独立派とは
イングランド内戦という17世紀の激動期において、国王チャールズ1世に反旗を翻した議会派は決して一枚岩の集団ではありませんでした。その内部には戦後のイングランドをどのような国家にすべきかというビジョンをめぐり様々な思想が渦巻いていたのです。その中でも革命の進展とともに主導的な役割を担い、最終的にイングランドの運命をその手に握ることになったのが「独立派」として知られる人々です。彼らは議会派内の多数派であった長老派と対立し、より徹底した教会改革とある程度の信教の自由を求めました。オリバー・クロムウェルという傑出した指導者を得てニューモデル軍の中核を形成した彼らは、単なる宗教上の一派閥に留まらず、国王の処刑と共和政の樹立というイングランド史上前例のない変革を成し遂げる原動力となりました。
思想的背景
独立派の思想はイングランドのピューリタニズムという大きな潮流の中から生まれました。彼らもまたイングランド国教会を内部から「浄化」し聖書に忠実な教会を設立することを目指す熱心なプロテスタントでした。しかし目指すべき教会の具体的な形、特にその統治構造(ポリティ)に関して他のピューリタン、とりわけ長老派とは一線を画す明確な考えを持っていました。
会衆制教会論
独立派の思想の核心にあるのは「会衆制(コングリゲーショナリズム)」と呼ばれる教会観です。これは教会の基本的な単位が国や教区といった地理的な区画ではなく、自発的に集まった「見える聖徒(ヴィジブル・セインツ)」の集団すなわち「会衆(コングリゲーション)」であるという考え方です。
彼らにとって真の教会とは建物や制度ではありませんでした。それは神への回心を経験しキリストへの信仰を告白し、そして神とまた互いに聖書の教えに従って共に歩むことを誓い合った(教会契約を結んだ)信者たちの共同体でした。この契約によって形成された個々の会衆はそれぞれが完全な教会であり、外部のいかなる権威からも「独立」しているべきだと彼らは主張しました。
この「独立」は二つの意味を持っていました。第一にそれは主教や全国教会会議といった上位の聖職者や教会組織からの独立を意味します。各会衆は自らの牧師や役員を選び新しい教会員を受け入れ、そして罪を犯した教会員を戒規にかける権利をキリストから直接与えられていると信じられていました。彼らは主教制はもちろんのこと、長老派が目指したような各教区教会を地域の教会会議(プレスビテリー)や全国教会会議の権威の下に置く階層的な長老制システムにも反対しました。彼らにとってそのような中央集権的な教会統治は、個々の会衆の自由とキリストが教会の唯一の頭であるという原則を侵害するものだったのです。
第二にそれは国家権力からの独立を意味します。独立派は国家が教会の教義や礼拝、戒規に介入することに強く反対しました。国王や議会が国民に特定の信仰や礼拝形式を強制する権利を持つとは考えませんでした。信仰はあくまで個人の良心の問題であり、国家の役割は教会が平和的に活動できる環境を保障することに留まるべきだと主張したのです。この思想は後の政教分離の原則の源流の一つとなりました。
見える聖徒の教会
独立派の教会観のもう一つの重要な特徴は、教会員の資格を神への回心を経験した「見える聖徒」に厳しく限定しようとした点です。彼らは長老派が主張したような教区に住む全ての住民が自動的に教会員となる国民教会(ナショナル・チャーチ)の考え方を批判しました。彼らの理想は真の信者のみから構成される純粋な教会でした。
新しい教会員になろうとする者は会衆の前で自らの回心の経験、すなわち自分がどのようにして罪を自覚しキリストを救い主として受け入れるに至ったかを詳細に語ることが求められました。会衆はその告白が真正なものであるかを吟味し、その人物を教会員として受け入れるかどうかを決定しました。この厳格な入会審査は教会を世俗的な人々から守りその純粋性を保つための重要な手段と考えられました。
