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宗教改革とは わかりやすい世界史用語2547
著作名: ピアソラ
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宗教改革とは

十六世紀のヨーロッパを根底から揺るがした宗教改革は、一人の修道士が投じた神学的な問いが、やがて政治、社会、文化のあらゆる領域に及ぶ巨大な地殻変動へと発展した、西洋史における画期的な出来事でした。それは、単に1517年のマルティン=ルターという一個人の行動から始まったのではなく、何世紀にもわたってカトリック教会内部で蓄積されてきた構造的な腐敗、聖職者の道徳的堕落、そして一般信徒の間に深く広がる精神的な渇望といった、複雑に絡み合った無数の要因が、歴史の臨界点で燃え上がった必然的な帰結でもありました。この運動は、キリスト教信仰の核心である「人は如何にして義とされ、救われるのか」という根源的な問いを、スコラ神学の難解な議論の場から、一般民衆の日常的な信仰の実践の場へと引きずり出し、それまでの教会が定めてきた秘跡や善行、巡礼といった外面的な行いによる救済の道を退け、「信仰のみ」「聖書のみ」「恵みのみ」という、より個人的で内面的な信仰のあり方を、福音の再発見として力強く提示しました。この新しい信仰の波は、千年以上にわたってヨーロッパを精神的に統合してきたローマ=カトリック教会の一元的な権威を打ち砕き、ルター派、カルヴァン派、ツヴィングリ派、再洗礼派、そしてイングランド国教会といった、それぞれが独自の教義と教会制度を持つ多様なプロテスタントの宗派を生み出し、西ヨーロッパのキリスト教世界を恒久的かつ決定的に分裂させることになります。宗教改革の動向は、純粋な神学論争の領域に留まることは決してなく、神聖ローマ帝国の皇帝と領邦君主たちの間の政治的覇権をめぐる権力闘争、フランスやイングランドにおける近代的中央集権国家の主権確立の動き、そして封建的な搾取に苦しむ農民や、台頭しつつある都市の市民階級の社会経済的な要求といった、極めて世俗的な利害と複雑に絡み合いながら、その様相を刻一刻と変えていきました。信仰の刷新と福音の解放を目指したこの運動が、皮肉にも、ドイツ農民戦争における凄惨な殺戮、フランスでのサン=バルテルミの虐殺に象徴されるユグノー戦争、そして最終的にはヨーロッパ全土を荒廃の淵に突き落とした三十年戦争といった、前例のない規模の宗教的暴力と不寛容の時代をもたらしたことは、歴史の大きな逆説です。しかし、まさにその破壊と混沌の中から、やがて近代的な国家主権の概念や、個人の良心の自由に基づく信教の自由という理念が、苦難の末に芽生えることにもなりました。



改革前夜

マルティン=ルターが歴史の表舞台に登場する以前の十四世紀から十五世紀にかけてのヨーロッパは、教皇権の失墜、教会組織の深刻な分裂、そして新たな知的運動の胎動が複雑に交錯する、まさに中世キリスト教世界の「教会の黄昏」と呼ぶにふさわしい時代でした。この時代の教会が抱えていた構造的な問題群を理解することなくして、宗教改革の爆発的なエネルギーを正しく捉えることはできません。
アヴィニョン捕囚と教会大分裂(シスマ)

教皇権の失墜を象徴する最初の大きな出来事が、1309年から1377年にかけて、教皇庁がローマから南フランスのアヴィニョンに移された、いわゆる「教皇のバビロン捕囚」です。これは、フランス国王フィリップ四世と教皇ボニファティウス八世との間の聖職者課税権をめぐる激しい対立に端を発し、教皇がフランス王権の強い影響下に置かれたことを意味しました。七代にわたるフランス人教皇が続いたこの時代、教皇庁はペテロの後継者としての普遍的な権威を著しく損ない、一国の政治権力に従属する存在として見られるようになりました。さらに深刻だったのは、教皇庁がローマに帰還した直後の1378年から1417年にかけて発生した「教会大分裂(ウェスタン=シスマ)」です。イタリア人のウルバヌス六世がローマで選出されると、フランス人の枢機卿たちがこれに反発し、アヴィニョンで対立教皇クレメンス七世を選出したことで、西ヨーロッパのキリスト教世界は、ローマ教皇を支持する勢力(神聖ローマ帝国、イングランドなど)と、アヴィニョン教皇を支持する勢力(フランス、スコットランド、スペイン諸国など)に二分されてしまいました。一時期はピサ公会議の結果、三人の教皇が鼎立する異常事態にまで発展し、信徒たちは一体どの教皇が正統なキリストの代理人なのか分からず、教会の権威は地に堕ちました。
公会議運動の挑戦とルネサンス教皇の世俗化

この未曾有の危機を収拾するために開かれたのが、コンスタンツ公会議(1414年=1418年)です。この公会議は、三人の教皇を廃位または辞任させて、新たにマルティヌス五世を統一教皇として選出し、四十年にわたる分裂を終わらせることに成功しました。しかし、その過程で公会議は、「教会の権威は公会議にあり、教皇もそれに従わなければならない」とする「公会議主義」を宣言しました。これは、教皇の権威が教会全体(公会議)の権威に由来するという考え方であり、中世を通じて確立されてきた教皇至上主義(教皇首位権)に対する深刻な挑戦を突きつけるものでした。分裂後の教皇たちは、この公会議主義の脅威を抑え込むことに腐心し、自らの権力をイタリア半島における領土的支配の強化に向かわせました。その結果、十五世紀後半から十六世紀初頭にかけての教皇たちは、アレクサンデル六世(ボルジア家)、ユリウス二世、レオ十世(メディチ家)に代表されるように、精神的指導者としてではなく、イタリアの一君主として振る舞うようになります。彼らは、ミケランジェロやラファエロを起用して壮大な芸術事業を推進する偉大なパトロンであったと同時に、自らの親族を要職に就かせる縁故主義(ネポティズム)に走り、権力闘争のために戦争を繰り返し、贅沢三昧の宮廷生活に明け暮れる、極めて世俗的な存在となっていきました。
聖職者の腐敗と民衆の信仰

教会の腐敗は、教皇庁だけにとどまりませんでした。高位聖職である司教や大修道院長の地位は、しばしば貴族の子弟によって占められ、多額の金銭で売買(シモニア)されることも珍しくありませんでした。多くの司教は、複数の聖職禄からの収入を享受するだけで、自らの教区に赴任することさえせず、魂の救済という本来の職務を放棄していました。下級聖職者である教区司祭たちの多くも、十分な教育を受けておらず、ラテン語のミサの意味も理解しないまま儀式を執り行い、内縁の妻を持つなど、道徳的な規律も乱れていました。一方で、死と審判への不安を抱える一般の民衆の間では、救済への渇望が、ますます外面的な行いへと向かっていきました。聖人の遺骨や遺品とされる無数の聖遺物への崇拝、特定の聖地への巡礼、そして煉獄での苦しみの期間を短縮するとされる贖宥状(免罪符)の購入などが、救済への道を保証する手段として盛んに行われました。これらは、教会の財政を潤す重要な収入源となっており、民衆の素朴な信仰心が、教会によって巧みに利用されている側面があったのです。
人文主義と印刷技術という土壌

