東インド会社《イギリス》とは
イギリス東インド会社は、今から400年以上も前の大晦日、1600年に設立されました。この日、エリザベス1世女王は、「ロンドン市総督ならびに東インド貿易商人組合」と名乗る200人以上の商人たちの一団に対し、喜望峰から東、マゼラン海峡までの全域におけるイギリスの貿易を15年間独占する権利を与える特許状を発行しました。この特許状こそが、後に世界史を大きく揺るがすことになる巨大企業、イギリス東インド会社の誕生を告げるものでした。
この会社の設立の背景には、16世紀ヨーロッパを席巻した大航海時代の熱狂がありました。当時、ヨーロッパの人々を魅了してやまなかったのが、東洋からもたらされる香辛料でした。胡椒=ナツメグ=クローブといった香辛料は、単に料理の風味を豊かにするだけでなく、肉の保存や薬としても重宝され、その重さと同じだけの金に匹敵するほどの価値を持っていました。この莫大な利益を生む香辛料貿易は、長らくポルトガル、そして後にはオランダによって独占されていました。
特に、1588年にスペインの無敵艦隊を打ち破り、海洋国家としての自信を深めていたイングランドにとって、オランダの優位は看過できないものでした。オランダは1602年に、強力な国家の支援を受けた連合東インド会社(VOC)を設立し、アジア貿易における覇権を確立しつつありました。イングランドの商人たちは、このままではオランダに東洋の富を独占されてしまうという強い危機感を抱いていたのです。彼らは、個々の商人では巨大なオランダの組織に対抗できないことを悟り、国家の特許状に裏打ちされた共同出資の会社を設立することで、この困難な事業に乗り出そうと考えました。
こうして誕生した東インド会社は、当初は決して巨大な組織ではありませんでした。その目的も、インドを征服することなどではなく、あくまで香辛料貿易に参入することにありました。最初の航海は1601年にジェームズ=ランカスターの指揮のもとで行われ、スマトラ島やジャワ島で胡椒を買い付け、大きな利益を上げて帰国しました。しかし、彼らが目指した香辛料諸島(現在のインドネシア=モルッカ諸島)は、すでにオランダが強力な地盤を築いていました。1623年に起きたアンボイナ事件では、香辛料貿易の利権を巡って対立していたオランダ商館員が、日本の傭兵を含むイギリス商館員らを拷問の末に処刑するという悲劇が起こります。この事件は、イギリスが香辛料諸島から事実上撤退し、貿易の主軸をインド亜大陸へと移す大きな転換点となりました。
インドは、香辛料そのものの産地ではありませんでしたが、良質な綿織物の産地として知られていました。このインド産綿織物(キャラコ)を東南アジアに運び、そこで香辛料と交換するという、新たな貿易モデルが模索され始めたのです。会社は、当時インドを支配していたムガル帝国の皇帝ジャハーンギールに使節を送り、通商の許可を求めました。1615年、国王ジェームズ1世の使節として派遣されたサー=トマス=ローの粘り強い交渉の結果、会社はついに帝国内の主要な港であるスーラトに商館を設置する権利を獲得します。これが、会社がインドに最初の足がかりを築いた瞬間でした。
商業帝国への道
インド西海岸のスーラトに拠点を築いた東インド会社は、その後、徐々にその活動範囲を広げていきます。会社の関心は、当初の綿織物と香辛料の交換貿易から、インドの産物を直接ヨーロッパへ輸出することへと移っていきました。インド産の綿織物=絹織物=藍=硝石(火薬の原料)といった商品は、ヨーロッパ市場で高い人気を博し、会社に莫大な利益をもたらしました。
