長老派とは
イングランド内戦という17世紀の激動は、国王と議会の対立という単純な構図では語れません。国王チャールズ1世に反旗を翻した議会派そのものが、宗教的・政治的な信条を異にする多様な集団の連合体でした。その中でも、特に内戦の初期から中期にかけて議会内で主導的な役割を果たしたのが「長老派」として知られる一派です。彼らは国王の専制に抵抗し、イングランド国教会を改革しようとしましたが、その目指す秩序と安定への志向は、やがてより急進的な独立派やニューモデル軍との深刻な対立を生み、歴史の舞台から退場を余儀なくされました。
長老派の目指したものは、一言で言えば「秩序ある改革」でした。彼らは国王の絶対王政的な権力行使には断固として反対しましたが、君主制そのものを転覆させる意図はありませんでした。彼らが望んだのは、国王の権力が法と議会によって適切に制限される、古来の「混合政体」の回復でした。社会的には、彼らの多くは富裕な貴族や商人であり、内戦による社会秩序の崩壊を何よりも恐れていました。
宗教的には、彼らは監督制(主教制)をイングランド国教会の腐敗の根源とみなし、これを廃絶して、スコットランドで確立されていた長老制(プレスビテリアン)教会制度を導入しようとしました。これは、個々の教会が完全に独立するのではなく、教区、地域、そして全国という階層的な長老会(牧師と信徒の代表者からなる会議)によって統治される、中央集権的で規律ある教会体制でした。彼らにとって、この統一された国教会こそが、国家の宗教的・社会的な安定を保証する唯一の道でした。
しかし、この「統一」と「規律」を重んじる姿勢が、皮肉にも彼らの命運を尽きさせます。戦争が進むにつれて台頭してきた独立派は、各個教会の独立性を重んじ、国家による宗教の強制に反対しました。長老派が、自分たちの信条以外の宗派を認めない非寛容な姿勢を示したとき、両者の対立は決定的となります。最終的に、長老派は、自らが創設に関わったニューモデル軍の武力によって議会から追放され、その政治的影響力を完全に失いました。
長老派の起源と理念
イングランド内戦における長老派の行動を理解するためには、まず彼らの思想的背景、すなわち宗教改革以来イングランドに存在したピューリタニズムの流れと、彼らが理想とした教会および国家の姿を把握する必要があります。彼らは革命家ではなく、あくまで改革者であり、その行動は常に秩序と安定という枠組みの中で考えられていました。
イングランド・ピューリタニズムの中の長老主義
長老主義(プレスビテリアニズム)の思想は、16世紀の宗教改革、特にジュネーヴのジャン・カルヴァンの教えにその源流を持ちます。カルヴァンは、聖書に基づき、教会が司教(ビショップ)のような単独の権威者ではなく、牧師と信徒から選ばれた長老(プレスビター)たちによる合議制の会議(コンシストリー)によって治められるべきだと説きました。この思想は、イングランドの宗教改革の過程で、カトリック的な要素が多く残ったイングランド国教会に不満を持つプロテスタント、すなわちピューリタンたちに大きな影響を与えました。
エリザベス1世の時代、大陸から帰国したマリアン亡命者たちの一部は、この長老主義的な教会改革をイングランドに導入しようと試みました。トーマス・カートライトのような神学者は、監督制が聖書に根拠のない非キリスト教的な制度であると激しく攻撃し、国教会を長老制モデルに基づいて再編するよう主張しました。しかし、エリザベス女王は、自らを最高統治者とする監督制を王権の重要な支柱と考えており、これらの動きを厳しく弾圧しました。
続くジェームズ1世とチャールズ1世の治世下でも、長老主義的な改革の試みは抑圧され続けました。特に、チャールズ1世とカンタベリー大主教ウィリアム・ロードが進めた「アルミニウス主義的」な教会改革は、ピューリタンたちに強い危機感を抱かせました。ロードは、祭壇の設置や儀式の重視など、多くのピューリタンが「カトリック的」と見なす慣行を復活させ、それに従わない聖職者を迫害しました。この「ロードの専制」は、監督制そのものへの反感を決定的にし、多くの穏健なピューリタンたちをも、より抜本的な教会改革の必要性を確信させるに至りました。
