ヨーロッパとは?
これからヨーロッパの成立と歴史についてみていきますが、そもそもヨーロッパとはどの地域を指すのでしょう。
ヨーロッパとは、ユーラシア大陸の
ウラル山脈より西の地域のことです。アルプス以北の西ヨーロッパ、地中海に面した地中海地方、それ以外の東ヨーロッパに分けられます。
ヨーロッパの民族は
インド=ヨーロッパ語族の人々で、西ヨーロッパの
ゲルマン系、地中海地方の
ラテン系、東ヨーロッパの
スラヴ系などでした。
ゲルマン人の歴史
ヨーロッパの礎を築いた民族が
ゲルマン人です。
(ゲルマン人)
インド=ヨーロッパ語族に属する彼らは、紀元前1000年頃から、
スカンジナビア半島(現在のスウェーデン・ノルウェー・フィンランド)、
ユトランド半島(現在のデンマーク)、
ドイツ北部に住んでいました。
ゲルマン人たちは、大陸側に住んでいた先住民のケルト人を圧迫しながら南下し、紀元前1世紀以降にはローマと接する程にまで居住範囲を広げます。
古代ゲルマン社会は、放牧と狩猟を中心に、50くらいの部族にわかれていました。国という形態をとっていなかったものの、最高意思決定機関の
民会がおかれ、政治・軍事・裁判に関わる決定がなされていました。
古代ゲルマンやケルトの歴史について書かれた重要な資料が、カエサルの『ガリア戦記』やタキトゥスの『ゲルマニア』です。
ゲルマン人はその後先住民ケルト人を同化させ、彼らの多くは、下級役人や傭兵、コロヌスとして次第にローマ帝国内部に入り込んでいきます。
ゲルマン民族の大移動
375年から、ゲルマン民族はヨーロッパ各地に大移動をはじめます。
この時期にゲルマン民族の大移動がおこった理由は次の2つです。
●人口が増加し、農作物を生産する耕作地が不足した。
●東方から遊牧民フン族が侵略してきた。
フン族は、アジア系の騎馬民族で、一説によると中国に侵入した
匈奴の一派であると言われています。
慢性的な土地不足と、フン族がゲルマン民族の一派である
東ゴート族を征服したことで、375年以降フン族から逃れるために
西ゴート族が南下したことがゲルマン民族の大移動のきっかけです。
ゲルマン民族は、様々な部族にわかれ、ヨーロッパ各地にそれぞれ王国を作りました。
国名 | 地域 | 時期 | 滅亡 |
西ゴート | イベリア半島 | 418~711 | ウマイヤ朝の征服 |
ヴァンダル | 北アフリカ | 429~534 | ビザンツ帝国の征服 |
ブルグンド | ガリア中部 | 443~534 | フランク王国の征服 |
東ゴート | イタリア半島 | 493~555 | ビザンツ帝国の征服 |
ランゴバルド | イタリア北部 | 568~774 | フランク王国の征服 |
アングロ=サクソン | ブリタニア | 449~829 | エグバートの統一 |
フランク | ガリア北部 | 481~843(のち分裂) | イタリア・フランス・ドイツとなる |
西ゴート
西ゴートは、ゲルマン民族大移動のきっかけになった民族です。375年に移動を開始し、378年に
アドリアノープルの戦いでローマ軍を撃破、その後イタリアを経て5世紀に南フランスで建国し、6世紀に
イベリア半島に拠点を移します。
西ゴートは、最終的に
ウマイヤ朝に滅ぼされ、以後レコンキスタ完了後まで、イスラム王朝がイベリア半島を支配します。
ヴァンダル
ヴァンダルは、アフリカの北岸に建国し、一時地中海を制圧しました。
しかし、先住民の反乱で弱体化し、ビザンツ帝国(東ローマ帝国)に滅ぼされます。
ブルグンド
ブルグンドは現在のスイスからフランスにかけて建国します。
のちに同じゲルマン系のフランク王国に滅ぼされます。
フランスのブルゴーニュ地方の名前の由来です。
東ゴート
最初にフン族の侵入によって大打撃を受けた部族です。
英雄テオドリックによりフン族の支配から抜け出し、西ローマ帝国を滅亡させたオドアケルの王国を倒し、イタリアに建国します。
都
ラヴェンナを中心に栄えますが、最終的にビザンツ帝国(東ローマ帝国)に滅ぼされます。
ランゴバルド
ゲルマン民族の中で、一番最後に移動をはじめた部族です。
イタリアに建国しますが、ローマ教皇と組んだフランク王国の
カール大帝により滅ぼされます。
北イタリアのロンバルディア地方の名前の由来です。
アングロ=サクソン
5世紀前半に海を渡り、大ブリテン島に侵入した部族です。
先住民ケルト族を征服し、
ブリタニア(イギリス)を建国しました。
フランク
6世紀はじめに、
クローヴィスという始祖がガリア(現在のフランス)に建国しました。
のちに、中世ヨーロッパの中核を築いていきます。
(526年頃のヨーロッパ)
フン族は、ドナウ川中流のパンノニア(現在のハンガリー)に王国を作り、
アッティラという大王のもと、征服活動を拡大しますが、451年西ローマ帝国・西ゴート・ブルグンド・フランク連合軍に
カタラウヌムの戦いで破れ、その後イタリアのローマ教皇
レオ1世に説得され撤退し、フン族の王国は滅亡します。
また、この混乱の中、476年
西ローマ帝国もゲルマン人傭兵隊長の
オドアケルによって滅ぼされ、ヨーロッパでは不安定な時代が続きます。
こうした中、
聖像を用いてゲルマン人へ
アタナシウス派キリスト教の布教活動を行なっていたのがローマ教会でした。特に、教皇グレゴリウス1世は、布教とともに、西ヨーロッパ地域の安定を目指します。
ビザンツ帝国の最盛期
476年に西ローマ帝国が滅亡したあとも、
ビザンツ帝国(東ローマ帝国)は健在でした。
ビザンツ帝国の最盛期の皇帝が
ユスティニアヌス1世で、その治世にヴァンダル族、東ゴート族を滅亡させ、領土を拡大します。
(ユスティニアヌス1世)
この時代、東ローマ帝国は
ハギア=ソフィア聖堂の建立や、
トリボニアヌスによる『
ローマ法大全』の編纂など、文化的にも栄えます。
西ヨーロッパが大混乱に陥っていたとき、ビザンツ帝国は最盛期だったことを押さえておきましょう。