執権政治
承久の乱後、1224年(元仁元年)に
北条義時、翌年に
大江広元・北条政子が相次いで亡くなると、幕府政治も新たな局面を迎えました。北条義時のあとを継ぎ、執権となったのは六波羅探題だった息子の
北条泰時でした。北条泰時は、1225年(嘉禄元年)に執権の補佐役として
連署という職を設け、同じく六波羅探題だった叔父の
北条時房をこれに任命しました。更に、11人の御家人からなる
評定衆を設置し、幕府の意思決定や訴訟の裁決にも関わりました。
この時代、法典としては
律令格式が残っていましたが、その内容を理解できた武士はあまりいませんでした。幕府は、武士社会の中で新しい規範を作る必要性を感じ、1232年(貞永元年)に武家の根本法典として
御成敗式目を定めました。これは貞永式目ともいわれ、51カ条からなる行政・民事・刑事訴訟に関する大網を盛り込んでおり、教養がなかった武士にも理解できるように平易な文章で書かれていました。
御成敗式目はあくまでも幕府の勢力範囲にのみ適用され、朝廷の支配下では律令の系統を引く公家法、荘園領主の支配下ではその土地に根ざした本所法が効力を持っており、幕府も朝廷や荘園領主の持つ規範を否定しませんでした。ただし、その後幕府の勢力範囲が広がるにつれ、この式目の影響力も全国に広がっていきました。
御成敗式目が発布されて以降、式目追加や追加法が出され、鎌倉時代で約600の追加法があったとされていますが、追加法は本文と異なり、効果は限定的でした。
北条泰時の執権政治を継承・発展させたのが孫の
北条時頼(1227~63)でした。北条時頼は1249年(建長元年)に
引付衆を設置し、評定衆を助け文書の審理と訴訟の裁決にあたらせました。
北条時頼は、幕府の制度改革を行う一方で、権力を北条宗家の得宗に集中させました。1246年(寛元4年)、北条一族の
名越家の勢力を幕府から一掃した北条時頼は、評定衆数名も名越派として処罰し、反執権勢力に担がれた前将軍
藤原頼経(鎌倉幕府第4代の摂家将軍)を京都に送り返しました。翌年1247年(宝治元年)には北条氏に並ぶ有力御家人三浦泰村を滅ぼし、さらに1252年(建長4年)、北条氏討伐の陰謀に加担したとして将軍頼嗣が廃しました。彼は京都に送り返された藤原頼経の子で、当時まだ14歳でした。
北条時頼は新たな将軍として、後嵯峨上皇の子の宗尊親王(1242~74)を迎え、親王将軍・宮将軍が幕府の終焉まで将軍職を受け継ぎました。この親王将軍は北条氏の傀儡で実権はなく、将軍が成人してみずから政治を行おうとすると、様々な理由をつけこれを退け、政治を理解しない幼い将軍に変えるなど、北条得宗家は強大な権力を握り、独裁政治を行うようになりました。
承久の乱後の朝廷は常に幕府から監視されるようになり、4代将軍藤原頼経の父
九条道家が幕府の後援を受け朝廷を掌握しました。鎌倉で藤原頼経が力を失うと、九条道家も失脚しました。その後朝廷の指導者となったのが
後嵯峨上皇で、幕府にならって評定衆を置き、有力な公卿をこれに任じて院政を行いましたが、後鳥羽上皇の時代のような専制的なものではなく、廷臣の合議に基づくものでした。