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ヴィッテンベルクとは わかりやすい世界史用語2548 |
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著作名:
ピアソラ
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ヴィッテンベルクとは
十六世紀初頭のヴィッテンベルクは、神聖ローマ帝国のザクセン選帝侯領の片隅、エルベ河の砂地のほとりに位置する、人口わずか二千人ほどの、取るに足らない小さな町でした。それは、ニュルンベルクやアウクスブルクのような壮麗な帝国都市の華やかさも、ケルンやプラハのような歴史ある大司教都市の権威も持たない、いわば辺境の地でした。しかし、この名もなき町が、一人のアウグスティノ会修道士マルティン=ルターの行動をきっかけとして、ヨーロッパ全土を揺るがす宗教改革という巨大な歴史的運動の発火点となり、その思想的な震源地、いわば「プロテスタントのローマ」へと変貌を遂げることになります。ヴィッテンベルクの物語は、ザクセン選帝侯フリードリヒ賢公の政治的野心と文化的パトロネージュによって、何もない砂地の上に新しい大学が創設されるところから始まります。この「ロイコレア」と呼ばれる新設大学に、若きルターが聖書学教授として赴任し、彼の個人的な魂の探求が、やがて贖宥状(免罪符)への神学的な批判へと結実した時、ヴィッテンベルクは歴史の表舞台に躍り出ました。ルターの『九十五か条の論題』が城教会の扉に掲げられたという伝説的な逸話は、この町を象徴するイメージとして、後世に深く刻み込まれます。その後、ルターが教皇や皇帝と対決し、ヴァルトブルク城に隠遁している間に、ヴィッテンベルクは、カールシュタットら急進派による聖像破壊運動といった混乱を経験しますが、帰還したルターの指導の下で、新しい福音主義の礼拝、教会制度、そして社会生活のあり方を具体的に形作っていく、改革の実験室となりました。この町には、ルターの思想を体系化し、穏健な形で広めたフィリップ=メランヒトン、改革のメッセージを視覚的に伝えた画家ルーカス=クラナッハ(父)、そして福音主義の音楽を確立したヨハン=ヴァルターといった、多彩な才能が集結し、彼らの緊密な協力関係が、ヴィッテンベルクを単なるルター個人の活動拠点ではなく、多面的で豊かな改革文化の中心地へと押し上げました。ヴィッテンベルク大学は、ヨーロッパ中から新しい教えを学ぼうとする学生たちを引き寄せ、彼らはここで学んだ福音主義の思想を、それぞれの故郷に持ち帰り、宗教改革を国際的な運動へと拡大させるための重要な担い手となっていきます。しかし、この町の栄光は、シュマルカルデン戦争におけるプロテスタント側の敗北によって、大きな転機を迎えます。ヴィッテンベルクは皇帝軍に占領され、ザクセン選帝侯の地位はアルベルティン家に移り、ルターの死後、町はかつての思想的中心地としての輝きを次第に失っていきました。
フリードリヒ賢公の創設した大学都市
宗教改革前夜のヴィッテンベルクは、およそ歴史の舞台の中央に躍り出るような場所ではありませんでした。1500年頃の人口はわずか二千人ほどで、その規模と重要性において、近隣のライプツィヒやマクデブルクの足元にも及ばない、ザクセン選帝侯領の東部に位置する、どちらかといえば寂れた地方都市でした。町の経済は、醸造業、織物業、そして近郊の農村との交易といった、ごくありふれた産業に依存しており、その景観も、木骨造りの家々が密集する、中世の典型的な小都市の域を出るものではありませんでした。しかし、この町には一つの重要な機能がありました。それは、1423年以来、ヴェッティン家のエルネスティン枝族が治めるザクセン選帝侯領の宮廷所在地であったことです。この事実が、ヴィッテンベルクの運命を劇的に変えることになります。
フリードリヒ賢公の野心と大学創設
