アンリ4世とは
1553年12月13日、フランス南西部、ピレネー山脈の麓に位置するベアルン地方のポー城で、一人の男の子が産声を上げました。彼の名はアンリ。父はヴァンドーム公アントワーヌ=ド=ブルボン、母はナバラ女王ジャンヌ=ダルブレ。このアンリこそが、後にフランスを数十年にわたる宗教内戦の泥沼から救い出し、ブルボン朝の初代国王アンリ4世となる人物です。
彼の生まれたナバラ王国は、かつてはピレネー山脈の両側にまたがる独立した王国でしたが、その大部分はスペインによって併合され、母ジャンヌが統治していたのは、フランス側にある、かつての王国の残滓に過ぎませんでした。しかし、その独立の気風は、この小さな王国に強く息づいていました。アンリの祖父であるアンリ=ダルブレは、孫が生まれた際、その唇にニンニクをこすりつけ、ジュランソン産のワインを一滴垂らしたと伝えられています。これは、ベアルン地方のたくましい気質を幼子に授けるための、伝統的な儀式でした。この逸話は、アンリ4世が、洗練されたフランス宮廷の王子というよりも、むしろ地方の土の匂いがする、気さくで頑健な人物であったことを象徴しています。
彼の幼少期は、宗教改革の嵐がフランス全土に吹き荒れる時代と重なっていました。父アントワーヌは、政治的な野心からカトリックとプロテスタント(ユグノー)の間を揺れ動く、優柔不断な人物でした。一方で、母ジャンヌは、深く、そして揺るぎない信仰を持つ、熱心なカルヴァン派の信徒でした。彼女は、1560年に公式にプロテスタント信仰を宣言し、自らのナバラ王国をユグノーの拠点へと変えていきます。
このような両親の下で育ったアンリは、幼い頃から、宗教的な対立がもたらす緊張と、政治的な駆け引きの現実を肌で感じながら成長しました。彼は、カトリックとプロテスタント、双方の宮廷を行き来し、二つの異なる世界をその目で見ることになります。母ジャンヌは、息子に厳格なプロテスタント教育を施し、質素で規律ある生活を送らせようとしました。彼女は、息子が将来ユグノーの大義を担う指導者となることを強く望んでいたのです。アンリは、母から、信仰の重要性と共に、決して屈しない不屈の精神を受け継ぎました。
1562年、ユグノー戦争が勃発すると、父アントワーヌはカトリック側について戦い、その年のうちに戦傷がもとで亡くなります。父の死により、アンリはわずか9歳でブルボン家の家長となり、フランス王国の第一親王という、極めて重要な地位を継承しました。
1568年、第三次ユグノー戦争が始まると、母ジャンヌは、15歳になったアンリを伴い、ユグノーの拠点である港湾都市ラ=ロシェルへと向かいます。彼女は、ユグノーの指導者たちの前で、自らの息子を「大義」のために捧げることを宣言しました。翌1569年、ジャルナックの戦いでユグノーの総大将であった叔父のコンデ公ルイが戦死すると、アンリは、名目上のユグノー軍総司令官に擁立されます。もちろん、実際の軍事指揮は、歴戦の勇将であるガスパール=ド=コリニー提督が執りましたが、この時から、アンリはユグノーの希望を一身に背負う存在となったのです。彼は、コリニー提督の側で、軍事戦略の実際や、兵士を率いるリーダーシップを学び、たくましい若者へと成長していきました。このベアルンで育まれたたくましさと、宗教戦争の渦中で培われた現実感覚こそが、後の彼の人生を形作っていくことになるのです。
血の婚礼
1570年、第三次ユグノー戦争は「サン=ジェルマンの和議」によって終結しました。この和議は、ユグノーに大幅な信教の自由と、安全を保障するための要塞都市を与えるもので、ユグノー側にとって大きな勝利でした。この和平を、より確固たる、永続的なものにするため、フランス宮廷の実力者であった王太后カトリーヌ=ド=メディシスは、一つの大胆な計画を提案します。それは、カトリック教徒である彼女の娘マルグリット=ド=ヴァロワ(通称マルゴ)と、ユグノーの若き指導者であるナバラ王アンリを結婚させるという、前代未聞の政略結婚でした。