このような教会の腐敗と、アリストテレス哲学に過度に依存し、形式化して生命力を失ったスコラ神学の閉塞状況に対し、イタリアで花開き、アルプス以北にも広がったルネサンス人文主義は、新たな知的気風を生み出しました。「原典に戻れ(アド=フォンティス)」を合言葉に、人文主義者たちは、中世のラテン語訳聖書(ウルガタ)ではなく、聖書の原典であるヘブライ語やギリシャ語の写本を研究し、教父たちの著作を直接読むことを重視しました。この文献学的なアプローチは、教会の伝統や権威的な解釈よりも、聖書そのものの言葉に立ち返ろうとする姿勢を育み、宗教改革の神学的な方法論の基礎を準備しました。この運動の頂点に立つのが、「人文主義の王子」と称されたオランダの学者デジデリウス=エラスムスです。彼は、その辛辣な風刺『痴愚神礼賛』(1511年)で、教皇、聖職者、そして神学者たちの偽善と無知を痛烈に批判しました。そして、彼が1516年に校訂・出版したギリシャ語新約聖書は、ルターがドイツ語訳の底本として用いるなど、宗教改革の展開に決定的な影響を与えました。さらに、この新しい思想と知識が、かつてない速度と規模で拡散することを可能にしたのが、1450年頃のヨハネス=グーテンベルクによる活版印刷技術の発明です。それまで、書物は高価な羊皮紙に手で書き写されるものであり、一部の聖職者や富裕な知識人に独占されていました。しかし、印刷技術によって、安価な紙に大量の文書を複製することが可能になり、ルターの『九十五か条の論題』や様々なパンフレットが、数週間のうちにドイツ全土に行き渡ることを実現させました。印刷術は、まさに宗教改革という思想革命の導火線であり、増幅装置だったのです。
改革の先駆者たち

マルティン=ルターの登場は、決して歴史の空白から生まれたものではありませんでした。彼の宗教改革より一世紀以上も前から、教会の腐敗を厳しく批判し、聖書に基づく素朴な信仰の原点に立ち返ることを訴え、時には自らの命を賭して教皇の権威に異を唱えた、孤独な改革者たちが存在しました。彼らの思想と行動は、後の宗教改革の土壌を耕し、その道筋を部分的に予示するものでした。
ジョン=ウィクリフとロラード派

「宗教改革の明けの明星」と称されるジョン=ウィクリフ(1320年代=1384年)は、十四世紀のイングランド、オックスフォード大学の傑出した神学者でした。彼は、アヴィニョン捕囚期の教皇庁によるイングランドへの財政的要求に反対する中で、その教会批判を先鋭化させていきました。ウィクリフは、真の教会とは、目に見える組織としての教会ではなく、神によって永遠の昔から救済を予定された人々の集まりである「予定者の教会」であると主張し、堕落した聖職者、特に教皇は、キリストの代理人どころか反キリストである可能性さえあると断じました。彼は、教会の莫大な財産は、その霊的な使命を妨げるものであり、敬虔な国王は、腐敗した教会の財産を没収する権利と義務があると主張し、イングランド王権の反教皇的な政策を理論的に支えました。神学的には、彼は、ミサの際にパンとワインが完全にキリストの体と血の実体に変化するというカトリックの「聖変化(実体変化)」の教義を、哲学的な議論に基づいて否定しました。そして、彼の思想の核心にあったのは、「聖書のみ」の原則の先駆けともいえる、聖書の至高の権威です。彼は、聖書こそがキリスト教徒の信仰と生活の唯一の規範であり、教皇の教令や教会の伝統も、聖書に照らして判断されなければならないと説きました。この信念に基づき、彼は、一般の信徒が自らの言語で聖書を読めるようにすることの重要性を訴え、彼の指導と影響の下で、ラテン語のウルガタ聖書から英語への最初の全訳事業が進められました。ウィクリフの思想は、オックスフォード大学を追われた後も、「ロラード派」と呼ばれる彼の弟子たちによって、説教師としてイングランド各地に広められましたが、彼らは異端として厳しい弾圧を受けました。ウィクリフ自身は、有力な貴族の庇護もあって天寿を全うしましたが、その死後、コンスタンツ公会議によって正式に異端と宣告され、彼の遺体は墓から掘り起こされて焼かれ、その灰は川に流されました。
ヤン=フスとボヘミアの反乱

ウィクリフの思想の種は、海を越えて、神聖ローマ帝国内のボヘミア王国(現在のチェコ)で、より劇的な形で芽吹くことになります。プラハ大学の総長であり、有力な説教師であったヤン=フス(1370年頃=1415年)は、ウィクリフの教会論や聖書主義に深く影響を受け、プラハにおける教会改革運動の指導者となりました。彼は、チェコ語による説教を通じて、聖職者の道徳的堕落、特に聖職売買を厳しく批判し、贖宥状の販売にも反対しました。フスの改革運動は、単なる宗教的な運動にとどまらず、大学内やプラハ市におけるドイツ人の支配に対する、チェコ人の民族的な感情と強く結びついていました。彼の主張の中で、特に信徒の心をとらえたのが、ミサの際に、聖職者だけでなく一般信徒も、パン(キリストの体)とワイン(キリストの血)の両方を受けるべきであるという「両形態色」の要求です。これは、聖職者と平信徒の間の身分的な格差を乗り越え、初代教会の実践に立ち返ろうとする象徴的な意味を持っていました。フスは、その影響力の大きさから教皇庁に危険視され、教会大分裂の収拾のために開かれたコンスタンツ公会議に召喚されます。神聖ローマ皇帝ジギスムントから身の安全を保障する約束を得て公会議に出席したにもかかわらず、彼は異端者として逮捕され、自説の撤回を拒否したため、1515年7月6日、火刑に処せられました。「真理を求め、真理を学び、真理を愛し、真理を語り、真理を守り、死に至るまで真理を擁護せよ」という彼の言葉は、彼の不屈の精神を伝えています。フスの殉教は、ボヘミアの民衆の怒りに火をつけ、大規模な反乱、すなわちフス戦争(1419年=1434年)を引き起こしました。ヤン=ジシュカらの優れた指導者の下、農民を主体とするフス派の軍隊は、教皇と皇帝が次々と派遣した十字軍を、革新的な戦術を用いて何度も撃退しました。最終的に、フス派は内部で穏健派と急進派に分裂し、戦争は妥協の形で終結しますが、ボヘミア教会は、ローマからの一定の自立性と、「両形態色」の実践を勝ち取ることになりました。フスの運動は、宗教改革が、民族意識と結びついた時に、いかに大きな政治的・軍事的な力となりうるかを、ルターに先駆けて示すものでした。
ジロラモ=サヴォナローラとフィレンツェの神政政治

十五世紀末のルネサンス文化が爛熟したフィレンツェで、全く異なるタイプの改革者が登場しました。ドミニコ会の修道士ジロラモ=サヴォナローラ(1452年=1498年)は、終末論的な預言と、教会や社会の道徳的退廃に対する火のような激しい説教によって、フィレンツェの民衆の心を鷲掴みにしました。彼は、フィレンツェが神の選んだ新たなエルサレムとなり、イタリア全土、ひいては教会全体の刷新の起点となると預言しました。1494年、フランス王シャルル八世のイタリア侵攻という政治的混乱の中で、長年フィレンツェを支配してきたメディチ家が追放されると、サヴォナローラは市の政治的な指導者となり、事実上の神政政治を樹立します。彼の指導の下、フィレンツェでは、賭博や贅沢が禁じられ、同性愛は厳しく罰せられ、女性は質素な服装を強いられました。そのクライマックスが、1497年の「虚飾の焼却」です。ここでは、鏡、化粧品、豪華な衣装、異教的な書物や絵画などが広場に山と積まれ、火が放たれました。しかし、サヴォナローラの厳格すぎる道徳主義と、教皇アレクサンデル六世(ボルジア教皇)の腐敗に対する容赦ない批判は、多くの敵を作りました。教皇から破門され、フィレンツェ市民の支持も次第に失った彼は、1498年に逮捕され、拷問の末に異端者として絞首刑に処せられた後、その遺体はシニョリーア広場で焼かれました。サヴォナローラの運動は、中世的な預言者・道徳改革者の系譜に連なるものであり、ルターのような体系的な神学改革には至りませんでしたが、教皇の権威に公然と反旗を翻し、民衆の力によって一時的とはいえ政治体制を変革した点で、宗教改革の激しい側面を予感させるものでした。
マルティン=ルターとドイツ宗教改革の勃発

