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18_80 ヨーロッパの拡大と大西洋世界 / 主権国家体制の成立

ヴァレンシュタインとは わかりやすい世界史用語2658

著者名: ピアソラ
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ヴァレンシュタインとは

ヴァレンシュタインの生涯は、三十年戦争という激動の時代が生んだ、最も野心的で、最も謎に満ち、そして最も悲劇的な人物の一人の物語です。彼は、ボヘミアの貧しいプロテスタント貴族の家に生まれながら、その類稀なる才覚と冷徹な野心によって、ヨーロッパ史上最大級の私兵軍団を組織する「軍事起業家」として成り上がり、神聖ローマ皇帝さえも凌ぐほどの権勢を手にしました。彼の名は、戦争そのものを巨大なビジネスに変え、「戦争が戦争を養う」という冷酷な原則を組織的に実行した人物として、三十年戦争の破壊と混乱の象徴となっています。しかし、その一方で、彼はドイツに独自の秩序と平和をもたらそうとした政治家としての一面も持っていました。彼の巨大すぎる力は、やがて彼を雇った皇帝自身の猜疑心を招き、最終的には裏切り者として暗殺されるという破滅的な結末を迎えます。フリードリヒ・シラーの戯曲によって不滅の名声を得たヴァレンシュタインの生涯は、個人の野望が歴史の奔流と衝突したとき、栄光と悲劇が生まれるかを示しています。



野心家の誕生(1583年ー1618年)

ヴァレンシュタインの後の絶大な権力と富を考えると、その出自は驚くほど平凡なものでした。彼の成功は、生まれながらの特権ではなく、もっぱら彼自身の能力と、時代の混乱を巧みに利用する嗅覚によってもたらされたのです。
ボヘミアの小貴族

アルブレヒト・ヴェンツェル・オイゼービウス・フォン・ヴァルトシュタイン(彼のドイツ語名がヴァレンシュタイン)は、1583年9月24日、ボヘミア王国のヘルマニツェで、ヴァルトシュタイン家の貧しい分家の息子として生まれました。彼の家は、チェコ系の古い貴族の家柄でしたが、その所領は小さく、裕福ではありませんでした。さらに重要なことに、彼の両親は「ボヘミア兄弟団」に属するプロテスタントであり、これはカトリックが支配的なハプスブルク家の帝国において、彼の将来のキャリアにとって大きな障害となるはずでした。
しかし、若きアルブレヒトは早くから孤児となります。10歳で母を、12歳で父を亡くした彼は、母方の叔父に引き取られて育ちました。この叔父もまたプロテスタントでしたが、彼はアルブレヒトに優れた教育の機会を与えました。彼は、シレジアのプロテスタント系の学校で学んだ後、ニュルンベルク近郊のアルトドルフ大学に進学します。しかし、彼の大学生活は勉学よりも、喧嘩や決闘に明け暮れる荒れたものであり、ついには従僕を殺害しかけたとして放校処分になってしまいます。
この若き日のヴァレンシュタインは、野心的で、誇り高く、そして極めて気性の激しい青年でした。彼は、自らの貧しい境遇に強い不満を抱き、いかなる手段を使ってでも富と名声を手に入れることを渇望していました。その後の彼の人生を特徴づける、飽くなき上昇志向は、この頃すでに形成されていたのです。
改宗と軍歴の始まり

大学を放校になった後、ヴァレンシュタインはヨーロッパ各地を巡るグランドツアーに出かけ、イタリアのパドヴァ大学やボローニャ大学で、当時流行していた占星術や数学を学びました。特に占星術への傾倒は、彼の生涯を通じて続き、彼の重要な意思決定に影響を与えたと言われています。
このイタリア滞在中に、彼の人生における最初の、そして最も重要な転機が訪れます。それは、カトリックへの改宗でした。1606年頃、彼はプロテスタントの信仰を捨て、カトリックに改宗します。この改宗が、心からの信仰によるものだったのか、それともキャリアのための打算的な計算によるものだったのかは、歴史家の間でも意見が分かれています。しかし、結果として、この決断がハプスブルク家の支配する世界で彼が出世するための扉を開いたことは間違いありません。
改宗後、彼はハプスブルク家の軍隊に入隊し、ハンガリーでオスマン帝国と戦う「長期戦争」に参加しました。ここで彼は、一兵卒から身を起こし、その勇敢さと組織運営の才能を上官に認められ、着実に階級を上げていきました。彼は、単に勇猛なだけでなく、兵士の募集や部隊の維持といった、兵站業務において非凡な能力を示したのです。
富裕な未亡人との結婚