この結婚は、カトリックのヴァロワ王家と、プロテスタントのブルボン家という、フランスの二大王家を結びつけ、長年の宗教的対立に終止符を打つ、和解の象徴となるはずでした。アンリの母であり、敬虔なユグノーであったナバラ女王ジャンヌ=ダルブレは、当初、このカトリック宮廷との縁組に強い懸念を示しました。彼女は、息子が退廃的と噂されるフランス宮廷の空気に染まり、信仰を失うことを恐れたのです。しかし、和平の実現という大義と、コリニー提督らの説得により、彼女はついにこの結婚に同意し、交渉のためにパリへと向かいました。しかし、その直後の1572年6月、ジャンヌはパリで急死してしまいます。これにより、アンリはナバラ王アンリ3世として即位することになりました。(彼がフランス国王アンリ4世となるのは、これより後のことです。)
母の死という悲しみを乗り越え、アンリは、結婚式のためにパリへと向かいます。1572年8月18日、パリのノートルダム大聖堂の前で、アンリとマルグリットの結婚式が、壮麗に執り行われました。新郎がプロテスタントであったため、彼は聖堂の中には入らず、式典は屋外の特設舞台で行われました。この歴史的な結婚を祝うため、コリニー提督をはじめとするフランス中のユグノー貴族が、アンリに付き従ってパリに集結していました。
しかし、この和解の祭典は、フランス史上最も暗い悲劇への序曲でした。パリ市民の大多数は熱狂的なカトリック教徒であり、彼らはこの「不浄な」結婚と、首都に滞在する「異端者」たちに、強い反感と憎悪を抱いていました。
結婚式から4日後の8月22日、ユグノーの指導者コリニー提督が、何者かに狙撃され重傷を負うという事件が起こります。ユグノーたちは、これが宿敵ギーズ家の仕業であると激怒し、報復を叫びました。この一触即発の事態にパニックに陥ったカトリーヌ=ド=メディシスと国王シャルル9世は、ユグノー指導者たちの先制殺害を決断します。
そして8月24日の未明、聖バルテルミの祝日の鐘の音を合図に、虐殺が開始されました。コリニー提督をはじめ、ルーヴル宮殿内にいたユグノー貴族たちが次々と殺害され、その狂気はパリの民衆へと広がり、数千人ものユグノーが犠牲となりました。
この「サン=バルテルミの虐殺」の嵐の中、新郎であったアンリは、絶体絶命の危機に瀕します。彼は、国王シャルル9世の前に引き出され、「ミサか、死か、バスティーユか」という、冷酷な選択を突きつけられました。生き延びるため、アンリは、その場でカトリックへの改宗を誓うことを余儀なくされます。彼の従兄弟であるコンデ公アンリも同様でした。こうして、彼はかろうじて命を長らえましたが、事実上、フランス宮廷の虜囚となり、厳重な監視下に置かれることになったのです。彼の結婚は、和解の象徴どころか、仲間たちの死と、自らの屈辱的な監禁生活の始まりとなってしまいました。この悪夢のような経験は、彼の心に深い傷跡を残すとともに、人間不信と、生き延びるためのしたたかな処世術を教え込むことにもなりました。
宮廷の虜囚
サン=バルテルミの虐殺の後、ナバラ王アンリの人生は一変しました。ユグノーの希望の星であった若き指導者は、一夜にして、フランス宮廷における華やかな、しかし実態は金メッキの鳥かごに囚われた虜囚となったのです。彼は、カトリックへの改宗を強制され、国王シャルル9世、そしてその後を継いだアンリ3世の宮廷で、約4年間にわたる屈辱的な日々を送ることを余儀なくされました。
