版籍奉還(はんせきほうかん)と廃藩置県(はいはんちけん)は、明治新政府が江戸時代の藩(大名が治める領地とそのしくみ)を改めた、二つの改革です。1869年(明治2年)に
藩主が土地と人民を朝廷に返し、2年後の1871年(明治4年)には
政府が藩そのものをなくして、全国に府と県を置きました。この記事では、二つの違いと、セットで語られる理由を、「1分でわかる要約」と「深掘り解説」の2段構成でまとめました。
この記事は2段構成です。最初の「1分でわかる版籍奉還と廃藩置県の違い」だけで、要点がつかめます。
さらに深掘りでは、次の3つの疑問を考察していきます。
・土地と人民を返したのに、なぜ藩は残ったのか
・廃藩置県では、何がなくなり、何が守られたのか
・なぜ二つの改革は、セットで語られるのか
1分でわかる版籍奉還と廃藩置県の違い
版籍奉還と廃藩置県の違いは、一言でいえば、藩が残ったか、なくなったかです。
版籍奉還(1869年):土地と人民を返したが、藩は残った
藩主が、藩の土地(版)と人民(籍)を朝廷に返しました。藩主はそのまま知藩事(ちはんじ)という役職に任命され、藩を治め続けます。こうして、藩と、藩主による統治は残りました。
廃藩置県(1871年):藩がなくなり、府と県になった
政府は藩をなくして、全国に府と県を置きました。知藩事は全員がやめさせられて東京に移り、かわりに政府が府知事や県令(けんれい)を各地に送ります。一方、旧藩主の収入は政府が保障しました。
二つは、藩を残してから2年後になくす二段構え
版籍奉還で残った藩と藩主による統治を、廃藩置県でなくしました。一つ目の改革が残したものを、二つ目の改革が取り除いたので、この二つはセットで語られます。
つまり、版籍奉還は「土地と人民を返す改革」、廃藩置県は「藩そのものをなくす改革」です。
おまけトリビア
廃藩置県のとき、全国は3府302県に分かれました。藩をそのまま県に置きかえたためです。飛び地も多く、区画がまとまっていなかったので、同じ年の末には3府72県まで整理されています。
ここから深掘り
ここまでが1分の要約です。ここからは、二つの改革の違いをもう一歩深く知りたい方向けに解説します。
■二つの改革の前、藩はどうなっていたか
江戸幕府がたおれて明治新政府ができても、藩はそのまま残っていました。新政府は旧幕府の領地を、政府が直接治める直轄地として府と県を置き、大名の領地は藩のまま認めます。
藩にはそれぞれ軍隊と税のしくみがあり、政府が全国をまとめて動かしにくい状態でした。しかも、新政府軍と旧幕府側が戦った
戊辰戦争で、多くの藩の財政は苦しくなっています。藩をどう整理するかは、新政府の大きな課題でした。
■版籍奉還で、何が変わり、何が残ったか
先に動いたのは、薩摩・長州・土佐・肥前の四藩です。明治2年1月20日(1869年)、四藩の藩主が連名で、土地と人民を朝廷に返したいという上表(天皇にさし出す願い書)を出しました。すべての土地と人民は天皇のものという考え方(王土王民)にもとづく願い出です。この動きを進めたのは、長州藩出身の
木戸孝允や薩摩藩出身の
大久保利通らでした。ほかの藩主も続きます。
政府は、明治2年6月17日(1869年)に藩主たちの願い出を認めました。このとき、ほとんどの藩主は知藩事に任命され、地方長官として藩の政治を任されます。知藩事の家禄(家に与えられる収入)は、藩の石高(米の量で表した収入)の10分の1とされました。
大きな混乱なく進んだのは、藩主たちが、返しても政府からあらためて与えられると考えていたためと言われています。また、軍事や徴税の力も、藩の手に残りました。
■廃藩置県で、何が変わり、何が守られたか
財政難から、自分のほうから廃藩を願い出る藩も出ていました。ただ、藩をなくすことには反対も予想されました。そこで政府は明治4年2月、薩摩・長州・土佐の三藩から兵を出させて、約1万人の御親兵(ごしんぺい・政府に直属する軍隊)を設けました。廃藩置県は、この武力を背景に行われました。
明治4年7月9日(1871年)には、木戸孝允の邸宅に、西郷隆盛、大久保利通ら薩摩・長州の要人が木戸を含めて7人集まり、廃藩置県の案をまとめたとされます。そして明治4年7月14日(1871年)、政府は東京にいた知藩事たちを皇居に集め、藩をなくすという天皇の命令(詔)を伝えました。
藩は県となり、知藩事は全員がやめさせられて、東京に住むことを命じられました。かわりに、中央の政府が府知事と県令(のちの県知事)を各地へ送ります。
一方で、旧藩主の収入と華族(公家や大名だった家に与えられた身分)の地位は守られ、藩の借金も政府が引き受けました。旧藩主たちの反対がほとんど出なかったのは、そのためだとされます。
■二つを並べて整理する
| 観点 | 版籍奉還(明治2年・1869年) | 廃藩置県(明治4年・1871年) |
| やったこと | 藩主が土地(版)と人民(籍)を朝廷に返した | 藩を廃止して、府と県を置いた |
| 藩 | 残った | なくなった |
| 旧藩主 | 知藩事に任命され、藩を治め続けた | 知藩事をやめさせられ、東京に住んだ |
| 地方を治める人 | 知藩事(旧藩主) | 政府が送った府知事・県令 |
| 進め方 | 藩主の願い出を認める形 | 知藩事を集めて詔で命じた |
■史実と学説
版籍奉還の評価は分かれています。形だけで実質は変わらなかったとする説明が多い一方、知藩事は政府が任命した地方官にすぎず、藩主は藩主としての実質を失っていたという説明もあります。知藩事は世襲ではなかった、という点も指摘されています。
■トリビアの真相
当初の302県は、藩の区域をそのまま県にしたものでした。飛び地が多く、区画としてのまとまりがなかったため、同じ年の11月までに統合が進み、72県になります。
試験に出るポイント
版籍奉還は1869年。薩摩・長州・土佐・肥前の四藩主が先に願い出て、藩主は知藩事に任命され、藩は残りました。廃藩置県は1871年。藩を廃止して府と県を置き、知藩事は東京へ、地方には府知事と県令が送られました。「版籍奉還で藩がなくなった」は誤りです。府県の数は、当初3府302県、同じ年の末に3府72県と、時点つきで答えましょう。