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ホイッグ党とは わかりやすい世界史用語2715
著作名: ピアソラ
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ホイッグ党の起源

イギリスの政治史にその名を刻むホイッグ党は、近代的な自由主義の源流を形作った重要な存在です。19世紀半ばに自由党へと発展的に解消するまで、約150年間にわたり、トーリ党と共にイギリスの政治を二分する大きな潮流を形成しました。ホイッグ党の物語は、単なる政党の歴史ではありません。それは専制政治への抵抗、議会の権利の擁護、そして個人の自由の追求という、近代社会の根幹をなす理念が、いかにして生まれ、育まれていったかの物語でもあります。その起源は、トーリ党と同じく、17世紀後半のイングランドを揺るがした王位継承と宗教をめぐる深刻な対立の中にありました。



王政復古と反カトリック感情

ホイッグ党誕生の土壌を理解するには、1660年の王政復古後のイングランドに目を向ける必要があります。清教徒革命と共和政の混乱を経て、チャールズ2世が王位に就き、君主制が復活しました。国民の多くは安定を望みましたが、革命の記憶は生々しく、国王の権力と臣民の権利をめぐる緊張は続いていました。 この時代のイングランド社会を覆っていたのは、根深い反カトリック感情でした。プロテスタントが多数派を占めるこの国で、カトリックは単なる異教ではありませんでした。それは外国の強国、特にフランスやスペインと結びついた、国家の独立と自由を脅かす危険な思想と見なされていたのです。16世紀の宗教改革以来、カトリック教徒による陰謀や迫害の物語は、国民的な恐怖の対象として語り継がれていました。 この恐怖が政治的な爆発点に達したのは、王位継承問題がきっかけでした。チャールズ2世には正妻との間に子供がおらず、王位は弟のヨーク公ジェームズに継承される見込みでした。しかし、このジェームズは公然とカトリックに改宗していたのです。カトリック教徒の国王が誕生すれば、イングランドは再びローマ教皇の支配下に入り、フランスのような絶対君主制が敷かれ、議会が持つ自由や国民の権利が失われるのではないか。そうした不安が国中に広がっていきました。

王位継承排除危機とシャフツベリ伯

この国民的な不安を巧みに組織し、政治的な力へと変えたのが、シャフツベリ伯アンソニー=アシュリー=クーパーという野心的な政治家でした。彼は、1678年に捏造された「カトリック陰謀事件」を最大限に利用します。この事件は、カトリック教徒が国王暗殺を企んでいるという全くの虚報でしたが、反カトリックのヒステリーを煽り、シャフツベリ伯に絶好の機会を与えました。 シャフツベリ伯は、この危機を背景に、ヨーク公ジェームズを王位継承から排除することを目的とする法案、「王位継承排除法案」を議会に提出します。この法案を推進する運動こそが、イングランドにおける最初の本格的な政党政治の始まりであり、「王位継承排除危機」(1679年から1681年)として知られる激しい政治闘争の幕開けでした。

シャフツベリ伯とその支持者たちは、国王の権力は神から直接与えられたものではなく、人民との契約に基づくと主張しました。これはジョン=ロックが後に体系化する社会契約論の先駆けとなる考え方です。彼らは、議会こそが人民の代表であり、国家の安全とプロテスタント宗教を守るためには、たとえ正統な王位継承者であっても、その権利を剥奪する権限を持つと論じました。彼らは、パンフレットの発行、大衆的な請願運動、政治クラブの組織化といった、当時としては画期的な手法を用いて、自らの主張を広め、広範な国民の支持を獲得しようと努めました。