1640年に長期議会が召集されたとき、議員の多くは、このロードの教会政策に反対する点で一致していました。そして、監督制に代わる新しい教会制度を模索する中で、スコットランドで成功裏に確立されていた長老制が、最も有力なモデルとして浮上したのです。
政治的・社会的信条
長老派の政治的信条は、その宗教的信条と密接に結びついていました。彼らは、国王が神によって立てられた正当な統治者であるという伝統的な考えを受け入れていました。しかし、その権力は絶対的なものではなく、神の法と王国の法によって制限されるべきだと考えました。彼らが攻撃したのは、チャールズ1世という特定の国王の「悪しき顧問」たちと、彼の絶対王政的な統治スタイルであり、君主制という制度そのものではありませんでした。
彼らが理想としたのは、国王、貴族院、庶民院がそれぞれの権力を分担し、相互に抑制しあう「混合政体」あるいは「古来の国制」でした。チャールズ1世が議会を無視して11年間も「個人統治」を行い、議会の承認なく課税(船税など)を行ったことは、この国制を破壊する暴挙と見なされました。したがって、内戦における彼らの当初の目的は、革命を起こすことではなく、国王の権力を法的な枠組みの中に戻し、議会の権利を恒久的に保障することでした。
社会的に見ると、長老派の指導者の多くは、エセックス伯やマンチェスター伯のような大貴族、あるいはジョン・ピムやデンジル・ホリスのような富裕なジェントリや法曹家、ロンドンの有力商人たちでした。彼らは既存の社会階層と財産秩序の維持に強い関心を持っていました。彼らにとって、内戦はあくまで限定的な政治目標を達成するための最後の手段であり、戦争が長引くことによって生じる社会の混乱や、民衆の急進化を何よりも恐れていました。この保守的な社会観が、後に戦争の遂行方法や和平交渉のあり方をめぐって、より急進的な独立派との対立を生む大きな要因となります。彼らは秩序を回復するための改革者でしたが、決して社会構造そのものを変革しようとする革命家ではなかったのです。
権力の掌握とスコットランドとの同盟
内戦が始まると、長老派は長期議会内でその組織力と影響力を発揮し、戦争遂行の主導権を握りました。しかし、戦局が必ずしも有利に進まない中で、彼らは強力な軍事支援を求めて、北の隣国スコットランドとの同盟という重大な決断を下します。この同盟は、一時的に議会派を優位に立たせましたが、その代償として、イングランドの教会を長老制に改革するという重い約束を背負い込むことになりました。
長期議会における主導権
1642年に内戦が勃発した当初、長期議会はジョン・ピムのような巧みな政治家の指導の下、比較的結束していました。ピムは、特定の宗派に偏ることなく、国王の専制に反対する様々なグループを巧みにまとめ上げ、戦争を指導しました。この時期の議会派は、まだ明確に長老派と独立派に分かれていたわけではなく、「ピムとその仲間たち」と呼ぶのがより正確でした。
しかし、1643年末にピムが病死すると、議会内の権力バランスに変化が生じます。ピムという重しが取れたことで、穏健派と急進派の間の亀裂が表面化し始めました。この中で、デンジル・ホリスやフィリップ・ステイプルトンといった人物が率いるグループが、議会の多数派を形成し、主導権を握るようになります。彼らは、スコットランドとの連携を重視し、限定的な戦争目的と、国王との早期和平交渉を志向しました。このグループが、後に「長老派」と呼ばれる政治派閥の中核をなしていきます。
彼らは、議会内に設置された様々な委員会、特に両王国委員会(イングランドとスコットランドの合同戦争指導委員会)を掌握し、軍の司令官の任命や戦略の決定に大きな影響力を行使しました。エセックス伯やマンチェスター伯といった貴族司令官は、彼らの政治的同盟者でした。彼らは、ロンドン市の市政と財界にも強力な支持基盤を持っており、戦争遂行に必要な資金を調達する上で有利な立場にありました。こうして、1643年から1646年にかけて、長老派は議会における支配的な勢力として、戦争と政治の方向性を決定づけていきました。
厳粛な同盟と規約
