冊封体制とは
冊封体制とは、中国皇帝を頂点とし、周辺諸国の支配者との間に君臣関係を結び成立させた国際秩序のことです。
この根底には、中国の
中華思想がありました。
中国は長い間、高度な文明を築いた広大な国であるとし、天命を受けて中国に君臨する皇帝を頂点とし、その他周辺諸国にも中国文明を教化してるという考え方です。
冊封体制のはじまり
冊封体制は、周辺諸国の各地域を支配する君主が、中国皇帝の徳に敬意を払う証として、貢物をおくる
朝貢をもとに、これに中国側が返礼品や位階を授けることで上下関係を伴った外交関係として成立しました。
冊封体制は、
後漢の
光武帝が倭国の使者に金印を授け、その後
三国時代の
魏に
邪馬台国の支配者
卑弥呼が朝貢のための使節をおくったことがそのはじまりだと言われています。
朝貢関係の国の中には、中国の官位や爵位を授かり、
君臣の関係になった国々もありました。
朝貢貿易とは
さて、冊封体制のもとでは、貿易は周辺諸国が中国皇帝に敬意を払う印としての
朝貢貿易しか許されていませんでした。
朝貢貿易では、周辺諸国の代表者である使節が貢物をする返礼として、使節団の滞在費や貢物の数倍の返礼品を用意するのが常識でした。
そのため、中国との朝貢貿易は三年に一度など期間が決められ、人数や規模も制限されていました。
明朝の冊封体制下で行われた室町幕府と明朝の貿易を日明貿易といいます。この貿易の際に、明の交付した勘合(割符)を持参した船舶のみが貿易を許されたため、これを勘合貿易ともいいます。
冊封体制の崩壊
冊封体制は、
秦の成立以降徐々に形作られ
明朝や
清朝まで続いた東アジアの国際秩序でしたが、19世紀の清の末期に崩壊します。
その原因は、
アヘン戦争や
アロー戦争による欧米諸国の侵略です。
産業革命後、19世紀に入り、西欧列強は新しい市場を求めて、世界分割を本格的に行いました。清朝はこの時期になっても、冊封体制下の厳しい貿易制限を続けていたのです。
こうした貿易制限に不満を募らせたイギリスをはじめとする欧米列強は、1940年の
アヘン戦争、1856年の
アロー戦争と、武力で中国の開港を実現させます。
欧米列強は条約という形で清朝に対する不平等条約を認めさせ、自由貿易を強制させました。
さらに、その後の
清仏戦争や
日清戦争の敗北により、
ベトナムや
朝鮮といった、中国の冊封体制の重要な国々の
宗主権を失い、冊封体制は完全に崩壊しました。