日露戦争
日露戦争とは、日本とロシアが朝鮮半島と満洲で起こした戦争のことです。
大国ロシアと小国日本の戦い、どうみてもロシアが優勢という状況をはねのけ、日本はこの戦争で互角以上の戦いを繰り広げます。
この戦いが、どのように終結していったのかについて、当時の両国の情勢からみてみましょう。
戦前の両国
戦前の日本
日本は、開戦にあたって相当額の借金をしていました。
もともと大国ロシアと小国日本との戦いで、ロシアが勝利するだろうという諸外国の見方でしたので、体力もロシアに比べてありません。
いくつもの戦線で勝利を重ねてはいましたが、国力を戦争で使い果たしており、戦争の継続は難しい状況でした。
戦前のロシア
戦前ではロシアの大勝とされていたロシアですが、日本の奇襲や
東郷平八郎の活躍もあり、いくつもの戦線で敗北を重ねていました。それにより世論も政府に反対するようになっていきます。
また、戦争の最中に
血の日曜日事件が発生します。いくつもの要因が重なって、ロシアも戦争を続けることが困難な状況になっていました。
ポーツマス条約
両国が行き当たりばったりになっていたところで、アメリカが講話を提案します。
すでに両国ともかなり消耗していましたので、この段階で両国ともこの提案を受け入れ、アメリカのポーツマスで講和条約を結びます。これが
ポーツマス条約です。
戦後の両国
戦後の日本
ポーツマス条約の下、ロシアの南下政策を食い止めることに成功した日本は、朝鮮半島や満州での存在感を強めていきます。そして何より、大国ロシアに勝利したことで、列強各国からの評価もあがり、
不平等条約の改正にも一躍貢献することとなりました。
しかしながら、ロシアの主張では、
ロシアは戦争に負けたのではなくアメリカの仲裁によって引き分けにしたんだというものでしたので、賠償金の支払いはありませんでした。(ロシアは、賠償金は負けた国が払うものと主張したのです。)
戦争のために多額の借金をしていた日本にとっては、当然痛手だったでしょう。
戦後のロシア
ロシアはこの戦争の後、東アジアへの南下政策を切り上げます。
南下政策の矛先は、東アジアに来る前に向いていたバルカン半島へと再び向くことになります。これがオーストリアやドイツとの争いを生み、第一次世界大戦の引き金になったのです。
また、国内では血の日曜日事件を始めクーデターの機運が高まり、
ロシア革命を引き起こすことになりました。