1486年に選帝侯の地位を継いだフリードリヒ三世、後世に「賢公」として知られることになる人物は、敬虔な信仰心と、鋭い政治的洞察力、そして自らの領土の名声を高めたいという強い野心を併せ持った君主でした。彼は、当時、神聖ローマ帝国内の他の有力な領邦君主たちが、自領内に大学を設立し、有能な法律家や神学者、官僚を養成して、領邦国家の近代化を進めていることに注目していました。特に、1409年に創設され、人文主義の中心地として名高かった隣国アルベルティン家領のライプツィヒ大学の存在は、彼にとって大きな刺激であり、対抗意識をかき立てるものでした。自らの首都であるヴィッテンベルクに大学を創設することは、フリードリヒにとって、単に学問を振興するという文化的な目的だけでなく、自らの領邦の威信を高め、ライプツィヒに対抗し、そして何よりも、近代的な領邦統治に必要な人材を自前で確保するという、極めて実際的な政治的・経済的動機に基づいていたのです。1502年、フリードリヒは、皇帝マクシミリアン一世から大学設立の勅許を得て、ヴィッテンベルクに新しい大学を創設しました。彼は、この大学を、ギリシャ語で「白い山」を意味する「ロイコレア」と名付けました。これは、ヴィッテンベルクという地名が、スラブ語の「白い山」に由来するという説に基づいています。フリードリヒは、この新設大学に、自らの財産から惜しみなく資金を投じ、ヨーロッパ各地から優れた教授陣を招聘しようと努めました。
聖遺物収集と城教会の役割
フリードリヒ賢公のもう一つの情熱は、聖遺物の収集でした。彼は、当時の君主の中でも屈指の聖遺物コレクターであり、その膨大なコレクションを収蔵するために、ヴィッテンベルクの城に隣接して、壮麗な城教会(諸聖人教会)を建設しました。1509年の時点で、彼のコレクションは五千点を超え、その中には、キリストが産湯を使ったとされる水、最後の晩餐で使われたパン、聖母マリアの母乳、百人隊長の槍の穂先、そして無数の聖人たちの骨や遺品が含まれていました。これらの聖遺物を収めた城教会を巡礼し、ミサに参加することで、信者は、煉獄での苦しみの期間を何十万年分も短縮できるという、莫大な量の贖宥(免罪)を得られるとされていました。毎年、城教会の献堂記念日である11月1日(諸聖人の日)には、この聖遺物が一般に公開され、ドイツ中から多くの巡礼者がヴィッテンベルクを訪れました。この巡礼は、フリードリヒにとって、自らの敬虔さを示すと同時に、町の経済を潤し、そして大学の財政を支える重要な収入源でもありました。彼は、新設大学の財源として、この城教会に付属する参事会からの収入を充てたのです。つまり、大学の教授たちは、同時に城教会の参事会員としての地位も持ち、その給与は、聖遺物崇拝と、それに関連するミサや贖宥から得られる収入によって賄われていました。この事実は、後にルターが贖宥状を批判した際に、彼が自らの雇い主である選帝侯の財源を脅かすという、極めて皮肉な状況を生み出すことになります。
人文主義の導入とルターの招聘
フリードリヒは、大学の運営を、彼の信頼する顧問であり、アウグスティノ隠修士会のドイツ管区長であったヨハン=フォン=シュタウピッツに大きく委ねていました。シュタウピッツは、聖書を中心とする敬虔な信仰を持ちつつも、新しい人文主義の学問にも開かれた人物でした。彼の指導の下、ヴィッテンベルク大学は、伝統的なスコラ神学だけでなく、人文主義的な学問、特に聖書の原典研究を重視する気風を育んでいきました。シュタウピッツは、自らが所属するアウグスティノ会の若い世代の中から、才能ある人材をこの新設大学の教授として抜擢しました。その一人として、1508年にヴィッテンベルクに初めて招かれ、アリストテレス哲学を教え、そして1512年に神学博士号を取得して、聖書学の正教授となったのが、当時まだ無名の修道士であったマルティン=ルターでした。フリードリヒ賢公自身は、生涯ルターと直接会うことはありませんでしたが、彼の顧問であるシュタウピッツやゲオルク=シュパラティーンを通じて、この才能ある若い教授の評判を耳にしていました。彼が、自らの大学の名声を高めるであろうこの教授を、後の宗教改革の嵐の中で、命を賭して守り抜くことになるのは、単なる偶然ではなかったのです。こうして、フリードリッヒの領邦君主としての野心と、シュタウピッツの学問的・霊的指導、そしてルターという類まれな才能が、辺境の町ヴィッテンベルクで交差した時、歴史を動かすための舞台は整えられたのでした。
改革の震源地=論題、論争、そして断絶
1517年、ヴィッテンベルクは、その名をヨーロッパ中に知らしめる歴史的な出来事の舞台となります。それは、この町の大学教授マルティン=ルターが、贖宥状(免罪符)の神学的な問題点を問うたことから始まり、やがて彼とローマ教皇庁との間の、後戻りのできない決定的な断絶へと至る、一連の劇的な論争でした。
贖宥状販売と『九十五か条の論題』
