聖像崇拝論争
このような布教活動の拡大の一方で、東西教会の対立は
聖像崇拝論争を通じて深まります。
聖像崇拝論争というのは、聖人をかたどった彫刻や絵画の使用を認めるか否かで争われました。というのも、キリスト教ではもともと聖像崇拝は禁止でしたが、ゲルマン民族をはじめとする異民族への布教に、カトリックは聖像の使用を認めていたため、東西教会で意見が割れていました。
726年になると、ビザンツ皇帝
レオン3世が聖像禁止令を発布します。
これによって、カトリックはビザンツ皇帝にかわる政治勢力を本格的に求めるようになるのです。
フランク王国とカトリック
この様な状況の中、カトリックが目をつけたのが、フランク王国の宮宰
カール=マルテルです。
カール=マルテルは、
トゥール・ポワティエ間の戦いでイスラム勢力を撃退し、フランク王国の英雄となっていましたが、フランク王国の実権を握るために新しい権威を必要としていました。
(トゥール・ポワティエ間の戦い)
ここでロンバルト族の攻勢に苦しむローマ教皇が保護を求めると、両者の利害が一致しました。
751年カール=マルテルの子
ピピンが
メロヴィング朝を廃し、
カロリング朝を創始すると、教皇はこれを祝福します。
王となったピピンはイタリア遠征を行い、ロンバルト族を撃退すると、
ラヴェンナ地方と
ペンタポリス地方をローマ教皇に献上しました。この「
ピピンの寄進」によって、はじめて
教皇領が成立しました。