ビスマルクの外交とヴィルヘルム2世
第一次世界大戦がなぜ起こったのか、その理由を知るには、当時の複雑なヨーロッパ情勢を理解する必要があります。
まず、
普仏戦争で多くの賠償金をフランスから得たドイツ帝国は、フランスの報復を恐れていました。
そのため、ドイツ帝国宰相の
ビスマルクは、
フランスの孤立化を進めて、自国の安定を図る外交を行います。
「
光栄ある孤立」を保っていたイギリスと友好な関係を保ちつつ、1873年にドイツ、ロシア、オーストリアで
三帝同盟を結びます。
三帝同盟は、その後の
ベルリン会議でドイツがロシアに肩入れせず、南下政策が失敗したため、次第にロシアが難色を示し始めます。
ドイツは、フランスとチュニジア問題で対立していたイタリアを誘って、1882年に
ドイツ・イタリア・オーストリアによる
三国同盟を締結、1887年にオーストリアとロシアの対立が深まり三帝同盟が崩壊すると、秘密裏にドイツ・ロシア間で
再保障条約(二重保障条約)を締結し、フランスの孤立化は成功したように見えました。
再保障条約は、バルカン問題でオーストリアとロシアが対立して、ロシアとフランスが手を結ばないように、両国が攻撃を受けた時には中立を守るという条約でした。三国同盟で保障されたドイツの安定を、再保障(二重保障)するというドイツ側からの呼び名です。
ところが、1888年に
ヴィルヘルム1世が亡くなり、孫の
ヴィルヘルム2世が即位すると状況がガラッと変わります。
(ヴィルヘルム2世)
先王ヴィルヘルム1世はビスマルクを重用したんですが、孫のヴィルヘルム2世は違いました。
当時、ビスマルクはフランスの孤立化を進める一方で、
ドイツ国内の社会主義者を弾圧する政策も熱心に行なっていました。
この政策の中心だったのが
社会主義者鎮圧法という法律で、ヴィルヘルム2世はこの法律の更新に反対したんです。
社会主義者鎮圧法は、1878年に皇帝狙撃事件をきっかけに成立した法案で、社会主義結社の禁止、集会・出版の禁止など、社会主義運動そのものを弾圧するものでした。
なぜかというと、ヴィルヘルム2世は若く、どんどん海外に進出し、軍備拡張を拡大する
世界政策(新航路政策)を進めようとしていたんです。
このような状況下で、国内で社会主義者との無用な争いを起こしている場合ではないと考えたんですね。
この政策をめぐる意見対立から、
1890年ビスマルクは宰相を辞職します。
(ビスマルク引退の風刺画)
ビスマルクの引退は、当時のヨーロッパ政治における大事件でした。
露仏同盟の成立
ビスマルク引退後、親政を始めたヴィルヘルム2世は、
1890年にロシアとの再保障条約の更新を拒否します。
世界政策を進める上で、バルカン半島をめぐって、今後ロシアと争うと考えたからです。
ヴィルヘルム2世に再保障条約更新を拒否されたロシアは、
1891年にフランスとの間に
露仏同盟を結びます。
フランスとロシアが手を組んだら、地理的にドイツは挟み撃ちになる…ビスマルクが最も恐れていたフランスとロシアの同盟が成立してしまったんです。
露仏同盟の成立のきっかけは、軍事だけでなく経済的な要因もありました。シベリア鉄道などの国内整備を急いでいたロシアに対し、フランスのロスチャイルド財閥が資金を提供したのです。
このように、ビスマルクの引退をきっかけに、新たに
三国同盟と露仏同盟の対立という構図が出てきました。