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内閣とは わかりやすい世界史用語2732 |
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著作名:
ピアソラ
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内閣とは
王の側近会議の誕生
イギリス内閣の最も遠い祖先は、1066年のノルマン征服後にウィリアム1世によってイングランドに持ち込まれた封建的な統治システムの中に見出されます。ノルマン朝の国王たちは、キュリア=レジス、すなわち「王会」と呼ばれる側近会議と共に国を統治しました。これは、国王が主要な家臣である聖俗の大貴族や高官たちを招集し、統治に関するあらゆる事柄について助言を求めるための会議でした。その機能は立法、行政、司法と未分化であり、メンバーも固定されていませんでした。国王の宮廷が移動するのに伴って、その時々に国王の側にいた有力者が会議に参加する、という非公式な性格のものでした。
時代が下るにつれて、国家の統治機構が複雑化するのに伴い、この万能の王会から専門的な機能を持つ機関が分化していきます。12世紀には、国王の財政を管理する「財務府」が、13世紀には、国王の名において法を司る「王座裁判所」や「民事訴訟裁判所」といった常設の司法機関が生まれます。
そして、これらの専門機関が分化した後も、国王の側近として日常的な政治・行政全般に関する助言を行う中核的なグループが残りました。これが「カウンシル(Council)」、後の「枢密院(Privy Council)」へと発展していきます。14世紀から15世紀にかけて、ランカスター朝やヨーク朝の時代には、このカウンシルは国王の統治における中心的な諮問・執行機関としての役割を担うようになります。しかし、その権威は依然として国王自身の権威に由来するものであり、メンバーは国王によって任意に選ばれ、国王に対してのみ責任を負う存在でした。
枢密院の確立と限界
枢密院が、国王大権を行使する強力な中央行政機関としての地位を確立したのは、16世紀のテューダー朝、特にヘンリー8世(在位1509–1547)とエリザベス1世(在位1558–1603)の治世においてです。トマス=クロムウェルといった有能な行政官の主導の下、枢密院はより組織化され、その権限は国内外の政策決定、法の執行、治安維持、宗教問題など、国家統治のあらゆる側面に及びました。枢密院の命令は、国王の命令として絶対的な効力を持ち、その決定に逆らうことは国王への反逆と見なされました。
しかし、この強力な枢密院にも、効率的な意思決定機関としては構造的な限界がありました。第一に、その規模です。枢密院のメンバーは数十人に及ぶこともあり、全員が一堂に会して密な議論を行うことは困難でした。メンバーの中には、名誉職として名前を連ねているだけで、実際の政策決定にはほとんど関与しない貴族も多く含まれていました。
第二に、その運営の非効率性です。君主は、枢密院全体に諮問するよりも、その中から自らが特に信頼するごく少数の側近たちと、より非公式な形で重要な政策を議論し、決定することを好む傾向がありました。エリザベス1世は、ウィリアム=セシル(バーリー卿)やフランシス=ウォルシンガムといった少数の有能な大臣たちに深く依存していました。このような、枢密院内部に存在する、より小さく、より排他的な政策決定グループの存在は、後の「内閣」の出現を予感させるものでした。
ステュアート朝と「キャビネット」の萌芽
国王の私室での密議
17世紀に入り、スコットランド王ジェームズ6世がジェームズ1世としてイングランド王位を継承し、ステュアート朝が始まると、国王と議会の間の緊張が高まります。ジェームズ1世とその息子チャールズ1世は「王権神授説」を信奉し、自らの大権を絶対的なものとして議会から独立して統治しようと試みました。
この過程で、国王たちは、大規模で扱いにくい枢密院全体よりも、ごく少数の信頼できる寵臣たちに頼って政策を決定する傾向をますます強めていきます。チャールズ1世の治世では、カンタベリー大主教ウィリアム=ロードやストラフォード伯トマス=ウェントワースといった人物が、国王の私的なアドバイザーとして絶大な権力を振るいました。
この、国王が私的な側近と密議を行う場所が、国王の私室や書斎を意味する「キャビネット(Cabinet)」でした。ここから、「キャビネット=カウンシル(Cabinet Council)」、すなわち「私室での会議」に参加する側近グループを指して「キャビネット」という言葉が使われるようになります。当初、この言葉は「陰謀」や「密議」といった否定的なニュアンスを強く含んでいました。議会や国民から見れば、キャビネットは、国制上の正式な機関である枢密院をないがしろにし、国王をそそのかして独裁的な政治を行う、不透明で責任の所在が不明な「陰謀グループ」と映ったのです。この国王の「個人的統治」と、議会に責任を負わない「邪悪な助言者」への反発は、イングランド内戦(1642–1651)の大きな原因の一つとなりました。