この時期のフランス宮廷は、陰謀と退廃が渦巻く、危険な場所でした。国王アンリ3世の周りには、「ミニョン」と呼ばれる寵臣たちがはべり、派手な衣装と放埒な振る舞いで、宮廷の風紀を乱していました。一方で、国王の弟であるアランソン公フランソワは、兄に対する野心を隠さず、宮廷内で独自の派閥を形成し、絶えず陰謀を企てていました。アンリは、このような欺瞞と裏切りが日常茶飯事である世界で、生き延びなければなりませんでした。
彼は、自らの本心を巧みに隠し、無害で享楽的な若者を演じました。彼は、狩猟や賭け事、そして何よりも女性との恋愛遊戯に熱中しているように見せかけ、政治的な野心など全くないかのように振る舞いました。彼の陽気で気さくな性格と、機知に富んだ会話は、多くの宮廷人を魅了し、国王アンリ3世からも、ある程度の好意を得ていました。しかし、その仮面の下で、彼は冷静に状況を観察し、宮廷内の権力関係を分析し、そして何よりも、脱出の機会を虎視眈眈と狙っていたのです。
彼の妻であるマルグリット=ド=ヴァロワとの関係も、複雑なものでした。二人の結婚は、そもそも政略的なものであり、虐殺の悲劇によって、その始まりから不幸な影を落としていました。彼らの間には、真の愛情が育つことはありませんでした。二人とも、宮廷内で多くの愛人を作り、その恋愛遍歴は公然の秘密となっていました。しかし、奇妙なことに、彼らの間には、共通の敵に囲まれた「共犯者」としてのある種の連帯感が芽生えていました。マルグリットは、その知性とヴァロワ家の王女としてのプライドから、兄アンリ3世や母カトリーヌとしばしば対立しました。彼女は、夫であるアンリが宮廷内で孤立しないよう助け、時には彼の陰謀に手を貸すことさえありました。
1575年、アランソン公フランソワが、ユグノーや穏健派カトリック教徒(ポリティーク派)と結託して、国王アンリ3世に対する反乱を企てます。アンリも、この陰謀に関与していましたが、計画は事前に露見し、彼は再び厳しい監視下に置かれることになります。
しかし、この失敗にも彼は屈しませんでした。そして1576年2月、ついにその時が訪れます。アンリは、狩猟を装ってパリを抜け出すと、馬を駆って南西へと向かい、追っ手を振り切って、ついに自由の身となることに成功したのです。ロワール川を渡り、安全な地に至った彼は、長らく強いられてきたカトリック信仰を捨て、再びプロテスタント(カルヴァン主義)の信仰に戻ることを宣言しました。
宮廷での4年間の虜囚生活は、彼から多くのものを奪いましたが、同時に、かけがえのないものを与えてもいました。それは、人間の本性を見抜く洞察力、敵を欺くための忍耐力、そして、いかなる逆境にも屈しない、鋼のような意志でした。道化の仮面を脱ぎ捨てたナバラ王アンリは、今や、より狡猾で、より経験を積んだ、恐るべき政治家として、再び歴史の表舞台に姿を現したのです。
ユグノーの指導者
1576年にフランス宮廷からの劇的な脱出を果たしたナバラ王アンリは、ユグノーの指導者として、再び宗教戦争の渦中へと身を投じます。しかし、彼が戻ってきたユグノーの陣営は、もはや彼が知っていたかつてのそれとは大きく様変わりしていました。サン=バルテルミの虐殺は、ユグノーの運動をより過激で、より地方分権的なものへと変質させていたのです。
南フランスのユグノーたちは、ヴァロワ王権を「暴君」とみなし、事実上の独立共和国を形成していました。彼らは、独自の議会と軍隊を持ち、もはや王家との和解ではなく、完全な自治を求めていました。この急進的なユグノーたちにとって、宮廷でカトリックとして4年間を過ごしたアンリは、必ずしも信頼できる指導者ではありませんでした。彼らは、アンリが再び政治的な都合で信仰を捨てるのではないかと、疑いの目で見ていたのです。