1517年、ドミニコ会修道士ヨハン=テッツェルが、ヴィッテンベルク近郊のユーターボークやツェルプストといった町で、サン=ピエトロ大聖堂改築のための贖宥状を、極めて扇情的なやり方で販売していました。彼は、「金貨が箱にチャリンと音を立てて入ると、魂は煉獄から飛び上がる」といった、神学的に疑わしい売り文句で、人々の不安を煽り、購入を促していました。ヴィッテンベルクの市民たちも、国境を越えてこの贖宥状を買い求め、ルターのもとに告解にやって来ては、もはや罪を悔い改める必要はないかのように振る舞いました。これは、長年、真の悔い改めと信仰による救いを説いてきたルターにとって、到底看過できることではありませんでした。彼は、贖宥状が、人々に偽りの安心感を与え、神の恵みを金で売買する冒涜的な行為であると確信し、この問題について、学術的な場で公に討論する必要があると考えました。1517年10月31日、ルターは、大学の慣習に従い、ラテン語で書かれた『贖宥状の効力に関する討論』、すなわち『九十五か条の論題』を、ヴィッテンベルク城教会の扉に掲示したと、彼の盟友フィリップ=メランヒトンは伝えています。この掲示という行為の歴史的真実性については、現代の研究者の間でも議論がありますが、いずれにせよ、この文書が、マインツ大司教アルブレヒトや他の学者たちに送付されたことは間違いありません。この論題は、教皇の権威をまだ正面から否定してはいませんでしたが、「教皇は、自らが科した以外のいかなる罰も赦すことはできない」「キリスト者は、真に悔い改めるならば、贖宥状なしに、罰と罪からの完全な赦しを得る」といった主張は、贖宥状ビジネスの神学的な根幹を根底から揺るがすものでした。
印刷革命と論争の全国化
ルターが当初意図していたのは、あくまで学者間のラテン語による討論でした。しかし、彼の意図に反して、この『九十五か条の論題』は、誰かの手によってドイツ語に翻訳され、ニュルンベルク、ライプツィヒ、バーゼルなどの印刷業者によって、またたく間に印刷されました。活版印刷という新しいメディアのおかげで、この文書は、わずか数週間のうちにドイツ全土に広まり、教会の腐敗に不満を抱いていた多くの人々の間で、熱狂的な反響を呼びました。ヴィッテンベルクという地方都市の一教授が投じた一石は、思いがけず、ドイツ国民全体の感情を揺り動かす大波となったのです。この反響の大きさは、ルター自身にとっても驚きであり、彼は後に「私自身も、その歌がどのようなものになるか知らなかった」と述懐しています。この出来事は、ヴィッテンベルクが、単なる学問の府ではなく、新しい思想を社会に発信する、強力なメディアの中心地となる可能性を示していました。
ヴィッテンベルクの学者たちの役割
論争が拡大する中で、ルターは一人ではありませんでした。ヴィッテンベルク大学の同僚たちが、彼の強力な支持者となりました。特に重要だったのが、1518年に、フリードリヒ賢公によってギリシャ語の教授としてヴィッテンベルクに招聘された、若き人文主義の天才フィリップ=メランヒトン(1497年=1560年)です。彼は、ルターの神学的な情熱と天才的なひらめきを、明晰で体系的な形にまとめ上げる、類まれな能力を持っていました。ルターが「預言者」であるならば、メランヒトンは「神学者」であり、二人は互いの才能を補い合う、終生の盟友となりました。メランヒトンは、大学のカリキュラムを人文主義的に改革し、聖書の原典研究を重視する教育を確立して、ヴィッテンベルク大学の名声を飛躍的に高めました。また、ルターの同僚であり、アウグスティノ会の同門であったニコラウス=フォン=アムスドルフや、法学者のヒエロニムス=シュルフ、そしてルターの神学を穏健な形で実践に移したヨハネス=ブーゲンハーゲンといった人々も、ヴィッテンベルクの改革グループの中核を形成しました。彼らの存在により、ヴィッテンベルクは、単なるルター個人の舞台ではなく、新しい福音主義神学を練り上げ、発展させるための、活気ある知的な共同体となったのです。
教皇への断絶とヴィッテンベルクの象徴的行為
ローマ教皇庁との論争は、ライプツィヒ討論(1519年)などを経て、ますます先鋭化していきました。ルターは、教皇だけでなく、公会議さえも誤りうると公言し、聖書のみが信仰の唯一の権威であると主張するに至ります。1520年、教皇レオ十世は、ルターに自説の撤回を命じる教皇勅書『エクスルゲ=ドミネ(主よ、立ち上がりください)』を発布しました。この勅書がヴィッテンベルクに届くと、ルターは、歴史に残る象徴的な行動に出ます。1520年12月10日、彼は、ヴィッテンベルクの町の東門(エルスター門)の外で、メランヒトンをはじめとする大学の教授や学生たちが見守る中、この教皇勅書と、カトリック教会の法典である教会法典を、公然と火の中に投じました。これは、千年にわたってヨーロッパを支配してきたローマ教皇の権威との、完全かつ後戻りのできない決別を、全世界に示す行為でした。この焚書という劇的なパフォーマンスによって、ヴィッテンベルクは、ローマに反逆する新しい信仰の中心地としてのアイデンティティを、決定的に確立したのです。この出来事の後、ルターは正式に破門され、翌1521年のヴォルムス帝国議会へと召喚されることになりますが、ヴィッテンベルクの町と大学は、固く彼の後ろ盾として立ち続けていました。
