日米和親条約(にちべいわしんじょうやく)は、江戸幕府がアメリカと結んだ条約です。1854年に調印され、日本が開国へ向かう第一歩となりました。この記事では、幕府がなぜアメリカの要求を断れなかったのか、そして条約に何が書かれたのかを、「1分でわかる要約」と「深掘り解説」の2段構成でまとめました。
この記事は2段構成です。最初の「1分でわかる日米和親条約」だけで、要点がつかめます。
さらに深掘りでは、次の3つの疑問を考察していきます。
・ペリーは、どのように幕府へ圧力をかけたのか
・幕府は、ペリーが去ってから再来航するまでのあいだに、何をしたのか
・条約で認めたことと、認めなかったことは何か
1分でわかる日米和親条約
日米和親条約とは、一言でいえば、武力を背景にしたペリーの圧力に対抗できなかった幕府が、戦争を避けるために二つの港を開き、補給と救助に応じた条約です。
武力を背景にしたペリーの圧力
1853年、アメリカ東インド艦隊の司令長官マシュー・ペリーは、4隻の艦隊で浦賀(うらが)に現れ、開国を求める大統領の国書(国の代表が相手国に送る正式な文書)を渡そうとしました。高官が受け取りに出なければ、兵を率いて上陸すると告げています。翌1854年には、艦隊を増やして江戸湾に戻りました。
幕府に対抗できる力はなかった
老中首座(老中の筆頭)の阿部正弘(あべまさひろ)は、国書を受け取って返事を翌年に持ち越し、諸大名にも広く意見を求めました。しかし有効な対策は出ませんでした。品川沖に砲台を築くなど備えも進めましたが、アメリカとの武力の差は大きく、幕府は正面から抵抗できる状況ではありませんでした。
二つの港を開き、貿易は認めなかった
幕府は下田(しもだ)と箱館(はこだて)の二港を開き、アメリカ船への薪や水、食料、石炭の供給と、漂流民の救助を認めました。貿易の取り決めは置かれていません。
条約にはこのほか、
下田への領事の駐在と、
アメリカだけが得をする片務的な最恵国待遇も含まれました。幕府は要求の一部に応じる形で、開国への第一歩を踏み出したことになります。
おまけトリビア
この条約の別名は「神奈川条約」です。ところが調印の場所は、神奈川宿の近くにあった横浜村でした。
ここから深掘り
ここまでが1分の要約です。ここからは、日米和親条約をもう一歩深く知りたい方向けに解説します。
■ペリー来航までの幕府と外国船
幕府はかつて、
異国船打払令(いこくせんうちはらいれい)で、日本に近づく外国船を打ち払う方針をとっていました。ところがアヘン戦争で清がイギリスに敗れたことを知ると、
薪水給与令(しんすいきゅうよれい)を出し、外国船に薪や水を与えて帰ってもらう方針に改めます。
それでも、通商を求める国には応じませんでした。1846年、アメリカの使節
ビッドルが2隻の軍艦で浦賀に来て通商を求めましたが、幕府は拒んでいます。ペリーの来航は、その7年後でした。
■ペリーの来航と威嚇
1853年、アメリカ東インド艦隊の司令長官マシュー・ペリーが、蒸気船2隻と帆船2隻の計4隻を率いて浦賀沖に現れました。持参したのは、アメリカ大統領
フィルモアが開国を求める国書です。
浦賀の役人が応対しましたが、ペリーは役職の低い者には国書を渡せないと断ります。そして、受け取る高官が出なければ兵を率いて上陸し、将軍に直接渡すと告げました。幕府はやむなく国書を受け取り、ペリーは1年後に返事を聞きに来ると言い残して去ります。ただし帰る前には、艦隊を江戸湾の奥へ進め、江戸の港が見えるところまで近づいて力を見せつけました。
■再来航までに幕府がしたこと
老中の筆頭として幕府の政治をまとめる老中首座(ろうじゅうしゅざ)の立場にあった阿部正弘は、病床にあった将軍・徳川家慶(とくがわいえよし)に代わって、対応の指揮を執りました。ペリーの来航を朝廷に報告し、諸大名や幕臣にも広く意見を求めています。しかし有効な対策は出ないまま、時間だけが過ぎます。
備えも進めました。江戸を守るため、品川沖に台場(だいば)と呼ばれる砲台を築いています。大型の船を造ることを禁じていた大船建造の禁(たいせんけんぞうのきん)も解き、海軍づくりに動き出しました。それでも、アメリカの艦隊との武力の差は大きく、幕府が正面から抵抗できる状況ではありませんでした。
■再来航と条約の締結
翌1854年、ペリーは艦隊を増やして江戸湾に戻ります。艦隊の数は7隻とも9隻とも伝えられ、前の年の4隻を上回りました。老中たちは戦争を避けるため、要求に応じることを決めます。
ただし、応じたのは要求の一部です。アメリカは通商も求めていましたが、幕府が認めたのは、アメリカ船の補給と漂流民の救助でした。貿易の取り決めは、条約に置かれていません。
■条約に書かれたこと
調印は武蔵(むさし)国の横浜村で、全12条です。
| 項目 | 内容 |
| 開港 | 下田(すぐに)・箱館(1年後) |
| 供給 | 薪・水・食料・石炭などをアメリカ船に供給 |
| 漂流民 | 漂流した船員の救助 |
| 領事 | 下田にアメリカの領事を置くことを認める |
| 最恵国待遇 | 片務的(アメリカ側だけが利益を受ける) |
| 貿易 | 規定なし |
最恵国待遇(さいけいこくたいぐう)とは、ほかの国に有利な条件を認めたら、同じ条件を相手の国にも認める約束のことです。片務的とは、一方の国だけが義務を負うという意味で、日本はアメリカに同じ待遇を求められませんでした。同じ年には、細かな取り決めを定めた付録の下田条約13条も結ばれています。幕府はこのあと、イギリス、ロシア、オランダとも同じような条約を結びました。
■史実と学説
確かなのは、艦隊の圧力のもとで幕府が条約を結んだこと、貿易の取り決めを置かなかったことです。
この条約の位置づけは、説明が分かれます。200年以上続いた対外政策が終わり、日本の開国が実現したと大きく捉える説明がある一方、開いた港は二つだけで通商の取り決めもないという、限られた内容を強調する説明もあります。また、アメリカだけが得をする最恵国待遇を理由に、のちの不平等条約のはじまりとする説明もあります。
調印の日は、和暦で「嘉永7年3月3日」とする説明と、「安政元年3月3日」とする説明があり、表記が分かれます。どちらも同じ日(1854年)を指します。
■トリビアの真相
条約が「神奈川条約」とも呼ばれるのは、調印された横浜村が神奈川宿の近くにあったためです。調印の地は「神奈川」と書かれることも「横浜村」と書かれることもあり、近くの宿場の地名がそのまま条約の別名になった例です。
試験に出るポイント
1853年のペリー来航のあと、翌1854年に日米和親条約(神奈川条約)が結ばれました。基本は「下田と箱館の開港・貿易は認めず・片務的最恵国待遇」のセットです。1858年の日米修好通商条約との違いが、対にして問われます。