「ホイッグ」という名の誕生

このシャフツベリ伯の急進的な運動に対し、神授王権と正統な王位継承の原則を固守する勢力が激しく反発しました。彼らは、議会が王位継承に介入することは、神の定めた秩序を乱し、国家を再び内戦の混乱に陥れるものだと非難しました。こうして、イングランドの政治エリートは、王位継承排除法案を支持する側と反対する側に真っ二つに割れたのです。 この対立の中で、互いを罵倒するための蔑称として「ホイッグ」と「トーリ」という言葉が生まれました。 「ホイッグ」という言葉は、元々はスコットランドで使われていた「ホイッガモア」という言葉の短縮形です。これは馬を追う際の掛け声とも、乳清を意味するとも言われ、やがて国王の権威に反抗する長老派の過激な信徒たちを指す蔑称として使われるようになりました。王位継承排除法案に反対する人々は、シャフツベリ伯とその支持者たちを、かつてチャールズ1世に反旗を翻したスコットランドの反乱分子になぞらえ、彼らを「ホイッグ」と呼んで侮辱したのです。それは、彼らが君主制と国教会を転覆させようと企む、危険な反逆者だという非難を込めたレッテルでした。 一方、ホイッグ側も、対抗勢力をアイルランドのカトリック教徒のゲリラ兵を指す「トーリ」と呼び、彼らがカトリックの専制政治の手先だと罵りました。 初めは単なる悪口だったこれらの言葉は、しかし、やがてそれぞれの陣営が自らのアイデンティティとして受け入れ、イギリス政治史に深く刻まれていくことになります。議会の権利を擁護し、カトリックの専制に抵抗し、ヨーク公ジェームズの王位継承に反対した人々。それが最初の「ホイッグ党」でした。彼らは、一部の大貴族、都市の商人や金融業者、そして国教会に属さないプロテスタント非国教徒(ディセンター)といった、より動的で新しい社会階層に支持基盤を持っていました。彼らは、土地に根差した伝統的な秩序を重んじるトーリ党とは対照的に、商業の自由、個人の権利、そして宗教的な寛容(ただしカトリックは除く)といった価値を重視していたのです。 王位継承排除危機は、最終的にチャールズ2世が議会を解散し、シャフツベリ伯らを弾圧したことで、国王側の勝利に終わりました。しかし、この闘争を通じて生まれたホイッグの理念と政治的手法は、決して消えることはありませんでした。それは、来るべき名誉革命の思想的な土台となり、その後のイギリスの立憲君主制を形作っていく力強い潮流となったのです。

ホイッグ党の思想と原則

17世紀末に誕生したホイッグ党は、その対抗勢力であるトーリ党と同様、厳密な党規約や綱領を持つ近代政党ではありませんでした。それはむしろ、共通の敵、すなわち「専制政治とカトリック」への抵抗という一点で結びついた、多様な人々の連合体でした。しかし、その根底には、後の自由主義へと発展していく、一貫した思想的原則が存在していました。それは、権威よりも自由を、伝統よりも進歩を、そして国王の特権よりも議会の権利を重んじる、革新的な世界観でした。

議会の主権と抵抗権

ホイッグ思想の核心にあったのは、「議会の主権」という考え方です。トーリ党が国王の権威は神に由来すると信じたのに対し、ホイッグ党は、統治の正統性は統治される者、すなわち人民の同意に基づくと考えました。そして、その人民の意思を代表する唯一の正統な機関が議会であると主張したのです。 この思想は、王位継承排除法案を正当化する論理的根拠となりました。国家の安全と国民の自由が、世襲の原則という形式的な正統性よりも優先されるべきだと彼らは考えました。議会は、国民の基本的な権利を守るためであれば、王位継承の順序にさえ介入する権利を持つ。これは、国王大権に対する議会優位の原則を明確に打ち出すものでした。 そして、この議会主権の理念と密接に結びついていたのが「抵抗権」の思想です。ホイッグ党は、トーリ党が掲げた「受動的服従」の教義を真っ向から否定しました。彼らは、君主が人民との契約を破り、専制君主として国民の生命、自由、財産を不当に侵害するならば、人民にはその暴政に抵抗し、場合によっては君主を廃位させる権利があると主張しました。これは、清教徒革命の記憶を肯定的に捉え、国民が自らの自由を守るために立ち上がることを正当化する、極めて急進的な思想でした。この抵抗権の思想は、1688年の名誉革命において、ジェームズ2世の追放を正当化する中心的なイデオロギーとなったのです。