新しい教会と社会の創造
1521年、ヴォルムス帝国議会で皇帝の前に立ったルターが、帝国の法益保護外に置かれ、ヴァルトブルク城に姿を消している間、ヴィッテンベルクでは、宗教改革が、理論から実践の段階へと移行しました。しかし、それは、指導者を失ったがゆえの混乱と急進化を伴う、困難なプロセスでした。ルターの帰還後、彼の指導の下で、ヴィッテンベルクは、新しい福音主義の信仰に基づいた礼拝、教会制度、教育、そして社会福祉のあり方を具体的に形作っていく、ヨーロッパ全土のモデルとなる「改革の実験室」となっていきます。
カールシュタットの急進改革と聖像破壊
ルターが不在の間、ヴィッテンベルクの改革運動の主導権を握ったのは、彼の同僚であり、神学部長でもあったアンドレアス=ボーデンシュタイン=フォン=カールシュタットでした。彼は、ルターよりも急進的で、福音の教えを、即座に、そして徹底的に実践に移すべきであると考えました。1521年のクリスマス、カールシュタットは、伝統的なミサの祭服を脱ぎ捨て、平服で聖餐式を執り行い、信徒たちに、パンだけでなくワインも与えました(両形態色)。これは、聖職者と平信徒の身分差を否定する、象徴的な行為でした。さらに彼は、聖職者の結婚を奨励し、自らも率先して結婚しました。彼の改革は、ツヴィッカウから来た、終末論的な幻視を見たと主張する「ツヴィッカウ預言者」たちの影響も受けて、ますます過激化していきます。彼らは、幼児洗礼を否定し、聖霊の直接的な導きのみを重視しました。1522年初頭、カールシュタットと彼の支持者たちは、教会内にある聖画像、十字架、祭壇などを、偶像崇拝であるとして、次々と破壊し始めました(聖像破壊運動)。修道院からは修道士たちが去り、学校は閉鎖され、市参事会の権威は失墜し、ヴィッテンベルクの町は、無秩序と暴力の瀬戸際に立たされました。
ルターの帰還
このヴィッテンベルクの混乱の知らせは、ヴァルトブルク城のルターを深く憂慮させました。彼は、自らが始めた改革が、このような暴力的な形で、人々の良心を無視して強制されることに、強い危機感を抱きました。彼は、フリードリヒ賢公の制止を振り切り、自らの身の危険を冒して、1522年3月にヴィッテンベルクに帰還します。そして、四旬節の第一主日(インヴォカーヴィト)から八日間にわたり、市教会で連続説教を行いました。この「インヴォカーヴィト説教」で、ルターは、改革の根本的な理念は正しいと認めつつも、その性急で暴力的な進め方を、信仰の弱い兄弟たちへの「愛の欠如」であると厳しく批判しました。彼は、「私は、言葉のみによって、教皇制にこれほどの打撃を与えた。…言葉がすべてを為したのだ」と述べ、改革は、物理的な強制ではなく、神の言葉が人々の心に働きかけ、自発的な変化を生み出すことによって、秩序正しく進められなければならないと説きました。彼の力強い説教は、人々の心を捉え、ヴィッテンベルクの秩序は、驚くほど速やかに回復しました。この出来事は、ルターの牧会者としての権威を確立すると同時に、ヴィッテンベルクの改革が、急進主義と袂を分かち、穏健で秩序を重んじる路線を取ることを決定づけました。
新しい礼拝と教会音楽の誕生
秩序を回復したルターは、ヴィッテンベルクの教会生活の具体的な改革に、慎重かつ着実に着手しました。彼の改革の中心にあったのは、礼拝の刷新です。彼は、カトリックのミサを、キリストの犠牲を繰り返す「善行」であると見なす教えを退け、礼拝とは、神が、その言葉と秘跡(サクラメント)を通して、人々に恵みを与える場であり、人々は、信仰と賛美をもって、それに感謝を捧げる場であると考えました。1523年に『ミサの方式について』、1526年に『ドイツミサ』を著し、彼は、ラテン語のミサの構造を部分的に保持しつつも、その中から、犠牲の思想に関わる部分をすべて取り除き、礼拝の中心に、聖書朗読と、民衆の言葉であるドイツ語による「説教」を据えました。さらに、ルターは、会衆全体が礼拝に積極的に参加するために、会衆が自らの言葉で歌う「コラール」の重要性を強調しました。彼は、自らも「神はわがやぐら」をはじめとする多くのコラールの作詞・作曲を行い、また、ヴィッテンベルクの宮廷楽長であったヨハン=ヴァルターと協力して、1524年に最初のプロテスタント聖歌集を出版しました。このヴィッテンベルクで生まれたコラールは、福音主義のメッセージを、力強く、覚えやすい形で人々の心に届け、宗教改革を広めるための極めて有効な手段となりました。
