新政府への反抗と西南戦争
明治政府は、維新後急進的な近代化政策(西欧化政策)を進めたため、国民の中には生活環境の変化に負担を感じる者もいました。また、明治政府内部が「有司専制」という少数の藩閥官僚により占められており、これに対する批判もありました。地租改正による税制の変化は、依然として農民に重い負担を強い、徴兵制度や小学校設置など新しい負担も増えたため、地域によっては大規模な農民一揆が起こりました。こうした状況を踏まえ、政府は地租率を地価の3%から2.5%に引き下げました。
他方、廃藩置県・徴兵制度・秩禄処分など、封建的特権を奪われた士族層にも不満が広まっていきました。明治六年の政変で辞職した旧参議の板垣退助らは、1874年(明治7年)に
民撰議院設立建白書を提出し、明治政府の「有司専制」を批判しました。その中の一人
工藤新平は、佐賀に帰ったのち不平士族に擁立され征韓党の首領となり
佐賀の乱をおこしました。明治政府は
讒謗律・新聞紙条例を出し、反政府的言論を抑えようとしました。
1876年(明治9年)、廃刀令・俸禄支給の停止をきっかけに熊本で攘夷主義者の太田黒伴雄が
敬神党(神風連)の乱をおこし、これに呼応した宮崎車之助が福岡で
秋月の乱をおこし、山口では元参議兵部大輔の前原一誠が
萩の乱をおこしました。こうした士族反乱は、明治政府が最終的に鎮圧しましたが、少なからず国内に動揺を与えました。
さらに1877年(明治10年)、鹿児島の私学校の生徒を中心とする不平士族たちが、西郷隆盛を擁立し兵を挙げ、
西南戦争が始まりました。戊辰戦争以来となる国内最大の内戦となった西南戦争は、はじめ西郷軍が官軍と対等に戦いましたが、西郷軍が熊本鎮台の攻略に失敗してから政府軍が優勢となり、8ヶ月かけ反乱を鎮圧し、西郷隆盛や指導者は戦死・処刑され、西南戦争は終わりました。政府軍の勝利により、徴兵制度と近代的軍隊の有用性が明らかとなり、明治政府の権力も盤石となっていきました。翌年1878年(明治11年)、不平士族一味が内務卿大久保利通を暗殺した
紀尾井坂の変がおこり、西南戦争の恩賞に不満をもった近衛兵が反乱を起こした
竹橋事件などが発生しました。しかし、これらも政府によって関係者が検挙され、西南戦争を最後に、士族の武力反乱は終わりました。