アンリは、この困難な状況の中で、自らのリーダーシップを確立していかなければなりませんでした。彼は、まず、南西フランスのギュイエンヌ地方の総督としての地位を国王に認めさせ、そこを自らの拠点とします。彼は、性急な軍事行動を避け、巧みな交渉と妥協を重ねながら、徐々にユグノー諸都市や貴族たちの信頼を勝ち取っていきました。彼は、宗教的な熱狂に走るのではなく、常に現実的な政治的判断を優先しました。彼の目標は、ユグノーの完全な勝利ではなく、フランス王国全体の平和と安定であり、そのためにはカトリックとの共存が不可欠であると考えていたのです。この穏健で現実的な姿勢は、過激派のユグノーからはしばしば批判されましたが、ポリティーク派と呼ばれる穏健なカトリック教徒からの支持を集めることにも繋がりました。
この時期、アンリの軍事指導者としての才能も開花します。彼は、大規模な会戦を好まず、奇襲や機動戦を得意としました。彼は、兵士たちと気さくに言葉を交わし、食事を共にし、危険な場所にも率先して身を置きました。その勇敢さと親しみやすい人柄は、兵士たちから絶大な人気と忠誠心を勝ち取りました。
1584年、フランスの政治状況を根底から揺るがす出来事が起こります。国王アンリ3世の最後の弟であり、王位継承者であったアランソン公フランソワが亡くなったのです。アンリ3世には子供がいなかったため、フランスの王位継承法であるサリカ法に基づけば、次に王位を継承する権利を持つのは、ブルボン家の家長であるナバラ王アンリ、その人でした。
しかし、プロテスタントであるアンリが、カトリックの国フランスの王位継承者となることは、カトリック過激派にとっては到底受け入れられることではありませんでした。ギーズ公アンリに率いられたカトリック同盟は、アンリの継承権を否定し、スペインの支援を受けて、公然と国王アンリ3世に反旗を翻します。
こうして、ユグノー戦争は、国王アンリ3世、カトリック同盟のギーズ公アンリ、そしてユグノーの指導者であるナバラ王アンリという、三人の「アンリ」がフランスの覇権を争う、最終局面「三アンリの戦い」へと突入しました。
追い詰められた国王アンリ3世は、カトリック同盟の圧力に屈し、アンリの王位継承権を剥奪する条約に署名します。これにより、アンリは、再び国王軍とカトリック同盟の両方を敵に回して戦うことになりました。絶望的な状況にもかかわらず、アンリは不屈の闘志を見せます。1587年10月、クートラの戦いで、彼は数で勝る国王軍を相手に、巧みな戦術で見事な勝利を収めました。この勝利は、彼の軍事指導者としての名声を不動のものとしました。
その後、国王アンリ3世がギーズ公を暗殺し、その国王自身もカトリック同盟の刺客によって暗殺されるという、劇的な展開を経て、1589年8月、ついにヴァロワ朝は断絶します。死の床で、アンリ3世は、ナバラ王アンリを正統な後継者として指名しました。こうして、ベアルンの山中で生まれたプロテスタントの王子は、四十年にわたる宗教内戦で引き裂かれたフランス王国の、正統な国王アンリ4世となったのです。しかし、彼の前には、王冠をその手にするための、さらなる長く困難な戦いが待ち受けていました。
国王の戦い
1589年、アンリ3世の死によって、ナバラ王アンリはフランス国王アンリ4世となりました。しかし、それは法的な権利を得たに過ぎず、彼が統治すべき王国は、その大部分が彼に敵対していました。特に、カトリック同盟が強固に支配する首都パリは、プロテスタントの王を断固として拒絶し、城門を固く閉ざしていました。彼の国王としての治世は、自らの王国を、力によって征服することから始めなければならなかったのです。
