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フランシスコ=ザビエルとは わかりやすい世界史用語2598
著作名: ピアソラ
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フランシスコ=ザビエルとは

フランシスコ=ザビエルはカトリック教会の歴史において最も偉大な宣教師の一人と広く見なされています。彼はイグナティウス=デ=ロヨラと共にイエズス会を創設した最初の仲間の一人であり、その燃えるような信仰と驚異的な行動力をもってキリスト教の教えをアジアの広大な地域に初めてもたらしました。彼の生涯は16世紀の大航海時代と宗教改革という二つの大きな歴史のうねりが交差する地点に位置しています。ヨーロッパ人の世界観が劇的に拡大すると同時にカトリック教会がプロテスタントの挑戦に直面していた時代に、ザビエルは新たな地平を目指し神の言葉を伝えるために故郷を捨てました。インド、東南アジア、そして日本へと至る彼の旅は困難と危険に満ちた冒険の連続でした。彼の宣教活動はその後のアジアにおけるキリスト教の歴史を決定づけ、東西文化交流に計り知れない影響を与えました。



前半生

フランシスコ=ザビエルの後半生、すなわちアジアでの情熱的な宣教活動を理解するためには、彼がどのような出自を持ちどのような教育を受け、そしていかにしてその人生を神に捧げる決意に至ったかを知る必要があります。彼の前半生は世俗的な栄光を夢見る野心的な貴族の青年が、一人の友との出会いを通じて霊的な探求へと導かれやがて「キリストの兵士」へと変貌を遂げていく過程そのものでした。
ナバラ王国の城で生まれた貴公子

フランシスコ=デ=ハッソ=イ=アスピリクエタ=イ=ハビエル、後にフランシスコ=ザビエルとして知られることになる彼は、1506年4月7日に現在のスペイン北部に位置するナバラ王国のハビエル城で生まれました。彼はバスク系の小貴族の家に5人兄弟の末っ子として生を受けました。父のフアン=デ=ハッソはナバラ王フアン3世の信頼厚い顧問であり、ボローニャ大学で法学博士号を取得した知識人でした。母のマリア=デ=アスピリクエタもまた二つの貴族の家系を継ぐ裕福な相続人でした。ザビエルは何不自由ない恵まれた環境で貴族の子息として育てられました。
しかし彼の幼少期はナバラ王国を揺るがす政治的な動乱の時代と重なります。1512年、ザビエルが6歳の時に隣国カスティーリャ=アラゴン連合王国(後のスペイン)のフェルナンド2世がナバラ王国に侵攻しその大部分を併合しました。ザビエルの家族はフランスの支援を受けるナバラ王家への忠誠を貫いたため、勝者であるスペイン側から厳しい処罰を受けました。ハビエル城の一部は破壊され一家は多くの領地と財産を失いました。この経験は若きザビエルの心に失われた名誉と地位を回復したいという強い願望を植え付けたと考えられます。彼は一族の誇りを取り戻すため学問の世界で身を立てることを決意しました。
パリ大学での野心とイグナティウスとの出会い

1525年、19歳になったザビエルは当時のヨーロッパにおける学問の最高府であったフランスのパリ大学に留学しました。彼は聖職者としての高い地位を得ることを目指しサン=バルブ学院に入学して哲学を学び始めました。ザビエルは明晰な頭脳と魅力的な人柄に恵まれ、スポーツ、特に走り高跳びの選手としても活躍しました。彼は学問的な成功を収め将来は教会内で輝かしいキャリアを築くことを夢見る野心に満ちた青年でした。
その彼の人生を根底から変えることになる出会いがサン=バルブ学院で訪れました。彼の学寮の同室者の一人がイニゴ=デ=ロヨラ、後のイグナティウス=デ=ロヨラでした。イグナティウスはザビエルより15歳も年上でかつてはスペイン王に仕える騎士でしたが、パンプローナの戦いで負った重傷をきっかけに回心し自らの人生を神に捧げることを決意した人物でした。彼は神学を学ぶために遅い年齢でパリ大学に入学してきたのです。
当初ザビエルはこの風采の上がらない年上の同室者を軽蔑していました。世俗的な野心に燃えるザビエルにとってイグナティウスの語る霊的な話は理解しがたいものでした。しかしイグナティウスは粘り強くザビエルに語りかけ続けました。彼はザビエルの野心を見抜き、福音書の言葉を引用して彼に問いかけました。「たとえ全世界を手に入れても、自分の魂を失ったら、何の益があろうか」。
この言葉はザビエルの心の奥深くに突き刺さりました。彼は自らの人生の目的について真剣に考え始めました。イグナティウスの揺るぎない信仰と深い霊性に触れるうちに、ザビエルの心は次第に世俗的な栄光への渇望から神への愛へと向きを変えていきました。イグナティウスが指導する「霊操」という一連の祈りと黙想のプログラムを体験したことでザビエルの回心は決定的となりました。彼は自らの人生をキリストに仕えるために完全に捧げることを決意したのです。
イエズス会の創設と東方への召命