宗教적寛容と反カトリック

ホイッグ党のもう一つの重要な柱は、「宗教的寛容」の原則でした。ただし、これには大きな留保がつきます。彼らが寛容を求めたのは、あくまでプロテスタント内部の宗派、すなわちイングランド国教会に属さない非国教徒(ディセンター)に対してでした。 ホイッグ党の支持基盤の重要な部分を占めていたのが、これらの非国教徒でした。彼らは、長老派、バプテスト派、クエーカー教徒など、多様な宗派に分かれていましたが、国教会による画一的な支配に反対し、「良心の自由」を求める点で一致していました。彼らは、審査法や自治体法によって公職から排除され、様々な社会的差別を受けていましたが、商工業の世界で経済的な力をつけ、ホイッグ党の有力な支持団体となっていたのです。ホイッグ党は、彼らの市民権を完全に回復させ、その宗教的実践の自由を保障することを重要な政策課題としました。 しかし、ホイッグ党の「寛容」は、カトリック教徒には決して向けられませんでした。彼らにとって、カトリックは寛容の対象ではなく、撲滅すべき脅威でした。反カトリック主義は、ホイッグ党のアイデンティティの根幹をなす、最も強力な情熱だったと言っても過言ではありません。彼らは、カトリックを、個人の理性を否定し、盲目的な服従を強いる、精神的な奴隷制であると見なしました。そして、政治的には、それは常に外国勢力と結びつき、議会の自由を破壊する絶対君主制をもたらすものだと信じていました。 この強烈な反カトリック感情は、ホイッグ党が、本来であれば相容れないはずの多様なグループを一つにまとめる、強力な接着剤の役割を果たしました。世俗的な考えを持つ大貴族も、敬虔な非国教徒の商人も、「ローマ教皇の専制」への共通の恐怖によって、ホイッグの旗の下に結集したのです。

商業の重視と「金融利益」

トーリ党が土地に根差した地主階級(ジェントリ)の利益を代表し、農業こそが国家の富の源泉だと考えたのに対し、ホイッグ党は、商業、貿易、そして金融の重要性を強く認識していました。彼らの支持基盤には、ロンドンを中心とする都市の商人、金融業者、および新興の産業家たちが数多く含まれていました。 彼らは、国家の力は、土地の広さではなく、貿易の活発さや信用制度の発達によって測られると考えました。17世紀末から18世紀にかけて、イングランド銀行の設立(1694年)や国債制度の確立など、イギリスの「金融革命」を主導したのは、まさにホイッグ的な思想を持つ人々でした。彼らは、これらの新しい金融システムが、政府の資金調達能力を飛躍的に高め、特にフランスとの長期にわたる戦争を遂行する上で不可欠な力となると理解していました。 このため、トーリ党はしばしばホイッグ党を、土地に根を持たない「金融利益」の代弁者だと非難しました。彼らは、ホイッグ党の政策が、国債の利子で不労所得を得る投機家や、戦争によって利益を得る商人たちを肥えさせる一方で、土地に課される重税に苦しむ地主階級を犠牲にしていると攻撃したのです。この「土地利益」対「金融利益」という対立軸は、18世紀を通じて、トーリ党とホイッグ党の間の重要な社会経済的な断層線となりました。 これらの原則、すなわち議会の主権、抵抗権、プロテスタントへの寛容、強烈な反カトリック主義、そして商業と金融の重視は、ホイッグ党の思想的な輪郭を形作りました。それは、伝統的な階層社会に挑戦し、より流動的で、商業的な、そして個人の自由が尊重される新しい社会のビジョンを提示するものでした。このビジョンは、1688年の名誉革命によって、決定的な勝利を収めることになります。