アンリ4世の即位に際し、彼が率いていた王党派の軍隊内部でも動揺が走りました。カトリックの貴族たちの多くは、プロテスタントの王に仕えることに強い抵抗を感じ、軍を離れていきました。兵力も資金も不足し、彼の立場は極めて脆弱でした。しかし、アンリ4世は、その不屈の精神と、人々を惹きつけるカリスマ性で、この危機を乗り越えます。彼は、カトリック教徒の貴族たちに対し、将来的にカトリックの教えを受け入れることを検討すると約束し、彼らの離反を食い止めました。
カトリック同盟は、アンリ4世の叔父にあたるブルボン枢機卿を「シャルル10世」として対立王に擁立し、スペイン国王フェリペ2世からの強力な軍事支援を受けて、アンリ4世に対する戦争を継続しました。アンリ4世は、まず、ノルマンディー地方へと軍を進め、イングランドからの支援を受けるための港を確保しようとします。
1589年9月、アルクの戦いで、アンリ4世は、彼の軍事的才能を遺憾なく発揮します。彼は、自軍の3倍以上もの兵力を有するカトリック同盟軍を、巧みな陣地構築と、地形を活かした戦術によって、見事に撃退しました。この奇跡的な勝利は、彼の兵士たちの士気を大いに高め、彼の王としての権威を内外に示すことになりました。
翌1590年3月、両軍はイヴリーの地で再び激突します。この戦いの前、アンリ4世は、彼の白い羽飾りを指し示し、「もし汝らが軍旗を見失ったら、我が白い羽飾りのもとに集まれ。汝らは常に、名誉と勝利への道の上にそれを見出すであろう」と兵士たちを鼓舞したという有名な逸話が残っています。この戦いで、アンリ4世は自ら先頭に立って敵陣に突撃し、カトリック同盟軍を完膚なきまでに打ち破りました。
イヴリーでの勝利の後、アンリ4世は、ついに首都パリの包囲を開始します。しかし、パリの抵抗は頑強でした。カトリックの説教師たちに煽られた市民は、飢餓に苦しみながらも、プロテスタントの王に降伏することを断固として拒否しました。包囲は数ヶ月に及び、多くの市民が餓死するという悲惨な状況になりました。アンリ4世は、敵であるパリ市民の苦しみに心を痛め、食料の搬入を黙認したと伝えられており、その人道的な一面をうかがわせます。最終的に、スペインのパルマ公が率いる援軍がネーデルラントから南下してきたため、アンリ4世はパリの包囲を解かざるを得ませんでした。
軍事的な勝利だけでは、パリを、そしてフランスを統一することはできない。アンリ4世は、この苦い経験から、そのことを痛感します。彼は、フランス王国の平和と統一という、より大きな目的のためには、自らの信仰を犠牲にする必要があるかもしれない、という考えに至ります。それは、彼にとって、そして彼を長年支えてきたユグノーの仲間たちにとって、極めて重い決断でした。しかし、現実主義者であった彼は、この国を統治するためには、国民の大多数が信仰するカトリックを受け入れる以外に道はない、と悟ったのです。
改宗と戴冠
パリの包囲に失敗し、戦争が泥沼化する中で、アンリ4世は、フランスを統一するための、最も困難で、しかし最も決定的な一歩を踏み出す決意を固めます。それは、軍事力ではなく、政治的な決断によって、国民の心をつかむことでした。すなわち、彼自身のカトリックへの改宗です。
この決断は、決して容易なものではありませんでした。彼は、母ジャンヌ=ダルブレから受け継いだプロテスタントの信仰の下で育ち、ユグノーの指導者として、仲間たちと共に三十年近く戦い続けてきました。彼の改宗は、これまでの彼の人生そのものを否定し、共に血を流してきた仲間たちを裏切る行為と見なされかねませんでした。ユグノーの過激派は、この動きに激しく反発し、彼を非難しました。
