アッバース朝の盛衰
750年
アブー=アルアッバースによって
アッバース朝が建国されると、
アラブ人の優遇政策が廃止され、アラブ帝国からイスラム帝国への転換が図られました。
アッバース朝は多数派のスンニ派に配慮し、建国の際に協力的だったシーア派を弾圧する政策を取ります。
751年アッバース朝建国の翌年に、タラス河畔の戦いが起こります。唐軍を率いていた高仙芝を破り、アッバース朝が圧勝します。この戦いの結果、唐の捕虜に製紙職人がおり、その後サマルカンドに製紙工場が作られ製紙法がイスラム世界に伝わりました。
第二代カリフの
マンスール(在位754~775)の治世になると、行政機構や駅伝制の整備により、中央集権化が進められます。
また、766年ティグリス川西岸にあった小さな村
バグダートを整備し新しい首都にします。
バグダートは3重の城壁に囲まれた広大な都市として発展し、
スーク(市場)や
モスクなどを中心としたイスラム都市文明が盛んになります。
(バグダート)
アッバース朝の最盛期は、第5代カリフの
ハールーン=アッラシード(在位786~809)の時代です。
(850年頃のアッバース朝領域)
彼はイスラム文化を奨励し、「
千夜一夜物語」にも登場しています。
その後第7代カリフの
マアムーン(在位813年~833年)によってバグダードに
バイト・アル=ヒクマ(知恵の館)という総合研究施設が作られ、イスラム文化はさらに発展していきます。
しかし、9世紀以降、アッバース朝も次第に衰退していきます。
政治的に弱体化する中で、各地で独立する王朝が出てきたのです。
アッバース朝から最初に独立したのがイラン系の
ターヒル朝です。
またエジプトでも、トルコ系のアミール(総督)が独立して、
トゥールーン朝が建国されます。
こうして各地に様々なイスラム王朝が乱立した結果、アッバース朝の権威はなくなっていき、最終的に1258年
イル=ハン国建国者でチンギス=ハンの孫
フラグに滅ぼされます。
後ウマイヤ朝の建国とイスラム帝国の分裂
話は前後しますが、アッバース朝の統治下でも、新しい王朝ができ、イスラム帝国は次第に分裂していきました。
アッバース朝建国後、ウマイヤ朝の人間は厳しく弾圧されましたが、一人だけ生き延び、北アフリカを通ってイベリア半島(現在のスペイン)にイスラム王朝を作った人物がいました。
アブド=アッラフマーン1世(在位756~788)という人物で、イベリア半島の
コルドバを首都に、
後ウマイヤ朝を建国します。
(後ウマイヤ朝の領域)
この後ウマイヤ朝の建国から、
イスラム世界の分裂が始まります。
後ウマイヤ朝の最盛期を作ったのが、
アブド=アッラフマーン3世(在位912~961)です。
後ウマイヤ朝の君主は、はじめ
アミール(総督)と呼ばれていましたが、彼は
アミールに代わりカリフの称号を使用したため、アッバース朝との政治的対立が決定的になりました。
西の後ウマイヤ朝、東のアッバース朝の政治的対立は深まりますが、文化人や学者などの交流は盛んで、後ウマイヤ朝やイベリア半島にさまざまなイスラム文化をもたらしました。
現在もコルドバにあるメスキータ(のちにキリスト教会になる)は後ウマイヤ朝のイスラム建築の代表例です。
(メスキータ内部)
政治や文化などで栄えた後ウマイヤ朝でしたが、次第に
アラゴン王国や
カスティーリャ王国による
レコンキスタや政治的内紛が原因で滅びます。
この後、イスラム社会は各地域にさまざまな王朝が乱立する時代を迎えます。