1517年10月31日、ドイツの小都市ヴィッテンベルクの大学に所属する一人の無名のアウグスティノ会修道士が、学術的な討論のために提示した神学的な文書が、ヨーロッパ史を永遠に変えることになる大事件の引き金となりました。その人物、マルティン=ルター(1483年=1546年)の個人的な魂の苦悩と、そこからの劇的な解放の体験こそが、宗教改革の原動力でした。
魂の救済を求める苦悩と「塔の体験」

裕福な鉱山業者の息子として生まれたルターは、父親の意向で法律家を目指してエアフルト大学に学びましたが、1505年、激しい雷雨の中で死の恐怖に襲われた際に、「聖アンナ、助けてください。修道士になります」と誓いを立て、父親の猛反対を押し切って、厳格さで知られるアウグスティノ隠修士会の修道院に入りました。しかし、修道院での生活は、彼に平安をもたらしませんでした。彼は、自らの罪深さに対する過敏なまでの意識と、義なる神の裁きに対する絶え間ない恐怖に深く苛まれました。彼は、断食、徹夜の祈り、凍えるような寒さの中での苦行、そして何時間にも及ぶ告解を繰り返しましたが、どれだけ善行を積んでも、神の前に完全な義人として立つことはできないという絶望感から逃れることはできませんでした。彼の霊的な指導者であったヨハン=フォン=シュタウピッツは、この苦悩する若き修道士の才能を見抜き、彼に聖書研究に打ち込むよう勧め、ヴィッテンベルク大学の聖書学教授の職を与えました。詩編、ローマの信徒への手紙、ガラテヤの信徒への手紙などを講義する中で、ルターは、自らを長年苦しめてきた問題の答えを探し求めました。そして、1515年から1518年の間のいずれかの時点、ヴィッテンベルクの修道院の塔の書斎で(とされる)、彼は劇的な神学的発見をします。ローマの信徒への手紙1章17節の「福音には、神の義が啓示されている」という一節を黙想する中で、彼は、ここでいう「神の義」とは、罪人に罰を与える神の「能動的な義」ではなく、信仰によって罪人を義とする、神が恵みとして与えてくださる「受動的な義」であるという真理を悟ったのです。人は、自らの行いや功績によってではなく、ただ、自分のためになされたキリストの贖いの御業を信じる信仰のみによって、神の前に義と認められ、救われる。この「信仰義認(sola fide)」の教理の発見は、ルターにとって、天国の門が開かれるような体験であり、彼の神学全体の、そして宗教改革全体のアルキメデスの点となりました。
贖宥状問題と『九十五か条の論題』

ルターの神学的な発見が、公の論争へと発展する直接のきっかけとなったのが、贖宥状(免罪符)の問題でした。当時、ローマのサン=ピエトロ大聖堂の改築費用を捻出するため、メディチ家出身の教皇レオ十世は、ドイツでの贖宥状の販売を大々的に許可しました。これは、ブランデンブルク選帝侯家のホーエンツォレルン家のアルブレヒトが、マインツ大司教位を含む複数の高位聖職を兼任するために、フッガー家から借り入れた多額の借金を返済するための裏取引でもありました。アルブレヒトは、ドミニコ会修道士ヨハン=テッツェルを説教師として雇い、極めて扇情的なやり方で贖宥状の販売を促進させました。「金貨が箱にチャリンと音を立てて入ると、魂は煉獄から飛び上がる」といった彼の売り文句は、多くの素朴な信徒を惹きつけましたが、真の悔い改めを重視するルターの義憤をかき立てました。ルターにとって、贖宥状は、神の恵みを金で売買する冒涜的な行為であり、人々に、安易な救済への偽りの安心感を与え、キリストの十字架の贖いを無意味にするものでした。1517年10月31日、ルターは、この問題に関する神学的な討論を呼びかけるため、ラテン語で書かれた『贖宥状の効力に関する討論(通称:九十五か条の論題)』を、ヴィッテンベルク城教会の扉に掲示したと伝えられています(この掲示の歴史的真実性については議論があります)。この論題は、教皇の権威を正面から否定するものではありませんでしたが、「教皇は、自らが科した以外のいかなる罰も赦すことはできない」「キリスト者は、真に悔い改めるならば、贖宥状なしに、罰と罪からの完全な赦しを得る」といった主張は、贖宥状ビジネスの根幹を揺るがすものでした。
論争の拡大と教皇への反逆

当初、学内での討論を意図していたルターの論題は、彼の意図を超えて、印刷技術によってドイツ語に翻訳され、わずか数週間のうちにドイツ全土に燎原の火のように広まり、熱狂的な支持と激しい反発の両方を巻き起こしました。教皇庁は、当初これを「一修道士のいさかい」と軽視していましたが、事態の深刻さを認識すると、ルターにローマへの出頭を命じます。しかし、ルターの庇護者であったザクセン選帝侯フリードリヒ賢公の政治的な配慮により、審問は1518年にドイツのアウクスブルクで、教皇特使カエタン枢機卿によって行われることになりました。ここでルターは、自説の撤回を拒否し、教皇の権威よりも聖書の権威が優先すると示唆しました。翌1519年、ライプツィヒで、当代随一の神学者ヨハン=エックとの公開討論が行われ、ルターは、エックの巧みな誘導尋問によって、かつてコンスタンツ公会議で異端とされたヤン=フスの主張にも正しいものがあったと認めさせられ、公会議もまた誤りうることを公言してしまいます。これは、教皇だけでなく、公会議の権威さえも否定する、決定的な一線を超える発言でした。もはや後戻りできなくなったルターは、1520年に、彼の思想の核心を示す三つの重要な文書、『ドイツ国民のキリスト教貴族に与う』『教会のバビロニア捕囚』『キリスト者の自由』を矢継ぎ早に発表します。第一の文書では、聖職者と平信徒の間に霊的な身分差はないとする「万人祭司」の教理を説き、ドイツの諸侯に、教会の改革を自らの手で行うよう呼びかけました。第二の文書では、カトリック教会の七つの秘跡(サクラメント)を、聖書に明確な根拠があるのは洗礼と聖餐のみであるとして、他の五つ(堅信、告解、叙階、婚姻、終油)を、教会が信徒を捕らえている「バビロン捕囚」であると断じました。第三の文書では、「キリスト者は、すべてのものの上に立つ自由な主人であり、何人にも従属しない。キリスト者は、すべてのものに仕える僕であり、何人にも従属する」という逆説的な言葉で、信仰によって義とされた者が、律法から解放されると同時に、隣人への愛の奉仕へと向かうという、福音的な倫理の核心を明らかにしました。これらの文書は、ローマに対する完全な決別宣言であり、これを受けて、教皇庁は、1521年1月、ついにルターを最終的に破門する教皇勅書を発布しました。ルターは、ヴィッテンベルクの学生たちの前で、この教皇勅書と教会法典を公然と燃やし、自らの不退転の決意を示したのです。
ヴォルムス帝国議会と聖書翻訳という革命

破門されたルターの処遇は、もはや単なる教会内の問題ではなく、神聖ローマ帝国全体の政治問題となりました。1521年、新たに即位した若き皇帝カール五世は、ヴォルムスで帝国議会を招集し、ルターを召喚しました。これは、一人の修道士と、ヨーロッパ最大の権力者である皇帝、そして帝国の諸侯たちが直接対峙する、歴史の転換点となる劇的な舞台でした。
「我ここに立つ」=良心の宣言