しかし、アンリ4世は、一人の信仰者である前に、一国の王でした。彼の第一の責務は、長年の内戦で荒廃しきったフランスに平和を取り戻し、国民の生活を再建することでした。彼は、国民の大多数がカトリック教徒である国で、プロテスタントの王が永続的な平和を築くことは不可能であると、冷徹に判断したのです。彼の周りにいた、ポリティーク派と呼ばれる穏健なカトリック教徒たちも、王の改宗こそが、カトリック同盟の抵抗の根拠を奪い、国を一つにまとめる唯一の道であると、彼を説得しました。
1593年7月25日、アンリ4世は、パリ近郊のサン=ドニ大聖堂を訪れました。この大聖堂は、歴代フランス王が埋葬されている、フランス王家にとって最も神聖な場所です。彼は、大聖堂の扉の前で、フランスの大司教たちに迎えられました。儀式的な問答の後、彼は、カトリック教会への忠誠を誓い、異端を捨て去ることを宣言しました。そして、大聖堂の中で行われた荘厳なミサに参列したのです。この歴史的な改宗に際して、彼が「パリはミサを執り行う価値がある」と言ったとされる有名な言葉は、彼のこの決断が、深い宗教的信念からというよりは、むしろ国家の統一という至上の目的のための、高度に政治的な行為であったことを、象生徴的に物語っています。
アンリ4世の改宗は、フランス全土に劇的な影響を与えました。カトリック同盟が、プロテスタントの王を拒否する最大の口実が、一夜にして消え去ったのです。カトリック教徒の民衆や貴族たちは、カトリック信仰に復帰した王を、正統な君主として受け入れるようになりました。カトリック同盟の指導者たちは、次々とアンリ4世に帰順し、諸都市は競って彼に城門を開きました。
そして1594年2月27日、アンリ4世は、シャルトル大聖堂で、正式な戴冠式を執り行いました。伝統的に戴冠式が行われるランスは、まだ敵の手にあったため、シャルトルが選ばれたのです。聖油を塗られ、王冠を授けられた彼は、名実ともに、神聖なフランス国王となりました。
その約一ヶ月後の3月22日、アンリ4世は、ついにパリへと入城します。かつて彼を頑なに拒絶したパリの市民は、今や、平和をもたらす王として、彼を熱狂的に歓迎しました。アンリ4世は、敵対していた者たちに対して驚くほど寛大な態度で臨み、多くの者に恩赦を与えました。彼は、ルーヴル宮殿に入ると、長年の戦いの終わりを実感し、安堵したと言われています。ベアルンの山中で生まれたプロテスタントの王子は、数々の戦いと、一つの重大な決断を経て、ついにフランス王国の真の支配者となったのです。
ナントの王令
パリ入城を果たし、フランス国王としての地位を確立したアンリ4世でしたが、彼の前には、まだ解決すべき大きな課題が残されていました。その一つは、長年にわたって彼を支え、共に戦ってきたユグノーの仲間たちの処遇です。
アンリ4世のカトリックへの改宗は、多くのユグノーにとって、苦い裏切りとして受け止められていました。彼らは、王が自分たちのことを見捨て、カトリック勢力に迎合してしまうのではないかと、深い不安と不信感を抱いていました。彼らは、長年の戦いで勝ち取ってきた信教の自由と、市民としての権利が、法的に、そして恒久的に保障されることを強く求めていました。
アンリ4世自身も、ユグノーたちの権利を保障する必要性を痛感していました。彼は、彼らの忠誠心と犠牲なしには、王位に就くことはできなかったことを、決して忘れてはいませんでした。また、現実的な政治家として、彼は、強力な組織力と軍事力を持つユグノーを敵に回すことが、いかに危険であるかも理解していました。王国の永続的な平和を築くためには、カトリックとユグノーという、二つの異なる信仰を持つ共同体が、一つの国家の中で共存できるような、新たな枠組みを作り出す必要があったのです。
