ジェームズタウンとは
北アメリカ大陸におけるイギリス初の恒久的な植民地の物語は、1606年のロンドン、凍てつくような冬の日に始まります。この年、国王ジェームズ1世は、北アメリカ大陸への植民と、そこに眠ると信じられていた富を求めるという野心的な計画に対し、二つの株式会社に特許状を与えました。一つはプリマス会社、もう一つが、歴史の表舞台に立つことになるロンドン会社、通称ヴァージニア会社です。このヴァージニア会社こそが、ジェームズタウン設立の事業主体となりました。
会社の目的は、純粋に経済的なものでした。当時のヨーロッパ、特にスペインが新大陸から得ていた莫大な富は、他の国々の羨望の的でした。ヴァージニア会社の出資者たちは、北アメリカにもスペインがペルーやメキシコで見つけたような金や銀の鉱脈が存在すると信じて疑いませんでした。あるいは、アジアへと至る待望の北西航路を発見できるかもしれない、という淡い期待も抱いていました。彼らの頭の中にあったのは、植民地の建設というよりも、一攫千金を狙った投機的な事業という側面が強かったように思われます。
1606年12月20日、ヴァージニア会社が送り出す最初の植民者たちを乗せた三隻の小さな帆船が、ロンドンのテムズ川を下っていきました。その船の名は、スーザン=コンスタント号、ゴッドスピード号、そしてディスカヴァリー号。乗船していたのは、104名(あるいは105名とも言われる)の男性と少年たちでした。この最初の植民団の構成は、後の困難を予見させるものでした。彼らの大半は「ジェントルマン」と呼ばれる上流階級の出身者で、肉体労働の経験に乏しく、一攫千金を夢見る冒険家気質の人々でした。農夫や職人はごく少数しか含まれておらず、過酷な荒野で生き抜くために必要な実践的なスキルを持つ者が決定的に不足していたのです。
航海そのものも困難を極めました。悪天候のため、イギリス沿岸を出るまでに6週間も足止めを食らい、船内では食料と水が早くも減り始めます。狭く不衛生な船内では、乗組員の間で不満が募り、いさかいが絶えませんでした。この航海中に、後にジェームズタウンの救世主となるジョン=スミスも、反乱を企てたという疑いをかけられ、鎖につながれるという一幕もありました。
4ヶ月以上にも及ぶ長く辛い航海の末、1607年4月26日、三隻の船団はついにチェサピーク湾の入り口に到達します。彼らは、湾の南端の岬に上陸し、国王ジェームズ1世の長男ヘンリーにちなんで、その地をケープ=ヘンリーと名付けました。そこで、ヴァージニア会社から託されていた封印された箱が開かれ、植民地の指導者となる7名の評議会のメンバーの名前が初めて明らかにされました。その中には、船団の司令官であったクリストファー=ニューポート、そして囚われの身であったジョン=スミスの名前も含まれていました。
彼らは、会社の指示に従い、スペイン船による攻撃の危険が少なく、内陸のインディアン部族との交易にも便利な場所を探して、大きな川を遡上し始めました。その川を、彼らは国王に敬意を表してジェームズ川と名付けます。そして1607年5月14日、彼らはついに永住の地として、川の北岸に位置する、ほとんど無人に近い半島を選びました。その場所は、川に深く突き出しており、陸からの攻撃に対して防御しやすく、また大型船を岸に直接接岸させることができる水深がある、という軍事的な利点から選ばれたようです。彼らはこの地に上陸し、イギリス国王ジェームズ1世の名を冠した「ジェームズタウン」の建設を開始しました。これが、後にアメリカ合衆国へと発展する国の、最初の永続的な英語圏の集落が産声を上げた瞬間でした。しかし、この時、彼らが選んだ土地が、後に多くの悲劇を生むことになる呪われた土地であったことに、まだ誰も気づいてはいませんでした。
初期の苦難
ジェームズタウンの初期の数年間は、成功とはほど遠い、惨憺たるものでした。入植者たちが直面した現実は、黄金郷の夢とはかけ離れた、飢えと病、そして死が日常と隣り合わせの過酷なサバイバルでした。