この「聖徒の教会」という理念は彼らに強い選民意識と連帯感を与えました。彼らは自分たちを堕落した世界の中から神によって選び出され、神の国を地上に建設するという特別な使命を帯びた共同体であると見なしていました。この強い確信が内戦という困難な時代において彼らの行動を支える精神的な力となったのです。
信教の自由の擁護
独立派は長老派と比較して信教の自由に対してより寛容な立場を取りました。彼らは自らの会衆制の原則に基づき全ての教会が同じ形式である必要はないと考えていました。信仰の核心部分で一致している限り、礼拝の形式や教会統治の細部についてはそれぞれの会衆が自らの良心に従って決定する自由を持つべきだと主張したのです。
彼らが擁護した「信教の自由(リバティ・オブ・コンシャンス)」はしかし無制限のものではありませんでした。オリバー・クロムウェルに代表される主流派の独立派が念頭に置いていたのはあくまで「神を畏れる人々」、すなわち様々な宗派のプロテスタントのための自由でした。彼らはカトリック教や主教制を掲げる国教会派、そして社会秩序を乱すと見なされた過激な宗派に対しては寛容ではありませんでした。
それでも全国民に単一の教会制度(長老制)を強制しようとした長老派に比べれば彼らの立場は画期的なものでした。彼らは信仰が強制されるべきものではなく、聖霊の働きかけによって個人の心の中に生まれるものであると信じていました。したがって国家が人々の良心に介入し一つの「正しい」信仰を押し付けることは、神の働きを妨げる冒涜的な行為であると考えたのです。この思想はニューモデル軍のように多様な宗教的背景を持つ人々が集まる組織において、兵士たちの士気を維持し結束を固める上で極めて重要な役割を果たしました。
長老派との対立
イングランド内戦が始まると議会派の内部では戦後のイングランド国教会をどのような形に再編するかをめぐり、独立派と長老派の間の神学論争が政治的な権力闘争へと発展していきました。当初は少数派であった独立派がいかにして多数派の長老派を凌駕し革命の主導権を握るに至ったのか。その過程は内戦の行方そのものを決定づけることになります。
ウェストミンスター会議
1643年、議会はイングランド国教会の改革案を審議するため聖職者と信徒の代表からなる「ウェストミンスター会議」を召集しました。この会議の主な目的は主教制に代わる新しい教会統治の形を定めスコットランドとの宗教的統一を図ることにありました。議会はスコットランドから軍事援助を得る見返りに「厳粛な同盟と契約」を結び、イングランドの教会をスコットランドの教会(長老制)のモデルに従って改革することを約束していました。
そのためウェストミンスター会議の参加者の大多数は長老制を支持する人々でした。独立派はトマス・グッドウィンやフィリップ・ナイといったごく少数の代表を送るに過ぎませんでした。彼らは会議の中で長老制の中央集権的な教会統治に反対し、各個教会の自律性を認めるよう粘り強く主張しましたが数的に圧倒的な長老派の前に彼らの意見が通ることはありませんでした。
会議は長老制の教会統治、カルヴァン主義の教義を体系化した「ウェストミンスター信仰告白」、そして二種類の「カテキズム(信仰問答)」を採択しました。これらは長老派教会の教義の基礎として後世に大きな影響を与えることになります。しかし独立派はこの会議の決定を議会がスコットランドの圧力に屈した結果であり、主教に代わる新たな「聖職者の専制」を導入するものとして強く反発しました。彼らは議会での議論を引き延ばし、ウェストミンスター会議で決定された長老制システムがイングランド全土で完全に実施されるのを防ごうとしました。
ニューモデル軍の役割
独立派がウェストミンスター会議での劣勢を覆し政治的な影響力を増大させる上で決定的な役割を果たしたのがニューモデル軍の存在でした。オリバー・クロムウェルをはじめとする軍の指導者の多くは独立派であり、彼らは軍隊を長老派の画一的な要求から信教の自由を守るための砦と見なしていました。