教会制度と社会福祉の改革
ルター派の改革は、個人の信仰だけでなく、教会と社会の制度的な変革にも及びました。ルターの不在時にヴィッテンベルクを離れたカールシュタットに代わり、改革の実務的な側面を担ったのが、ポメラニア出身のヨハネス=ブーゲンハーゲン(1485年=1558年)でした。彼は、1523年にヴィッテンベルクの市教会の最初の福音主義牧師となり、その卓越した組織運営能力を発揮しました。彼は、教会の財産を管理し、貧しい人々や孤児、寡婦を支援するための「共同金庫」制度を創設しました。これは、修道院の解散によって失われた社会福祉機能を、教会と市当局が共同で担う、新しい公的な福祉制度の先駆けでした。また、ブーゲンハーゲンは、ルターの「二王国説」(神は、霊の領域を教会を通して、世俗の領域を政府を通して統治するという思想)に基づき、領邦君主が、教会の外面的な秩序を監督する責任を負うとする「領邦教会制」の確立に、理論と実践の両面で貢献しました。彼は、ヴィッテンベルクでの経験を基に、北ドイツやデンマークの多くの都市や領邦のために「教会規則」を起草し、「北方の改革者」と称されるようになります。教育の分野では、メランヒトンが、ヴィッテンベルク大学だけでなく、初等・中等教育の改革にも尽力し、人文主義的なカリキュラムを導入して、後のドイツのギムナジウム(高等中学校)の基礎を築き、「ドイツの教師」と称えられました。こうして、ヴィッテンベルクは、神学、礼拝、教会法、社会福祉、教育といった、あらゆる分野において、プロテスタントの新しい社会モデルを創造し、提示する、生きた実験室となったのです。
改革の視覚的プロパガンダ=クラナッハの工房
宗教改革という思想革命が、文字を読むことのできない多くの民衆にまで、いかにして浸透し得たのかを考えるとき、ヴィッテンベルクの宮廷画家ルーカス=クラナッハ(父)(1472年=1553年)とその工房が果たした役割は、計り知れないほど大きいものがあります。彼は、その芸術的な才能と、企業家としての卓越した手腕を駆使して、改革のメッセージを、力強く、分かりやすい視覚的なイメージへと翻訳し、印刷という新しいメディアを通じて、ヨーロッパ中に拡散させました。クラナッハの工房は、まさに宗教改革のプロパガンダ・センターでした。
宮廷画家から改革の盟友へ
ルーカス=クラナッハは、1505年に、フリードリヒ賢公によって、ザクセン選帝侯の宮廷画家に任命され、ヴィッテンベルクに移り住みました。当初、彼の仕事は、選帝侯やその宮廷の人々の肖像画を描き、城の装飾を手がけ、祭典や馬上槍試合のデザインをすることでした。彼は、神話画や官能的な裸婦像なども得意とし、その洗練された画風は、国際的な宮廷文化の中で高い評価を得ていました。しかし、彼の隣人であり、友人となったマルティン=ルターが宗教改革を開始すると、クラナッハは、その最も熱心で、最も影響力のある支持者の一人となります。彼は、ルターの思想に深く共鳴し、自らの芸術を、新しい福音主義の教えを広めるための奉仕に捧げることを決意しました。この二人の友情は固く、クラナッハは、ルターとカタリナ=フォン=ボーラの結婚の証人となり、彼らの子供たちの代父ともなりました。この個人的な結びつきが、彼の芸術活動に、深い確信と情熱を与えたことは間違いありません。
ルターの肖像=改革者のイメージ戦略
クラナッハが改革のために果たした最も重要な貢献の一つは、マルティン=ルター自身の肖像画を数多く制作し、版画として大量に複製したことです。彼は、様々な時期のルターの姿を描きました。禁欲的な修道士としてのルター、聖書を手に持つ神学博士としてのルター、ヴァルトブルク城に隠遁していた際の「ユンカー=イェルク」としてのルター、そして、妻カタリナと並んで立つ、家庭人としてのルター。これらの肖像画は、ルターという人物を、単なる神学者から、信徒たちが親しみを感じ、信頼を寄せることができる、具体的な人格を持った改革の英雄へと仕立て上げる上で、決定的な役割を果たしました。特に、木版画として大量に印刷されたルターの肖像は、彼の著作の巻頭を飾り、あるいは一枚刷りの印刷物として、安価に販売され、ヨーロッパ中の人々の目に触れることになりました。これにより、ルターの顔は、宗教改革運動そのものを象徴する、最も有名なアイコンとなったのです。クラナッハは、ルターだけでなく、メランヒトンやフリードリヒ賢公といった、他の改革の指導者たちの肖像も数多く手がけ、彼らのイメージを後世に伝えました。
