保元・平治の乱
武士の棟梁としての源氏の勢力は、源義家のあとの義親が出雲に流され、その地で反乱を起こしたことから勢いを失っていきました。代わりに発展したのが、院と結び伊勢・伊賀を拠点とした
桓武平氏でした。
桓武平氏の平正盛は、伊賀国の荘園を白河上皇に寄進し、源義親を討って武名を上げ、受領や検非違使として活躍しました。その子忠盛は瀬戸内海の海賊を平定し鳥羽上皇の信任を得て、受領として千手観音像を安置する得長寿院を造営したことで殿上に登ることを許され(殿上人)、武家という身分も獲得し、院の近臣として平氏の権威を高めました。
平忠盛の子が
平清盛(1118~81)で、清盛の時代に平氏の勢力は更に拡大していきます。
一方源氏も巻き返しをはかり、源義親の実子で義家の養子となった為義(1096〜1156)は摂関家との結びつきを強め、その子義朝(1123〜1160)は東国に下り鎌倉を本拠地として東国の武士との主従関係を築いていきました。
鳥羽法皇は、源氏・平氏の武士を配下に置き、更に様々な荘園を集めたことで専制的な権力を握りましたが、鳥羽法皇が1156年(保元元年)に亡くなると、こうした強大な権力と皇位継承をめぐって大きな争いが起きました。
以前から皇位継承をめぐって鳥羽法皇と対立していた崇徳上皇は、朝廷の実権を握るために摂関家の継承権で兄の藤原忠通と争っていた左大臣藤原頼長と手を結び、更に源為義・平忠正らの武士を集めました。
この動きに対して、鳥羽法皇の立場を引き継いで朝廷の実権を握った
後白河天皇(在位1155〜58)は、近臣の藤原通憲(出家後:信西)を参謀に任命し、平清盛や源義朝らの武士を集め、先制攻撃を行い、崇徳上皇の勢力を破りました。これを
保元の乱といい、崇徳上皇は讃岐に流され、藤原頼長は脱出中に敗死、源為義・平忠正は死刑になりました。
この乱は当時の貴族に衝撃を与え、社会も乱をきっかけに大きく変わっていきました。のちに延暦寺の天台座主になった僧慈円は、著書『愚管抄』の中で、この保元の乱以降、「武者の世」となったと記しています。
乱のあと、政治の主導権を握った
信西(俗名:藤原通憲)は、平清盛の武力を背景にして保元の新制を出し、新しい基準のもと荘園整理や悪僧・神人の乱暴を取り締まるなど、鳥羽法皇の時代におこった社会変動に対して新しい政治を始めました。
こうした中、後白河天皇が後白河上皇となり院政をはじめると、今度は近臣間で対立が激しくなります。平清盛と信西に反感を持った近臣の藤原信頼が源義朝と結び、清盛が熊野に参詣していた留守を狙って信西を殺害しました。しかし、平清盛は京の六波羅に帰還すると、圧倒的な武力を持って藤原信頼を滅ぼし、東国に逃れる途中の源義朝を討ち、その子源頼朝を捕らえて伊豆に流しました。これを
平治の乱といい、先の保元の乱とともに、貴族勢力の対立に武士の力が不可欠であることが明らかになり、平清盛の地位と権力は急速に高まっていきました。