執権政治(しっけんせいじ)とは、鎌倉幕府の執権を中心に、有力な御家人たちと話し合って幕府の方針を決めた政治です。この仕組みを整えたのが、執権の
北条泰時(ほうじょうやすとき)でした。この記事では、
承久の乱のあと、泰時が
連署・
評定衆・
御成敗式目をどんな順番で整えたのかを、「1分でわかる要約」と「深掘り解説」の2段構成でまとめました。
この記事は2段構成です。最初の「1分でわかる北条泰時と執権政治」だけで、要点がつかめます。
さらに深掘りでは、次の3つの疑問を考察していきます。
・承久の乱のあと、幕府では何が起きていたのか
・泰時は、どんな順番で仕組みを整えたのか
・御成敗式目は、何をよりどころに作られたのか
1分でわかる北条泰時と執権政治
一言でいえば、朝廷との戦いに勝った北条氏が、執権ひとりで決めずに、評定での話し合いで決める仕組みを作った流れです。
1224年 泰時が執権を継ぐ
1224年、執権(将軍を助けて幕府の政治をまとめる役職)だった父の北条義時の死を受けて、泰時が跡を継ぎました。泰時は1221年の承久の乱で、幕府軍の大将の一人として京都へ攻めのぼった人物です。翌1225年には、幕府を長く支えた北条政子と大江広元が、続けて亡くなります。
1225年 連署を置き、評定衆を選ぶ
泰時は叔父にあたる北条時房を鎌倉に呼び、執権を助ける連署(れんしょ)に置きました。さらに、有力な御家人(幕府に仕える武士)などから評定衆(ひょうじょうしゅう)を選びます。政治や裁判は、執権・連署と評定衆が話し合う評定で決めるようになりました。
1232年 御成敗式目を定める
1232年、泰時は評定衆と話し合い、御成敗式目(ごせいばいしきもく)を定めました。頼朝のころからの先例や、武士の道理(武士の社会の常識)をよりどころにした、51か条の決まりです。
こうして、執権が評定衆との話し合いで政治を進める、執権政治が固まりました。
おまけトリビア
最初の評定は、評定衆11人に執権と連署を加えた13人で始まりました。頼朝が亡くなったあとにも、有力な御家人13人が話し合う仕組みが作られたことがあり、これを評定衆のもとと見る考え方もあります。
ここから深掘り
ここまでが1分の要約です。ここからは、泰時が仕組みを整えた流れを、もう一歩深く知りたい方向けに解説します。
■執権政治の背景
承久3年(1221年)の承久の乱で、幕府は後鳥羽上皇の軍を破り、上皇を隠岐へ流しました。泰時は叔父の時房とともに幕府軍の大将として東海道を攻め上り、乱のあとも京都にとどまって、その後の処理にあたっています。
1224年、父の義時が急に亡くなると、泰時は鎌倉に戻って執権を継ぎました。このとき、義時の妻の伊賀氏が、自分の子の政村を執権に立てようとする動きがありました。泰時の伯母にあたる北条政子が、これを退けています。
泰時を支えていた人たちは、その翌年に世を去ります。嘉禄元年(1225年)6月に、幕府の政治を長く支えてきた大江広元が亡くなりました。7月には政子も亡くなります。
幕府を動かしてきた二人が、同じ年のうちにいなくなったのです。
■人物と流れ
泰時がまず置いたのは、自分を助ける役でした。京都にいた叔父の時房を鎌倉に呼び、
連署に任じます。連署という名前は、執権と名を連ねて幕府の文書に署名したことから来ています。
続いて泰時は、有力な御家人や、文書の仕事に通じた役人たちから、11人を
評定衆に選びました。その中には、有力な御家人の三浦義村もいます。執権・連署と評定衆が集まって話し合う場を評定といい、政治の方針や人事、裁判などをここで決めました。最初の評定が開かれたのは、嘉禄元年(1225年)12月21日です。
同じ年、鎌倉の主として京都から迎えられていた三寅(みとら)が元服(大人になったしるしの儀式)をして、
藤原頼経(ふじわらのよりつね)と名乗りました。頼経が正式に大4代将軍となるのは、翌1226年です。
寛喜2〜3年(1230〜31年)ごろには、全国で大きな飢饉が起きました。泰時は、困った人々に米を貸し出すなどして、救済にあたっています。
評定が始まってから7年後の1232年、泰時は評定衆と話し合いを重ね、
御成敗式目を定めました。元号をとって、
貞永式目(じょうえいしきもく)とも呼ばれます。
■史実と学説
御成敗式目は51か条からなり、頼朝のころからの先例や、武士の道理を、判断のよりどころにしています。道理とは、武士の社会で常識として正しいとされてきたことです。守護や地頭の仕事、所領(持っている土地)をめぐる争いの裁き方などが定められています。たとえば第8条は、御家人が20年のあいだ実際に支配してきた土地は、元の持ち主に返さなくてよいとしています。
式目は、武士の社会の争いを裁くための決まりです。朝廷の
公家法(くげほう)や、荘園領主の
本所法(ほんじょほう)は、式目ができたあとも残りました。式目のほうは、必要に応じて条文が書き足されていきます。これを式目追加といいます。室町幕府や戦国大名の法にも、式目は影響を与えました。
政子と広元が亡くなったことは、泰時が評定の仕組みを整えるきっかけの一つになったと考えられています。
連署を置いた年は1225年とされることが多い一方、泰時と時房が1224年から二人で政治を担ったとみて、1224年から1225年にかけてと幅をもたせる書き方もあります。
■トリビアの真相
最初の評定衆11人に、執権の泰時と連署の時房を加えると13人になります。頼朝が亡くなったあとの1199年にも、2代将軍の源頼家がひとりで決めるのを抑えるため、有力な御家人13人が話し合う仕組みが作られました。評定衆はこれをもとにしているとする見方があります。ただし評定は、幕府の正式な仕組みとして置かれ、政治と裁判をまとめて決める場になりました。ここが大きな違いです。
泰時が整えたこの仕組みのもとで、北条氏がさらに力を強めていく流れは、「
北条時頼と宝治合戦」で扱います。
試験に出るポイント
北条泰時は、1225年に連署を置いて評定衆を選び、1232年に御成敗式目を制定しました。御成敗式目は、貞永式目とも呼ばれます。1249年に引付衆を置いたのは孫の北条時頼なので、区別しておきましょう。