朱全忠とは
朱全忠(852年 - 912年)は、中国の五代十国時代の初期に活躍した軍人であり、後梁王朝の初代皇帝です。彼の本名は朱温であり、後に朱全忠に改名されました。
朱全忠は、安徽省の宿州にある碭山県で生まれました。彼の父親である朱誠は、五経の教師でしたが、朱全忠がまだ若い頃に亡くなりました。その後、彼の母親は三人の息子を連れて、徐州の蕭県に住む劉崇の家に移り住みました。朱全忠は村の不良少年として育ち、黄河と淮河の間で活動する盗賊団の首領となりました。
黄巣の乱と唐への帰順
877年頃、朱全忠と彼の兄弟である朱存は、黄巣の反乱軍に加わりました。朱存は戦闘で命を落としましたが、朱全忠は軍の中で昇進し、881年に長安を占領した後、黄巣の命令で同州の防衛司令官に任命されました。しかし、882年には黄巣の勢力が衰え、朱全忠は唐朝に帰順することを決意しました。彼は黄巣の監視役であった閻師を暗殺し、唐の河中節度使である王重栄に降伏しました。これにより、唐の僖宗から「全忠」という新しい名前を授かり、汴州の知事と宣武軍の節度使に任命されました。
唐の滅亡と後梁の建国
朱全忠は唐朝の弱体化を利用して勢力を拡大し、907年には唐の最後の皇帝である哀帝を廃位し、自ら皇帝として後梁を建国しました。これにより、中国は五代十国時代に突入しました。彼の治世は厳格な統治と残虐な暴力で知られており、多くの敵対者を粛清しました。
晩年と死
朱全忠の晩年は、彼の暴虐な統治に対する反発が強まりました。912年、彼は息子の朱友珪によって暗殺されました。朱友珪は父親を殺害した後、自ら皇帝として即位しましたが、彼の治世も短命に終わりました。