ニューモデル軍の兵士たちはイングランド社会の縮図であり、その中には独立派だけでなくバプテスト、分離派、そしてより急進的な思想を持つ人々が数多く含まれていました。彼らは自らの信仰のために戦っており、戦争に勝利した暁に長老派による新たな宗教的画一性が強制されることを何よりも恐れていました。クロムウェルは兵士の能力を評価する上でその神学的な立場を問題にしませんでした。「兵士が王国のために忠実に戦うのであれば、彼がアナバプテストであろうとなかろうと、それが何だというのか」と彼は語っています。この寛容な姿勢は軍の士気を高め、多様な背景を持つ兵士たちを強力な戦闘集団としてまとめ上げる上で不可欠でした。
第一次内戦が議会派の勝利に終わると議会の長老派はこの急進化した軍隊を危険視しその解体を図りました。しかし軍はこれに抵抗しやがて独立した政治勢力として議会と対峙するようになります。この軍と議会の対立はそのまま独立派と長老派の対立を反映したものでした。軍を背景とした独立派はもはや議会内の少数派ではなく、イングランドの政治を左右する最も強力な勢力へと変貌を遂げたのです。
国王の処遇をめぐる対立
第一次内戦後、捕虜となった国王チャールズ1世の処遇をめぐり独立派と長老派の対立は決定的となりました。
議会の長老派は国王との和解を望んでいました。彼らは国王が長老制の導入を受け入れ議会の主要な権限を認めるならば、彼を王位に戻し伝統的な君主制の枠組みの中で秩序を回復させることができると考えていました。彼らは戦争の長期化とそれに伴う軍の急進化、そしてレヴェラーズのような社会秩序を脅かす急進思想の広がりを恐れていたのです。
一方クロムウェルやヘンリー・アイアトンといった独立派の指導者たちは国王チャールズ1世を全く信用していませんでした。彼らは国王が交渉の席で約束をしても権力を取り戻せばそれを反故にするだろうと見抜いていました。彼らの不信感はチャールズがスコットランドと密約を結び第二次内戦を引き起こしたことで確信へと変わりました。軍の兵士たちの間では二度にわたって国を血の海に沈めた国王を「血にまみれた男」として裁きにかけるべきだという声が日増しに高まっていきました。
1948年末、軍はついに実力行使に出ます。プライド大佐率いる部隊が議会を封鎖し国王との和解を進めていた長老派の議員たちを追放しました(プライドのパージ)。これにより議会は独立派とその同調者からなる「ランプ議会」となり完全に軍のコントロール下に置かれました。長老派は政治の舞台から排除され独立派がイングランドの運命を決定づける道を切り開いたのです。この後ランプ議会は国王を裁くための高等裁判所を設置し、1649年1月チャールズ1世の処刑を断行しました。独立派は長老派がためらった最後の一線を越えイングランドを君主制なき共和政国家へと導いたのでした。
権力の掌握
国王の処刑と長老派の追放によって独立派はイングランドの政治権力を完全に掌握しました。彼らはオリバー・クロムウェルという強力な指導者の下、コモンウェルス(共和国)とそれに続く護国卿政というイングランド史上前例のない政治的実験に乗り出しました。彼らの統治は軍事的な成功と国内の安定をもたらした一方で、その権力基盤の脆弱性と理想と現実の間の矛盾を露呈させることにもなりました。
オリバー=クロムウェル
独立派の台頭と権力掌握はオリバー・クロムウェルの個人的な軌跡と分かちがたく結びついています。彼はイースト・アングリアのジェントリ階級の出身で内戦前は一介の国会議員に過ぎませんでした。しかし彼は敬虔な独立派の信仰、卓越した軍事的才能、そして現実的な政治手腕を兼ね備えていました。
彼の信仰は彼の全ての行動の原動力でした。彼は自らを神の摂理を実現するための道具であると固く信じていました。戦いの勝利も政治的な決断も全ては神の導きによるものだと彼は考えました。この揺るぎない確信が国王の処刑という重大な決断を下す際にも彼を支えました。
軍人としてのクロムウェルは天才的でした。彼は自ら組織した「鉄騎隊」を規律と信仰心で鍛え上げられた無敵の部隊へと育て上げました。マーストン・ムーアやネイズビーでの彼の決定的な勝利は彼を国民的英雄へと押し上げ、ニューモデル軍内での彼の権威を絶対的なものにしました。