会社の拡大戦略において重要な役割を果たしたのが、沿岸部の戦略的な拠点、すなわち商館(ファクトリー)の確保でした。1639年には、インド東海岸のコロマンデル海岸に面したマドラス(現在のチェンナイ)の土地を獲得し、そこに要塞を建設してセント=ジョージ要塞と名付けました。さらに1668年には、ポルトガル王女キャサリン=オブ=ブラガンザがイングランド王チャールズ2世に嫁いだ際の持参金の一部として、ボンベイ(現在のムンバイ)の島々がイングランド王室領となり、それが会社に貸与されました。そして1690年には、ガンジス川の河口に近いベンガル地方の村に商館を設置し、これが後のカルカッタ(現在のコルカタ)へと発展します。こうして、マドラス=ボンベイ=カルカッタという、後のイギリス領インドの三大拠点となる都市の基礎が築かれていきました。
これらの商館は、単なる貿易の拠点ではありませんでした。会社は、ムガル皇帝や地方領主から得た特権に基づき、商館の周囲に要塞を築き、独自の軍隊を組織し、さらには貨幣を鋳造し、裁判を行うなど、あたかも独立した領土であるかのように振る舞い始めます。会社は、自らの商業的利益を守るためなら、武力行使も辞さないという姿勢を明確にしていきました。
この会社の変質を象徴するのが、17世紀後半の指導者であったジョサイア=チャイルドの言葉です。「会社の業務は、今や武力によって、かつてと同様に管理されなければならない」。この言葉は、会社が単なる商人集団から、領土的野心を持つ政治的=軍事的な存在へと変貌しつつあったことを示しています。
18世紀に入ると、会社の運命を決定的に変える出来事が起こります。それは、インド国内におけるムガル帝国の衰退と、ヨーロッパにおけるライバル=フランスとの対立の激化でした。かつてインド亜大陸の大部分を統一していたムガル帝国は、1707年のアウラングゼーブ帝の死後、後継者争いや地方勢力の台頭によって急速に弱体化していきます。帝国の権威が失墜したインドでは、各地の太守(ナワーブ)や諸侯(ラージャ)が自立し、互いに勢力を争う群雄割拠の時代に突入しました。
このインド国内の政治的混乱は、東インド会社にとって、自らの影響力を拡大する絶好の機会となりました。会社は、対立するインドの諸勢力の一方に肩入れし、自社の軍隊を派遣して軍事的に支援する見返りに、商業的な利権や領土を獲得するという介入政策を積極的に推し進めます。
この介入政策において、会社の最大のライバルとなったのが、フランス東インド会社でした。フランスもまた、インド南東部のポンディシェリを拠点に、同様の介入政策を展開していました。イギリスとフランスの対立は、ヨーロッパ本国での戦争(オーストリア継承戦争や七年戦争)と連動し、インドの地で代理戦争の様相を呈します。これが、1740年代から1760年代にかけて断続的に続いたカーナティック戦争です。
この戦争で、イギリス東インド会社を勝利に導いたのが、ロバート=クライヴという一人の男でした。クライヴは、もともとマドラスの商館に勤める一介の書記でしたが、その大胆不敵な軍事的才能を見出され、会社の軍隊を率いることになります。彼は、1751年のアルコットの戦いで、少数の兵を率いてフランスが支援する軍勢を打ち破り、一躍英雄となりました。クライヴの活躍により、イギリスは南インドにおけるフランスの影響力を排除し、その覇権を確立することに成功したのです。
領土支配の確立
南インドでの勝利に続き、東インド会社が次なる標的としたのが、インドで最も豊かと言われたベンガル地方でした。当時のベンガル太守シラージュ=ウッダウラは、会社の拠点であるカルカッタが、許可なく要塞を強化していることに反発し、1756年にカルカッタを攻撃、占領します。この時、占領されたイギリス人捕虜の多くが劣悪な環境の牢獄(「カルカッタのブラックホール」として知られる)で死亡したという事件は、イギリス本国に衝撃を与え、報復の気運を高めました。
会社の要請を受け、マドラスから派遣されたロバート=クライヴ率いる部隊は、カルカッタを奪還します。しかし、クライヴの野心はそれだけにとどまりませんでした。彼は、シラージュ=ウッダウラに不満を持つ部下の司令官ミール=ジャアファルと密約を結び、シラージュを裏切らせる計画を立てます。そして1757年6月23日、プラッシーの地で、クライヴ率いる約3000の会社軍と、シラージュ=ウッダウラの約5万の軍勢が対峙しました。これが、インドの運命を決定づけたプラッシーの戦いです。
