更級日記
東山
かへる年、むつきの司召(つかさめし)に、親の喜びすべきことありしに、かひなきつとめて、同じ心に思ふべき人のもとより、
「さりともと思ひつつ、あくるを待ちつる心もとなきに」
といひて、
あくる待つ鐘の声にも夢さめて 秋のもも夜の心地せしかな
といひたる返りごとに、
あかつきをなにに待ちけむ思ふこと なるともきかぬ鐘の音ゆゑ
四月のつごもりがた、さるべき故ありて、東山なる所へうつろふ。道のほど、田の苗代水まかせたるも、植ゑたるも、なにとなくあおみ、をかしう見えわたりたる。山のかげくらう、前ちかう見えて、心細くあはれなる夕暮、水鶏(くひな)いみじく鳴く。
たたくとも誰かくひなのくれぬるに 山路をふかくたづねてはこむ
霊山ちかき所なれば、詣でてをがみたてまつるに、いと苦しければ、山寺なる石井によりて、手にむすびつつのみて、
「この水のあかずおぼゆるかな」
といふ人あるに、
奥山の石間の水をむすびあげて あかぬものとは今のみや知る
といひたれば、水のむ人、
山の井のしづくににごる水よりも こはなほあかぬ心地こそすれ
かへりて夕日けざやかにさしたるに、都の方ものこりなく見やらるるに、この雫ににごる人は、京にかへるとて、心苦しげに思ひて、まだつとめて、
山の端に入日の影は入りはてて 心細くぞながめやられし
念仏する僧の、あかつきにぬかづく音のたうとくきこゆれば、戸をおしあけたれば、ほのぼのと明け行く山ぎわ、こぐらき梢ども霧りわたりて、花紅葉の盛りよりも、何となく繁りわたれる空のけしき、くもらはしくをかしきに、ほととぎすさへ、いと近き梢に、あまたたび鳴いたり。
誰に見せたれにきかせむ山里の このあかつきもをちかへる音も
このつごもりの日、谷の方なる木の上に、ほととぎすかしがましく鳴いたり。
都にはまつらむものをほととぎす けふ日ねもすに鳴き暮らすかな
などのみながめつつ、もろともにある人、
「ただ今京にも聞きたらむ人あらむや、かくてながむらむと、思ひおこする人あらむや」
などいひて、
山深くたれか思ひはおこすべき 月見る人はおほからめども
といへば
深き夜に月見るをりは知らねども まづ山里ぞ思ひやらるる
暁になりやしぬらむと思ふほどに、山の方より、人あまたくるおとす。驚きて見やりたれば、鹿の、縁のもとまできて、うち鳴いたる、ちかうてはなつかしからぬものの声なり。
秋の夜のつまこひかぬる鹿の音は 遠山にこそきくべかりけれ
知りたる人の、ちかきほどにきてかへりぬときくに、
まだ人目しらぬ山辺のまつかぜも 音してかへるものとこそきけ