立地の問題
まず、彼らが定住地として選んだ場所そのものに、大きな問題がありました。ジェームズタウンが建設された半島は、低湿地帯であり、夏には蚊が大量に発生しました。この蚊が、マラリアや腸チフスといった恐ろしい病気を媒介したのです。また、ジェームズ川のこの地域は潮の満ち引きの影響を強く受ける汽水域であり、特に夏場の渇水期には、川の水がよどみ、塩分濃度が高くなりました。入植者たちは、この汚染された水を飲み水として利用したため、赤痢や塩分中毒に苦しめられることになります。さらに、この土地は沼地であったため、農業には全く適していませんでした。彼らは、防御のしやすさという軍事的な観点を優先するあまり、生存に不可欠な、清潔な水と肥沃な土地という条件を見過ごしてしまったのです。
入植者の構成
入植者たちの構成も、事態をさらに悪化させました。前述の通り、初期の入植者の多くは、労働を卑しいものと考えるジェントルマン階級の出身者でした。彼らは、金や銀を探し回ることには熱心でしたが、砦を建設したり、畑を耕したり、あるいは狩りや漁をしたりといった、生きるために不可欠な労働にはほとんど従事しようとしませんでした。彼らは、自分たちが働くのではなく、先住民であるインディアンに食料を供給させるか、あるいは本国からの補給船に依存することしか考えていなかったようです。植民地には、大工=鍛冶屋=農夫といった実践的なスキルを持つ職人や農民が決定的に不足していました。その結果、住居の建設は遅々として進まず、食料の生産基盤を確立することもできませんでした。
飢えと病
このような状況下で、入植者たちはすぐに食料不足に陥りました。彼らがイングランドから持ってきた食料は、長い航海の間にその多くが腐敗し、底をつきかけていました。自分たちで食料を生産する能力も意欲もなかった彼らは、飢えに苦しむことになります。さらに、不衛生な環境と汚染された水は、病気の蔓延を招きました。1607年の夏が終わる頃には、最初に到着した104名のうち、半数近くが飢えと病によって命を落としていました。まさに、死の淵をさまようような状態だったのです。
先住民との関係
入植者たちが生き延びるためには、この土地の先住民であるポウハタン族との関係が極めて重要でした。ポウハタン族は、この地域一帯に広がる数十の部族を束ねる、強力な指導者ワフンスナコック(イギリス人は彼をポウハタン酋長と呼んだ)に率いられた連合国家を形成していました。当初、ポウハタン族は、奇妙な服装をし、強力な武器を持つこの白人の到来を、警戒しつつも、ある種の好奇心を持って見ていたようです。彼らは、イギリス人が持つ銅製品やビーズといった交易品に魅力を感じ、トウモロコシなどの食料と交換することに応じました。初期のジェームズタウンが完全に崩壊しなかったのは、ひとえにポウハタン族からの食料供給があったからだと言っても過言ではありません。
しかし、両者の関係は常に不安定でした。食料が尽きると、イギリス人たちはしばしばポウハタン族の村を襲い、食料を力ずくで奪おうとしました。このようなイギリス人の横暴な態度は、ポウハタン族の不信感と敵意を煽り、両者の間には緊張が高まっていきました。この緊張関係の中で、一人の男が重要な役割を果たすことになります。それが、ジョン=スミスです。
ジョン=スミスの指導
ジェームズタウンが崩壊の危機に瀕していた1608年の秋、植民地の指導者として評議会の議長に選出されたのが、ジョン=スミスでした。彼は、ジェントルマン階級の出身者が多い他の指導者たちとは異なり、兵士としてヨーロッパ各地を転戦した経験を持つ、実践的で現実主義的な人物でした。彼の指導者就任は、ジェームズタウンの運命にとって大きな転換点となります。
スミスは、植民地の惨状を目の当たりにし、直ちに厳しい規律を導入しました。彼は、「働かざる者、食うべからず」という有名な言葉を布告し、全ての入植者に労働を義務付けました。ジェントルマンであろうと誰であろうと、例外は認められませんでした。彼の指導の下、入植者たちはようやく砦の修復や住居の建設、そして畑の開墾といった作業に本格的に取り組むようになったのです。