皇帝カール五世は、広大なハプスブルク家の領土(スペイン、ネーデルラント、南イタリア、そして新大陸)を相続し、敬虔なカトリック教徒として、帝国の宗教的統一を守ることを自らの使命と考えていました。彼は、ルターに、フリードリヒ賢公が取り付けた身の安全の保障を与え、議会への出頭を命じました。友人たちは、ヤン=フスの二の舞になることを恐れて反対しましたが、ルターは「たとえヴォルムスの屋根瓦と同じ数の悪魔がいようとも、私はそこへ行く」と決意を固めていました。1521年4月17日、議会の前に立ったルターの前に、彼の著作が山と積まれ、それらを撤回するか否かを問われました。彼は、一日の猶予を求め、翌18日、再び議会に臨みました。そして、ラテン語とドイツ語で、歴史に残る力強い言葉を述べました。「聖書の証言と明白な理性によって私の誤りが論証されない限り、私は、私が引用した聖書に縛られています。私の良心は、神の言葉に捉えられています。私は何も撤回することはできませんし、するつもりもありません。なぜなら、良心に反して行動することは、安全でもなければ、正しいことでもないからです。私はここに立つ。他になしあたわない。神よ、我を助けたまえ。アーメン」。この良心の宣言は、中世的な権威(教皇と公会議)に対する、近代的な個人の主体性の確立を告げる画期的な瞬間でした。皇帝カール五世は、この頑なな修道士の態度に憤慨し、翌日、ルターを異端者として断罪し、帝国の法益保護外に置くことを宣言する勅令(ヴォルムス勅令)を発布しました。これにより、ルターの著作は禁書とされ、彼を殺害しても罪に問われないことになり、その生命は風前の灯火となりました。
ヴァルトブルク城での翻訳事業

しかし、ルターには強力な庇護者がいました。ザクセン選帝侯フリードリヒ賢公は、自らが創設したヴィッテンベルク大学の教授であるルターを政治的に利用価値があると考えており、また、その信仰の真摯さに心打たれていました。彼は、ヴォルムスからの帰途にあったルターを、偽の襲撃によって「誘拐」させ、テューリンゲンの森の奥深くにあるヴァルトブルク城へと密かに匿いました。ルターは、そこで「ユンカー=イェルク(騎士ゲオルク)」という偽名を名乗り、髪と髭を伸ばして変装し、約十か月間にわたる孤独な隠遁生活を送ることになります。この強制された静寂の中で、ルターは、宗教改革における最も偉大で永続的な仕事の一つに着手しました。それは、新約聖書のドイツ語への翻訳です。彼は、エラスムスが出版したギリシャ語新約聖書の第二版を底本とし、驚くべき集中力で、わずか十一週間という短期間で、新約聖書全体の翻訳を完成させました。これは、単なる学術的な翻訳ではありませんでした。ルターは、学者だけでなく、家庭の母親や、市場の商人、子供たちにも理解できるような、生き生きとした、力強く、そして口語的なドイツ語を目指しました。彼は、ザクセンの宮廷で話されていた言葉を基礎としながら、ドイツ各地の方言からも言葉を採り入れ、まさに新しいドイツ語を創造したのです。1522年9月に出版されたこの「九月聖書」は、印刷術のおかげで爆発的に普及し、ドイツ国民が初めて母国語で直接神の言葉に触れることを可能にしました。それは、聖職者による聖書の独占を打ち破り、「万人祭司」の理念を具現化する、真に革命的な出来事でした。このルター聖書は、ドイツのプロテスタントの信仰と文化の礎となっただけでなく、多様な方言に分かれていたドイツ語を統一し、近代的な標準ドイツ語を形成する上で、計り知れない貢献をしました。
ヴィッテンベルクの混乱と秩序の回復

ルターがヴァルトブルク城に隠れている間、ヴィッテンベルクでは、宗教改革が、彼の意図を超えて急進化していました。彼の同僚であったアンドレアス=ボーデンシュタイン=フォン=カールシュタットや、ツヴィッカウから来た終末論的な預言者たち(ツヴィッカウ預言者)の影響の下で、ミサの廃止、聖像や祭壇の破壊(聖像破壊運動)、聖職者の結婚などが、暴力的な形で強行され、市は混乱状態に陥りました。この知らせを受けたルターは、自らの改革が、無秩序と暴動に堕することを深く憂慮し、1522年3月、身の危険を冒してヴィッテンベルクに帰還します。彼は、八日間にわたる連続説教を行い、性急な改革を進める人々を、「信仰の弱い兄弟」への愛が欠けていると批判し、福音は、強制ではなく、言葉の力によって人々の心を変えるべきであると説き、巧みに秩序を回復させました。この出来事は、ルターが、単なる革命家ではなく、教会の秩序と信徒の魂の救済に責任を負う、牧会者としての側面を持っていたことを示しています。彼は、改革のペースを、民衆がついてこられる速度に調整する必要があると考え、ミサの形式を部分的に残すなど、穏健な改革路線を選択しました。しかし、この彼の態度は、より急進的な改革者たちとの間に、最初の亀裂を生む原因ともなりました。
ドイツ農民戦争と領邦教会制の確立

ルターが解き放った「キリスト者の自由」という福音のメッセージは、彼が意図した霊的な意味合いを超えて、社会的な次元で解釈され、長年にわたって過酷な封建的抑圧に苦しんできた農民たちの間に、解放への期待を燃え上がらせました。その結果、1524年から1525年にかけて、ドイツ南部から中部にかけて、宗教改革期における最大かつ最も悲惨な社会的動乱であるドイツ農民戦争が勃発しました。
農民たちの要求と「福音の自由」

中世末期のドイツの農民たちは、人口増加と領主による支配の強化の中で、地代の引き上げ、賦役の増加、そしてかつて共同で使用できた森林や牧草地、漁場といったコモンズの私有化などによって、その生活はますます困窮していました。彼らは、ルターの「万人祭司」や「福音の自由」といった言葉を、聖職者による霊的な支配からの解放だけでなく、封建領主による社会経済的な搾取からの解放を正当化する福音であると受け取りました。各地で結成された農民の反乱軍は、シュヴァーベン地方の農民たちが起草したとされる『十二か条』を、その共通の要求書として掲げました。この文書は、単なる経済的要求の羅列ではなく、そのすべての要求を「神の言葉」である聖書によって正当化しようとしている点で、宗教改革の強い影響を示しています。彼らは、自分たちの共同体で牧師を自由に選任・罷免する権利、十分の一税を共同体のために用いること、農奴制の廃止(キリストがその血によって我々すべてを解放されたのだから)、そして森林や漁場などの共有地を共同体に取り戻すことなどを要求しました。彼らは、これらの要求が聖書に合致しないと証明されるならば、喜んでそれを取り下げるとさえ述べており、その運動の根底に、宗教的な正義感があったことを示しています。
ルターの態度の変化と反乱の悲劇的結末

当初、ルターは、農民たちの苦境に同情を示し、彼らの要求の多くは正当であると認め、『平和への勧告』と題する文書で、諸侯たちに、その強欲と圧政を改めるよう強く求めました。しかし同時に、彼は農民たちに対しても、福音を世俗的な事柄と混同し、暴力に訴えることを厳しく戒めました。彼は、キリスト者の自由とは内面的な霊的自由であり、社会的な身分や秩序を覆すための口実ではないと主張しました。しかし、彼の仲裁の試みは、双方から無視されました。急進的な説教師トマス=ミュンツァーらに煽られた農民反乱は、次第に過激化し、各地で城や修道院を襲撃し、略奪や殺戮を行うようになりました。この暴力の拡大に衝撃を受けたルターは、態度を百八十度転換させます。1525年5月、彼は『盗み殺す農民の徒党に対して』と題する、極めて激しい口調のパンフレットを発表しました。その中で彼は、反乱農民を「狂犬」と呼び、彼らが神と人間の秩序を破壊する悪魔の手先であると断じ、諸侯たちに対して、「誰でもできる者は、彼らを打ち、絞め殺し、刺し殺せ。公然と、あるいは密かに」と、容赦ない武力鎮圧を呼びかけました。このルターの過激な言葉に後押しされるまでもなく、シュヴァーベン同盟をはじめとする諸侯の軍隊は、装備も訓練も劣る農民軍を圧倒し、各地で凄惨な殺戮を繰り広げました。フランケンハウゼンの戦いでミュンツァーが捕らえられ処刑されるなど、反乱は徹底的に鎮圧され、一説には十万人以上もの農民が命を落としたと言われています。このドイツ農民戦争の悲劇的な結末は、宗教改革の進路に決定的な影響を与えました。ルターは、多くの農民から裏切り者と見なされ、民衆運動の指導者としてのカリスマを失いました。そして、彼は、改革の将来を、もはや民衆の自発的な力にではなく、秩序を維持する責任を負う世俗の権力者、すなわち領邦君主たちに託すようになります。この結果、ドイツにおけるルター派の宗教改革は、君主がその領内の教会の首長(首長司教)となり、教会の組織、財産、礼拝、教義を管理する「領邦教会制」として制度化されていくことになりました。宗教改革は、民衆の解放運動から、諸侯による領邦国家建設の道具へと、その性格を大きく変えていったのです。
プロテスタントの誕生とアウクスブルク信仰告白