軍歴と並行して、ヴァレンシュタインは富を築くためのもう一つの道、すなわち有利な結婚を模索していました。1609年、彼はモラヴィアの非常に裕福な未亡人、ルクレツィア・フォン・ヴィチュコフと結婚します。彼女はヴァレンシュタインよりも年上で、健康に問題を抱えていましたが、広大な土地と莫大な財産を持っていました。
この結婚は、明らかに財産目当ての政略結婚でした。ヴァレンシュタインは、彼女の財産を管理し、それを元手にさらなる土地の購入や金融投機を行いました。1614年にルクレツィアが亡くなると、彼はその莫大な遺産の唯一の相続人となり、一夜にしてボヘミア有数の富豪の一人へと成り上がったのです。彼は、最初の妻の死を嘆き悲しむどころか、それを自らの野望を実現するための新たなステップと捉えていました。この冷徹なまでの現実主義と非情さは、彼の生涯を貫く特徴となります。
こうして、三十年戦争が勃発する前夜、ヴァレンシュタインは、軍事的な経験と、結婚によって得た莫大な富という、二つの強力な武器を手にしていました。彼はもはや、ボヘミアの貧しい小貴族ではありませんでした。時代の混乱を待ち望む、野心的な軍事起業家へと変貌を遂げていたのです。
富と権力への道(1618年ー1625年)

1618年にボヘミアで勃発したプロテスタント貴族の反乱は、ヨーロッパ全土を巻き込む三十年戦争の引き金となりましたが、ヴァレンシュタインにとっては、自らの富と権力を飛躍的に増大させる絶好の機会となりました。彼は、混乱の中で巧みに立ち回り、最終的に皇帝にとって不可欠な存在へと自らを押し上げていきます。
ボヘミア反乱における選択

1618年5月、プラハ城で皇帝の使者が窓から投げ落とされる「プラハ窓外放出事件」が起こり、ボヘミアのプロテスタント貴族たちはハプスブルク家の支配に対して公然と反旗を翻しました。ボヘミアの貴族であり、モラヴィアの連隊長であったヴァレンシュタインは、難しい選択を迫られます。彼の出自や、かつての信仰を考えれば、反乱軍に加わるのが自然な流れでした。実際に、モラヴィアの等族議会は彼に反乱軍への参加を命じました。
しかし、ヴァレンシュタインは、冷徹な計算に基づいて行動しました。彼は、装備も組織も不十分な反乱軍に未来はないと判断し、自らのキャリアをハプスブルク皇帝フェルディナント2世の側に賭けることを決意します。彼は、反乱軍に参加するふりをしながら、連隊の金庫をまるごと奪ってウィーンの皇帝の下へと逃亡しました。この大胆な裏切り行為は、彼に「不忠者」の烙印を押しましたが、同時に皇帝からの絶大な信頼を勝ち取ることになりました。
彼は、皇帝のために新たな連隊を自費で組織し、1620年11月の白山の戦いに参加します。この戦いで皇帝=カトリック連盟軍はボヘミア反乱軍に圧勝し、反乱はわずか1日で鎮圧されました。ヴァレンシュタインは、この戦いで決定的な役割を果たしたわけではありませんが、勝者の側に立つことに成功したのです。
「貨幣コンソーシアム」と巨万の富