スミスはまた、ポウハタン族との関係においても、その手腕を発揮しました。彼は、自ら探検隊を率いてポウハタン族の領域の奥深くまで分け入り、彼らの言語や習慣を学び、交易ルートを開拓しました。彼は、ポウハタン族に対して、時には威嚇的な態度で臨み、時には巧みな交渉術で彼らを懐柔するなど、硬軟織り交ぜた外交を展開しました。
彼の冒険の中で最も有名なエピソードが、ポウハタン酋長に捕らえられ、処刑されそうになったところを、酋長の娘であるポカホンタスに救われたという話です。この話が歴史的な事実であったかどうかについては、研究者の間でも意見が分かれています。スミス自身が後年に書いた記録にしか登場しないため、彼の自己顕示欲が生んだ創作であるという見方もあります。あるいは、これが一種の儀式であり、スミスをポウハタン族の一員として受け入れるためのものであったという解釈も存在します。真相はどうであれ、この出来事(あるいは物語)は、ポカホンタスという一人のインディアン女性を歴史の表舞台に登場させ、ジェームズタウンとポウハタン族の間に、一時的ながらも平和な関係を築くきっかけとなったことは確かです。スミスの在任中、ポウハタン族からの食料供給は比較的安定し、植民地は最悪の事態を免れることができました。
しかし、スミスの独裁的とも言える強権的な指導スタイルは、他の評議会メンバーとの間に深刻な対立を生みました。そして1609年の秋、彼は火薬の事故で重傷を負い、治療のためにイギリスへ帰国せざるを得なくなります。彼の強力なリーダーシップを失ったジェームズタウンは、再び暗黒の時代へと逆戻りすることになるのです。
飢餓の時
ジョン=スミスがジェームズタウンを去った直後の1609年の冬、植民地は史上最悪の悲劇に見舞われます。後に「飢餓の時」として知られることになるこの冬は、ジェームズタウンの歴史の中でも最も暗い一章として記憶されています。
スミスが去った後、ポウハタン族との関係は急速に悪化しました。新たな指導者となったジョージ=パーシーには、スミスのような交渉力も指導力もありませんでした。食料を求めるイギリス人の要求がエスカレートするにつれ、ポウハタン酋長はついに堪忍袋の緒が切れ、ジェームズタウンの砦を完全に包囲し、食料供給を断つという強硬策に出ました。入植者たちは砦に閉じ込められ、狩りや漁に出ることも、インディアンと交易することもできなくなってしまったのです。
砦の中に備蓄されていた食料は、瞬く間に底をつきました。入植者たちは、まず家畜の馬を食べ尽くし、次に犬や猫、さらにはネズミやヘビまで、食べられるものは何でも口にするようになりました。革靴やベルトを煮て食べたという記録も残っています。事態はさらに悪化し、飢えに狂った人々は、ついには人間の死体を墓から掘り起こして食べるという、カニバリズム(食人行為)にまで手を染めるようになります。近年の考古学的な発掘調査では、ジェームズタウンの遺跡から、解体された人骨が発見されており、この悲惨な記録が単なる噂ではなかったことが裏付けられています。ある男は、妊娠中の妻を殺害して塩漬けにし、食べていたところを発見され、処刑されたという、身の毛もよだつような事件も記録されています。
1609年の秋には約500人いた入植者は、この地獄のような冬を越え、1610年の春に生き残っていたのは、わずか60人ほどでした。彼らは、もはや幽霊のように痩せ衰え、植民地を維持する気力も体力も残っていませんでした。ジェームズタウンは、まさに廃墟と化していたのです。
1610年5月、バミューダ諸島で難破していた補給船がようやくジェームズタウンに到着した時、彼らが目にしたのはこの惨状でした。新たな総督として到着したサー=トマス=ゲイツは、植民地の再建は不可能であると判断し、生存者全員を船に乗せ、ジェームズタウンを放棄してイギリスへ帰国するという苦渋の決断を下します。