農民戦争後、神聖ローマ帝国内の宗教問題は、皇帝と諸侯との間の政治的な駆け引きの様相を強めていきました。皇帝カール五世は、フランス王フランソワ一世とのイタリア戦争や、東方からのオスマン帝国の脅威といった対外的な問題に忙殺され、ドイツ国内のルター派の問題に集中的に取り組むことができませんでした。1526年の第一回シュパイアー帝国議会では、ヴォルムス勅令の執行を各領邦の判断に委ねるという決定がなされ、ルター派の諸侯は、これを好機として、自領内での教会改革を公然と進めました。しかし、皇帝がフランスとの戦争に勝利すると、1529年の第二回シュパイアー帝国議会で、この決定を覆し、カトリックの立場を再確認しようとします。これに対し、ザクセン選帝侯やヘッセン方伯をはじめとするルター派の五人の諸侯と十四の帝国都市は、この決定に対する公式な「抗議書(Protestatio)」を提出しました。この行動から、彼ら改革派は「プロテスタント」と呼ばれるようになります。これは、単なる神学的な異議申し立てではなく、皇帝の権威に対する、帝国諸侯の政治的な抵抗の表明でもありました。翌1530年、カール五世は、帝国の宗教的統一を回復するため、アウクスブルクで帝国議会を招集し、プロテスタント側に、その信仰箇条を提出するよう命じました。これに応えて、ルターの腹心であり、人文主義的な教養を持つ穏健な神学者フィリップ=メランヒトンが中心となって起草したのが、『アウクスブルク信仰告白』です。この文書は、ルター派の教義が、カトリック教会から逸脱した新しい教えではなく、むしろ古代教会の真の信仰を回復するものであることを、可能な限り穏健な言葉で論証しようと試みたものです。信仰義認、聖書のみ、万人祭司といったルター派の核心的な教理を明確に述べつつも、カトリック側との共通点を強調し、和解の可能性を探る意図がありました。しかし、カトリック側の神学者たちは、これを『反駁書』によって退け、皇帝も信仰告白を異端として拒絶しました。和解の試みは失敗に終わり、プロテスタント諸侯は、皇帝による武力弾圧の脅威に対抗するため、1531年に軍事同盟である「シュマルカルデン同盟」を結成し、神聖ローマ帝国内の宗教的対立は、武力衝突の危機をはらみながら、新たな段階へと入っていきました。
改革の多様な展開=スイス、フランス、そして急進派

ルターの宗教改革がドイツで進行するのとほぼ同時期に、あるいはその影響を受けながら、ヨーロッパ各地で、それぞれ異なる特徴を持つ多様な改革運動が展開されました。特に、スイスの都市国家群は、ドイツとは異なる、より合理的で急進的な改革の温床となり、そこから生まれたカルヴァン主義は、やがてルター派と並ぶ、あるいはそれ以上の国際的な影響力を持つプロテスタントの一大潮流となっていきます。
フルドリッヒ=ツヴィングリとチューリッヒの改革

スイスにおける宗教改革の先駆者は、チューリッヒの聖堂説教師であったフルドリッヒ=ツヴィングリ(1484年=1531年)です。ルターとほぼ同世代ですが、彼は、ルターのような内面的な魂の苦悩を経てではなく、エラスムス流の人文主義者として聖書を研究する中で、教会の改革の必要性を確信するに至りました。彼の改革は、ルターよりも合理的かつ急進的であり、「聖書に書かれていないものは、すべて排除する」という厳格な聖書主義をその原則としました。1523年、彼はチューリッヒ市参事会の前で、自らの教えの正当性を主張する『六十七か条』を提示し、公開討論でカトリック側の代表を論破しました。この討論の勝利を受けて、市参事会はツヴィングリの改革案を全面的に支持し、チューリッヒの教会改革は、ルター派のような領邦君主の主導ではなく、都市の市民共同体の決定として進められました。彼の指導の下、聖職者の結婚が認められ、修道院は閉鎖されて学校や施療院に転用され、そしてミサは、説教を中心とする簡素な礼拝形式に置き換えられました。特に、聖画像や聖遺物、祭壇、パイプオルガンなどは、偶像崇拝につながるものとして、教会から徹底的に撤去されました。この点で、カトリックの儀式の一部を保持したルター派とは、明確な対照をなしています。しかし、このスイスの改革者とドイツの改革者の間の決定的な分裂点となったのが、聖餐(聖体拝領)の解釈をめぐる問題でした。ルターは、カトリックの聖変化(実体変化)の教義は否定したものの、聖餐のパンとワインの中に、キリストの体が「共に、下に、そしてその内に」真に実在するという「共在説」を固く信じていました。これに対し、ツヴィングリは、より合理主義的な立場から、キリストは天に昇って父なる神の右に座しているのだから、物理的に聖餐に臨在することはありえないと考え、「これは私の体である」というキリストの言葉は、「これは私の体を象徴する(意味する)」と解釈すべきであると主張しました。彼にとって、聖餐は、キリストの死を記念し、信徒の信仰を公に告白するための象徴的な儀式に過ぎませんでした。プロテスタント勢力の政治的結束を図ろうとしたヘッセン方伯フィリップの仲介で、1529年にマールブルクで、ルターとツヴィングリの直接会談(マールブルク会談)が持たれましたが、この聖餐論において、両者は合意に達することができませんでした。ルターは、ツヴィングリの差し出した和解の手を「あなた方は我々とは異なる霊を持っている」と言って拒絶し、プロテスタント内部の最初の大きな分裂が決定的なものとなりました。この神学的な対立は、スイス内部の政治的な対立とも結びつき、1531年、カトリック州とのカッペルの戦いで、ツヴィングリは陣頭に立って戦い、戦死するという悲劇的な最期を遂げました。
再洗礼派(アナバプテスト)

ツヴィングリの改革でさえ、まだ生ぬるいと考える、さらに急進的なグループが、彼の弟子たちの中から現れました。コンラート=グレベルやフェリクス=マンツらを中心とするこのグループは、新約聖書には幼児洗礼の明確な根拠がなく、洗礼は、自覚的な信仰告白に基づいて、成人になってから受けるべきであると主張しました。彼らは、互いに再び洗礼を授け合ったことから、敵対者たちから「再洗礼派(アナバプテスト)」と呼ばれました。彼らの主張の核心は、教会とは、世俗社会から分離された、真の信仰告白をした聖徒たちのみからなる、純粋な共同体であるべきだという分離主義的な教会観にありました。彼らは、国家と教会のいかなる結びつきも否定し、世俗の権力への服従を拒否し、武器を取ることや誓いを立てることを、山上の垂訓の教えに反するとして拒絶する、徹底した平和主義を唱えました。このような彼らの思想は、国家の権威そのものを揺るがす危険なものと見なされ、カトリック、ルター派、ツヴィングリ派といった、すべての主流派から、最も過激で危険な異端として、容赦ない迫害の対象となりました。チューリッヒでは、マンツが溺死刑に処せられ(「洗礼を受けたいなら、水の中で受けさせてやろう」という残酷な皮肉)、ヨーロッパ中で、何千人もの再洗礼派の人々が火刑や水刑によって殉教しました。迫害の中で、一部のグループは千年王国思想に傾倒し、1534年には、ヤン=マティスやボッケルソンのヤンといった指導者の下で、ドイツ北西部の都市ミュンスターを占拠し、そこを「新しいエルサレム」とする神権政治を樹立しました。彼らは、財産の共有や一夫多妻制を強行するなど、極端な行動に走りましたが、この「ミュンスター王国」は、カトリックとプロテスタントの連合軍によって包囲され、凄惨な殺戮の末に崩壊しました。この事件は、再洗礼派全体の評判を著しく傷つけましたが、元カトリック司祭のメノ=シモンズのような穏健な指導者の下で再編されたグループは、厳格な平和主義と共同体主義を貫き、後のメノナイトやアーミッシュといった教派の源流となっていきました。
ジャン=カルヴァンとジュネーヴの神政政治

