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【国風文化、ひらがな・カタカナの発明、『源氏物語』『枕草子』の成立】 受験日本史まとめ 18
著作名: Cogito
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浄土信仰

仏教は、9世紀に成立した天台宗や真言宗が朝廷や貴族社会に対し様々な祈祷を行い、徐々に勢力を拡大していきました。また神仏習合の広がりもあり、日本古来の天照大神が大日如来の化身であるといった本地垂迹説が唱えられました。また、故人の冥福を祈る仏教思想と厄災や疫病をもたらす在来の神を鎮めるため御霊会の信仰が盛んとなり、藤原時平に左遷された菅原道真がその後の貴族社会を祟ったということが信じられ、道真は天神として北野神社に祀られました。

10世紀以降には、現世利益的な既存の仏教とは異なり、浄土の世界への往生を求め現世の苦しみを逃れる浄土教が流行します。9世紀に天台宗の円仁、10世紀に民間布教者の空也や、『往生要集』を著した源信など浄土教は発達します。11世紀には末法思想が流行し、慶滋保胤の『日本往生極楽記』、大江匡房の『続本朝往生伝』、三善為康の『拾遺往生伝』など、阿弥陀仏に帰依して極楽往生したと信じられた人物の伝記として往生伝が作られました。

国風美術

絵画では、中国的な技法を用いて日本の風景を描いた大和絵が盛んになり、巨勢金岡飛鳥部常則らが著名であったとされていますが作品は現存していません。工芸では調度品の蒔絵の技法が発達し、仁和寺の三十帖冊子箱などが有名です。

書道では、9世紀の三筆などによる唐様に対し、より穏やかで優美な和様という書体が生まれ、小野道風・藤原佐理・藤原行成などが三蹟とされ、藤原行成の子孫は世尊寺流として代々朝廷に仕えました。

建築では、庭園の中心に阿弥陀堂を配置する寺院建築が発達し、藤原道長が建立した法成寺はその代表例ですが現存していません。道長の子頼通が宇治の別荘に立てた平等院鳳凰堂がその遺構として残っています。鳳凰堂の本尊は、仏師定朝の作である阿弥陀如来ですが、定朝は多くの仏像制作を行うため、仏像の各パーツを別々の職人に作らせ、その後一つの像にする寄木造を完成させました。極楽往生を目指す人々が多かったことから、阿弥陀如来が往生しようとする人々を迎えに来臨する来迎図が描かれ、高野山の聖衆来迎図がその代表例となりました。

貴族の生活

9世紀〜10世紀ころには、貴族の住まいは寝殿造という形式の邸宅になりました。衣服では、男子の正装として束帯、これを簡略化した衣冠が、略装として直衣・狩衣が着られるようなりました。女性の正装は女房装束(十二単)で、略装として小袿が着られるようなりました。

食生活では、仏教の影響で牛馬が避けられ、鳥や魚を副菜として、強飯や姫飯が食べられました。

貴族は、ほとんどの場合母の実家で養育され、10〜15歳で男子は元服、女子は裳着という成人式をあげました。その後、はじめ男性が女性のもとに通い、一定の期間を経て結婚する招婿婚という方法で結婚しました。また、浄土教の広まりとともに、晩年は出家する貴族も多く、穢れを極端に避け、怪異などを物忌とし恐れ、外出に際しては悪い方角を避け自邸から別の場所に移る方違を行い、陰陽道などの俗信に左右される貴族も多かったといわれています。



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