外敵との攻勢と領土拡張
その後9世紀に入ると、
バシレイオス1世(867~886)が開いたマケドニア朝の時代になります。
この時代、ビザンツの軍隊は強力になり、イスラム勢力から南イタリアの一部を獲得し、北方のブルガリア帝国を滅ぼし、ビザンツ帝国の領土は急激に拡張します。
征服地はテマ制によって統治され、一時平和な時代を迎えました。
ところが、周辺地域で、次第に大土地所有者が現れ、土地を失った自由農民が増加してしまいます。
古代ギリシアの時と同じように、自由農民の没落は国内の混乱を招いてしまいます。
内部では、貴族と宮廷の内紛、セルビアやブルガリアなどの反乱に苦しめられる一方で、
セルジューク朝が小アジアに進出、南イタリアにもノルマン人が侵入し、ビザンツ帝国は内と外から衰退しはじめます。
(ビザンツ帝国の版図の変遷)
衰退のはじまり
このような状況の中、ビザンツ帝国の衰退が加速します。
コムネノス朝を開いた
アレクシオス1世(位1081~1118)は、11世紀末に宮廷の内紛の末、帝位につきました。
彼は、国内の混乱を抑えるために、貴族たちに軍事奉仕を条件に公有地の管理を任せるという
プロノイア制を導入し、一時国内は平穏を取り戻しました。
プロノイア制は、西ヨーロッパの封建制度に似ていましたが、初めは一代限りだった土地の管理が、次第に世襲が認められるようになったため、結果的に帝国の分裂を促すことになりました。
一方、セルジューク朝の侵攻に頭を悩ませたアレクシオスは、対立が続いていた西ローマ教会に救援を求めます。
この救援要請が、のちの
十字軍遠征のきっかけになりました。
十字軍は一時期聖地を奪還することに成功しますが、
第4回十字軍ではヴェネツィア商人の進言によりコンスタンティノープルが略奪後占領され、一時ビザンツ帝国が失われます。この時第4回十字軍がコンスタンティノープルを都として創ったのが
ラテン帝国です。
この時、ビザンツ帝国とヴェネツィアは東方貿易の商圏を争っていました。第4回十字軍はそのような背景からヴェネツィアの意をくみ、コンスタンティノープルを攻めたのです。
(『コンスタンティノープルの陥落』 ドラクロワ作)
ビザンツ帝国の残存勢力は
ニケーア帝国をおこし、1261年にジェノヴァの支援を受けコンスタンティノープルを奪還し、ビザンツ帝国の再興を果たしました。