1643年の夏、議会軍の戦況は芳しくありませんでした。南西部では議会軍が敗北を重ね、北部のヨークシャーも国王軍の脅威に晒されていました。この苦境を打開するため、議会は強力な軍事力を持つスコットランドに支援を求めることを決定します。
スコットランドは、すでに1638年と1640年に、チャールズ1世がスコットランド国教会にイングランド式の祈祷書を強制しようとしたことに反発して武装蜂起し(主教戦争)、国王軍を打ち破っていました。彼らは、自国で勝ち取った長老制教会を守るためには、イングランドでも監督制が打倒され、同様の教会改革が行われることが不可欠だと考えていました。彼らにとって、イングランド内戦は対岸の火事ではなかったのです。
議会が派遣した使節団とスコットランド政府との交渉の結果、1643年9月に「厳粛な同盟と規約」が締結されました。これは、単なる軍事同盟ではありませんでした。この規約の中で、イングランド議会は、スコットランドから2万人の援軍を得る見返りに、イングランド国教会を「神の言葉と、最もよく改革された教会の模範に従って」改革することを誓約しました。この「最もよく改革された教会の模範」が、スコットランドの長老制教会を指していることは、誰の目にも明らかでした。
この同盟は、長老派にとっては大きな勝利でした。彼らは、強力な軍事的後ろ盾を得ると同時に、自らが理想とする長老制教会改革を国家的な方針として確立することができたからです。しかし、この約束は、イングランド国内の宗教事情の複雑さを無視したものでした。独立派や他の分離主義的な宗派は、一つの宗派(長老派)の教会制度が国家によって全国民に強制されることに、強く反発しました。「厳粛な同盟と規約」は、長老派に権力をもたらすと同時に、後の独立派との決定的な対立の種を蒔くことにもなったのです。
ウェストミンスター会議と教会改革
「厳粛な同盟と規約」で約束された教会改革を具体化するため、議会は1643年に神学者や議員からなる会議をウェストミンスター寺院に召集しました。このウェストミンスター会議は、5年以上にわたって続けられ、その成果はイングランドだけでなく、世界中の長老派教会に永続的な影響を与えることになります。しかし、その改革の方向性をめぐっては、会議の内部でも、また会議と議会の間でも、激しい論争が繰り広げられました。
長老制の確立を目指して
ウェストミンスター会議には、イングランド全土から選ばれた約120名の神学者(聖職者)と、上下両院から派遣された30名の議員が出席しました。当初の目的は、既存のイングランド国教会の「三十九箇条」を改訂することでしたが、「厳粛な同盟と規約」の締結後は、全く新しい教会制度と信仰告白を作成することがその主要な任務となりました。スコットランドからも、アレクサンダー・ヘンダーソンやサミュエル・ラザフォードといった有力な神学者が代表として参加し、議論に大きな影響を与えました。
会議の多数派は、長老主義的な改革を支持する神学者たちでした。彼らは、聖書の中に、教会が従うべき唯一の統治形態、すなわち長老制が示されていると信じていました(神授長老制)。彼らは、監督制を完全に廃止し、個々の教区教会から、地域の長老会(クラシス)、そして全国の総会(ジェネラル・アッセンブリー)へと至る、階層的な教会統治システムをイングランドに導入しようとしました。このシステムの下では、聖職者の任命や教義上の問題、信徒の規律などは、すべてこれらの長老会によって決定されることになります。
この長老制モデルは、国家による宗教の統一と、厳格な道徳的規律を重視する長老派の理念に合致するものでした。彼らは、多様な宗派が乱立する「宗教の無政府状態」を恐れ、国民全員が従うべき一つの公的な教会と信仰基準を確立することが、社会の安定に不可欠だと考えていました。
信仰告白と教理問答
ウェストミンスター会議が生み出した最も永続的な成果は、その神学的な文書でした。特に重要なのが、「ウェストミンスター信仰告白」、「大教理問答」、そして「小教理問答」です。