白山の戦いの後、皇帝フェルディナント2世は、反乱に参加したプロテスタント貴族に対して過酷な報復を行いました。反乱の指導者たちは処刑され、彼らの膨大な土地財産は没収されました。この没収財産の処理と、戦費調達のための貨幣改鋳の過程で、ヴァレンシュタインはその悪魔的な商才を遺憾なく発揮します。
彼は、銀行家のヤコブ・バッセヴィ、宮廷顧問のカール・フォン・リヒテンシュタインらと結託し、「貨幣コンソーシアム」を結成しました。彼らは、皇帝から貨幣鋳造権を借り受け、銀の含有量を大幅に減らした悪貨を大量に発行しました。そして、その価値の低い悪貨を使って、没収されたプロテスタント貴族の土地を二束三文で買い叩いたのです。この大規模なインフレーションと不正な土地取引によって、ボヘミア経済は壊滅的な打撃を受けましたが、ヴァレンシュタインと彼の仲間たちは、文字通り天文学的な利益を上げました。
この過程で、ヴァレンシュタインはボヘミア北部に60以上の荘園を取得し、それらを統合して広大なフリードラント公国を形成しました。彼は、神聖ローマ帝国内で最も裕福な人物の一人となったのです。1623年には、皇帝からその功績を認められ、帝国諸侯(フュルスト)の地位と、「フリードラント公」の称号を与えられました。
フリードラント公国 ヴァレンシュタインの王国

フリードラント公国は、単なる広大な私有地ではありませんでした。それは、ヴァレンシュタインが自らの理念に基づいて統治する、半ば独立した国家、あるいは巨大な軍産複合体でした。
彼は、三十年戦争の混乱で荒廃していたこの地域に、ヨーロッパ中から有能な管理者、職人、商人、農民を呼び寄せ、経済の再建に乗り出しました。彼は、領内の治安を回復し、宗教的寛容を(少なくとも経済活動の範囲内では)認め、農業生産を奨励しました。その目的は、人道的なものではなく、公国を自らの軍事活動を支えるための効率的な兵站基地へと変えることでした。
公国内には、武器工場、火薬工場、製鉄所、織物工場などが次々と建設され、ヴァレンシュタインの軍隊が必要とするあらゆる物資を自給自足できる体制が整えられました。首都イッチン(現在のイチーン)は、壮麗な宮殿や教会が立ち並ぶ、ルネサンス様式の都市へと変貌しました。フリードラント公国は、ヴァレンシュタインの組織運営能力と経済的才能の記念碑であり、彼が後に数十万の軍隊を組織し、維持することを可能にした経済的基盤となったのです。この時点で、彼はすでに単なる将軍ではなく、自らの領国を経営する主権君主のような存在でした。
最高司令官の時代(1625年ー1630年)

1625年、デンマーク王クリスチャン4世がプロテスタント側で三十年戦争に介入すると、皇帝フェルディナント2世は新たな軍事的脅威に直面します。皇帝が頼れる軍隊は、ティリー伯が率いるカトリック連盟軍しかなく、その軍隊は皇帝ではなく、バイエルン公マクシミリアンの指揮下にありました。この危機的状況が、ヴァレンシュタインに歴史の表舞台へと躍り出る、最大の機会をもたらしました。
前代未聞の提案

皇帝の窮状を見たヴァレンシュタインは、ウィーンの宮廷に前代未聞の提案を行いました。それは、皇帝の財政負担なしに、自らの資金と信用で2万4000人の軍隊を組織し、指揮するというものでした。当初、皇帝の顧問たちは、一人の臣下がこれほど強大な私兵軍団を持つことの危険性を警告し、この提案に懐疑的でした。しかし、デンマーク軍の脅威が目前に迫る中、皇帝には他に選択肢がありませんでした。
1625年4月、フェルディナント2世はヴァレンシュタインを最初の「カピタン・ゲネラル」(最高司令官)に任命し、彼に軍隊の編成を許可しました。ヴァレンシュタインは、フリードラント公国で蓄えた莫大な富を投じ、ヨーロッパ中に張り巡らせたネットワークを駆使して、驚異的な速さで軍隊を組織しました。彼の軍隊は、瞬く間に5万、さらには10万へと膨れ上がりました。
「戦争が戦争を養う」=コントリビューツィオーン