プロテスタントの祭壇画と教義の視覚化
クラナッハは、肖像画だけでなく、プロテスタント神学の核心的な教義を視覚的に表現する、新しい主題の宗教画も開拓しました。その代表作が、ヴィッテンベルク市教会の祭壇画(1547年)です。この祭壇画の中央パネルには、最後の晩餐が描かれていますが、伝統的な描写とは異なり、食卓を囲む使徒たちの中には、変装したルターの姿が見られます。これは、聖餐が、歴史的な出来事であると同時に、現在の信徒の共同体のためのものであることを示しています。そして、この祭壇画のプレデッラ(裾絵)には、説教壇に立つルターが、十字架につけられたキリストを指し示し、その前で、ヴィッテンベルクの会衆が熱心に耳を傾けている様子が描かれています。これは、説教の中心が、キリストの十字架の贖いにあるという、ルター派の教えを、これ以上ないほど明確に表現したものです。また、クラナッハが繰り返し描いた「律法と福音(あるいは、アダムとキリスト)」という主題の絵画は、ルターの「信仰義認」の教理を巧みに図解したものです。画面の左側(律法の側)では、アダムとエバの堕罪、モーセの十戒、そして罪人が死と悪魔によって地獄に突き落とされる様子が描かれ、人間が自らの力(律法)では救われないことを示しています。一方、画面の右側(福音の側)では、洗礼者ヨハネが、一人の罪人に、十字架につけられたキリストと、墓から復活したキリストを指し示し、信仰のみによって救われる道を示しています。このような絵画は、複雑な神学的な概念を、対照的なイメージを用いて、誰にでも理解できるように翻訳する、優れた教義の教科書でした。
反教皇プロパガンダの版画
クラナッハの工房は、より直接的で、時には下品ともいえるような、反教皇的なプロパガンダ版画の制作においても、中心的な役割を果たしました。ルターが著したパンフレットの挿絵として制作されたこれらの木版画は、教皇を、聖書に登場する「バビロンの大淫婦」や、反キリストとして描き、その貪欲さや道徳的腐敗を、辛辣な風刺とグロテスクなイメージで攻撃しました。例えば、教皇の三重冠が、悪魔の顔を持つ怪物として描かれたり、教皇や枢機卿たちが、悪魔から金を受け取ったり、地獄の口に飲み込まれたりする様子が、生々しく描写されました。これらの版画は、文字の読めない人々にとっても、一目でそのメッセージが伝わる、極めて強力なプロパガンダの武器でした。それは、教皇の神聖なイメージを破壊し、彼を嘲笑と軽蔑の対象へと引きずり下ろすことで、民衆の反ローマ感情を煽り、宗教改革への支持を動員する上で、大きな効果を発揮しました。クラナッハは、芸術家としてだけでなく、印刷工房、製紙工場、薬局、書店、そして宿屋まで経営する、ヴィッテンベルクで最も裕福で影響力のある市民の一人でした。彼の企業家としての才覚が、宗教改革という思想運動を、大衆に届く製品として市場に乗せ、その成功を支える重要な基盤となったのです。
国際的な拠点=「プロテスタントのローマ」としての大学
宗教改革の勃発後、フリードリヒ賢公が創設したヴィッテンベルク大学「ロイコレア」は、その性格を劇的に変え、ヨーロッパにおける新しい福音主義神学研究の中心地として、空前の名声と影響力を持つに至ります。ルターとメランヒトンという二人の巨人を擁するこの大学は、ヨーロッパ中から、新しい教えに惹きつけられた学生たちを磁石のように引き寄せ、ヴィッテンベルクは、さながら「プロテスタントのローマ」とでも言うべき、国際的な知の拠点へと発展しました。
メランヒトンによる大学改革と「ドイツの教師」
ヴィッテンベルク大学が、単なるルター個人の活動拠点を超えて、ヨーロッパを代表する学問の中心地へと飛躍する上で、決定的な役割を果たしたのは、フィリップ=メランヒトンでした。彼は、1518年にわずか21歳でギリシャ語教授として着任すると、その就任演説で、スコラ学的な旧弊を批判し、「原典に戻れ」という人文主義の理念に基づいた学問の刷新を力強く訴えました。彼の指導の下、大学のカリキュラムは全面的に改革され、アリストテレス哲学中心の教育から、聖書の原典言語(ヘブライ語とギリシャ語)の研究、古典文学、修辞学、歴史学といった、人文主義的な諸学問(リベラル=アーツ)を重視する教育へと移行しました。メランヒトンは、ルターの神学を、教育の場で教授可能な、明晰で体系的な学問へとまとめ上げ、1521年に出版した『神学総論(ロキ=コンムネス)』は、最初のルター派組織神学の教科書として、何世代にもわたってヨーロッパ中のプロテスタントの学生たちに読まれました。彼の教育改革は、ヴィッテンベルク大学にとどまらず、彼が起草した数多くの学校規則を通じて、ドイツ各地の大学やラテン語学校のモデルとなり、彼は後世、「ドイツの教師」と称えられることになります。ルターの天才的なひらめきと、メランヒトンの体系的な教育力が組み合わさったことで、ヴィッテンベルクは、他にはない魅力を持つ学問の中心地となったのです。