1594年から、アンリ4世は、ユグノーの代表者たちと、困難な交渉を開始します。ユグノー側は、完全な礼拝の自由と、公職への完全な平等、そして彼らの安全を保障するための多数の要塞都市を要求しました。一方、カトリック側、特に高等法院やカトリック教会は、国内に「異端」の存在を公式に認めることに、強く反対しました。
アンリ4世は、両者の間に立ち、粘り強く交渉を続けました。彼は、ユグノーに対しては、彼らの要求が過激すぎると説得し、カトリック側に対しては、寛容こそが平和への唯一の道であると訴えました。この交渉は、スペインとの戦争が終結し、アンリ4世の王権が完全に確立されるのを待って、ようやく最終的な妥結を見ます。
そして1598年4月13日、アンリ4世は、ブルターニュ地方の都市ナントで、フランスの歴史を画する重要な勅令に署名しました。これが「ナントの王令」です。
この勅令は、92条からなる本文と、56条の秘密条項で構成されており、極めて詳細かつ具体的な内容を持っていました。まず、勅令は、カトリックがフランスの国教であることを再確認し、国内全土でカトリックの礼拝が回復されることを定めました。これは、大多数を占めるカトリック教徒を安心させるための、重要な配慮でした。
その上で、勅令は、ユグノーに対して、前例のない広範な権利を保障しました。
第一に、完全な「良心の自由」が認められました。これにより、ユグノーは、内心においてプロテスタントの信仰を持つことを、法的に許されました。
第二に、限定的な「礼拝の自由」が認められました。ユグノーは、すでに礼拝が行われていた都市や、特定の貴族の城において、公に礼拝を行うことができました。ただし、パリなどの一部の都市では、公的な礼拝は禁止されました。
第三に、完全な「市民権」が保障されました。ユグノーは、あらゆる公職に就く権利、大学で学ぶ権利、病院で治療を受ける権利などにおいて、カトリック教徒と完全に平等な扱いを受けることになりました。彼らの身分を登録するための、宗派混合の特別法廷も設置されました。
そして第四に、彼らの安全を保障するための、具体的な軍事的保証が与えられました。ユグノーは、ラ=ロシェルやモントーバンなど、約150の「安全保障都市」を保持し、独自の守備隊を駐留させることが許可されました。これらの費用は、国王の金庫から支払われることになっていました。
ナントの王令は、決して近代的な意味での完全な信教の自由を確立したものではありませんでした。それは、あくまで二つの宗教共同体の共存を認めた、政治的な妥協の産物でした。しかし、宗教的統一が絶対とされていた当時のヨーロッパにおいて、一つの国家が、法の下で異なる信仰の存在を公式に認め、その権利を保障したという点で、画期的なものでした。
アンリ4世は、この勅令を高等法院に登録させる際、頑強に抵抗する裁判官たちを前に、「私は、あなた方と区別なく、全ての者を愛する王である。我々は、もはやカトリックとユグノーを区別すべきではない」と語り、彼らを説得しました。ナントの王令は、アンリ4世の現実主義と寛容の精神が生み出した、偉大な政治的遺産であり、フランスに、ようやく内戦の時代の終わりと、平和な再建の時代の始まりを告げるものでした。
王国の再建
ナントの王令によって国内の平和を確立したアンリ4世は、その治世の後半、荒廃しきったフランス王国の再建という、壮大な事業に着手します。四十年にわたる宗教戦争は、フランスの国土を荒らし、経済を破綻させ、社会の秩序を根底から破壊していました。アンリ4世は、そのエネルギッシュなリーダーシップと、有能な側近たちの助けを得て、この危機的な状況から国を立て直していきました。