ヴァレンシュタインの軍隊を維持した経済システムの核心は、「コントリビューツィオーン」(軍税)と呼ばれる、組織的な徴発システムでした。これは、「戦争が戦争を養う」という格言を、冷徹な官僚機構によって実行に移したものです。
彼の軍隊は、占領地や駐屯地の都市や村に対し、その資産や人口に応じて、現金、食料、衣類、馬などの軍需物資の提供を割り当てました。この徴収は、ヴァレンシュタインが任命した軍政官によって監督され、計画的かつ徹底的に行われました。もし要求に応じなければ、その地域は兵士による略奪や放火の対象となりました。このシステムによって、ヴァレンシュタインは、皇帝の金庫に頼ることなく、巨大な軍隊を敵地で維持することが可能となったのです。
このシステムは、戦争のあり方を根本的に変えました。戦争は、敵軍を撃破するだけでなく、敵地を支配し、そこから資源を吸い上げて自軍を養う、経済活動の一種と化したのです。この冷酷なシステムは、敵味方の区別なく、戦争が行われた地域の住民に筆舌に尽くしがたい苦しみをもたらしました。ヴァレンシュタインの軍隊は、その規律の良さで知られていましたが、それは無秩序な略奪を禁じる一方で、より組織的で効率的な収奪を可能にするための規律でした。
軍事的成功と権力の絶頂

ヴァレンシュタインの軍隊は、すぐにその力を発揮しました。1626年4月、彼はデッサウ橋の戦いで、プロテスタント側の傭兵隊長マンスフェルトの軍を撃破します。同年8月には、ティリー伯の軍がルッターの戦いでデンマーク王クリスチャン4世の軍本体を壊滅させました。その後、ヴァレンシュタインとティリーの軍は北ドイツ全域を席巻し、デンマークの本土であるユトランド半島にまで侵攻しました。
これらの軍事的成功により、ヴァレンシュタインの権力は絶頂に達しました。1628年、皇帝は彼に、バルト海に面するメクレンブルク公国を与え、彼は「バルト海および北海の提督」を名乗りました。ボヘミアの小貴族の息子が、今や神聖ローマ帝国の主権君主の一人となり、バルト海に皇帝の覇権を打ち立てようとしていたのです。彼は、バルト海に皇帝の艦隊を創設し、スウェーデンやオランダの海上支配に挑戦することさえ夢見ていました。
しかし、彼のあまりに急激な権力拡大と、その傲慢な振る舞いは、帝国内の他の諸侯、特にカトリック連盟の指導者であるバイエルン公マクシミリアンの強い反発を招きました。彼らは、ヴァレンシュタインのコントリビューツィオーン・システムが自らの領地をも侵害し、彼の巨大な私兵軍団が帝国の秩序を脅かしていると非難しました。
最初の罷免

1630年、レーゲンスブルクで開かれた選帝侯会議で、事態は動きます。バイエルン公マクシミリアンを中心とする諸侯たちは、皇帝フェルディナント2世に対し、ヴァレンシュタインを罷免しなければ、彼の息子を次期皇帝に選出しないと圧力をかけました。
時を同じくして、スウェーデン王グスタフ2世アドルフが、強力な軍隊を率いて北ドイツに上陸しました。常識的に考えれば、このような危機的状況で最も有能な司令官を解任することは考えられません。しかし、フェルディナント2世は、帝国内の政治的結束を優先し、諸侯たちの要求を受け入れることを決断します。
ヴァレンシュタインは、メミンゲンの野営地で、皇帝からの罷免の知らせを受け取りました。誰もが、彼がその巨大な軍隊を率いて反乱を起こすのではないかと固唾を飲んで見守りました。しかし、ヴァレンシュタインは、驚くほど冷静に、そして従順に、皇帝の命令を受け入れました。彼は、全軍の指揮権をティリー伯に引き渡し、自らはフリードラント公国へと静かに引退していきました。彼は、占星術師に「スウェーデン王の星はすぐに燃え尽きる」と予言されており、いずれ皇帝が再び自分を必要とする時が来ると確信していたのかもしれません。
再起と悲劇の頂点(1631年ー1634年)

ヴァレンシュタインの引退は、長くは続きませんでした。彼が予期した通り、スウェーデン王グスタフ2世アドルフの軍隊は、ドイツの戦場で猛威を振るい、皇帝を再び窮地に陥れます。そして、ヴァレンシュタインは、かつてないほどの権力を手にして、歴史の舞台に再登場することになります。
皇帝の懇願と再登板