「ウェストミンスター信仰告白」は、1646年に完成した、カルヴァン主義神学の体系的な表明です。聖書の権威、神の主権、予定説、契約神学といった改革派神学の核心的な教義が、明晰かつ包括的に記述されています。この信仰告白は、イングランド議会によって(一部修正の上で)承認され、スコットランド国教会では今日に至るまでその基本的な信仰基準とされています。また、世界中の多くの長老派教会や改革派教会でも、最も重要な信仰告白の一つとして尊重されています。
「大教理問答」は、牧師や説教者が教義を教える際の指針として作成された、より詳細な教理の解説書です。「小教理問答」は、子供や一般信徒が信仰の基本を学ぶために作られた、より簡潔な問答集です。特に「小教理問答」の冒頭、「人の主な目的は何か」「神をたたえ、永遠に神を喜ぶことである」という問答は、広く知られています。
これらの文書は、長老派の神学的立場を明確に示し、彼らが目指した教会の知的な基盤を築きました。しかし、これらの文書が前提としていた、全国民が従うべき統一された国教会という理念そのものが、次の時代の大きな争点となっていくのです。
独立派およびニューモデル軍との対立
長老派が議会とウェストミンスター会議で長老制国教会の設立を着々と進める一方で、戦場では全く新しい勢力が台頭していました。それは、オリバー=クロムウェルに代表される独立派の将校たちと、彼らが率いるニューモデル軍でした。独立派は、長老派が目指す画一的な国教会制度に真っ向から反対し、宗教的寛容を求めました。この宗教上の対立は、やがて政治的・軍事的な権力闘争へと発展し、長老派の没落を決定づけることになります。
宗教的寛容をめぐる対立
長老派と独立派の根本的な違いは、教会と国家の関係、そして宗教的寛容に対する考え方にありました。
長老派は、国家の安定のためには、国民が従うべき統一された一つの国教会が不可欠だと考えました。彼らにとって、宗派の多様性は、社会の分裂と混乱をもたらす危険なものでした。そのため、彼らは長老制教会をイングランド唯一の公認教会として確立し、それ以外の宗派(独立派、バプテスト、クエーカーなど)の存在を認めない、非寛容な政策を主張しました。彼らのスローガンは「統一」と「規律」でした。
一方、独立派(あるいは会衆派)は、教会の基本的な単位は、聖職者や外部の権威によって支配される教区ではなく、自発的に集まった「目に見える聖徒たち」の契約共同体(個々の教会)であるべきだと考えました。彼らは、全国的な教会会議が個々の教会の自治権に介入することに反対しました。この教会観から、彼らは、国家が特定の宗派を強制するのではなく、平和を乱さない限りにおいて、様々なプロテスタント宗派が自らの信仰を実践する自由(良心の自由)を認めるべきだと主張しました。彼らのスローガンは「寛容」と「自由」でした。
この対立は、ウェストミンスター会議でも顕在化しました。クロムウェルを支持する少数の独立派の神学者たちは、「弁明の嘆願」を提出し、長老制の全国教会の中で、独立派の教会が独自の教会政治を行うことを認めるよう求めました。しかし、長老派の多数派はこれを拒否。この態度の硬化が、独立派に、長老派が支配する議会の下では自分たちの信仰の自由が脅かされるという危機感を抱かせました。
ニューモデル軍の政治化
この宗教的対立の舞台は、やがて軍隊へと移ります。1645年に創設されたニューモデル軍は、その兵士や将校の多くが、独立派やその他の急進的な宗派の信徒で占められていました。彼らは、国王と戦う中で、自分たちの信仰の自由のために戦っているという意識を強く持っていました。軍の中では、兵士たちが自ら説教を行うことも珍しくなく、様々な宗教的・政治的な思想が自由に議論されていました。ニューモデル軍は、単なる戦闘集団ではなく、急進的な思想のるつぼと化していたのです。
1646年に第一次内戦が国王軍の敗北で終わると、議会の長老派は、この強力で急進的な軍隊を自らの脅威と見なすようになります。彼らは、軍を早急に解体しようと画策しました。1647年、議会は、兵士たちに支払われるべき給料の大幅な未払いを残したまま、多くの連隊を解散し、一部をアイルランドへ派遣する命令を出しました。