この再建事業の中心的な役割を担ったのが、アンリ4世が絶対の信頼を寄せた、シュリー公マクシミリアン=ド=ベテュヌでした。シュリーは、アンリ4世と同じくプロテスタントであり、若い頃からの戦友でした。彼は、質実剛健で、極めて有能な行政官であり、財政再建の辣腕を振るいました。
アンリ4世が即位した当初、フランスの国家財政は、破綻寸前の状態でした。巨額の負債を抱え、税収は、徴税請負人による不正や、貴族たちの特権によって、ごくわずかしか国庫に入ってこない状況でした。シュリーは、まず、徹底的な歳出の削減と、会計監査の厳格化に取り組みました。彼は、無駄な支出を切り詰め、宮廷の経費を抑制し、徴税システムを改革して、不正の温床となっていた徴税請負人からの収入を増やしました。また、彼は、貴族や都市が不当に得ていた免税特権にも切り込み、税負担の公平化を図ろうとしました。
さらに、シュリーは、フランス経済の基盤である農業の復興に力を注ぎました。彼は、「農耕と牧畜こそは、フランスの二つの乳房である」という有名な言葉を残しています。彼は、農民の負担を軽減するため、主要な直接税であるタイユ税を引き下げ、戦争で荒廃した農地の回復を奨励しました。また、彼は、国内の交通網を整備することの重要性を認識し、道路、橋、運河の建設や修復を大規模に進めました。これにより、物資の流通が円滑になり、商業活動が活発化しました。
アンリ4世自身も、経済の発展に強い関心を持っていました。彼は、シュリーが農業を重視したのに対し、むしろ商工業の振興に情熱を注ぎました。彼は、リヨンやトゥールといった都市で、絹織物業やタペストリー製造といった奢侈品産業を保護、育成しました。また、彼は、カナダへ探検隊を派遣し、1608年にはサミュエル=ド=シャンプランがケベックを建設するなど、フランスの海外植民地帝国の基礎を築きました。
アンリ4世の治世は、大規模な都市改造計画によっても特徴づけられます。彼は、長年の戦争で荒廃したパリを、壮麗な首都へと変貌させようとしました。彼の計画の下で、セーヌ川にポン=ヌフ(新しい橋)が完成し、王宮であるルーヴル宮殿の大規模な増改築が行われました。また、パリの中心部には、美しいヴォージュ広場(当時はロワイヤル広場)が建設され、市民の憩いの場となりました。これらの建築事業は、パリの景観を一新し、ブルボン朝の王権の威光を示すものでした。
アンリ4世は、貴族の反乱にも、断固とした態度で臨みました。彼は、王権に反抗する大貴族を容赦なく処罰し、地方の城塞を破壊して、貴族の軍事力を削いでいきました。彼は、もはや貴族が王権から独立した勢力ではなく、国王に仕える臣下であることを、明確に示したのです。
これらの精力的な改革の結果、アンリ4世の治世の終わり頃には、フランスの国家財政は黒字に転じ、経済は目覚ましい回復を遂げ、社会の秩序は回復しました。アンリ4世は、国民の生活を心から気遣い、「日曜には全ての農民の鍋に鶏肉を」という言葉で知られるように、国民の繁栄を自らの目標としました。その気さくな人柄と、平和と繁栄をもたらした実績から、彼は「良王アンリ」として、フランス国民から深く愛される存在となったのです。
暗殺
平和と繁栄を謳歌していたアンリ4世の治世は、しかし、あまりにも突然に、そして悲劇的な形で終わりを迎えます。彼の成功と寛容の政策は、全てのフランス人に受け入れられたわけではありませんでした。彼の過去、すなわちプロテスタントであったという事実は、一部の狂信的なカトリック教徒の心に、決して消えることのない疑念と憎悪の種を蒔き付けていたのです。1610年、ブルボン朝初代国王アンリ4世は、急進的なカトリック教徒によって暗殺されました。