十三人の合議制(じゅうさんにんのごうぎせい)とは、源頼朝が亡くなった1199年に始まった鎌倉幕府の体制で、跡を継いだ源頼家のもとで、御家人の訴えを、有力者13人の話し合いを通して扱うことにしたものです。この体制は1年ほどで崩れ、その後の争いのなかで北条氏が力を強めていきます。この記事では、13人の顔ぶれから、北条義時が政所と侍所の両方の長官になった1213年までを、「1分でわかる要約」と「深掘り解説」の2段構成でまとめました。
この記事は2段構成です。最初の「1分でわかる鎌倉殿と十三人の合議制」だけで、要点がつかめます。
さらに深掘りでは、次の3つの疑問を考察していきます。
・13人の話し合いは、頼家から力を奪うためのものだったのか
・13人の顔ぶれは、なぜ次々に欠けていったのか
・北条義時は、どうやって政所と侍所の両方を手にしたのか
1分でわかる鎌倉殿と十三人の合議制
一言でいえば、頼朝の死後に有力者どうしの争いが続き、そのなかで北条時政・義時の親子が幕府の実権を握っていった流れです。
1199年 13人の話し合いの体制ができる
1199年、18歳の源頼家が父・頼朝の跡を継ぎました。そのわずか3か月後、頼家が直接に訴訟を裁く形は改められ、訴えは13人の有力者の話し合いを通すことになります。
1199〜1205年 争いのなかで北条時政が力を握る
13人の一人、梶原景時は、その年のうちにほかの御家人たちに訴えられて失脚しました。1203年には北条時政が、頼家の後ろ盾だった比企能員(ひきよしかず)を討ち、頼家も将軍の座から降ろされます。時政は頼家の弟の実朝を将軍に立て、初代の執権とされる立場につきました。
1205〜1213年 義時が政所と侍所の長官を兼ねる
1205年、時政は、実朝に代えて娘婿を将軍にしようとしたとされ、子の義時らによって伊豆へ退けられます。跡を継いだ北条義時は、1213年に侍所の長官だった和田義盛を滅ぼし、政所と侍所の両方の長官を兼ねました。
13人のうち、梶原景時、比企能員、和田義盛の3人は、1213年までに一族ごと滅ぼされました。その間に、北条氏は幕府のなかでの立場を強めていきました。
おまけトリビア
2022年のNHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』。題名の「13人」は、この話し合いに名を連ねた13人のことと言われています。主人公は、父の時政とともに13人に加わった北条義時でした。
ここから深掘り
ここまでが1分の要約です。ここからは、この流れをもう一歩深く知りたい方向けに解説します。
■十三人の合議制の背景
建久10年(1199年)1月、源頼朝が急に亡くなりました。跡を継いだのは長男の頼家で、このとき18歳です。頼家が朝廷から征夷大将軍に任じられるのは、少しあとの1202年のことでした。
同じ年の4月、頼家が直接に訴訟を裁く形が改められ、13人の有力者が話し合って取り計らうことが定められました。13人の顔ぶれは次のとおりです。
| まとまり | 13人 |
| 北条氏 | 北条時政、北条義時 |
| 京都から来た文官 | 大江広元、三善康信、中原親能、二階堂行政 |
| そのほかの有力御家人 | 比企能員、梶原景時、和田義盛、三浦義澄、安達盛長、八田知家、足立遠元 |
北条時政は頼家の母・北条政子の父で、義時はその子です。一方の
比企能員(ひきよしかず)は、頼家の乳母をつとめた比企氏の一族で、娘が頼家の長男の一幡(いちまん)を産んでいました。頼家の跡継ぎをめぐって、一幡を推す比企氏と、頼家の弟の実朝を推す北条氏が対立していきます。
■人物と流れ
最初に欠けたのは梶原景時です。景時は1199年、御家人の結城朝光を訴えました。これに反発した御家人たちは66人の連名で景時を非難、景時は鎌倉を追われます。正治2年(1200年)1月、景時は一族を連れて京都へ向かう途中、駿河で攻められて滅びました。同じ年には三浦義澄と安達盛長も亡くなり、13人の体制はほどなく崩れました。
建仁3年(1203年)、頼家が重い病にかかると、北条時政は比企能員を自分の屋敷に招いて討ち、比企一族を攻め滅ぼしました。この事件は
比企能員の変、または比企氏の乱と呼ばれます。一幡も同じ年のうちに命を落としました。頼家は出家し、伊豆の修禅寺(しゅぜんじ)に移されます。頼家が亡くなったのは、翌年の元久元年(1204年)7月です。北条氏が差し向けた者に殺されたと伝えられていますが、誰が命じたのかは記録によって書き方が違います。
時政は頼家の弟の実朝を3代将軍に立て、1203年、大江広元と並んで政所(まんどころ)の長官である別当になりました。これが初代の執権とされています。
執権という職の中身や、将軍との関係は「執権」の記事で詳しく解説しています。
■史実と学説
13人の話し合いについては、若い頼家の独断を抑えるためのものだったとする見方が広く知られてきました。一方で、頼家を支えるための仕組みで、話し合いを経たうえで最後に決めるのは頼家だったとする見方もあります。
頼家が力をすべて奪われたとは言い切れないとされます。
1205年には
牧氏事件(牧氏の変)が起きました。この年、時政は有力御家人の畠山重忠を滅ぼしています。さらに時政と後妻の牧の方(まきのかた)は、実朝に代えて、娘婿の
平賀朝雅(ひらがともまさ)を将軍に立てようとしたとされます。これを知った政子と義時は実朝を義時の屋敷に移して守り、時政は出家して伊豆の北条へ退きました。京都にいた朝雅も討たれています。執権の地位は義時が継ぎました。
建暦3年(1213年)2月、義時を倒そうとする泉親衡(いずみちかひら)の計画が発覚します。捕らえられた者のなかに、侍所(さむらいどころ)の長官である
和田義盛(わだよしもり)の子と甥がいました。子は許されましたが、甥の胤長は許されずに流され、その屋敷も義時の側に渡ります。同じ年の5月、義盛は兵を挙げました。味方のはずだった一族の三浦氏は直前に幕府側につき、2日間の戦いの末に和田一族は滅びます。これが
和田合戦です。義時は義盛に代わって侍所の長官を兼ね、政所とあわせて幕府の政治の中心に立ちました。
この戦いのきっかけについては、義時が義盛を挑発したという見方と、義盛の側がはじめから計画に関わっていたという見方があり、分かれています。
比企能員の変や和田合戦の経緯は、主に『吾妻鏡』によって伝えられています。『吾妻鏡』はのちに北条氏の立場からまとめられた歴史書で、ほかの記録と食い違う部分があり、どこまでが事実かについては見方が分かれています。
■トリビアの真相
大河ドラマの題名にある「鎌倉殿(かまくらどの)」は、鎌倉幕府の主を呼ぶ言葉です。2代目の鎌倉殿となった頼家を支えるために名を連ねたのが、題名の「13人」です。
ドラマの主人公になった北条義時は、この13人のなかでは時政の子という立場でした。それから14年、義時は政所と侍所の両方の長官を兼ねるまでになります。
試験に出るポイント
1199年の十三人の合議制、1203年の比企能員の変と北条時政の初代執権、1205年の牧氏事件、1213年の和田合戦という順番が問われます。和田合戦のあと、北条義時が政所と侍所の両方の長官(別当)を兼ねたことも頻出です。
義時の時代は、このあと1221年の承久の乱へと続きます。「承久の乱」の記事で詳しく解説しています。