カバル内閣の登場
内戦と共和制の時代を経て、1660年にチャールズ2世の下で王政が復古すると、国王の諮問機関のあり方が再び問われます。チャールズ2世は、父チャールズ1世の悲劇を繰り返さないため、議会との協調を重視する姿勢を見せましたが、その一方で、父と同様に形式張った枢密院の会議を嫌い、少数の気心の知れた側近たちとキャビネットで密議を行うことを好みました。
この傾向が最も顕著に現れたのが、1668年頃から1674年頃にかけて政権を主導した、いわゆる「カバル内閣(Cabal ministry)」です。これは、クリフォード、アーリントン、バッキンガム、アシュリー、ローダーデイルという5人の主要大臣の頭文字を綴り合わせたもので、彼らは枢密院内の委員会という公式の地位を利用しつつ、実際には国王と直接結びついて、外交、戦争、宗教といった国家の最重要政策を決定しました。
しかし、彼らは共通の政策理念で結ばれた集団ではなく、国王個人の信任のみを権力の基盤とする、利害と思惑がバラバラな個人の集まりでした。彼らが主導した親フランス・親カトリック政策、特にプロテスタント国オランダに対する戦争や、カトリック教徒を優遇する「信仰自由宣言」は、議会と国民の激しい反発を招きました。議会は、公職者を国教徒に限定する「審査法(Test Act)」を制定してカトリック教徒の大臣を追放し、カバル内閣は崩壊します。
カバル内閣の失敗は、後の内閣制度の発展に重要な教訓を残しました。秘密主義的な密議政治への不信感、そして大臣が国王だけでなく議会の信任をも必要とするという考え方が、この経験を通じて広く共有されるようになったのです。
名誉革命と議会主権
大臣の責任の確立
カバル内閣の後、政権を担ったダンビー伯トマス=オズボーンは、議会、特に庶民院における多数派の支持を組織的に確保しようと試みました。彼は国王の恩顧(パトロネージ)を利用して庶民院内に安定した支持基盤(宮廷党)を築き、政権を運営しました。これは、後の首相による議会運営の先駆けと見なせます。
しかし、ダンビー伯もまた、国王チャールズ2世の二枚舌外交の責任を問われ、議会から弾劾されます。彼が「国王の命令に従っただけだ」と弁明したのに対し、庶民院は「大臣は国王の違法な命令に従う義務はなく、従った場合は大臣自身が責任を負う」という画期的な原則を主張しました。これは、大臣の責任が国王個人に対してではなく、法と議会に対して負われるべきであるという、近代的な「大臣の責任」の原則を確立する上で決定的な一歩でした。
名誉革命の影響
1688年の名誉革命は、イギリスの内閣制度の発展における最大の転換点でした。カトリックの絶対君主制を目指したジェームズ2世が追放され、議会がウィリアム3世とメアリー2世を共同統治者として招請したこの事件は、「王は議会に存し(King in Parliament)」、国王の権力は議会の制定する法によって制限されるという「議会主権」と「立憲君主制」の原則を確立しました。
名誉革命後の「権利の章典(Bill of Rights, 1689)」は、国王が議会の承認なしに法律を停止したり、課税したり、常備軍を維持したりすることを禁じました。これにより、国王は統治のために定期的に議会を召集し、その協力と財政的支援を得ることが不可欠となりました。国王はもはや、議会を無視して統治することはできなくなったのです。
この権力バランスの変化は、国王と議会の間を取り持つ行政機関としてのキャビネットの重要性を飛躍的に高めました。国王は、自らの政策を議会で通し、予算を獲得するために、議会に影響力を持つ有力者を大臣としてキャビネットに登用する必要に迫られました。逆に、大臣たちも、国王の信任を得るだけでなく、議会、特に庶民院の支持を確保しなければ、その地位を保つことができなくなりました。こうして、キャビネットは、国王の私的な諮問機関から、国王と議会の両方に対して責任を負う、公的な性格を帯びた政治機関へと変貌を遂げていったのです。
政党内閣の形成
ホイッグとトーリー
名誉革命以前の王位継承排除法案をめぐる論争の中から生まれたホイッグ党とトーリー党は、名誉革命後、より明確な政党として議会内で活動するようになります。ウィリアム3世は当初、両党から人材を登用する「挙国一致内閣」を試みましたが、フランスとの大同盟戦争を遂行する中で、戦争に積極的なホイッグ党の閣僚たちに次第に依存するようになります。1690年代半ばには、ホイッグ党の有力者たちがキャビネットの要職を占める、いわゆる「ジャントー(Junto)」と呼ばれるグループが政権を主導しました。これは、単一の政党がキャビネットを支配する「政党内閣」の初期の形態と見なされています。