宗教改革の第二世代を代表し、その思想を最も体系的に構築して、国際的な運動へと発展させたのが、フランス出身の神学者ジャン=カルヴァン(1509年=1564年)です。法律家としての訓練を受けた明晰な頭脳を持つ彼は、1533年頃にプロテスタント信仰に回心し、フランスでの迫害を逃れてスイスのバーゼルに亡命しました。そこで彼は、1536年に、プロテスタント神学の金字塔となる主著『キリスト教綱要』の初版を出版します。この書物は、当初、迫害されているフランスのプロテスタントの信仰を弁護するための手引書として書かれましたが、カルヴァンは生涯をかけて改訂を重ね、最終的には、旧新約聖書の深い知識に基づき、神学のあらゆる主題を網羅した、壮大で論理的な体系を持つ大著へと発展させました。カルヴァン神学の中心にあるのは、神の絶対的な主権と栄光という思想です。そこから導き出されるのが、彼の名と最も結びつけられている「予定説(二重予定説)」です。これは、神が、その永遠の昔からの自由な選びによって、ある人々を救い(選び)に、また他の人々を滅び(遺棄)に、あらかじめ定めているという教理です。この教理は、人間の自由意志を否定する厳しいものに聞こえますが、カルヴァンにとっては、救いが人間の功績や努力に一切よらず、ただ神の恵みのみによるものであることを保証する、最大の慰めに満ちた教理でした。1536年、旅行の途中で偶然立ち寄ったジュネーヴで、彼は、改革指導者のギヨーム=ファレルから、半ば脅迫されるような形で、その町の宗教改革に協力するよう要請されます。一度は厳格すぎる改革案が原因で追放されるものの、1541年にジュネーヴ市民の懇願によって呼び戻されたカルヴァンは、その後、死ぬまでの二十年以上にわたって、この都市を、自らの神学的理念に基づいた模範的なキリスト教共同体へと作り変えることに生涯を捧げました。彼は、『教会規定』を制定し、牧師(説教と秘跡)、教師(教理教育)、長老(信徒の規律監督)、執事(慈善事業)という四つの職務分担に基づく、長老制の教会統治システムを確立しました。特に、牧師と長老からなる「コンシストリー(教会会議)」は、市民の信仰生活だけでなく、賭博、ダンス、贅沢、演劇といった私的な道徳生活の隅々にまで、厳しい監督の目を光らせました。神学者ミシェル=セルヴェが、三位一体を否定したかどでジュネーヴで火刑に処せられた事件(1553年)は、カルヴァンの不寛容さを示す例としてしばしば挙げられます。彼の指導の下、ジュネーヴは、ヨーロッパ各地から迫害を逃れてきたプロテスタントたちの避難所となると同時に、彼らを牧師として訓練し、母国へと送り出す国際的なプロテスタント運動の拠点、いわば「プロテスタントのローマ」となりました。カルヴァンの思想と教会制度は、フランスのユグノー、ネーデルラントのゴイセン、スコットランドの長老派(プレスビテリアン)、イングランドのピューリタンなど、ヨーロッパ各地の最も戦闘的で活動的なプロテスタントのグループに受け継がれ、近代の政治や経済の発展にも、間接的ながら大きな影響を与えていくことになります。
イングランド国教会の成立

大陸の宗教改革が、ルターの魂の苦悩やカルヴァンの神学的体系といった、主に宗教的な動機から始まったのに対し、イングランドにおける宗教改革は、国王ヘンリー八世(在位1509年=1547年)の離婚問題という、極めて個人的かつ政治的な事情から始まりました。その結果、イングランドは、大陸のいずれの宗派とも異なる、カトリックとプロテスタントの中間的な性格を持つ、独自の国民教会を形成していくことになります。
ヘンリー八世の「大問題」とローマからの分離

若き日のヘンリー八世は、敬虔なカトリック教徒であり、ルターの教えを批判する『七つの秘跡の擁護』を著して、教皇レオ十世から「信仰の擁護者」という称号を授けられたほどでした。しかし、彼の関心は、テューダー朝の安泰を保証する男子の世継ぎをもうけることにありました。彼の王妃、キャサリン=オブ=アラゴン(スペイン出身で、皇帝カール五世の叔母)は、多くの死産や夭折の末、娘メアリー(後のメアリー一世)を産んだのみで、もはや男子を産む見込みはありませんでした。ヘンリーは、これが、兄の未亡人と結婚したことに対する神の罰であると信じ込むようになり、また、若く魅力的な女官アン=ブーリンに心を奪われていました。彼は、教皇クレメンス七世に対し、キャサリンとの婚姻は、そもそもレビ記の規定に反して無効であったと宣言するよう求めました。これが、彼の「大問題」です。しかし、教皇は、カール五世の政治的圧力を恐れて、この婚姻無効を許可することができませんでした。何年にもわたる交渉が不調に終わると、業を煮やしたヘンリーは、大法官トマス=クロムウェルや、新たにカンタベリー大主教に任命したトマス=クランマーといった側近の助言を受け、イングランドの教会をローマ教皇の支配から完全に切り離すという、前代未聞の手段に打って出ます。1533年、クランマーは、イングランドの教会法廷でヘンリーとキャサリンの婚姻の無効を宣言し、ヘンリーは密かに結婚していたアン=ブーリンを正式な王妃としました。これに対し、教皇がヘンリーを破門すると、イングランド議会は、1534年に、歴史的な「国王至上法(首長令)」を可決します。これは、イングランド国王が「イングランド国教会(アングリカン=チャーチ)の地上における唯一最高の首長」であると宣言するものであり、教皇の権威に対する完全な反逆でした。この決定に良心上従うことを拒否した、前大法官で高名な人文主義者であったトマス=モアや、フィッシャー司教らは、反逆罪で処刑されました。
修道院の解散と教義なき改革

ローマからの分離を断行したクロムウェルは、次に、王室財政を強化するため、イングランド全土に広がる修道院の解体に着手しました。1536年から1540年にかけて、大小すべての修道院が強制的に解散させられ、その莫大な土地と財産は王領に没収されました。この土地の多くは、ジェントリ(郷紳)と呼ばれる地方の有力者層に安価で払い下げられ、彼らをテューダー朝と新しい教会体制の強力な支持者に変えました。しかし、この一連の改革は、あくまで政治的・財政的なものであり、ヘンリー八世自身は、神学的には依然として保守的なカトリックでした。彼は、プロテスタントの教義が国内に広まることを望んでおらず、1539年には、聖変化、聖職者の独身制、信徒への片形態色などを再確認する、カトリック的な『六か条法』を制定させました。ヘンリーの治世下におけるイングランド国教会は、首長が教皇から国王に代わっただけで、その教義や礼拝の形式は、多くの点でカトリックのままであり、「カトリシズムから教皇を除いたもの」と評される、奇妙な状態にありました。
エドワード六世のプロテスタント改革とメアリー一世の反動