政治家としてのクロムウェルは現実主義者でした。彼は理想を追求しつつも常に状況に応じた妥協と決断を下すことができました。彼は独立派の理念である信教の自由を擁護しましたが同時にレヴェラーズのような急進派が社会秩序を脅かすと見なせば容赦なくこれを弾圧しました。この現実主義的な姿勢が彼を革命の混乱の中からイングランドの事実上の統治者へと押し上げたのです。
コモンウェルスと護国卿政
国王処刑後、独立派が主導するランプ議会はイングランドを「コモンウェルス」であると宣言し君主制と貴族院を廃止しました。しかしこの共和政はアイルランドとスコットランドの王党派の反乱、そして国内の不満分子によって常に脅かされていました。クロムウェルは総司令官としてこれらの反乱を武力で鎮圧しブリテン諸島を軍事的に統一しました。
しかし彼は権力に固執するランプ議会にも不満を募らせていました。1653年、彼は武力で議会を解散させ、その後軍の将校たちが制定した成文憲法「統治章典」に基づき終身の「護国卿」に就任しました。護国卿政は事実上の独裁体制でありクロムウェルは王に近い権力を行使しました。
護国卿としてクロムウェルは国内にある程度の安定と秩序を回復させました。彼の統治下で独立派の理念であったプロテスタント諸派に対する信教の自由がある程度実現しました。彼は国教会派、長老派、バプテストなどがそれぞれの教会を設立し平和的に活動することを認めました。しかしこの寛容はカトリック教徒や過激な宗派には及ばず、また彼の政権は軍政監制度の導入などしばしば強権的な手法に頼らざるを得ませんでした。独立派は国王という専制君主を打倒しましたが、その結果として軍事独裁という新たな形の専制を生み出してしまったのです。
サヴォイ宣言
クロムウェルの統治下で独立派(この頃には会衆派教会として知られるようになります)は自らの教義と教会統治の原則を正式に体系化しようと試みました。クロムウェルが死去した直後の1658年、ロンドンのサヴォイ宮殿にイングランドとウェールズから約200人の牧師と信徒の代表が集まり会議を開きました。
この会議で採択されたのが「サヴォイ宣言」です。この宣言の教義部分はウェストミンスター信仰告白の内容をほぼそのまま採用しており、独立派が神学的には主流のカルヴァン主義の伝統に忠実であったことを示しています。
しかし教会統治に関する部分は独立派独自の思想を明確に示しています。宣言は各個教会の自律性を強調し、教会会議やシノド(教会総会)はあくまで助言や勧告を行うためのものであり各教会に対する強制的な権限を持つべきではないと規定しました。また教会の役員(牧師、教師、長老、執事)の任命権が個々の教会にあることを再確認しました。このサヴォイ宣言は会衆制教会の基本的な信条と統治原則を定めた歴史的に重要な文書となりました。
しかしこの宣言が採択された時、独立派の政治的権力はすでにその頂点を過ぎていました。クロムウェルの死後、護国卿政は急速に崩壊しイングランドは王政復古へと向かっていきます。独立派が目指した「聖者の統治」の実験はわずか10年あまりで終わりを告げることになったのです。
遺産
1660年の王政復古は独立派の政治的支配に終止符を打ちました。チャールズ2世の新しい政権下で彼らは「非国教徒」として再び迫害と差別の対象となりました。しかし彼らが革命の時代に掲げた思想とその闘争の経験は、イングランドと大西洋を越えたアメリカの地に消えることのない深い遺産を残しました。
非国教徒としての存続
王政復古後、議会は「クラレンドン法典」として知られる一連の厳しい法律を制定し国教会の体制を再建するとともにピューリタンを公的な生活から排除しようとしました。礼拝統一法(1662年)は全ての聖職者に主教による叙階と共通祈祷書への完全な同意を義務付けました。これを拒否した約2000人の聖職者(その多くは独立派や長老派)が教会から追放されました(大追放)。