ザビエルはイグナティウスの周りに集まった最初の仲間の一人となりました。彼らは同じ志を持つ国籍も背景も異なる6人の学友でした。1534年8月15日の聖母被昇天の祝日に、イグナティウス、ザビエル、そして5人の仲間たちはパリのモンマルトルの丘にあるサン=ドニ聖堂に集まり、神の前で清貧、貞潔、そして聖地エルサレムへの巡礼という三つの誓いを立てました。もしエルサレムへの巡礼が不可能であれば、ローマ教皇の意のままに神の栄光と魂の救いのために世界のどこへでも派遣されるという誓いも加えられました。これが後に「イエズス会」として知られることになる修道会の事実上の始まりでした。
彼らは神学の研究を終えた後ヴェネツィアに集まり聖地へ向かう船を待ちましたが、オスマン帝国との戦争のためにその道は閉ざされていました。誓いに従い彼らはローマへ向かい教皇パウルス3世に自らを捧げました。1540年に教皇は彼らの会則を正式に承認しイエズス会が誕生しました。
その頃ポルトガル国王ジョアン3世は新たに獲得した東インドの植民地へ優秀な宣教師を派遣してくれるよう教皇に要請していました。当初この任務にはイエズス会の創設メンバーの一人であるシモン=ロドリゲスとニコラス=ボバディリャが選ばれていました。しかし出発直前にボバディリャが重い病に倒れてしまいます。
イグナティウスは代役として彼の最も信頼する友人の一人であり、会の初代秘書を務めていたフランシスコ=ザビエルを指名しました。ザビエルは何の躊躇もなくこの召命を受け入れました。彼は友人たちに別れを告げ、二度と会うことのないイグナティウスに最後の別れを告げるとローマを旅立ちました。それは彼にとってヨーロッパとの永遠の別れとなりました。
インドでの宣教=南の果ての漁師たちと共に

1541年4月7日、35歳の誕生日にザビエルはポルトガルの首都リスボンからインドのゴアへ向かう船団の一隻に乗り込みました。この航海は過酷を極めました。壊血病、悪天候、そして食料と水の不足が船員たちを苦しめました。ザビエルは病人の看病や瀕死の兵士の告解を聞くなど献身的に働き、船内のすべての人々から深い尊敬を集めました。
ゴアでの活動と教会の腐敗への嘆き

一年以上の航海の末、1542年5月6日にザビエルはポルトガルのアジアにおける拠点であるゴアに到着しました。ゴアは表面上は教会や修道院が立ち並ぶキリスト教の都市でしたが、その内実は腐敗と道徳的退廃に満ちていました。多くのポルトガル人植民者は現地の女性を妾とし奴隷を酷使し金儲けにしか関心がないように見えました。ザビエルは手紙の中でゴアのキリスト教徒たちの不道徳な生活を厳しく批判しています。
彼はまずゴアのポルトガル人社会の霊的な刷新から活動を始めました。彼は病院でハンセン病患者を慰め、牢獄の囚人を訪ね、街角で子供たちに要理を教えました。彼は鐘を鳴らしながら通りを歩き子供たちを集めて信仰の基本を歌と祈りを通して教えました。彼の飾り気のない誠実な人柄と貧しい人々への深い愛情は多くの人々の心を打ちました。
パール漁海岸での宣教と困難

