後、イタリアは中フランクの一部となり、ロタール1世がその支配者となりました。しかし、この王国は地理的にも文化的にも一体性を欠いており、そのため安定性や持続性が損なわれました。ロタール1世の領域には、後にベルギー、オランダ、東フランスの一部となる地域が含まれ、アーヘンやパヴィアといった重要な都市も存在しましたが、断片的な領土と強力な隣国である西フランクおよび東フランクの影響により、統一されたアイデンティティを保つのが難しかったのです。
条約以降のイタリアの政治状況は、中央集権の権威が徐々に衰退していく様子が見られました。ロタール1世の死後、彼の王国は息子たちの間でさらに分裂しました。ルイ2世はイタリアを継承し、彼の治世(844–875年)では王権の回復に向けて重要な役割を果たしました。彼は地方自治に積極的に介入し、一般市民を強盗や搾取から守るための法律を制定し、貴族の権力濫用を抑制しようとしました。しかし、これらの努力にもかかわらず、政治情勢は依然として不安定で、地方の権力がより独立を求める動きが見られました。
行政機構の変化
カロリング朝のもとで確立された行政構造は変化していきました。当初は秩序を保つのに効果的でしたが、地方の領主が権力と自治を強化するにつれて様々な課題が浮上しました。この時期、教会の影響力も増し、司教たちは伯爵とともに地方自治において重要な役割を果たしました。この権力の二重性は、地方の利益が王権としばしば衝突する複雑な政治環境を生むこととなりました。
ヴェルダン条約以降、イタリアは強力な隣国と内部の分裂に挟まれた状況にありました。ルイ2世のような支配者による中央集権化の初期の試みは、地方貴族の権力争いや中フランクの本質的な断片化によって妨げられました。この時期は、イタリアのさらなる政治的発展への道を開き、地域主義と地方権力の自治への漸進的な移行を特徴とする風景を形成しました。この断片化の影響は中世を通じて持続し、イタリアの政治的進化に何世紀にもわたって影響を与えました。