戦いが始まると、事前に内通していたミール=ジャアファルの軍勢は動かず、シラージュ軍は混乱に陥りました。この裏切りと、折からの豪雨で火薬が湿ってしまったこともあり、数で圧倒的に劣る会社軍は、わずかな損害で圧勝を収めました。敗走したシラージュ=ウッダウラは捕らえられて処刑され、クライヴは約束通り、ミール=ジャアファルを新たなベンガル太守の座に就けました。
プラッシーの戦いは、単なる一回の戦闘の勝利以上の意味を持っていました。この勝利によって、東インド会社は、ベンガル地方の事実上の支配者となったのです。会社は、傀儡である太守を通じて、この豊かな土地から莫大な富を吸い上げ始めました。さらに1764年のブクサールの戦いで、ムガル皇帝とアワド太守の連合軍をも打ち破った会社は、翌1765年、ムガル皇帝からベンガル=ビハール=オリッサの3州におけるディーワーニー(地税の徴収権と民事裁判権)を正式に獲得します。
これは、東インド会社の歴史における決定的な転換点でした。会社は、もはや単なる貿易商人ではなく、広大な領土と数千万の人口を支配する統治者となったのです。ディーワーニーの獲得により、会社はベンガルの土地から上がる税収を直接手に入れることができるようになりました。この税収は、インド産品を買い付けるための資金となり、会社はもはや本国から銀を持ち込む必要がなくなりました。つまり、インドの富を使ってインドの産品を買い、それをイギリスに送って利益を上げるという、究極の搾取システムが完成したのです。このシステムは「投資(investment)」と呼ばれましたが、実態はインドからイギリスへの一方的な富の流出に他なりませんでした。
しかし、この急激な権力の掌握は、深刻な腐敗と圧政をもたらしました。会社の社員たちは、ディーワーニーの権限を悪用し、私的に富を蓄えることに奔走しました。彼らは「ネイボッブ(太守のもじり)」と呼ばれ、インドで得た巨万の富をイギリスに持ち帰り、その豪奢な生活ぶりは本国で社会的な批判を浴びました。会社の統治下で、ベンガルの伝統的な経済システムは破壊され、農民たちは重税に苦しみました。そして1770年には、大規模な飢饉が発生し、ベンガルの人口の3分の1にあたる約1000万人が餓死したと推定されています。この悲劇は、一民間企業による統治の限界と危険性を白日の下に晒すものでした。
国家による統制
ベンガルでの飢饉や、ネイボッブたちの目に余る腐敗は、イギリス本国において、東インド会社のあり方に対する深刻な懸念と批判を巻き起こしました。一民間企業が、本国の議会の監督も受けずに、遠く離れた土地で広大な領土と数千万の人々を支配し、戦争や外交まで行っているという状況は、明らかに異常でした。会社は、あまりに巨大になりすぎ、国家にとって制御不能な存在となりつつあったのです。
この状況を問題視したイギリス議会は、会社に対する監督を強化するための法整備に乗り出します。その第一歩となったのが、1773年に制定された「規制法」でした。この法律は、会社のインドにおける統治を初めて法的に規制しようとする試みでした。主な内容として、ベンガル総督のポストが新設され、初代総督としてウォーレン=ヘースティングズが任命されました。ベンガル総督は、マドラスとボンベイの管区に対しても一定の監督権を持つことになり、インドにおける会社の統治に一元性を持たせることが意図されました。また、カルカッタには最高裁判所が設置され、イギリス臣民に関わる裁判を行うことになりました。
しかし、規制法には多くの欠陥があり、会社の統治を十分に監督するには至りませんでした。総督の権限は参事会の決定に拘束され、最高裁判所と総督政府の権限の範囲も曖昧でした。ウォーレン=ヘースティングズは、有能な行政官でしたが、その強引な統治手法や、インド諸侯から不正に金銭を受け取った疑惑などを巡って、参事会のメンバーや本国の政敵から激しい攻撃を受け、帰国後には議会から弾劾裁判にかけられることになります(最終的には無罪)。