しかし、彼らがジェームズ川を下り、チェサピーク湾に出ようとしたその時、奇跡が起こります。湾の入り口で、新たな総督デ=ラ=ウェア卿が率いる、150人の新たな入植者と潤沢な食料を積んだ大規模な補給船団と遭遇したのです。デ=ラ=ウェア卿は、植民地の放棄を許さず、全員にジェームズタウンへ引き返すよう厳命しました。もし、この出会いが一日でも遅れていたら、ジェームズタウンは歴史からその姿を消し、アメリカの歴史は全く異なる道を歩んでいたかもしれません。こうして、ジェームズタウンは土壇場で消滅の危機を免れ、その存続が決定づけられたのです。
タバコの発見
ジェームズタウンが奇跡的に存続することになった後、デ=ラ=ウェア卿とその副官たち(サー=トマス=ゲイツやサー=トマス=デイル)は、軍隊式の厳しい規律を導入し、植民地の再建に取り組みました。しかし、植民地が真の意味で経済的に自立するためには、ヴァージニア会社とその出資者たちに利益をもたらすことのできる、換金性の高い産品を見つけ出す必要がありました。金や銀は見つからず、北西航路の発見も夢物語に終わっていました。ガラス製造や絹の生産といった試みも、ことごとく失敗に終わっていました。この、出口の見えない状況を打開する鍵となったのが、「タバコ」でした。
タバコは、もともとアメリカ大陸原産の植物であり、先住民たちは古くから儀式などで使用していました。ヨーロッパにも16世紀には伝わっていましたが、当初は薬草として見なされることが多く、その人気は限定的でした。しかし、17世紀に入ると、喫煙の習慣がヨーロッパの上流階級の間で急速に広まり、タバコは一大ブームとなっていました。
このタバコの可能性に目をつけたのが、ジョン=ロルフという一人の入植者でした。彼は、ポカホンタスの夫として、また別の意味で歴史に名を残すことになる人物です。ヴァージニアで自生していたタバコは、苦味が強く、ヨーロッパ人の好みには合いませんでした。そこでロルフは、1612年頃、当時スペインが栽培を独占していた、より甘く香りの良いカリブ海産のタバコの種子を、どうにかして入手することに成功します。彼は、この新しい品種のタバコをヴァージニアの気候と土壌に適応させるための実験を繰り返し、ついに栽培に成功しました。
1614年、ロルフが栽培したヴァージニア産の新しいタバコが初めてロンドン市場に送られると、その品質の高さから絶大な人気を博し、高値で取引されました。これは、ジェームズタウンにとって、まさに待望の「金になる作物」の発見でした。タバコ栽培は、瞬く間にジェームズタウン中に広がり、入植者たちは我先にとタバコの生産に乗り出しました。一時は、砦の中の道端や広場、さらには墓地にまでタバコが植えられるほどの熱狂ぶりだったと言われています。
タバコは、ヴァージニア植民地の経済を劇的に変えました。1616年には2,500ポンドだったタバコの輸出量は、1618年には20,000ポンド、1620年代末には150万ポンドへと爆発的に増加しました。タバコは「ブラウン=ゴールド(茶色の金)」と呼ばれ、ヴァージニアに莫大な富をもたらしました。ヴァージニア会社は、ようやく出資者たちに配当を支払うことができるようになり、植民地はようやく経済的な安定の道を歩み始めたのです。
しかし、タバコ経済の確立は、新たな問題も生み出しました。タバコ栽培は、土地の栄養を急速に消耗させるため、常に新しい土地を必要としました。この、土地に対する飽くなき欲求は、必然的に、先住民であるポウハタン族の土地への侵食を加速させ、両者の間に新たな緊張関係を生むことになります。また、タバコ栽培は極めて労働集約的な産業であり、多くの労働力を必要としました。この労働力需要が、後にヴァージニア社会の構造を決定づけることになる、年季奉公人制度と奴隷制度の導入へとつながっていくのです。
社会の形成
タバコ経済の成功によって、ヴァージニア植民地は単なる生存のための前哨基地から、恒久的な社会へと変貌を遂げ始めました。この時期、植民地の社会構造を形作る上で、いくつかの重要な出来事が起こりました。
