ウマイヤ朝の成立とイスラム教の分裂
最後の正統カリフだったアリーが暗殺されると、対立していたウマイヤ家のシリア総督
ムアーウィヤ(在位661~680)がカリフとなり、
ウマイヤ朝(661~750)を開きます。
ウマイヤ朝の初代カリフとなったムアーウィヤ以降、カリフの地位は選挙ではなく
世襲となりました。
ムアーウィヤの死後、息子のヤズィード1世がカリフに即位するのですが、この時、イスラム世界の重大な事件が起こります。
正統カリフだったアリーの息子
フサインがカリフの地位をめぐって、ヤズィード1世と争ったのです。
フサインの父は正統カリフのアリー、母は預言者ムハンマドの娘ファーティマ、つまり、彼は
ムハンマドの孫として、ハーシム家のみならずイスラム世界で尊敬を集めていた人物でした。
フサインの存在をよく思っていなかったヤズィード1世は、3000名のウマイヤ軍を送り、
カルバラーの戦いでフサインを虐殺し、その一族も奴隷にします。
フサインの殉教により、アリーを支持する人々は怒り、アリーとその子孫のみを正当な後継者とする
シーア派を作り、抵抗するようになります。
一方、大多数のイスラム教徒は代々のカリフを正当と認める
スンナ派(スンニー派)としてシーア派と対立し、この時以降イスラム教の分裂が始まりました。
シーア派は、アリーを支持する「派」という意味で、現在、イスラム教徒の1割を占めています。ウマイヤ朝以降、様々なイスラム王朝が成立しますが、その中でファーティマ朝、ブワイフ朝、サファヴィー朝の3つがシーア派の王朝です。よく聞かれるので、覚えておきましょう!
ウマイヤ朝の発展とジハード
ウマイヤ朝は、正統カリフ時代に始められたジハードを継続し、領土を急速に拡大していきます。
まず、東の
ゾグディアナや
北西インドを征服し、西方ではベルベル人と戦い、北アフリカを獲得します。
次に、北アフリカから
イベリア半島(現在のスペイン)に侵攻し、711年に
西ゴート王国を滅ぼしました。
718年にはビザンツ帝国の
コンスタンティノープルを攻め、732年にはピレネー山脈を超えて、
フランク王国に侵攻しますが、
トゥール=ポワティエ間の戦いで、当時
メロヴィング朝の宮宰だった
カール=マルテルに敗れ、ヨーロッパを諦めます。
トゥール=ポワティエは現在のフランスで、ウマイヤ朝は西ヨーロッパの広範囲にわたってジハードを展開したことがわかります。この戦いのあと、カール=マルテルの子ピピンがカロリング朝を創始し、その子カール大帝がゲルマン・ローマ・キリスト教の文化を融合させ、西ヨーロッパの基礎ができました。
このように、ウマイヤ朝は征服戦争の結果広大な領土を獲得し、
単独のイスラム王朝として最も広い領土をもつ王朝となりました。
(ウマイヤ朝の最大領域)
また、文化の面でも、首都ダマスカスに
ウマイヤド=モスク、聖地エルサレムに
岩のドームを建造し、イスラム建築の傑作を残しました。
(ウマイヤド=モスク)
(岩のドーム)
ウマイヤド=モスクは、キリスト教の洗礼者ヨハネの墓の上に、岩のドームはユダヤ教のエルサレム神殿跡地に建てられました。
ウマイヤ朝の滅亡 アラブ帝国からイスラム帝国への転換
急速に発展したウマイヤ朝ですが、アラブ人の特権が原因で内部から崩壊していきます。
正統カリフ時代からウマイヤ朝にかけて活躍したのが、アラブ人ムスリムでした。そのため、アラブ人は支配者層としてさまざまな特権が与えられていて、この時代をアラブ帝国といいました。
特に
ジズヤという人頭税と、
ハラージュという地租がアラブ人は免除されていました。アラブ人は、生産物の10分の1の
ザカートという救貧税だけ払えばよかったのです。
ジハードの結果、征服された各地の人々はイスラム教に改宗し、
マワーリー(アラブ人以外のイスラム教徒)となりました。
また、イスラム教徒に改宗しないユダヤ教徒、キリスト教徒、ゾロアスター教徒、仏教徒なども、啓典の民として税金を納めれば宗教の自由を認められていました。この人々を
ジンミーといいます。
マワーリーはイスラム教徒に改宗したあとも、アラブ人でないという理由で、ジズヤとハラージュを払わなければならなかったのです。
| ジズヤ(人頭税) | ハラージュ(地租) |
アラブ人 | なし | なし |
マワーリー | あり | あり |
ジンミー | あり | あり |
異教徒は信仰の自由を得るために納税に応じていましたが、マワーリーたちの間では、ウマイヤ朝のアラブ人優遇政策がイスラム教が唱える「平等」という理念に反するということで、不満が高まっていきます。
このような状況が長い間続き、750年、ウマイヤ朝に対するマワーリーの不満が頂点に達し、シーア派の人々とともに革命が起こります。
この革命のリーダーだったのが、ハーシム家出身の
アブー=アルアッバースです。彼はウマイヤ朝を滅ぼした後カリフに即位し、
アッバース朝(750~1258)を開きました。
アッバース朝の成立とともに、アラブ人の優遇策は廃止され、マワーリーのジズヤもなくなりました。イスラム教徒が土地を持っていた場合、平等にハラージュが課せられるようになったのです。
アッバース朝は、イスラム教徒の平等を達成し、イスラム世界はそれまでのアラブ帝国から
イスラム帝国へと変わっていきます。