名誉革命とホイッグ党の勝利

1685年にカトリック教徒のジェームズ2世が即位すると、ホイッグ党が長年警告してきた悪夢が現実のものとなりました。ジェームズ2世は、審査法を無視してカトリック教徒を要職に任命し、国王の権限で法律を停止する「信仰自由宣言」を発布するなど、プロテスタント支配の国制を根底から覆そうとしました。 当初、ジェームズ2世の専制的な政策に最も激しく抵抗したのは、皮肉にも、国王への忠誠を誓っていたトーリ党とイングランド国教会でした。しかし、ジェームズ2世の行動がエスカレートし、1688年にカトリックの王子が誕生してカトリック王朝の永続が現実味を帯びると、追放され雌伏の時を過ごしていたホイッグ党の指導者たちに、絶好の機会が訪れます。 彼らは、トーリ党内の不満分子と連携し、オランダ総督ウィレム3世(ウィリアム)に軍事介入を要請しました。プロテスタントの擁護者であるウィリアムが軍を率いてイングランドに上陸すると、ジェームズ2世は戦わずしてフランスに亡命。こうして、ほとんど血を流すことなく体制転換が達成された「名誉革命」は、ホイッグ党の理念の完全な勝利を意味しました。

革命体制の確立

革命後に召集された仮議会では、空位となった王位の扱いをめぐり、ホイッグ党とトーリ党の間で激しい議論が交わされました。トーリ党が、国王を廃位することへの法的な、そして神学的なためらいを見せたのに対し、ホイッグ党は明確な理論と断固たる意志を持って議論を主導しました。 ホイッグ党は、ジェームズ2世が人民との「根源的な契約」を破り、王位を「放棄」したため、王位は「空位」になったと主張しました。そして、この空位の王位を誰に与えるかを決定する権利は、人民を代表する議会にあると論じたのです。これは、まさに王位継承排除危機の際に彼らが掲げた、議会主権の原則そのものでした。 最終的に、議会はホイッグ党の主張を受け入れ、ウィリアムとメアリー(ジェームズ2世のプロテスタントの娘)を共同統治者として即位させることを決定しました。そして、即位の条件として、新しい国王に「権利の宣言」への同意を求めました。これは後に「権利の章典」として法制化され、イギリスの立憲君主制の基礎を築く画期的な文書となります。 権利の章典は、ホイッグ党の政治理念の集大成でした。それは、議会の同意なしに国王が法律を停止したり、課税したり、常備軍を維持したりすることを禁じました。また、議会選挙の自由、議会内での言論の自由、そして国民が国王に請願する権利を保障しました。これらの条項は、国王の専断的な権力に法的な足かせをはめ、議会の優位性を恒久的なものとして確立しようとする、ホイッグ党の長年の悲願の達成でした。 さらに、1689年には「寛容法」が制定され、プロテスタント非国教徒に信教の自由が保障されました。これもまた、ホイッグ党の重要な支持基盤である非国教徒の要求に応えるものでした。名誉革命によって確立された新しい政治体制、すなわち「革命体制」は、あらゆる面でホイッグ党の勝利の記念碑だったのです。