ヘースティングズの弾劾裁判などを通じて、会社の統治の問題点がさらに明らかになる中、議会はより抜本的な改革の必要性を認識します。そして1784年、ウィリアム=ピット(小ピット)内閣の下で、「インド法」(ピットのインド法)が制定されました。この法律は、東インド会社の統治システムを大きく変革し、19世紀半ばまで続くイギリスのインド支配の基本構造を確立するものでした。
インド法の最大の特徴は、会社の政治的=軍事的な機能と、商業的な機能を分離し、前者をイギリス政府の監督下に置いた点にあります。ロンドンに「監督庁」が新設され、国王が任命する6名の委員(内閣の閣僚を含む)が、インドにおける会社の民政=軍政=歳入に関する全ての活動を監督する権限を持つことになりました。会社の取締役会は、インドに送る全ての指令を事前に監督庁に提出し、その承認を得なければならなくなりました。これにより、インドの統治に関する最終的な責任は、会社ではなくイギリス政府が負うことになり、事実上、インドは国家の管理下に置かれることになったのです。
一方で、会社の商業活動や、人事任命権などの日常業務は、引き続き取締役会に委ねられました。この、会社が統治の実務を担い、政府がそれを監督するという二重の統治システムは、一見すると奇妙なものですが、会社の持つ統治のノウハウや利権を尊重しつつ、国家のコントロールを及ぼそうとする、イギリス的な妥協の産物であったと言えるでしょう。
ピットのインド法以降、インド総督には、ヘースティングズのような会社生え抜きの人物ではなく、イギリス本国の貴族や有力な政治家が任命されるようになります。その代表格が、1786年に総督に就任したコーンウォリス卿です。彼は、アメリカ独立戦争で敗北した将軍でしたが、清廉な人物として知られ、インド統治の改革に乗り出しました。彼は、会社の行政機構から腐敗を追放し、官吏の給与を引き上げる一方で私的取引を厳しく禁じました。また、ベンガルでは「永久ザミーンダーリー制」と呼ばれる新たな土地税制を導入し、税収の安定化を図りました。これらの改革により、会社の統治は、個人の恣意的な支配から、より体系的で非人格的な官僚支配へと移行していきました。東インド会社は、その独立性を大きく削がれ、実質的にはイギリス政府のインド統治を代行する行政機関へと変貌していったのです。
帝国の拡大と終焉
18世紀末から19世紀前半にかけて、イギリス政府の監督下に置かれた東インド会社は、インド亜大陸における領土拡大をさらに加速させていきます。この時期の総督たちは、フランス革命戦争やナポレオン戦争を背景に、フランスの影響力がインドに及ぶことを極度に警戒し、インドの諸勢力を会社の支配下に置くための積極的な政策を展開しました。
この拡大政策を最も強力に推し進めたのが、1798年に総督に就任したウェルズリー卿です。彼は、「補助同盟条約」という巧みな手法を用いて、次々とインドの諸侯を会社の支配下に組み込んでいきました。この条約は、会社が諸侯の領土の防衛を引き受ける見返りに、諸侯は会社軍の駐留経費を負担し、領内に会社の政治顧問(駐在官)を受け入れ、外交権を会社に委ねるというものでした。駐留経費を支払えない諸侯は、その代わりに領土の一部を割譲させられました。この条約は、表向きは同盟ですが、実質的には諸侯の独立を奪い、保護国化するものでした。
ウェルズリーは、この補助同盟条約を拒否する勢力に対しては、容赦なく武力を行使しました。南インドの強国であったマイソール王国は、ティプー=スルタンの指導の下でイギリスに抵抗を続けていましたが、1799年の第四次マイソール戦争で敗北し、ティプーは戦死、王国は解体されました。また、インド中西部に広大な勢力を誇ったマラーター同盟も、三次にわたるマラーター戦争(18世紀末~19世紀初頭)の末に敗北し、その領土の大部分は会社に併合されました。