代議制議会の誕生
1619年、ヴァージニア会社は、植民地の統治システムに大きな改革を行いました。植民地の経営をより魅力的なものにし、新たな入植者を呼び込むために、入植者たちに一定の自治権を与えることを決定したのです。この改革の一環として、1619年7月30日、ジェームズタウンの教会で、新世界初となる代議制議会「ハウス=オブ=バージェス(バージニア植民地議会)」が召集されました。
この議会は、総督と総督が任命する評議会、そして植民地内の各入植地(プランテーション)から選挙で選ばれた22名の代議員(バージェス)によって構成されていました。選挙権は、土地を所有する全ての成人男性に与えられていました。この最初の議会では、タバコの価格統制や、インディアンとの関係、そして入植者の行動を律するための様々な法律が制定されました。
ハウス=オブ=バージェスの設立は、アメリカの政治史において極めて重要な意味を持っています。それは、国王や会社の命令に従うだけでなく、植民者たちが自らの代表者を通じて、自分たちの社会のルールを自分たちで決定するという、代議制と自治の原則が、アメリカの地に初めて根付いた瞬間でした。この伝統は、後の13植民地の各議会に受け継がれ、最終的にはアメリカ独立革命の理念的支柱の一つとなっていくのです。
女性の到来
初期のジェームズタウンは、男性ばかりの、さながら軍隊の駐屯地のような社会でした。このような不自然な男女比は、社会の安定にとって大きな障害となっていました。入植者たちは、一攫千金を果たすとすぐにイギリスへ帰ることばかりを考えており、ヴァージニアに永住しようという意識が希薄でした。
この状況を改善するため、ヴァージニア会社は、独身女性をヴァージニアに送り込むという計画を立てます。1620年、90人の「若く、魅力的な」独身女性がヴァージニアに到着しました。彼女たちは、自らの意思でこの航海に参加し、到着後、自分の結婚相手を自由に選ぶことができました。彼女たちを妻として迎えることを望む男性は、彼女たちの渡航費用として120ポンド(後に150ポンドに値上げ)の高級タバコを会社に支払う必要がありました。
女性たちの到来は、ジェームズタウンの社会に大きな変化をもたらしました。家庭が築かれることで、入植者たちはヴァージニアの地に根を下ろし、永住するようになります。子供が生まれ、コミュニティが形成され、ジェームズタウンは単なる投機的な事業の拠点から、人々が生活を営む真の「植民地」へと発展していきました。
アフリカ人奴隷の導入
1619年には、もう一つ、後のアメリカ史を決定づけることになる極めて重要な出来事が起こりました。その年の8月、ジョン=ロルフの記録によると、「ホワイト=ライオン」と名乗るオランダの私掠船が、ジェームズタウンに寄港し、船長は食料と引き換えに「20人余りの黒人」を売り渡しました。彼らは、もともとアンゴラ周辺でポルトガル船によって捕らえられ、メキシコへ奴隷として運ばれる途中だった人々でした。
この、最初にヴァージニアに連れてこられたアフリカ人たちが、法的にどのような地位にあったのかは、必ずしも明確ではありません。彼らは、奴隷として売られたのではなく、イギリスからの白人労働者と同様の「年季奉公人」として扱われ、一定期間の奉公の後には自由を約束されていた、という可能性も指摘されています。実際に、初期の記録には、自由を獲得し、土地を所有する黒人も存在していました。
しかし、タバコプランテーションの拡大に伴う労働力需要の増大は、次第にこの曖昧な状況を変えていきました。プランテーション経営者たちは、より安価で、永続的に支配できる労働力を求めるようになります。17世紀半ば以降、ヴァージニア植民地議会は、黒人を生涯にわたる奴隷とし、その子孫もまた奴隷身分を継承するという、動産奴隷制を法的に確立する一連の法律を制定していきます。
