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18_80 二つの大戦と世界 / 第一次世界大戦とロシア革命

ロシア革命 1 血の日曜日事件と第1次ロシア革命

著者名: ピアソラ
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ロシア革命とは


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このテキストでは、ロシア革命について見ていきますが、ロシアは大きく分けて3つの革命を経験しました。

1905年のロシア第1次革命にはじまり、1917年の3月と11月にも革命がおこります。これらの革命の結果、ツァーリズムが廃止され、史上初の社会主義国家が誕生することになります。

ツァーリとは、ロシア皇帝のことで、イヴァン4世が公的な称号として用いたのがはじまりです。ツァーリによって行われた専制君主体制をツァーリズムといい、1917年のロシア革命まで続きました。


ロシア革命に至る経緯

ロシア革命についての説明の前に、19世紀のロシアがどういった状況だったか見ていきましょう。

クリミア戦争の大敗を受けて、1861年にアレクサンドル2世農奴解放令を発布し、近代国家への方向転換が図られました。

農奴解放後も大部分の農民は農村に残りましたが、一部の人々は工場労働者の担い手になっていったため、次第に資本主義的経営がロシアでも定着し、1880年代には工業生産性は2倍に増大しました。

その後、ロシアはフランスから資本の導入を受け、シベリア鉄道建設や、重工業を発展させていきます。1894年には露仏同盟が締結され、バルカン半島への進出でドイツやオーストリア、極東への進出でイギリスや日本との対立が深まりました。

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(シベリア鉄道)

新しい政治党派

経済的な発展を目指す当時のロシア国内では、新たにプロレタリアート(労働者)の階層が生まれ、彼らの間では社会主義思想が広がり、次第にツァーリズムの専制支配に反対するようになりました。

プロレタリアートの発言を代弁するために、1898年ロシア社会民主労働党という政治党派が誕生します。

この党派を率いたのがレーニンプレハーノフでした。

他にも、1901年に農民を支持基盤とする社会革命党(SR)が、1905年に自由主義的な立憲民主党が組織されました。

ボリシェビキとメンシェヴィキ

こうした中、ロシア社会民主労働党は、1903年に内部対立によりボリシェヴィキメンシェヴィキという2つの党派に分裂してしまいます。当時の政党は、以下がありました。

ボリシェヴィキ指導者はレーニン。党分裂の際の多数派という意味で、党員を少数精鋭の革命家に限定し、武装革命の必要性を主張。
メンシェヴィキ指導者はプレハーノフ。少数派という意味。ブルジョワを含む幅広い大衆により革命を実現しようとした。
社会革命党指導者はチェルノフやナタンソン。農民を支持基盤とし、ナロードニキの流れをくんだ政党。
立憲民主党指導者はミリューコフ。ブルジョワ自由主義者が支持基盤。


日露戦争と血の日曜日事件

さて、国内でこうした政治政党が成立する中、対外的には1904年から日露戦争が勃発します。

中国北東部と朝鮮半島の支配権をめぐって、帝政ロシアと日本が対決した帝国主義戦争ですね。

この戦争で、帝政ロシアにはフランス・ドイツが、日本にはイギリス・アメリカが支援に回りました。奉天会戦日本海海戦など、日本側が続けて勝利しましたが、その後日本の国力は急速に消耗し、戦争継続が困難となっていきました。

こうした中、1905年1月22日、帝政ロシアの首都ペテルブルクで、修道士ガポンに率いられた労働者をはじめとする民衆が、日露戦争の平和的解決を望むデモを行いました。

この平和請願のデモ隊に対し、皇帝の軍隊が発砲し、多数の死傷者を出しました。これを血の日曜日事件といいます。

第1次ロシア革命

血の日曜日事件の虐殺の知らせはロシア全土に広がり、同年、ロシア第1次革命が勃発します。

各地で農民反乱は頻発し、6月にはロシア軍所属の黒海艦隊戦艦ポチョムキン号で水兵の反乱が起こり、9月5日にはアメリカ大統領セオドア・ルーズヴェルトの仲介で日本とポーツマス条約を結び日露戦争が終結、10月にはストライキが決行され、ロシア国内のさまざまなインフラが停止します。


こうして、首都ペテルブルクの労働者や兵士を中心としてソヴィエトが結成されます。

ソヴィエトとは、ロシア語で「会議」という意味ですが、レーニンはソヴィエトを「既存権力に圧迫を加えつつ、自治的権力機関になったもの」と定義しています。


この革命に対し、皇帝ニコライ2世十月勅令を発布しました。

この勅令は、立憲政体の採用と、ドゥーマ(国会)の開設を約束する内容で、革命を食い止めようとする皇帝側の妥協策でした。

ところが、翌年憲法が発布されたものの、皇帝が任命した首相ストルイピンは徹底した弾圧政治を行い、同時に、農村共同体(ミール)を解体して、自作農の創設を目指しました。

ストルイピンの時代にボリシェヴィキの幹部は弾圧され、指導者レーニンもスイスに亡命を余儀なくされます。

こうした反動体制は続き、ロシアの革命は一時中断しました。
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・ロシア革命 1 血の日曜日事件と第1次ロシア革命

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