さらに、19世紀半ばのダルハウジー卿の時代には、「失権の原則(ドクトリン=オブ=ラプス)」が適用され、領土併合がさらに進められました。これは、会社の保護下にある藩王国で、正統な男子の世継ぎがいないまま君主が死亡した場合、その藩王国は会社に併合されるという原則でした。この原則に基づき、サーターラー=ジャーンシー=ナーグプルといった多くの藩王国が併合されました。1856年には、統治の乱れを口実に、広大で豊かなアワド王国が併合されます。これらの強引な併合政策により、19世紀半ばまでには、インド亜大陸のほぼ全域が、直接または間接的にイギリスの支配下に置かれることになりました。東インド会社は、わずか1世紀の間に、一介の貿易会社から、亜大陸を支配する巨大な帝国へと変貌を遂げたのです。
しかし、この急速な領土拡大と、それに伴う西洋的な制度の導入は、インド社会に深刻な歪みと反発を生み出していました。キリスト教宣教師の活動の容認、サティー(寡婦殉死)の禁止といった社会改革は、多くのインド人にとって、自らの伝統的な文化や宗教への攻撃と受け止められました。また、会社の軍隊であるベンガル軍に所属するインド人兵士(セポイ)の間でも、待遇への不満や、海外派遣に対する宗教的な禁忌を破ることへの抵抗感が募っていました。
そして1857年、ついにインド社会に蓄積された不満が爆発します。その直接の引き金となったのは、新しく導入されたエンフィールド銃の弾薬包でした。この弾薬包には、牛と豚の脂が塗られているという噂が広まりました。兵士たちは、弾薬を装填する際に、この弾薬包の端を歯で噛み切る必要がありましたが、ヒンドゥー教徒にとって神聖な牛の脂や、イスラム教徒にとって不浄な豚の脂を口にすることは、宗教的な禁忌を犯すことでした。
1857年5月10日、デリー近郊のメーラトに駐屯していたセポイたちが、この弾薬の使用を拒否して反乱を起こします。反乱は瞬く間に北インド一帯に広がり、セポイたちは各地でイギリス人の将校や市民を殺害し、デリーを占領して、名目上の存在となっていたムガル皇帝バハードゥル=シャー2世を反乱の象徴として担ぎ上げました。この「インド大反乱」(セポイの反乱)は、失権の原則によって領土を奪われた諸侯や、重税に苦しむ農民、職を失った手工業者など、イギリスの支配に不満を持つあらゆる階層の人々を巻き込み、インドにおけるイギリス支配の根幹を揺るがす大規模な民族的抵抗運動へと発展しました。
反乱の鎮圧は困難を極め、イギリスは本国から大規模な増援部隊を派遣し、一年以上にわたる激しい戦闘の末、ようやく反乱を鎮圧することに成功しました。しかし、この反乱がイギリス社会に与えた衝撃は計り知れないものでした。もはや、一民間企業である東インド会社にインドの統治を任せておくことはできない、という認識が支配的となりました。
1858年8月、イギリス議会は「インド統治改善法」を可決します。この法律によって、東インド会社が持っていた全ての統治権と軍事力はイギリス国王に譲渡され、インドはイギリスの直接統治下に置かれることになりました。監督庁と取締役会は廃止され、代わりにロンドンにインド大臣を長とするインド省が設置されました。インドでは、総督が国王の代理人である副王を兼務することになりました。これにより、プラッシーの戦いから約100年続いた東インド会社のインド支配は、完全に終わりを告げたのです。
会社そのものは、その後もしばらく存続しましたが、もはや統治機能を持たない抜け殻のような存在でした。そして、1874年1月1日、東インド会社は正式に解散され、その274年にわたる波乱に満ちた歴史に幕を下ろしました。かつて世界を股にかける巨大企業として君臨し、一つの大陸を支配するに至ったこの組織は、自らが引き起こした大反乱によって、その存在意義を失い、歴史の舞台から静かに姿を消していったのです。