この一方的な決定に、軍は激しく反発しました。兵士たちは、各連隊から代表(アジテーター)を選出し、将校たちと共に軍事会議を組織して、議会に対抗しました。彼らは、未払い給与の支払いだけでなく、戦時中の行為に対する免責、そして何よりも「良心の自由」の保障を要求しました。軍は、もはや議会の命令に盲従する道具ではなく、自らの権利と理念を主張する独立した政治勢力へと変貌を遂げたのです。この軍の政治化において、クロムウェルやその婿であるヘンリー・アイアトンといった独立派の将校たちが、指導的な役割を果たしました。
プライドのパージと長老派の末路
ニューモデル軍との対立が深まる中で、議会の長老派は自らの破滅につながる危険な賭けに出ます。彼らは、軍の力を削ぐために、敗北した国王チャールズ1世と秘密裏に交渉し、彼を王位に戻そうと画策しました。この動きは、軍の怒りを爆発させ、イングランド史上初の軍事クーデターを引き起こすことになります。
国王との秘密交渉
1647年、軍と議会の対立が激化する中、軍は国王チャールズ1世の身柄を確保し、彼に「建議要目」として知られる、より穏健で寛容な和平案を提示しました。しかし、チャールズは、敵が分裂している状況を利用し、より有利な条件を引き出そうと画策します。彼は、軍との交渉を長引かせながら、裏では議会の長老派やスコットランドと接触していました。
1647年末、チャールズはワイト島でスコットランドの使節と秘密協定(エンゲージメント)を結びます。この協定で、チャールズは、イングランドに長老制を3年間試験的に導入することと引き換えに、スコットランドが彼を復位させるために軍を送ることを約束させました。この報を受けた議会の長老派は、スコットランドと連携し、国王との和解交渉(ニューポート条約)を再開しました。彼らは、国王と手を組んでニューモデル軍を抑え込み、長老制に基づく秩序を回復できると考えたのです。
しかし、この行動は、ニューモデル軍から見れば、裏切り以外の何物でもありませんでした。彼らが血を流して戦ってきた敵である「血にまみれた男」チャールズ1世と、自分たちを解体しようとする長老派が手を結んだのです。1648年にスコットランド軍がイングランドに侵攻して第二次内戦が勃発すると、軍の怒りは頂点に達しました。クロムウェル率いるニューモデル軍は、プレストンの戦いでスコットランド軍を粉砕し、反乱を鎮圧しました。そして、彼らは、もはや国王や長老派とのいかなる妥協も不可能であるという結論に至りました。
クーデターと権力の喪失
第二次内戦に勝利したニューモデル軍は、ロンドンに進軍しました。軍の指導者たちは、国王を裁判にかけることと、彼と和解しようとした長老派議員を議会から追放することを要求しました。しかし、議会の長老派多数派は、依然として国王との交渉を継続しようとしました。
1648年12月6日、ついに軍は実力行使に踏み切ります。トーマス・プライド大佐が率いる一隊の兵士がウェストミンスターの議会入口を封鎖し、登院しようとする議員たちを阻止しました。プライドは、軍が作成したリストに基づき、国王との和解に賛成した長老派の議員たちを次々と逮捕・追放しました。この事件は「プライドのパージ(粛清)」として知られています。
このクーデターによって、約140名の長老派議員が議会から排除され、残ったのは軍の意向に従う60名ほどの独立派議員だけとなりました。この残部議会は「ランプ議会」と呼ばれます。権力の座から追放された長老派は、もはやなすすべもありませんでした。彼らが築こうとした長老制教会と、国王の下での秩序ある社会という夢は、自らが作り出した軍隊の武力によって、無残にも打ち砕かれたのです。
プライドのパージ後、ランプ議会は国王チャールズ1世を裁くための高等裁判所を設置し、1649年1月に彼を処刑しました。そして、君主制と貴族院を廃止し、イングランドをコモンウェルス(共和国)とすることを宣言しました。長老派が最も恐れていた社会秩序の根底からの覆滅、すなわち革命が現実のものとなったのです。彼らは、革命の火蓋を切りましたが、その炎を制御することはできず、やがて自らがその炎に飲み込まれていきました。イングランドの政治の中心は、穏健な改革者たちの手から、急進的な軍人たちの手に完全に移ったのでした。