ヴァレンシュタインが罷免された後、戦局は皇帝側にとって破滅的な方向に進みました。1631年9月、ブライテンフェルトの戦いで、グスタフ=アドルフはティリー伯の軍を完膚なきまでに打ち破ります。スウェーデン軍は南ドイツへと進撃し、1632年春にはバイエルンの首都ミュンヘンさえも占領しました。ティリー伯はレヒ川の戦いで戦死し、ハプスブルク家の支配は崩壊寸前でした。
万策尽きた皇帝フェルディナント2世は、プライドを捨て、かつて自らが罷免したヴァレンシュタインに助けを求めるしかありませんでした。彼は、ヴァレンシュタインに最高司令官への復帰を懇願します。
ヴァレンシュタインは、この機会を逃しませんでした。彼は、復帰の条件として、皇帝に前代未聞の要求を突きつけました。それは、軍隊の指揮に関する完全な裁量権、和平交渉を行う絶対的な権限、そして戦後に獲得した領土に対する報償など、彼を皇帝とほぼ同等の主権者として扱うことを求めるものでした。絶望的な状況にあった皇帝は、この屈辱的な条件をすべて受け入れざるを得ませんでした。
1632年4月、ヴァレンシュタインは再び最高司令官に就任します。彼のカリスマ的な名声は絶大であり、彼が再び軍旗を掲げると、ヨーロッパ中から兵士たちが雲霞のごとく集まり、わずか数ヶ月で10万人を超える大軍団が再建されました。
グスタフ=アドルフとの対決

再登板したヴァレンシュタインの最初の目標は、スウェーデン軍の進撃を食い止め、その補給線を断つことでした。彼は、グスタフ=アドルフとの直接対決を巧みに避けながら、焦土作戦と機動戦を展開しました。1632年夏、彼はニュルンベルク近郊で陣地を固めるグスタフ=アドルフの軍を包囲し、兵糧攻めに持ち込みます。グスタフ=アドルフは、ヴァレンシュタインの堅固な陣地(アルテ・フェステ)への攻撃を試みますが、大損害を受けて撃退され、撤退を余儀なくされました。これは、グスタフ=アドルフがドイツに上陸して以来、初めて経験する戦略的な敗北でした。
その後、ヴァレンシュタインは、冬営のために軍をザクセンへと移動させました。グスタフ=アドルフは、これを好機と捉え、ヴァレンシュタイン軍を追撃します。そして、1632年11月16日、両雄はライプツィヒ近郊のリュッツェンの野で、ついに直接対決の時を迎えました。
リュッツェンの戦いは、三十年戦争の中でも最も激しく、血なまぐさい戦いの一つとなりました。濃い霧の中、両軍は一進一退の死闘を繰り広げました。戦闘のさなか、スウェーデン王グスタフ2世アドルフが戦死するという衝撃的な事件が起こります。しかし、国王の死はスウェーデン兵の復讐心に火をつけ、彼らは猛反撃の末に戦場を確保しました。ヴァレンシュタインもまた負傷し、軍の損害も大きかったため、戦場から撤退しました。戦術的にはスウェーデン軍の勝利でしたが、彼らはその指導者を永遠に失いました。ヴァレンシュタインは、最大の敵を葬り去ることに成功したのです。
謎に満ちた和平工作と皇帝の猜疑心

グスタフ=アドルフの死後、ヴァレンシュタインの行動は、ますます謎めいたものになります。彼は、皇帝の宿敵であるスウェーデン、ザクセン、ブランデンブルク、さらにはフランスとまで、公然と、そして秘密裏に和平交渉を開始しました。
彼が目指していたものが何だったのかについては、今なお議論が続いています。一つの見方では、彼は、外国勢力をドイツから追い出し、帝国内の諸侯の権力を抑制し、皇帝の下で統一された、平和で強力なドイツ帝国を築こうとしていた、と言われます。彼は、宗教的な対立を超えた、世俗的な国家理性を重視する、時代を先取りした政治家だったのかもしれません。
しかし、別の見方では、彼の行動はすべて、自らの権力欲を満たすためのものであり、彼は皇帝を裏切り、ボヘミア王位を奪おうと画策していた、とされます。彼は、交渉相手に対し、皇帝を廃位させることさえ示唆していたと言われています。
真実が何であれ、彼の独断的な外交政策は、ウィーンの宮廷に深い疑念と恐怖を植え付けました。皇帝フェルディナント2世と彼の側近たち(特に「スペイン派」と呼ばれる強硬派)は、ヴァレンシュタインが裏切りの準備を進めていると確信するようになりました。ヴァレンシュタインが、皇帝からの命令(バイエルン防衛のための出兵命令)を公然と拒否したことは、その疑いを決定的なものにしました。
エーガーの暗殺