1542年の後半、ザビエルはインド亜大陸の南端、パール(真珠)漁海岸として知られる地域へと向かいました。そこには数年前に集団で洗礼を受けたものの信仰についてほとんど何も教えられていないパラーヴァルと呼ばれるカーストの人々が暮らしていました。彼らは主に真珠採りを生業とする貧しい漁師たちでした。
ザビエルは彼らと共に生活し彼らの言葉であるタミル語を学ぼうとしました。しかし言語の習得は困難を極めました。彼は現地の協力者の助けを借りて主の祈り、使徒信条、十戒などをタミル語に翻訳しそれを人々に暗記させました。彼は村から村へと歩き回り何千人もの人々に洗礼を授けました。ある手紙によれば彼は一日にあまりにも多くの洗礼を授けたため腕が上がらなくなったと書いています。
しかし彼の宣教活動は多くの困難に直面しました。ヒンドゥー教の高位カーストであるバラモンたちはザビエルの活動を快く思わずしばしば妨害しました。またポルトガルの商人や役人の中にも彼の活動を自分たちの利益の障害と見なす者がいました。さらにザビエルは現地の宣教師たちの怠惰と無関心にも深く失望しました。彼はヨーロッパの大学にいる学識ある友人たちに手紙を書き、なぜこれほど多くの魂が救いを求めているのに安楽な生活に甘んじているのかと問い詰めています。
東南アジアへの旅=香料諸島での冒険

インドでの活動に一定の区切りをつけたザビエルはさらに東へと目を向けました。彼の心はまだキリストの福音が届けられていない新たな地への情熱に燃えていました。
マラッカでの出会いとモルッカ諸島へ

1545年、ザビエルは東南アジアの重要な交易の中心地であったマラッカ(現在のマレーシア)に到着しました。彼はここでもゴアと同じようにポルトガル人社会の霊的な刷新に努めました。
マラッカでザビエルは彼のその後の運命を大きく変えることになる一人の日本人と出会います。彼の名はアンジロー(またはヤジロウ)といい、故郷の薩摩で殺人を犯しポルトガル船に乗って逃れてきた武士でした。アンジローは自らの罪に深く苦しんでおりザビエルに魂の救いを求めました。ザビエルはアンジローから日本の文化、宗教、そして人々の気質について詳しく話を聞きました。彼は日本人が知的好奇心に富み名誉を重んじる理性的な国民であると聞き、この国に福音を伝えることに強い関心を抱くようになりました。
しかし日本へ向かう前にザビエルにはもう一つの使命がありました。彼はさらに東のモルッカ諸島(香料諸島)として知られる地域へ向かうことにしました。そこはクローブやナツメグといった高価な香辛料の産地でありポルトガル商人が拠点を築いていました。
1546年から1547年にかけてザビエルはアンボン島、テルナテ島、モロタイ島などモルッカ諸島の島々を巡りました。これらの島々での彼の宣教活動はまさに冒険の連続でした。彼は獰猛な首狩り族が住む危険な地域にも臆することなく足を踏み入れました。彼は嵐の海を小さな船で渡り何度も生命の危険にさらされました。彼は現地の部族間の争いに巻き込まれながらも人々に愛と平和のメッセージを説き続けました。
日本での宣教=文化の壁との格闘

東南アジアでの過酷な旅を終えたザビエルは、ついに彼の長年の夢であった日本宣教へと乗り出します。それは彼がそれまで経験したことのない全く新しい文化的な挑戦の始まりでした。
アンジローとの再会と日本への出発

1547年末、ザビエルはインドのゴアに戻りアンジローと再会しました。アンジローはゴアで洗礼を受けパウロという洗礼名を授かっていました。ザビエルはアンジローと彼の二人の日本人従者を伴って日本へ向かうことを決意しました。
1549年4月、ザビエルの一行はゴアを出発しマラッカを経由して日本を目指しました。彼らが乗ったのは海賊の所有する粗末な中国のジャンク船でした。航海は困難を極め何度も嵐に見舞われました。
鹿児島への上陸と最初の宣教

1549年8月15日、奇しくもモンマルトルで最初の誓いを立てた日と同じ日にザビエルの船はアンジローの故郷である薩摩の鹿児島に到着しました。ザビエルは日本に第一歩を記した最初のキリスト教宣教師となりました。
薩摩の領主であった島津貴久はポルトガルとの貿易に関心がありザビエルに宣教の許可を与えました。ザビエルはアンジローの通訳の助けを借りて街頭で説教を始めました。彼はアンジローがタミル語の時と同じようにキリスト教の教えを翻訳したものを読み上げました。
しかし日本の仏教僧たちはザビエルの教えに強く反発しました。彼らはもしキリスト教の神が真の神であるならばなぜ中国人はその存在を知らなかったのかと問い詰めました。この問いはザビエルに大きな衝撃を与えました。彼は日本の文化が中国の文化に深く影響されていることを理解し、中国をキリスト教化することが日本ひいてはアジア全体の改宗の鍵であると考えるようになりました。
約一年後、仏僧たちの圧力が強まり島津貴久は領民がキリスト教に改宗することを禁じました。ザビエルは鹿児島を離れ新たな宣教の地を探すことを余儀なくされました。
都への旅と失意

