1837年(天保8年)、外国船が来航した際、浦賀奉行所は異国船打払令にしたがい砲撃し、退去させました。翌年、オランダ商館長は、この外国船がイギリス(正しくはアメリカの商船で誤って伝えた)の
モリソン号で、漂流民の送還を兼ねて、日本との通商を交渉する目的で来航したと幕府に伝えました。漂流民送還など、本来の目的を調査せず砲撃した事に対し、洋学者の渡辺崋山が『慎機論』を、医師・洋学者の高野長英が『戊戌夢物語』を著し、幕府の打払い政策を厳しく批判しました。
幕府は1808年(文化5年)に白河・会津両藩による江戸湾防備体制を廃止していましたが、モリソン号事件をうけ、再度江戸湾防備に取り組みます。幕府は洋学者の
江川英竜と、洋学に反感を持つ
鳥居耀蔵の二人に別々に調査させました。これをきっかけ両者に軋轢がうまれ、鳥居らは尚歯会に集まる洋学者を弾圧し、渡辺・高野らが当時無人島だった小笠原に渡海を計画したとして逮捕し、モリソン号事件に関する幕府批判の罪で、渡辺崋山を国元での永蟄居、高野長英を永牢などに処しました。これを
蛮社の獄といいます。この背景には、洋学の隆盛に対する儒学者の反発が根底にあり、鳥居耀蔵は大学頭の
林述斎の息子でした。
文化・文政時代
文化・文政時代に在職した11代将軍
徳川家斉は、1837年(天保8年)に将軍職を徳川家慶にゆずったのちも大御所として幕府の権力を握り続けました。そのため、この時代を
大御所時代ともいいます。松平定信が辞職したあとも、彼が登用した松平信明などの老中が寛政の改革を引き継ぎましたが、1818年(文政元年)に
水野忠成が老中になると、幕政は大きく転換しました。財政緊縮策は蝦夷地経営や徳川家斉の子女の縁組など臨時経費が増え行き詰まり、品位を落とした
文政小判などを大量に鋳造し、550万両にのぼる利益を得ました。
しかし、貨幣改鋳により質の悪い大量の貨幣が流通し、物価上昇問題が再び重要な課題になりました。一方で、この政策は商品生産と経済活動を活発にし、都市を中心として
化政文化を生み出しました。江戸周辺の農村では、商人や地主が力をつける一方、没落する農民も多く、それに加え幕領と私領が入り組み、無宿者や博徒により治安も悪化していきました。幕府は1805年(文化2年)に
関東取締出役(八州廻り)を設け、幕領と私領の別なく犯罪者を逮捕させ、1827年(文政10年)には共同で風俗取締まりにあたる
寄場組合(改革村組合)を作らせました。