これにより独立派は国教会内の改革運動から完全に分離した「非国教徒(あるいは反対派)」の一派となりました。彼らは集会を開くことを禁じられ公職に就くことや大学で学ぶことを制限されるなど様々な法的・社会的な差別に苦しみました。しかし彼らは信仰を捨てず秘密の集会(コンヴェンティクル)を開き独自の教会組織を維持し続けました。ジョン・オーウェン(クロムウェルの副官でもあった高名な神学者)のような指導者がこの困難な時代に独立派の神学と共同体を支えました。
1688年の名誉革命と翌年に制定された「寛容法」によって彼らはようやく限定的な信教の自由を法的に認められることになります。この寛容法はカトリック教徒などを除き、国王至上権を認め特定の信仰箇条に同意する非国教徒プロテスタントが自らの礼拝所を持ち集会を開くことを許可するものでした。これは独立派が長年求め続けてきた信教の自由の不完全ながらも重要な実現でした。これ以降独立派(会衆派教会)はバプテストや長老派などと共にイングランド社会における非国教徒の中核的なグループとしてその存在を確立していきました。
政治思想への影響
独立派が革命を通じて実践し擁護した思想は近代的な政治思想の発展に大きな影響を与えました。
第一に彼らが掲げた「信教の自由」の理念です。彼らの寛容には限界がありましたが国家が個人の良心を支配すべきではないという彼らの主張は、ジョン・ロックのような後の思想家に受け継がれ近代的な政教分離と信教の自由の原則の基礎を築きました。
第二に彼らの共和主義の実験です。独立派が主導したコモンウェルスは短命に終わりましたが君主なしで国家が統治されうることを実際に示しました。国王を処刑し人民の代表(であると彼らが考えた議会)の名の下に統治を行うという彼らの行動は、主権が君主ではなく人民に由来するという近代的な国民主権の思想の過激な実践例となりました。この経験は後のアメリカ革命やフランス革命の指導者たちにインスピレーションと教訓の両方を与えました。
第三に成文憲法の試みです。「統治章典」は権力分立の原則を取り入れ為政者の権限を法によって制限しようとする近代的な立憲主義の先駆けでした。これもまた後のアメリカ合衆国憲法の制定などに間接的な影響を与えたと考えられています。
アメリカへの影響
独立派の思想である会衆制はイングランド本国よりもむしろ新大陸のアメリカでその最も純粋な形で花開きました。1620年代から1630年代にかけてマサチューセッツに移住したピューリタンの多くは独立派と同じ会衆制の教会観を持っていました。彼らは新大陸の地でまさに独立派がイングランドで夢見たような聖書に基づき聖徒の会衆によって治められる社会を建設しようとしました。
ニューイングランドのタウンミーティングに代表される住民参加による自己統治の伝統は、各個教会の自律性を重んじる会衆制の精神と深く結びついています。各タウンが自らの問題について議論し決定を下すという政治文化は、各教会が自らの事柄を自分たちで決定するという教会文化の世俗的な反映であったと言えます。
アメリカの会衆派教会は独立後もアメリカの宗教界、教育界、そして社会改革運動において中心的な役割を果たし続けました。ハーバード大学やイェール大学といった主要な大学はもともと会衆派の聖職者を養成するために設立されたものであり、彼らの知性を重んじる伝統はアメリカの文化に大きな影響を与えました。
イングランドの独立派はピューリタン革命という坩堝の中から生まれイングランドの歴史を永遠に変えた強力な宗教的・政治的勢力でした。彼らは個々の信者の良心と自律的な教会の自由を何よりも重んじました。その理想は時に矛盾をはらみ、その実践は時に権威主義的でしたが、彼らが切り開いた道は信教の自由、立憲主義、そして民主的な自己統治といった近代社会の基礎となる原則へと繋がっていました。彼らは自らを神の道具と信じ地上に聖なる共同体を築こうとしましたが、その意図せざる結果としてより世俗的でより多元的な近代世界の誕生を力強く後押ししたのです。