ホイッグ・ジャンタと党派政治の激化

ウィリアム3世の治世下で、ホイッグ党は政権の中枢を担うようになります。特に1690年代半ばには、「ホイッグ・ジャンタ」として知られる、強力な指導者グループが台頭しました。サマーズ卿、ハリファックス卿、ウォートン卿、ラッセル提督といった人々です。彼らは、ウィリアム3世が進める対フランス戦争(九年戦争)を熱心に支持し、その莫大な戦費を賄うために、イングランド銀行の設立や国債制度の整備といった「金融革命」を主導しました。 彼らは、イギリス史上初めて、明確な党派的基盤に基づいて政権を運営しようと試みた人々でした。彼らは、国王の信任を得るだけでなく、議会、特に庶民院で安定した多数派を形成することの重要性を認識していました。そして、政府の役職をホイッグ党の支持者で固め、党の結束を高めることで、政策を効率的に遂行しようとしたのです。 しかし、このホイッグ党の優位は、トーリ党との党派対立をますます激化させました。トーリ党は、ホイッグ党が進める戦争と、それに伴う増税や国債の増大を激しく非難しました。彼らは、ホイッグ党を、土地所有者の利益を犠牲にして、金融業者や戦争成金を肥えさせる腐敗した党派だと攻撃しました。また、ホイッグ党が非国教徒に寛容な態度を示すことを、「国教会が危機に瀕している」と訴え、宗教的な対立を煽りました。 この時期、選挙は数年ごとに行われ、そのたびにホイッグ党とトーリ党は、パンフレットや新聞、風刺画といったあらゆるメディアを駆使して、互いを中傷し合う激しい選挙戦を繰り広げました。党派心は社会の隅々にまで浸透し、人々はコーヒーハウスや酒場で熱心に政治を論じ合いました。名誉革命は、国王と議会の関係を安定させましたが、その一方で、イギリス社会を二分する、激しい党派政治の時代をもたらしたのです。 アン女王の治世(1702年から1714年)になると、女王自身がトーリ党に好意的だったこともあり、政権はトーリ党の手に渡ります。しかし、ホイッグ党は野党として、スペイン継承戦争の遂行を強く主張し続けました。そして、アン女王の死が近づくと、彼らはハノーヴァー家への王位継承を断固として擁護し、ジャコバイト(ステュアート家支持者)への共感を疑われるトーリ党と対決しました。この王位継承問題における断固たる姿勢が、ホイッグ党に長期的な政治的覇権をもたらすことになるのです。

ホイッグ優位の時代

1714年、アン女王が亡くなり、ドイツのハノーファー選帝侯がジョージ1世として即位すると、イギリスの政治風景は一変します。新しい国王は、自らの王位継承に協力的でなかったトーリ党を全く信用せず、革命体制とハノーヴァー朝の王位を断固として擁護したホイッグ党に、絶大な信頼を寄せました。ここから、約半世紀にわたる「ホイッグ優位」の時代が始まります。この時代、ホイッグ党は単なる一政党ではなく、国家の支配エリートそのものとなり、イギリスの政治、社会、文化のあらゆる側面にその影響力を及ぼしました。

ロバート=ウォルポールと安定の政治

ホイッグ優位の時代を象徴する人物が、ロバート=ウォルポール卿です。彼は、1721年から1742年までの20年以上にわたり、事実上の初代首相としてイギリスを率いました。ウォルポールは、イデオロギー的な情熱よりも、現実的な安定を何よりも重視する、プラグマティックな政治家でした。彼は、名誉革命とハノーヴァー朝の継承によって確立された新しい体制を維持し、それを脅かす可能性のあるあらゆる混乱を避けることを、自らの政治の基本方針としました。 彼の有名なモットーは「眠れる犬は寝かせておけ」というものでした。これは、宗教問題のような、党派対立を再燃させかねない論争的な問題には極力触れず、平穏を保つことを意味しました。彼は、非国教徒からの審査法廃止の要求を退け、一方で、審査法の適用を事実上免除する「免償法」を毎年制定することで、彼らの不満を和らげました。 外交面では、ウォルポールは平和主義を貫きました。彼は、戦争が国内の政治的分裂と経済的負担をもたらすことを熟知しており、可能な限り外交交渉によって紛争を解決しようと努めました。この長期にわたる平和な時代は、イギリスの商業と産業が大きく発展するための基盤を提供しました。 ウォルポールの長期政権の秘訣は、他が築き上げた巧みな政治運営システムにありました。彼は、国王の信任を盤石なものとすると同時に、議会、特に庶民院における多数派を維持するために、あらゆる手段を講じました。彼は、政府が持つ官職や恩給といった「パトロネージ(後援)」を巧みに利用して、議員たちの支持を確保しました。政府の役職、軍の階級、教会の聖職禄、植民地のポストなど、国王の名の下に与えられる様々な「うまみ」を、自らを支持する議員たちに分配することで、安定した「コート派(宮廷派)」、すなわち政府支持勢力を形成したのです。 このウォルポールのシステムは、反対派からは「腐敗」の温床として激しく非難されました。野党となったトーリ党や、ウォルポールに反発するホイッグ党内の反主流派は、他が金と官職で議会の独立性を蝕み、自由な国制を専制政治に変えようとしていると攻撃しました。彼らは、古代ローマの共和政の徳を引き合いに出し、ウォルポール政権下のイギリスを、贅沢と腐敗によって堕落した社会だと嘆きました。しかし、ウォルポールの支配は揺るがず、彼の時代に、首相が内閣を率いて議会に責任を負うという、後の議院内閣制の原型が形作られていったのです。

