町と町人
近世には、都市の城下町のほかに港町・門前町・宿場町・鉱山町などが作られ、江戸・大坂・京都は三都とよばれ世界でも有数の大都市となりました。江戸には、諸藩の大名屋敷(藩邸)や旗本・御家人の屋敷が集まり、多くの武家が居を構えました。武家地は70%、寺社地は15%を占め、50万人の町人が住む町人地は15%しかありませんでした。
大坂は天下の台所といわれ商業都市として発展し、年貢米や特産品が回送され、換金を通じて日本経済を支える場所になりました。京都は古都として天皇家や公家が居を構え、西陣織などの高級な手工業品は幕府御用や諸大名が顧客となりました。
また、各地の城下町も重要な都市に発展していきました。城郭を中心に武家地・寺社地・町人地に分かれ、町人は町内に町屋敷を持ち、名主(町名主)・町年寄・月行事などが町の運営に当たりました。夫役の町人足役は次第に貨幣を納め、専門職がこれにあたるようになりました。町には他に宅地を借りて家を建てる地借や借家・店借などがいました。
身分秩序
江戸時代には、豊臣政権下で行われた身分統制をもとに、厳格な身分秩序が設けられました。支配身分の武士は、
名字・帯刀・衣服・乗馬などの特権を持っていました。武士の中にも階層があり、
将軍・旗本・御家人・陪臣・武家奉公人などに分かれており、さらに将軍家との関係性、官位、殿席などにより格式が分かれていました。武士とともに支配身分だったのが、
天皇家・公家・上層僧侶・上層神職などでした。公家や僧職・神職にも上下の別がありました。
被支配層が農業・林業・漁業に従事する
百姓で、百姓にも序列がありました。その他手工業者の職人や商業を営む
商人がおました。これらの諸身分の下位に置かれたのが、
えた・長吏・ひにんでした。(諸説あり)
寛永期の文化
大坂の役以降、元和から寛永期にかけて、下克上の時代が終わり、
寛永期の文化が生まれました。3代将軍徳川家光が建立した
日光東照宮や
桂離宮・修学院離宮などがこの時代の代表的な建築です。桂離宮は数寄屋造と回遊式庭園が特徴的です。絵画の
俵屋宗達、作陶・刀剣を制作した
本阿弥光悦、幕府御用絵師
狩野探幽、茶道・造園に秀でた
小堀遠州、生花の
池坊などが活躍しました。また、この時代に儒学特に朱子学が重要視され、
藤原惺窩とその門下だった
林羅山は徳川家康に重用され、林家は儒者として幕府に仕えました。また豊臣秀吉が朝鮮侵略を行った際、諸大名が朝鮮人陶工を連れて帰り、
有田焼・唐津焼・萩焼・薩摩焼などが有名になりました。