第1次世界大戦と1917年のロシア革命
前回のテキストでは、1905年に起こった
第1次ロシア革命について見てきました。
今回は、
第1次世界大戦による混乱と、1917年の2つの革命を説明します。
1914年7月に第1次世界大戦が始まると、ロシアは
タンネンベルクの戦いでドイツ軍に惨敗し、それ以降国内の状況が悪化していきます。
外国からの資本は戦争開始により引き上げられ、労働者の労働条件が悪化しました。また、軍隊も連敗が続き、兵士たちに不満が募りました。
これら労働者と兵士は、次第に革命を望むようになっていきます。
また、多くの農民も戦争に駆り出されたため、食料生産力が急激に低下し、ロシア全土で深刻な食糧不足が起こりました。
三月革命
1917年3月、首都ペトログラードで食糧危機に起因するデモが発生し、その後大規模なストライキに発展しました。
この状況はロシア全土に拡大し、各地に
ソヴィエトが組織されます。
こうして首都暴動の知らせを受けたロマノフ朝最後の皇帝
ニコライ2世は退位し、ロシア帝国は崩壊しました。
臨時政府と二重権力状態
三月革命の結果、ロマノフ朝が崩壊し、
臨時政府が発足しました。
臨時政府は、一部の社会革命党の
ケレンスキーという社会主義者が入りましたが、立憲民主党やメンシェヴィキを中心として組織されたため、ブルジョワジーに有利な政策を行うようになります。
第1次世界大戦では、多くの軍需産業が儲かったため、ブルジョワジーは戦いが続くことを望み、臨時政府は戦争を継続する政策をとりました。
一方、三月革命の中心となった労働者や兵士で組織するソヴィエトは、食糧難や平和を求めていました。
こうして、この頃のロシアでは、臨時政府とソヴィエトの
二重権力状態が続きました。
レーニンの帰国と四月テーゼ
第1次ロシア革命後に起こった反動政治により、
ボリシェヴィキの指導者
レーニンは、スイスに長期間亡命していました。
しかし、3月革命と、その後の二重権力状態を知ったレーニンはすぐさま帰国し、「戦争の即時停止」と、「すべての権力をソヴィエトへ」という内容の
四月テーゼを発表します。革命を成功させるために、臨時政府ではなく、ソヴィエトに権力を集中するべきだと訴えたんですね。
最初レーニン率いるボリシェヴィキは少数派で、7月の武装蜂起に失敗してしまいますが、9月に帝政の復活を目論むコルニロフ将軍の反乱が起こると、これに対処できなかった臨時政府が兵士の支持の厚いボリシェヴィキの助けうけて事件を解決したため、民衆の支持が更に高まりました。
11月革命とソヴィエト
1917年11月7日、民衆の高い支持を受けたヴォリシェヴィキの指導者レーニンは、同胞
トロツキーとともに武装蜂起し、臨時政府を倒します。
臨時政府打倒後、全ロシア=ソヴィエト大会を開催し、史上初の
社会主義政権が誕生しました。
(レーニンの演説)
この政権は、「
平和に関する布告」と「
土地に関する布告」を発し、第1次世界大戦中の全交戦国に対し、無併合・無賠償の平和を提案しました。
平和に関する布告 |
即時停戦 |
無併合・無賠償 |
民族自決 |
秘密外交の禁止 |
平和に関する布告は、即時停戦や民族自決を訴えたものでした。しかし、連合国はこれを黙殺たので、新政府は、過去にロシア帝国がイギリスやフランスと結んだ
秘密外交を公表しました。
サイクス=ピコ協定などが代表例で、帝国主義の本質を世界に示しました。また、帝政時代の外債(主にフランスからのもの)も返済しないことを決定します。
土地に関する布告 |
地主所有地を無償で政府が没収 |
土地の私有財産の禁止 |
土地に関する布告は、地主の土地を政府が強制的に没収することを決めたもので、この後さまざまな産業を国有化していきます。
こうして新政権は、1918年
ブレスト=リトフスク条約をドイツと単独で結び、第1次世界大戦から抜けることに成功します。