ホイッグの分裂と「愛国者」の野党

ウォルポールの長期支配は、ホイッグ党の内部に深刻な亀裂を生み出しました。ウォルポールがパトロネージを独占し、自分に近い人々にしか恩恵を与えなかったため、権力の中枢から排除された多くの有能なホイッグ政治家が、不満を募らせていきました。彼らは、ウォルポールに反対するトーリ党と手を組み、「愛国者」と呼ばれる野党勢力を形成しました。 この「愛国者」野党には、ウィリアム=パルトニーのようなホイッグの反主流派や、ウィリアム=ウィンダムのようなトーリ党の指導者、そして亡命先から帰国したボリングブルック子爵のような思想家が含まれていました。彼らは、ウォルポールの平和主義的な外交を「弱腰」だと非難し、スペインとの海上での対立において、より強硬な姿勢をとるよう求めました。彼らは、イギリスの商業的利益と国家の名誉を守るためには、戦争も辞さないと主張したのです。 また、彼らはウォルポール政権の「腐敗」を攻撃し、官職を持つ者が議席を持つことを制限する「官職法案」や、腐敗した選挙区を改革するための法案を提出しました。彼らは、ウォルポールによって歪められた「革命の原則」を回復し、真に独立した、徳の高い議会を取り戻すべきだと訴えました。 この「愛国者」たちの執拗な攻撃は、やがて実を結びます。1739年、世論の圧力に屈したウォルポールは、不本意ながらスペインとの戦争(「ジェンキンスの耳の戦争」)に踏み切らざるを得なくなりました。戦争の遂行がうまくいかない中で、彼の求心力は急速に低下し、1742年、ついに辞職に追い込まれました。 ウォルポールの辞職後も、ホイッグ党の優位は続きました。しかし、党はもはや一枚岩ではありませんでした。ペラム兄弟(ヘンリー=ペラムとニューカッスル公)が後継の政権を担いましたが、彼らはウォルポールほどの強力な指導力を発揮することはできず、党内の様々な派閥との妥協や連立によって、かろうじて政権を維持する状態でした。

大ピットと七年戦争

このホイッグ党内の派閥抗争の中から、新しいタイプの指導者が登場します。ウィリアム=ピット(大ピット)です。彼は、ウォルポールに反対した「愛国者」野党の一員として頭角を現した人物で、その雄弁さと清廉潔白さで、国民的な人気を博していました。 ピットは、従来のホイッグ党の寡頭支配層とは一線を画し、党派的な駆け引きよりも、国家の栄光と商業帝国の拡大を追求することを公言しました。彼は、1756年に始まった七年戦争において、その卓越した戦争指導能力を発揮します。彼は、ヨーロッパ大陸での戦闘は同盟国に任せ、イギリスの海軍力と財政力を、北アメリカ、インド、カリブ海といった海外での植民地獲得に集中させるという壮大な戦略を立てました。 彼の戦略は大当たりし、イギリスはフランスとの世界的な植民地戦争に圧勝しました。カナダ、フロリダ、およびインドにおけるフランスの拠点を次々と奪い、大英帝国の基礎を築き上げたのです。ピットは「偉大な平民」と呼ばれ、その功績は、党派を超えて国民的な英雄として称えられました。 ピットの成功は、ホイッグ党の政治が、内向きの安定志向から、外向きの帝国拡大へと、その焦点を移していく転換点を示していました。しかし、この帝国の拡大は、やがて新たな問題を生み出します。広大になった帝国をいかに統治し、その防衛費をどう賄うかという問題です。この難問が、ホイッグ党の黄金時代に終焉をもたらし、イギリスをアメリカ独立革命という、次なる大きな危機へと導いていくことになるのです。