ヨーロッパ中から集まる学生たち
ルターの教えと、メランヒトンによる大学改革の名声は、国境を越えて広まり、ヴィッテンベルク大学の学生数は、爆発的に増加しました。1520年代には、年間の入学者が、それまでの数十人から、数百人規模にまで膨れ上がりました。学生たちは、ドイツ各地からはもちろんのこと、スカンディナヴィア諸国、ポーランド、ボヘミア、ハンガリー、ネーデルラント、フランス、イングランド、スコットランドといった、ヨーロッパのほぼ全域からやって来ました。彼らは、ルターの力強い説教を直接聞き、メランヒトンや他の教授たちの講義に出席し、活気あふれる神学論争に参加するために、しばしば危険な長旅を厭わずに、このエルベ河畔の小さな町を目指したのです。ヴィッテンベルクの町は、これらの学生たちで溢れかえり、下宿や食堂の確保が、町の大きな課題となるほどでした。学生たちの出身地は多様であり、ヴィッテンベルク大学の学籍簿には、彼らが「同郷会」と呼ばれるグループを形成していたことが記録されています。この国際的な雰囲気の中で、学生たちは、互いの国の情報を交換し、国境を越えた人的なネットワークを形成していきました。これは、宗教改革が、単一の国民的な運動ではなく、国際的な現象として発展していく上で、極めて重要な基盤となりました。
「食卓談話」と個人的な指導
ヴィッテンベルクでの学生生活のハイライトの一つは、ルターの家に招かれ、彼の「食卓談話」に加わる機会でした。ルターが妻カタリナ=フォン=ボーラと共に暮らした旧アウグスティノ会修道院(「黒い修道院」)は、彼らの子供たち、親戚、そして多くの下宿学生や訪問客で賑わう、大きな共同体のようになっていました。食事の席で、ルターは、神学的な問題から、政治、音楽、日常生活の些細な事柄に至るまで、あらゆるテーマについて、率直で、しばしばユーモラスで、時には辛辣な意見を、自由に語りました。学生たちは、この偉大な改革者の言葉を熱心に書き留め、これらの記録は、後に『食卓談話集』として編纂され、ルターの人間的な側面と、彼の思想の核心を伝える、貴重な資料となりました。このような、教授と学生との間の、講義室の外での個人的で親密な交流は、ヴィッテンベルクの教育の大きな特徴であり、学生たちに、単なる知識だけでなく、深い人格的な感化を与えました。
改革の輸出拠点としての役割
ヴィッテンベルクで学んだ学生たちは、卒業後、それぞれの故郷へと戻っていきました。彼らは、単に神学の学位を持って帰るだけではありませんでした。彼らは、福音主義の熱意と、改革を実践するための具体的な知識、そしてヴィッテンベルクで築いた人的なネットワークを携えていました。彼らは、故郷の町や領邦で、牧師、教師、あるいは領主の顧問として、宗教改革を導入し、指導していく上で、中心的な役割を果たしました。例えば、スウェーデンから来たオラウス=ペトリは、帰国後、グスタフ=ヴァーサ王の下でスウェーデンの宗教改革を主導し、「スウェーデンのルター」と称されました。デンマークのハンス=タウセン、フィンランドのミカエル=アグリコラ(彼はフィンランド語の書き言葉を創始した)、スロヴェニアのプリモシュ=トルバールなども、ヴィッテンベルクで学んだ後、自国語への聖書翻訳や宗教改革の導入に尽力しました。このようにして、ヴィッテンベルク大学は、宗教改革の思想と人材をヨーロッパ全土に「輸出」する、巨大なポンプのような役割を果たしたのです。ヴィッテンベルクは、新しい教えを求める人々が巡礼に訪れる場所であると同時に、その教えを世界に広める宣教師たちを養成し、派遣する拠点でもありました。
栄光の終わりと遺産=シュマルカルデン戦争とその影響
ヴィッテンベルクが「プロテスタントのローマ」として享受した輝かしい時代は、しかし、永遠には続きませんでした。宗教改革が引き起こした政治的・軍事的な対立が激化する中で、この町もまた、その渦に巻き込まれ、その運命は大きく翻弄されることになります。ルターの死と、シュマルカルデン戦争におけるプロテスタント側の敗北は、ヴィッテンベルクの黄金時代に、事実上の終止符を打ちました。
ルターの死とシュマルカルデン戦争
