帯方郡とは
帯方郡(たいほうぐん)は、古代中国によって朝鮮半島の中西部に設置された郡で、204年から313年の109年間にわたって存在しました。この郡は、楽浪郡の南半を分割して設立され、東は濊(わい)、南は韓、南端は倭(日本)に接していました。
帯方郡の設立は、後漢末期の混乱期に遼東太守となった公孫度によるものでした。公孫度は勢力を拡大し、朝鮮半島に進出して楽浪郡を支配下に置きました。その後、彼の息子である公孫康が楽浪郡の南半を分割して帯方郡を設立しました。この郡の設立により、南方の土着勢力である韓や濊族を討伐し、朝鮮半島南半の統治体制を築きました。
帯方郡の郡治(行政の中心地)は、楽浪郡治(現在の平壌)の南方に位置していたとされていますが、正確な位置については諸説あります。一部の説では、現在のソウルや広州(韓国の広州市)にあったとされています。
帯方郡は、後漢から魏、西晋の時代にかけて、中国の文化や技術を朝鮮半島に持ち込む重要な役割を果たしました。特に魏の時代には、華北の中国文化の窓口としても機能しました。郡の長である太守は、郡役所で官吏や軍団を統括し、地域の政治、経済、軍事を管理していました。
帯方郡の歴史は、公孫氏の支配下で展開されました。公孫康の死後、その子である公孫淵が魏に反旗を翻し、独立を宣言しましたが、最終的には魏の司馬懿によって滅ぼされました。その後、帯方郡は魏から西晋に引き継がれましたが、西晋の混乱期に高句麗によって征服され、313年に滅亡しました。
帯方郡の滅亡後も、その地理的概念は残り続けました。
帯方郡の歴史は、朝鮮半島の古代史において重要な位置を占めています。中国の影響を受けながらも、独自の文化や政治体制を築いたこの地域の歴史はその後の歴史に大きな影響を与えています。