1619年の出来事は、意図せざる結果であったかもしれませんが、アメリカにおける奴隷制度の始まりを告げるものでした。代議制という自由の制度が生まれたのと同じ年に、不自由の制度の種が蒔かれたという歴史の皮肉は、その後のアメリカ社会が抱える深刻な矛盾を象徴しているように思われます。
王領植民地へ
ジェームズタウンがタバコ経済によって安定し、社会の基礎を築きつつあった矢先、植民地は再び存亡の危機に立たされます。そのきっかけは、先住民ポウハタン族との関係の破綻でした。
ジョン=ロルフとポカホンタスの結婚(1614年)は、イギリス人とポウハタン族の間に一時的な平和をもたらしました。しかし、1617年にポカホンタスがイギリス訪問中に病死し、翌年にはポウハタン酋長も亡くなると、両者の関係は急速に冷え込んでいきます。ポウハタン酋長の後を継いだ弟のオペチャンカナウは、兄とは対照的に、イギリス人に対して深い不信感と敵意を抱いていました。彼は、タバコ栽培のために次々と土地を侵食してくるイギリス人の存在が、自分たちの存続そのものを脅かすものであると見なしていました。
オペチャンカナウは、数年をかけて周到に準備を進め、1622年3月22日の聖金曜日の朝、ポウハタン連合の戦士たちに、ヴァージニア中のイギリス人入植地を一斉に攻撃するよう命じました。インディアンたちは、友好的な訪問者を装って入植者の家に入り込み、油断したところを襲いかかりました。この奇襲攻撃によって、子供や女性を含む347人の入植者が殺害されました。これは、当時のヴァージニアのイギリス人人口の約4分の1にあたる数でした。ジェームズタウン本体は、事前にインディアンの少年から警告を受けていたため、かろうじて難を逃れましたが、周辺のプランテーションは壊滅的な被害を受けました。
この「1622年の大虐殺」は、ヴァージニアの入植者たちに大きな衝撃と恐怖を与え、インディアンに対する彼らの態度を決定的に硬化させました。これ以降、入植者たちはインディアンの絶滅を目的とするような、容赦のない報復戦争を何年にもわたって繰り広げることになります。かつて存在した、共存の可能性は完全に失われ、両者の関係は、憎しみと暴力の連鎖に陥っていきました。
この大虐殺のニュースは、ロンドンのヴァージニア会社にも致命的な打撃を与えました。会社の経営は、タバコの成功にもかかわらず、依然として不安定であり、多額の負債を抱えていました。そこで、インディアンの攻撃から入植者を守ることさえできなかったという失態が明らかになったことで、会社に対する批判が噴出しました。国王ジェームズ1世は、会社の経営状況と植民地の実態を調査するための委員会を設置します。調査の結果、会社の杜撰な経営と、植民地における驚くほど高い死亡率(数千人の入植者のうち、生き残っていたのはごくわずかであった)が暴露されました。
これらの事実を受け、ジェームズ1世は、もはや一個人に過ぎないヴァージニア会社に植民地の統治を任せておくことはできないと判断します。1624年、国王はヴァージニア会社の特許状を取り消し、ヴァージニアを国王が直接統治する「王領植民地」とすることを宣言しました。
これにより、ジェームズタウンを設立したヴァージニア会社は、その歴史的役割を終えました。投機的な商業事業として始まったヴァージニア植民地は、国王の権威の下にある大英帝国の一員として、新たな段階へと移行することになったのです。ジェームズタウンは、その後もヴァージニア植民地の首都であり続けましたが、その重要性は次第に低下していきます。1698年にジェームズタウンの議事堂が火事で焼失すると、首都はより内陸で健康的な立地にあるミドル=プランテーション(後にウィリアムズバーグと改名)へと移されました。首都機能を失ったジェームズタウンは、その後急速に寂れ、やがて人々から忘れ去られた土地となっていきました。しかし、この小さな集落が、アメリカという国家の誕生につながる、最初の、そして極めて重要な一歩であったという事実は、決して変わることはありません。