1546年2月、マルティン=ルターは、故郷のアイスレーベンでその波乱に満ちた生涯を閉じ、彼の遺体は、宗教改革の発火点となったヴィッテンベルクの城教会に、丁重に埋葬されました。彼の死は、プロテスタント陣営にとって、精神的な支柱を失う大きな打撃でした。そして、ルターの死の直後から、皇帝カール五世は、長年準備してきたプロテスタント勢力への軍事行動を開始します。ザクセン選帝侯ヨハン=フリードリヒ(フリードリヒ賢公の甥)とヘッセン方伯フィリップが主導するプロテスタント諸侯の軍事同盟「シュマルカルデン同盟」と、皇帝軍との間で、シュマルカルデン戦争(1546年=1547年)が勃発しました。当初、プロテスタント側は優勢でしたが、ザクセン公モーリッツ(ヨハン=フリードリヒの従弟で、アルベルティン家の当主)が、選帝侯の地位を約束されて皇帝側に寝返ったことで、戦況は一変します。1547年4月24日、ヴィッテンベルクのすぐ近くで行われた「ミュールベルクの戦い」で、皇帝軍はシュマルカルデン同盟軍に圧勝し、選帝侯ヨハン=フリードリヒは捕虜となりました。
ヴィッテンベルクの降伏と皇帝の寛容
ミュールベルクでの勝利の後、皇帝カール五世の軍隊は、ヴィッテンベルクを包囲しました。町は、ヨハン=フリードリヒの妻シビュラの指揮の下、しばらくの間抵抗を続けましたが、皇帝が、捕虜としたヨハン=フリードリヒを処刑すると脅したため、ついに降伏を余儀なくされました。1547年5月、カール五世は、勝利者としてヴィッテンベルクに入城しました。彼は、城教会を訪れ、宿敵であったマルティン=ルターの墓の前に立ちました。側近の一人が、この異端者の骨を掘り出して燃やすべきだと進言したのに対し、カール五世は、「私は、死者とではなく、生者と戦うのだ。彼を安らかに眠らせておけ」と答えて、その進言を退けたと伝えられています。この寛大な態度は、多くの人々を驚かせましたが、それは、皇帝の政治的な計算によるものだったかもしれません。彼は、プロテスタントの感情を不必要に刺激することを避けたかったのです。
選帝侯位の移行と大学の分裂
戦争の結果、ヴィッテンベルクの運命は暗転しました。カール五世は、約束通り、ザクセン選帝侯の地位と、ヴィッテンベルクを含む領地の大部分を、エルネスティン家のヨハン=フリードリヒから取り上げ、裏切りの代償として、アルベルティン家のモーリッツに与えました。これにより、ヴィッテンベルクは、その創設以来のパトロンであったエルネスティン家の支配を離れ、新しい支配者の下に置かれることになりました。この政治的な変化は、ヴィッテンベルク大学に深刻な亀裂をもたらしました。メランヒトンをはじめとする多くの教授たちは、新しい支配者であるモーリッツに協力し、ヴィッテンベルクに留まることを選びました。彼らは、皇帝が強いた暫定規定(アウクスブルク=インテリム)に対して、妥協的な態度をとったため、ルターの教えを厳格に守ろうとする人々から、「フィリップ派」あるいは「妥協派」として、激しい非難を浴びることになります。一方、追放された旧選帝侯ヨハン=フリードリヒは、自らの新たな領地であるテューリンゲンのイェーナに、新しい大学(イェーナ大学)を創設しました。この大学には、メランヒトンの妥協を許さない、厳格なルター主義者(「純正ルター派」)たちが結集し、彼らは、ヴィッテンベルクの神学者たちを、福音を裏切った者として、激しく攻撃しました。かつては一つの旗の下に結束していたヴィッテンベルクの改革運動は、こうして二つの陣営に分裂し、互いに「異端」として非難し合う、激しい神学論争(インテリム論争)に突入していきました。
思想的中心地としての地位の喪失
この分裂と内紛によって、ヴィッテンベルクは、プロテスタント世界全体の思想的な中心地としての、比類のない地位を、決定的に失いました。もはや、ヨーロッパ中のプロテスタントが、一致して仰ぎ見るような、唯一の権威ではなくなったのです。大学は存続し、その後もルター派正統主義の重要な拠点の一つであり続けましたが、かつてのような、ヨーロッパ全土から学生が集まる、国際的な輝きを取り戻すことはありませんでした。宗教改革の震源地であり、その思想と文化の揺りかごであったヴィッテンベルクの歴史的な役割は、シュマルカルデン戦争の敗北と共に、終わりを告げたのです。しかし、この小さな町が、ルターとその仲間たちの活動を通して、ヨーロッパ史の転換点において果たした役割、そして、彼らがこの地で生み出し、世界へと広めた思想と文化の遺産は、その後も長く生き続け、西洋世界の形成に、深遠な影響を与え続けることになります。
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