ザビエルは日本の最高権威者である天皇と将軍に謁見し全国での宣教の許可を得ることを目指して都(京都)へ向かうことにしました。
彼は平戸、山口を経て1550年の末、厳寒の中を徒歩で京都に到着しました。しかし当時の京都は応仁の乱以来の戦乱で荒廃しきっており天皇も将軍も実権を失っていました。ザビエルは粗末な身なりをしていたため誰にも相手にされず天皇に謁見することは叶いませんでした。
失意のうちに京都を去ったザビエルはこの経験から重要な教訓を学びました。それは日本では外見や贈り物が非常に重要であるということでした。彼は貧しい身なりで人々に教えを説くというインドでのやり方が日本では通用しないことを悟りました。
山口での成功と文化的適応

1551年、ザビエルは再び周防の領主であった大内義隆が治める山口を訪れました。今度は彼は戦略を変えました。彼はポルトガル総督の公式な使節として絹の豪華な衣装を身にまとい、時計や眼鏡、鉄砲といった珍しい贈り物を義隆に献上しました。
この作戦は功を奏しました。大内義隆はザビエルの学識と人柄に感銘を受け彼に宣教の全面的な許可を与えました。ザビエルは山口に教会を建て多くの武士や知識人たちと宗教的な討論を交わしました。彼の知的なアプローチは多くの日本人を惹きつけ、山口のキリスト教共同体は急速に成長しました。この山口での成功はザビエルの文化的適応の重要性を示す好例となりました。
中国への夢と最期

日本での二年余りの活動を通じてザビエルは中国宣教の重要性をますます強く確信するようになりました。彼は日本での宣教活動を後継者に託し、自らは巨大な中国大陸への扉を開くために旅立ちました。
日本からの出発と中国への計画

1551年11月、ザビエルは日本を離れインドのゴアへと向かいました。彼はイエズス会の東インド管区長として日本での宣教活動の成果を報告し中国宣教のための準備を整えるためでした。
彼はポルトガル国王の公式な使節として中国皇帝に謁見するという壮大な計画を立てました。彼はゴアで使節団を組織し1552年4月に再び東へ向けて出発しました。
上川島での死

しかし彼の計画はマラッカで思わぬ障害にぶつかりました。マラッカのポルトガル司令官アルバロ=デ=アタイデはザビエルの権威を妬み、彼が組織した使節団の中国への渡航を妨害しました。
ザビエルは計画の変更を余儀なくされました。彼は使節団を解散し単独で中国本土に密入国することを決意しました。彼は中国商人の船に乗り広東の沖合に浮かぶ上川島に到着しました。そこはポルトガル商人が中国商人と密貿易を行う拠点でした。
ザビエルは中国人密航業者を雇い夜陰に乗じて本土に渡る手はずを整えました。しかし約束の日が来てもその業者は現れませんでした。ザビエルは島に取り残されました。
厳しい冬の寒さと心労そして長年の旅の疲れが彼の体を蝕んでいました。彼は高熱を発し粗末な小屋の中で倒れました。彼のかたわらには一人の中国人青年アントニオだけが付き添っていました。
1552年12月3日、フランシスコ=ザビエルは中国大陸を目前にしながらその土を踏むことなく上川島で息を引き取りました。46歳でした。彼の最期の言葉は「おお、イエスよ、ダビデの子よ、我を憐れみたまえ」であったと伝えられています。
彼の遺体は石灰を詰めて島に埋葬されましたが数ヶ月後掘り起こされた際全く腐敗していなかったと言われています。その遺体はマラッカを経てゴアに運ばれ現在もゴアのボン=ジェズ教会に安置されています。
フランシスコ=ザビエルの生涯はわずか11年という短い宣教期間にもかかわらず驚くべき地理的な広がりと情熱的な献身に満ちていました。彼は何十万キロもの距離を旅し何万人もの人々に洗礼を授けました。彼の異文化を理解し適応しようとする姿勢は後の宣教師たちの模範となりました。彼が開いた道はマテオ=リッチのような後継者たちによって引き継がれアジアにおけるキリスト教の歴史を形作っていきました。

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