1634年1月24日、皇帝フェルディナント2世は、ついにヴァレンシュタインを最高司令官から解任し、彼を反逆者として逮捕または殺害することを命じる秘密勅書に署名しました。ヴァレンシュタインの軍の主要な将軍たちは、皇帝からの恩賞の約束と圧力によって次々と離反し、ヴァレンシュタインは急速に孤立していきました。
自らの危険を察知したヴァレンシュタインは、腹心の将軍たち(イルロフ、テルツキー、キンツキー、ノイマン)と、少数の忠実な部隊だけを連れて、ボヘミア西部の都市エーガー(現在のヘプ)へと向かいました。彼は、ここでスウェーデン軍と合流し、起死回生を図ろうとしていたのかもしれません。
しかし、彼の運命は尽きていました。1634年2月25日の夜、エーガー城の司令官であったジョン・ゴードンとウォルター・レズリーという二人のスコットランド人将校が、皇帝への忠誠を誓い、暗殺計画を実行します。まず、宴会に招かれたヴァレンシュタインの腹心の将軍たちが、アイルランド人のウォルター・バトラーが率いる竜騎兵たちによって惨殺されました。
その後、バトラーと数人の兵士が、ヴァレンシュタインが宿舎としていた市長の家に押し入りました。寝室にいたヴァレンシュタインは、騒ぎを聞きつけ、剣を手に取ろうとしましたが、時すでに遅く、デヴァルーという名のアイルランド人隊長が突き出したハルバード(斧槍)に胸を貫かれ、即死しました。ヨーロッパを震撼させた偉大な傭兵隊長は、反逆者として、裏切り者の手にかかって、その波乱の生涯を閉じたのです。享年50歳でした。
ヴァレンシュタインの遺産

ヴァレンシュタインの死後、彼の莫大な財産は没収され、彼を裏切った将軍たちや暗殺の実行者たちに分配されました。皇帝は、自らの権威を脅かす最大の政敵を排除することに成功しました。しかし、ヴァレンシュタインという人物が歴史に残した影響は、単なる一人の反逆者の死として片付けられるものではありません。
彼は、近世ヨーロッパにおける「軍事起業家」の究極の姿でした。彼は、戦争を個人の才覚と信用に基づく巨大なビジネスへと変貌させ、国家から半ば独立した巨大な軍事力を組織・運営できることを証明しました。彼が完成させたコントリビューツィオーン・システムは、戦争の破壊力を増大させましたが、同時に、国家が軍隊を維持するための財政システムの原型ともなりました。
彼の政治家としての側面もまた、複雑な評価を必要とします。彼が本当にドイツの平和と統一を望んでいたのか、それともすべてが飽くなき権力欲の現れだったのか、その真意は永遠に謎のままです。しかし、彼が宗教的狂信から距離を置き、世俗的な国益に基づいた秩序を構想しようとしていたことは、ヴェストファーレン条約によって確立されることになる、後の主権国家体制を予感させるものでした。
ヴァレンシュタインの悲劇は、彼個人の性格の傲慢さや野心だけに起因するものではありません。それは、絶対的な権力を志向する近代国家の論理と、封建的な忠誠心や個人の才覚に依存する旧来のシステムとの間に生じた、避けられない衝突の物語でもあります。彼は、国家が軍事力を完全に独占する前の、過渡期に現れた最後の巨星でした。彼の死後、戦争の主導権は、彼のような個人の起業家から、ルイ14世のフランスに代表されるような、官僚機構に支えられた国家そのものへと移っていきます。
フリードリヒ・シラーは、その戯曲『ヴァレンシュタイン三部作』の中で、彼を「時代の混沌が生んだ、偉大にして恐るべき息子」と描き、その複雑な人間性に深く迫りました。
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『世界史B 用語集』 山川出版社

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