ホイッグ党の変容と衰退

1760年のジョージ3世の即位は、ホイッグ優位の時代に大きな転換点をもたらしました。イギリスで生まれ育った新しい国王は、特定の党派に依存する政治を嫌い、自らが政治の主導権を握ろうとしました。この国王の姿勢は、長年政権を独占してきたホイッグ党の寡頭支配体制を揺るがし、党は分裂と再編の時代へと突入します。アメリカ独立、フランス革命といった激動の時代を経て、かつてのホイッグ党は、その姿を大きく変え、やがて歴史の舞台から去っていくことになりました。

ジョージ3世と党派の分裂

ジョージ3世は、ホイッグ党の特定の派閥が政権を牛耳る状況を打破しようとしました。彼は、党派を超えて「国王の友」と呼ばれる、自らに忠実な政治家たちを登用し、内閣の構成に積極的に介入しました。これにより、ホイッグ党は、ニューカッスル公派、ピット派、グレンヴィル派、ロッキンガム侯派など、指導者の名前を冠したいくつもの派閥に分裂し、互いに権力闘争を繰り広げるようになります。 この政治的混乱の中で、アメリカ植民地に対する政策が揺れ動きました。印紙法(1765年)に代表される、植民地への課税強化策は、植民地の激しい抵抗を招きます。ロッキンガム侯を指導者とするホイッグの一派は、商業への打撃を懸念し、植民地との和解を主張しました。彼らの思想的支柱となったのが、アイルランド出身の政治家・思想家であるエドマンド=バークでした。バークは、植民地に課税する議会の法的な権利は認めつつも、それを実際に行使することは「賢明ではない」と主張し、現実的な妥協の必要性を説きました。 しかし、国王と議会の多数派は、議会の主権を断固として守るべきだと考え、植民地に対して強硬な姿勢をとり続けました。この対立は、ついに1775年のアメリカ独立戦争の勃発へと至ります。戦争中、チャールズ=ジェームズ=フォックスに率いられたホイッグ党の急進派は、公然とアメリカの独立を支持し、ノース卿の政府を激しく攻撃しました。彼らは、アメリカの自由のための戦いは、イギリス本国における専制政治との戦いと軌を一にするものだと捉えたのです。

フランス革命とホイッグ党の分裂

アメリカ独立戦争の敗北後、ホイッグ党は一時的に政権を奪還しますが、国王との対立などから長続きせず、1783年にはウィリアム=ピット(小ピット)に政権を奪われます。ピットは、かつてのトーリ党の伝統を受け継ぎつつ、新しい時代の保守主義を形成し、長期政権を築き上げました。フォックス率いるホイッグ党は、再び野党の立場に追いやられます。 そして、1789年に勃発したフランス革命は、ホイッグ党に最終的かつ決定的な分裂をもたらしました。 フォックスとその支持者たちは、フランス革命を、1688年のイギリス名誉革命の再来と捉え、熱狂的に歓迎しました。彼らは、バスティーユ牢獄の陥落を「世界で最も偉大な、最も素晴らしい出来事」と称賛し、フランスの革命家たちが、自由、平等、人民主権といった普遍的な原理のために戦っていると考えました。彼らは、イギリスでも、より急進的な議会改革(腐敗選挙区の廃止や選挙権の拡大)を進めるべきだと主張しました。 これに対し、エドマンド=バークを中心とするホイッグ党の保守派は、フランス革命に深刻な恐怖と嫌悪を抱きました。バークは、1790年に出版した『フランス革命の省察』の中で、フランス革命を、イギリスの名誉革命とは全く異質の、危険な破壊活動だと断じました。彼は、フランスの革命家たちが、抽象的な「人間の権利」を振りかざし、国の歴史、伝統、宗教、財産といった、社会を支える全てのものを破壊していると非難しました。そして、このような急進主義は、やがて無政府状態と軍事独裁に行き着くと予言したのです。バークは、社会は慎重な改革を通じて徐々に変化していくべきであり、性急な革命は常に悲劇をもたらすと警告しました。 このフランス革命をめぐる対立は、ホイッグ党を二つに引き裂きました。1794年、ポートランド公やバークといった保守派の指導者たちは、フランスとの戦争を遂行するピット政権への支持を表明し、フォックス派と袂を分かって、連立政権に参加しました。これは、18世紀を通じてイギリス政治を規定してきた、ホイッグとトーリという党派の枠組みが、事実上崩壊したことを意味しました。バークの思想は、古いホイッグの伝統から離れ、ピットが率いる新しい「保守党」のイデオロギー的基盤となっていったのです。

