清朝末期に起きた2つの運動
清朝末期、中国社会で
洋務運動と
変法運動という2つの政治運動が起こります。
この違いは何なのか、見てみましょう。
太平天国の乱と洋務運動
清朝末期、
太平天国の乱という大反乱が起こります。
これは、
南京条約締結後の清で、
増税と銀価格の高騰により、民衆の税負担が増え、同時に外国貿易が始まったことで失業者が増加するなど、社会の大きな変化が原因でした。
上帝会というキリスト教の秘密結社の指導者
洪秀全が、太平天国の乱を率いていました。
この反乱は、最終的に
湘軍を率いた
曽国藩や、
淮軍を率いた
李鴻章などの中国の政治家、アメリカの
ウォードやイギリスの
ゴードンが率いた
常勝軍によって鎮圧されます。
しかし、アヘン戦争やアロー戦争の敗北、そしてこの反乱が起きたことによって、清朝は大きな危機感をいだきました。
その結果起こったのが、洋務運動です。
洋務運動は、1860年代からはじめられた
富国強兵策です。
曽国藩、
李鴻章、
左宗棠など洋務派の高級官僚によって始められました。
洋務運動のスローガンは「
中体西用」といって、儒学など中国の伝統学問を基礎として、西洋の学問や技術を利用していこうというものでした。
そのため、洋務運動は清朝の伝統的な政治体制を維持するために行われ、この時代の
同治帝の治世を、清朝末期の安定期という意味で「
同治の中興」といいます。
日清戦争と変法運動
洋務運動は、伝統的な政治体制を残したまま西洋の模倣をするというものだったので、結果的に失敗に終わります。
1895年、
日清戦争で日本に大敗すると、列強は中国分割をさらに推し進めるようになります。
この状況に、
康有為ら政治家が中心になって行ったのが、変法運動です。
変法運動は日本の明治維新をモデルにし、
議会政治と立憲君主制の確立を目指しました。
変法運動は、清朝11代
光緒帝が登用した
康有為、
梁啓超などによって取り組まれますが、光緒帝の伯母の
西太后が
戊戌の政変でこれを弾圧。光緒帝は幽閉され、西太后が実権を奪ったため、失敗しました。
この2つをまとめると次のようになります。
| きっかけ | 目的 | 中心人物 |
洋務運動 | アヘン戦争、アロー戦争、太平天国の乱 | 清の伝統政治を残した富国強兵策「中体西用」 | 曽国藩、李鴻章、左宗棠 |
変法運動 | 日清戦争 | 明治維新を元にした立憲君主制の確立 | 康有為、梁啓超 |