ヘンリー八世が1547年に死去し、アン=ブーリンとの間に生まれたわけではなく、三番目の妃ジェーン=シーモアが産んだ、わずか九歳の息子エドワード六世が即位すると、イングランドの宗教事情は一変します。幼い王に代わって政治を主導した摂政サマセット公やノーサンバーランド公は、プロテスタントに深く傾倒しており、カンタベリー大主教トマス=クランマーの指導の下で、本格的なプロテスタント改革が断行されました。クランマーは、大陸の改革者たちの影響を受けつつも、イングランド独自の美しい典礼文を持つ『共通祈祷書』を制定し(1549年、改訂1552年)、ラテン語のミサに代わって、英語による礼拝を義務付けました。祭壇は木製のテーブルに替えられ、聖職者の結婚が合法化され、教義も明確にプロテスタント的なものへと移行しました。しかし、この急進的な改革は、1553年にエドワードが若くして病死したことで、突如として終わりを告げます。王位を継いだのは、ヘンリー八世と最初の王妃キャサリンとの間に生まれた、熱心なカトリック教徒であるメアリー一世でした。彼女は、自らの母を苦しめ、自らを庶子へと追いやった宗教改革を深く憎んでおり、イングランドをローマ=カトリック教会に復帰させることを生涯の使命としました。国王至上法は撤廃され、教皇への服従が回復され、ヘンリー八世時代の法律が復活しました。そして、プロテスタントに対する激しい迫害が始まりました。クランマー、ラティマー、リドリーといった高名な指導者を含む、約三百人ものプロテスタントが、異端者として火刑に処せられました。この過酷な弾圧は、彼女に「血まみれのメアリー(Bloody Mary)」という不名誉な渾名をもたらしましたが、皮肉なことに、殉教者たちの英雄的な死は、国民の間に反カトリック・反スペイン感情を植え付け、プロテスタントの理念を、イングランド人のナショナリズムと結びつける結果となりました。
エリザベスの「中道」と国教会の確立

1558年、子供のないままメアリーが死去し、ヘンリー八世とアン=ブーリンの娘であるエリザベス一世(在位1558年=1603年)が即位すると、イングランドは再びプロテスタントの国へと舵を切ります。しかし、エリザベスは、異母姉メアリーのような宗教的狂信者ではなく、極めて現実的な政治家でした。彼女の最大の関心事は、宗教的な内乱を避け、国家の統一と安定を維持することにありました。彼女は、カトリックと、大陸から帰国した急進的なプロテスタント(後のピューリタン)という両極端の間に、巧みな妥協点を見出そうとしました。これが、「エリザベスの宗教的解決」として知られる一連の政策です。1559年、新たな「国王至上法」が制定され、女王がイングランド国教会の「最高統治者」であると宣言されました(「最高の首長」というより穏やかな表現が用いられた)。また、「礼拝統一法」によって、エドワード六世時代の『共通祈祷書』を、わずかに修正した上で、再び国中で使用することが義務付けられました。このエリザベス朝の国教会は、その教義においては、穏健なカルヴァン主義の影響を受けたプロテスタント的なものでしたが(『三十九か条』に明記)、その組織においては、大主教や司教といった、カトリック時代から続く階層的な司教制を維持し、礼拝の儀式においても、聖職者の祭服など、多くの伝統的な要素を残しました。この「中道(ヴィア=メディア)」と呼ばれる折衷的なあり方は、すべての国民を満足させるものではありませんでした。ローマ教皇はエリザベスを破門し、カトリック教徒に彼女への服従義務を解き、国内のカトリック教徒は潜在的な反逆者と見なされました。一方、教会からカトリック的な要素を完全に一掃し、ジュネーヴのような純粋な改革を求めるピューリタンたちは、この妥協的な教会体制に不満を抱き、後のイングランド史における大きな対立の火種となっていきます。しかし、エリザベスの長く安定した治世を通じて、この独特のイングランド国教会は、国民の間に深く根を下ろし、イングランドのナショナル=アイデンティティの核心的な部分を形成していくことになったのです。
カトリック改革と宗教戦争の時代

プロテスタントの挑戦がヨーロッパ全土に広がる中で、カトリック教会は、単にそれを弾圧するだけでなく、自らの内部に存在する腐敗を是正し、教義を再確認し、失われた人心を取り戻すための、大規模な自己改革運動を開始しました。これは、プロテスタントの改革に対抗するという側面から「対抗宗教改革」と呼ばれることもありますが、プロテスタント運動とは独立した、カトリック内部からの刷新の動きも含まれており、より中立的な「カトリック改革」という用語が用いられることもあります。この改革の努力にもかかわらず、十六世紀後半から十七世紀前半にかけて、ヨーロッパは、信仰の名の下に血で血を洗う、悲惨な宗教戦争の時代へと突入していきます。
カトリック改革の担い手たち=イエズス会とトリエント公会議

カトリック改革の最も強力な原動力となったのが、1540年に教皇の認可を受けた新しい修道会、イエズス会(イエスズ会)です。その創設者は、バスク地方の貴族出身の元軍人、イグナティウス=デ=ロヨラ(1491年=1556年)です。彼は、戦闘で負った重傷の療養中に読んだキリスト伝や聖人伝に感銘を受けて回心し、自らを「キリストの兵士」として神に捧げることを決意しました。彼が著した『霊操』は、四週間にわたる瞑想と祈りを通じて、神の御心を識別し、自己を完全に神に捧げるための、実践的な霊的訓練の書です。イエズス会は、教皇への絶対的な服従、厳格な規律、そして高度な教育をその特徴とし、プロテスタントとの神学論争、王侯の聴罪司祭としての政治的影響力の行使、そして質の高い学校教育を通じて、ヨーロッパにおけるプロテスタントの拡大を食い止め、南ドイツやポーランドなどを再カトリック化する上で、絶大な効果を発揮しました。また、フランシスコ=ザビエルに代表されるように、彼らは、南北アメリカ大陸やアジアへの海外布教においても、先駆的な役割を果たしました。カトリック改革の神学的な頂点をなすのが、1545年から1563年にかけて、北イタリアのトリエント(トレント)で、中断を挟みながら断続的に開催されたトリエント公会議です。この公会議は、当初はプロテスタントとの和解も視野に入れていましたが、最終的には、プロテスタントの教義を明確に異端として断罪し、カトリックの伝統的な教義を再確認する場となりました。信仰義認に対しては、救いにおける人間の自由意志と善行の協力を強調し、聖書のみの原則に対しては、聖書と並んで教会の聖伝も同等の権威を持つと定め、秘跡は七つすべてがキリストによって制定された有効なものであると宣言しました。同時に、公会議は、教会内部の腐敗を是正するための、具体的な改革規定も定めました。聖職売買や聖職禄の複数所有は厳しく禁じられ、すべての司教は自らの教区に居住することが義務付けられ、また、聖職者の教育水準を高めるために、各教区に神学校(セミナリオ)を設立することが決定されました。このトリエント公会議によって、カトリック教会は、中世的な多様性を整理し、教義と規律を中央集権的に統一した、近代的で戦闘的な組織へと生まれ変わったのです。この改革と並行して、異端を取り締まるための手段も強化されました。ローマ異端審問所が再編され、ガリレオ=ガリレイの裁判などで知られるように、思想統制の強力な機関となりました。また、信徒に有害と見なされた書物のリストである『禁書目録』が作成され、印刷物の検閲が体系化されました。
フランスのユグノー戦争