19世紀の改革と自由党への道

フランス革命とナポレオン戦争の時代を経て、野党として少数派に転落したホイッグ党は、グレイ伯チャールズ=グレイのような指導者の下で、「改革」を党の旗印として再結集します。彼らは、カトリック解放、選挙制度改革、奴隷制廃止といった、リベラルな改革を訴え続けました。 1830年、長年のトーリ(保守党)支配が終わり、グレイ伯を首相とするホイッグ党政権が誕生します。彼らが成し遂げた最大の功績が、1832年の「第一次選挙法改正」でした。この改革は、産業革命によって生まれた新しい工業都市に議席を配分し、中産階級に選挙権を拡大するもので、イギリスの政治を、貴族支配から、より近代的な民主主義へと移行させる、画期的な一歩となりました。 この改革法を成立させた後も、ホイッグ党は、1833年の植民地における奴隷制廃止、1834年の救貧法改正、1835年の自治体改革など、一連の重要な改革を断行しました。この過程で、ホイッグ党は、もはやかつての貴族的な派閥ではなく、より幅広い層を代表する改革政党へと、その性格を変えていきました。 そして、1830年代後半から、ホイッグ党は、より急進的な改革を求める「急進派」や、ロバート=ピールの離党後に保守党から分裂した自由貿易主義者の「ピール派」といったグループと、次第に連携を深めていきます。これらのグループは、出自も主張も様々でしたが、自由貿易の推進、政府支出の削減、およびさらなる政治的・宗教的自由の拡大といった点で、共通の目標を持っていました。 1859年、これらのホイッグ、急進派、ピール派の各勢力が、ロンドンのウィリスの集会室に集まり、ダービー伯の保守党少数派政権を打倒するために、正式に連合することを決定しました。これが、近代的な「自由党」の誕生の瞬間でした。パーマストン卿やジョン=ラッセル卿といった、最後の偉大なホイッグ貴族が初代、二代の党首を務めましたが、党の実質的な中身は、もはや古いホイッグの寡頭制とは異なっていました。 新しい自由党の魂となったのは、ウィリアム=グラッドストンのような、敬虔な道徳心と改革への情熱を持つ、新しいタイプの政治家でした。彼は、中産階級や労働者階級の道徳的なエネルギーを政治の力へと転換させ、自由党を、ヴィクトリア朝時代のイギリスにおける進歩と改革の主要な担い手へと育て上げていきました。 こうして、17世紀の王位継承をめぐる闘争の中から生まれたホイッグ党は、その歴史的な役割を終え、より近代的で包括的な自由党へと、その精神と支持者たちを引き継いでいきました。専制への抵抗、議会の権利、個人の自由といった、ホイッグが掲げた理念は、自由党の政策の中に生き続け、その後のイギリス、そして世界の立憲民主主義の発展に、計り知れない影響を与え続けることになったのです。

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