アン女王(在位1702–1714)の時代にも、スペイン継承戦争をめぐってホイッグとトーリーの対立は続き、政権は両党の間を揺れ動きました。この時代を通じて、キャビネットのメンバーは、政治的な信条を共有し、議会内で一致して行動するグループであるべきだという考え方が次第に定着していきました。
ハノーヴァー朝と首相の登場
1714年、アン女王が子供のないまま死去し、ステュアート朝が断絶すると、王位継承法に基づき、ドイツのハノーファー選帝侯ゲオルク=ルートヴィヒがジョージ1世としてイギリス王位に就き、ハノーヴァー朝が始まります。この王朝交代が、内閣制度の発展に決定的な影響を与えました。
ジョージ1世はイギリスの政治に疎く、英語をほとんど話せませんでした。そのため、彼はキャビネットの会議に出席することにほとんど興味を示さず、その運営を主要な大臣たちに委ねるようになりました。国王がキャビネットの議長役を務めなくなるというこの変化は、キャビネットが国王から自立した意思決定機関として機能する上で極めて重要な意味を持ちました。
国王に代わってキャビネットの議論を主導し、その決定を国王に報告し、議会で政府の政策を擁護する役割を担う、主要な大臣、すなわち「第一人者(Prime Minister)」が必要とされるようになったのです。
ウォルポールと近代内閣の確立
初代首相ウォルポール
この「首相」の役割を初めて実質的に、そして長期にわたって担ったのが、ロバート=ウォルポールです。ホイッグ党の指導者であったウォルポールは、1721年に第一大蔵卿に就任し、以後1742年までの21年間にわたり、絶大な権力を行使して政権を維持しました。
ウォルポール自身は「首相」という称号を、国王の権力を奪う者という非難を込めた蔑称と見なし、公式には決して使いませんでした。しかし、彼が果たした役割は、まさしく近代的な首相のそれでした。
第一に、彼は国王ジョージ1世と、その後継者であるジョージ2世の絶大な信任を得て、国王とキャビネットの間の主要な連絡役となりました。国王の権限であった大臣の任免にも大きな影響力を行使し、自分と意見の合わない大臣を排除して、自らの支持者でキャビネットを固めました。
第二に、彼はキャビネットの議論を主導し、政策の一致を求めました。ウォルポール政権下で、キャビネットのメンバーは政府の決定に公には反対できず、もし反対するならば辞職しなければならないという「内閣の連帯責任」の原則が慣習として確立しました。
第三に、彼は庶民院におけるホイッグ党の指導者として、議会運営に責任を持ちました。彼は、官職や年金といった国王のパトロネージを巧みに利用して、庶民院内に安定した多数派を維持し、政府の法案や予算を確実に通過させました。彼の政権は、庶民院の多数派の支持に依存しており、その支持を失ったときが政権の終わりを意味しました。
ウォルポールの辞任と議院内閣制
1739年に始まった対スペイン戦争(ジェンキンスの耳の戦争)の遂行をめぐり、ウォルポールの人気は次第に低下します。そして1741年の総選挙で政府の支持派が議席を減らし、翌1742年、選挙請願に関する採決で庶民院で敗北したことを受けて、ウォルポールは辞職を決意します。
このウォルポールの辞任は、イギリス憲政史上、画期的な出来事でした。彼は国王の信任を失ったわけではありませんでした。しかし、彼は庶民院の支持を失ったために、もはや政権を運営し続けることは不可能だと判断したのです。これは、内閣(および首相)が、国王の信任だけでなく、庶民院の信任に基づいて存立し、庶民院の信任を失えば辞職しなければならないという、議院内閣制の最も重要な原則が確立した瞬間でした。
ウォルポールの時代以降、内閣はもはや単なる国王の助言機関ではなく、議会の多数派を背景に、国王に代わって国家の行政権を担う、独立した政治主体としての地位を確立しました。首相がキャビネットを率い、キャビネットは議会に対して連帯して責任を負うという、現代につながるイギリスの内閣制度の基本構造が、この時期に慣習として確立されたのです。
もちろん、その後の19世紀から20世紀にかけて、選挙権の拡大や政党組織の発達に伴い、内閣と首相の権力はさらに強化されていきます。しかし、その制度的な骨格は、中世の王会から始まり、ステュアート朝の動乱、名誉革命、そしてウォルポールの長期政権という、数世紀にわたる長い進化の旅路の果てに、18世紀半ばにはほぼ完成していたと言えるでしょう。それは、成文の法典ではなく、歴史的な経験と政治的な知恵の積み重ねによって築き上げられた、イギリス憲政の最も重要な遺産の一つなのです。
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