十六世紀後半のフランスは、カトリックと、カルヴァン派のプロテスタントである「ユグノー」との間の、約三十年以上にわたる、血塗られた内戦(ユグノー戦争、1562年=1598年)の舞台となりました。ユグノーは、人口では少数派でしたが、貴族階級や都市の商工業者に多くの信者を獲得し、強力な政治勢力を形成していました。この宗教的対立は、国王アンリ二世の事故死後、幼い王たちが続いたことで弱体化したヴァロワ王家の王権をめぐる、ギーズ公爵家(カトリックの首領)とブルボン家(ユグノーの首領)といった大貴族間の権力闘争と複雑に絡み合っていました。戦争は、断続的な和平と戦闘を繰り返しながら泥沼化し、その過程で、1572年8月24日の「サン=バルテルミの虐殺」という最悪の悲劇が起こります。ユグノーの指導者であったナバラ王アンリ(ブルボン家)と、国王シャルル九世の妹マルグリットとの結婚式のために、パリに集まっていたユグノーの貴族たちが、国王の母カトリーヌ=ド=メディシスの黙認の下、ギーズ公らによってだまし討ちにされ、数千人が虐殺されました。この虐殺は、フランス全土に広がり、数週間のうちに、数万人ものユグノーが殺害されたと言われています。この事件は、ユグノーの抵抗をより頑ななものにし、戦争はさらに激化しました。最終的に、ヴァロワ王家が断絶し、ユグノーの指導者であったナバラ王アンリが、アンリ四世として王位を継承する資格を得ます。彼は、「パリはミサを執り行うに値する」という有名な言葉を残して、国民の大多数が信仰するカトリックに改宗するという、現実的な政治決断を下し、1594年にパリに入城して、内戦を終結させました。そして1598年、アンリ四世は「ナントの勅令」を発布します。これは、カトリックをフランスの国家宗教と定めつつも、ユグノーに対して、特定の地域における礼拝の自由や、公職に就く権利など、大幅な信教の自由と市民権を保障するものでした。これは、一個人の良心の自由を認めたものではありませんでしたが、一つの国家の中に、異なる宗派が共存することを法的に認めた、画期的な布告であり、寛容の精神の先駆けと見なされています。
ネーデルラントの独立戦争

ネーデルラント(現在のオランダ、ベルギー、ルクセンブルク)は、ヨーロッパで最も商業が発達し、都市の自治の伝統が強い地域でした。この地は、ハプスブルク家のスペイン王フェリペ二世の所領でしたが、彼は、熱烈なカトリック教徒として、この地に広まりつつあったカルヴァン主義を根絶しようと、異端審問を強化し、現地の貴族の特権を無視して、中央集権的な統治を強行しました。これに対し、オラニエ公ウィレム(沈黙公)らに率いられたネーデルラントの貴族や民衆は、宗教の自由と政治的な自治を求めて、1568年にスペインに対する反乱を開始しました。これが、八十年戦争とも呼ばれる、長く苦しい独立戦争の始まりです。戦争の初期、フェリペ二世が派遣したアルバ公は、「血の評議会」を設置して、数千人を処刑するなど、恐怖政治によって反乱を鎮圧しようとしましたが、かえって抵抗を激化させる結果となりました。特に、海上ゲリラとして活躍した「海の乞食団(ゼーゴイセン)」は、スペインの補給路を脅かし、反乱の重要な戦力となりました。戦争の過程で、ネーデルラントは、カトリックが優勢な南部の諸州(後のベルギー)と、カルヴァン派が多数を占める北部の七州に分裂していきます。1579年、北部七州は、ユトレヒト同盟を結んで、スペインからの独立をかけて戦い続けることを誓い、1581年には、フェリペ二世の統治権を正式に否認する独立宣言を発布しました。オラニエ公ウィレムが暗殺されるなどの危機を乗り越え、イングランドの支援も受けながら、事実上の独立を達成した北部七州は、オランダ連邦共和国として、十七世紀には、海洋貿易と金融でヨーロッパの経済的覇権を握り、アムステルダムは、宗教的寛容を求めて各地から亡命してきた人々が集まる、国際的な文化の中心地として繁栄しました。
三十年戦争とヴェストファーレン条約

宗教改革が引き起こした対立の時代の、最終的かつ最大の破局が、1618年から1648年にかけて、神聖ローマ帝国(主にドイツ)を主戦場として繰り広げられた、三十年戦争です。この戦争は、ヨーロッパ史上でも最も破壊的な紛争の一つであり、その発端は宗教的な対立にありましたが、次第にハプスブルク家と反ハプスブルク勢力(特にフランス)との間の、ヨーロッパの覇権をめぐる政治的な戦争へとその性格を変えていきました。
戦争の直接の引き金となったのは、1618年に、神聖ローマ帝国内のボヘミア王国で起こった事件です。ハプスブルク家出身の熱心なカトリック教徒であるフェルディナントがボヘミア王となると、彼は、フス戦争以来の伝統を持つプロテスタントの権利を制限しようとしました。これに反発したプロテスタントの貴族たちが、プラハ城で国王の役人たちを窓から突き落とすという「プラハ窓外放出事件」を起こし、反乱の火の手が上がりました。ボヘミアの貴族たちは、フェルディナントを王位から追放し、カルヴァン派のプファルツ選帝侯フリードリヒ五世を新たな王に選びました。しかし、1619年に神聖ローマ皇帝に即位したフェルディナント二世は、スペインの支援とカトリック連盟軍の力によって、1620年の「白山の戦い」で反乱軍に圧勝し、ボヘミアを完全に再カトリック化しました。
これで戦争が終わるかに見えましたが、皇帝側の勝利は、帝国内のプロテスタント諸侯の不安をかき立て、また、ハプスブルク家の強大化を恐れる国外の勢力の介入を招くことになります。まず、デンマーク王クリスチャン四世が、北ドイツのプロテスタントを支援するという名目で介入しますが、皇帝軍の有能な傭兵隊長ヴァレンシュタインの前に敗れ去ります(デンマーク戦争、1625年=1629年)。勝利の絶頂にあった皇帝フェルディナント二世は、1629年に「復旧勅令」を発布し、宗教改革以降にプロテスタントに没収されたすべての教会財産をカトリックに返還するよう命じました。これは、プロテスタント諸侯の財産権を根本から脅かすものであり、彼らを絶望させ、さらなる抵抗へと駆り立てました。
この危機的状況の中で、プロテスタントの新たな擁護者として登場したのが、「北方の獅子」と称されたスウェーデン王グスタフ=アドルフです。彼は、フランスからの財政支援を受け、宗教的な動機と、バルト海の覇権を確保するという政治的な野心から、1630年にドイツに上陸しました。彼は、機動的な砲兵と訓練された歩兵を組み合わせた革新的な戦術を用いて、ブライテンフェルトの戦い(1631年)で皇帝軍に圧勝し、一時はドイツの奥深くまで進撃しました。しかし、1632年のリュッツェンの戦いで、スウェーデン軍は勝利したものの、グスタフ=アドルフ自身が戦死してしまいます。
彼の死後も戦争は続きましたが、その性格はますます政治的なものとなっていきました。カトリック国であるフランスが、宰相リシュリューの指導の下、ハプスブルク家の弱体化を狙って、プロテスタント側で公然と参戦した(フランス戦争、1635年=1648年)ことは、その象徴です。戦争は、特定の戦線もなく、様々な国の軍隊や傭兵部隊がドイツの地を蹂躙し、略奪、虐殺、そして飢饉と疫病によって、国土は徹底的に荒廃しました。一説には、ドイツの人口の三分の一から半分が失われたとも言われています。
三十年にも及ぶ消耗しきった戦争の末、ようやく和平交渉が始まり、1648年に、ヴェストファーレン(ウェストファリア)条約が締結されました。この条約は、近代ヨーロッパの国際秩序の基礎を築いた、画期的なものでした。宗教面では、1555年のアウクスブルクの和議の原則(その領域の宗教は、その支配者が決定する)が再確認され、さらに、これまで除外されていたカルヴァン派にも、ルター派と同等の権利が認められました。これにより、神聖ローマ帝国内における宗教的な共存体制が法的に確立され、宗教が、国家間の戦争の主要な原因となる時代は、事実上終わりを告げました。政治面では、スイスとオランダの独立が正式に承認され、フランスとスウェーデンは領土を獲得しました。そして最も重要なのは、神聖ローマ帝国内の約三百の領邦国家が、外交権を含むほぼ完全な主権を認められたことです。これにより、神聖ローマ帝国は事実上名目だけの存在となり、ヨーロッパは、教皇や皇帝といった普遍的な権威の下にある統一されたキリスト教世界から、それぞれが主権を持つ対等な国家が、勢力均衡(バランス=オブ=パワー)を追求する、近代的な主権国家体制へと移行していくことになりました。宗教改革によって始まった信仰をめぐる激しい闘争は、皮肉にも、宗教を国家の管理下に置き、世俗的な国益を最優先する、新しい国際秩序を生み出すことで、その幕を閉じたのです。

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