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ローマ帝国(元首政、五賢帝時代、ドミナトゥス、西ローマ帝国滅亡など) 受験対策問題 12
著作名: レキシントン
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ローマ帝国で押さえておきたいポイント

※赤字部分が問題に出そうな部分です。赤色の暗記シートなどで隠して見てください。

帝政ローマの誕生

・紀元前30年にエジプトを併合し、全地中海の覇権を手にしたオクタヴィアヌスは、ローマに凱旋後の紀元前27年にアウグストゥス(尊厳者)という尊称を元老院から受けた。

・オクタヴィアヌスは自らをプリンケプス(元首)と呼んだ。これは、「第一の市民」という意味で、名目上共和制の伝統を尊重し、元老院に配慮したものだった。

・オクタヴィアヌスによって紀元前27年から始まった政治体制をプリンキパトゥス(元首政)といい、名目上共和制の伝統を尊重したものの、実質的にはオクタヴィアヌスに権力が集中したため、これ以降事実上の帝政が始まり、ローマ帝国が誕生した。

・初期の帝政は平和と安定の時期を迎え、中には暴君ネロなども現れたが、アウグストゥスから五賢帝時代までの200年間をパックス=ロマーナ(「ローマの平和」)という。

五賢帝とは、ネルヴァからマルクス=アウレリウス=アントニヌスまでの5人の皇帝のことで、ローマ帝国は最盛期を迎えた。

ネルヴァ在位96~98年。最初の五賢帝。
トラヤヌス在位98~117年。スペインから来た属州出身の皇帝。帝国の最大版図を実現。
ハドリアヌス在位117~138年。ブリタニアにハドリアヌスの長城を築く。
アントニヌス=ピウス在位138~161年。貧民救済と財政改革を行う。
マルクス=アウレリウス=アントニヌス五賢帝最後の皇帝。哲学者でもあり、『自省録』を著す。『後漢書』の大秦王安敦


・帝政ローマ初期の1~2世紀にかけて、モンスーンという季節風を利用した季節風貿易が盛んになった。ローマはアジアと交易し、香辛料を輸入する一方で、ガラスぶどう酒金貨を輸出した。この季節風貿易の様子を描いている当時の史料が、『エリュトゥラー海案内記』である。

ローマ帝国の混乱と軍人皇帝時代

・マルクス=アウレリウス=アントニヌスの死後、五賢帝時代が終わり、ローマ帝国は「3世紀の危機」を迎える。

・属州反乱が頻発し、ササン朝ゲルマン人などの外敵の侵攻も激しさを増し、ローマ社会は次第に混乱していった。

・こうした混乱の中皇帝となったカラカラ帝(在位211~217)は、反乱を抑えるために、212年にアントニヌス勅令を発布し、全帝国領内の自由民にローマ市民権を与えた。これにより、ローマ人と外国人の区別が無くなり、ローマは世界帝国となっていった。

・ローマはこの時代、ササン朝と東方の領土を巡って争っていた。抗争のさなか、エデッサの戦いシャープール1世に敗れたローマは、皇帝ヴァレリアヌスが捕虜になるなど、劣勢となった。

235年のマクシミヌス帝の即位以降、284年のディオクレティアヌス帝が即位するまで、約50年間に26人もの皇帝が次々と即位する異常事態となった。これを軍人皇帝時代という。

・軍人皇帝時代に、ローマ帝国は東方の専制君主制に近づき、軍隊の主力は傭兵に、奴隷制は土地に縛られたコロヌスという隷属小作人を使用したコロナートゥスへと変わっていった

ドミナトゥスとローマ帝国の衰退

・最後の軍人皇帝ディオクレティアヌス(在位284~305)が即位すると、混乱を収拾し、専制君主制であるドミナトゥスをはじめた。ディオクレティアヌスは、首都をニコメディアに遷都し、キリスト教徒に対する最後の大迫害を行った。

・ドミナトゥスは、皇帝が自ら主(ドミヌス)を称し行った専制君主制で、ペルシアにならった宮廷儀礼や皇帝崇拝、官僚制の整備などが特徴であった。元老院は完全に無視され、皇帝は絶対的権力者としてふるまった。

・ローマ帝国の広大な領土を支配するため、ディオクレティアヌスは四部統治(テトラルキア)を始めた。東西に二人の正帝と副帝を置き、ディオクレティアヌスは東方の正帝として統治した。

・テトラルキアはうまく行かず、ディオクレティアヌスの退位後、帝国は再び混乱した。こうした混乱を治め、帝国を再統一したのがコンスタンティヌス帝(正帝在位310~337)で、313年にミラノ勅令を発布しキリスト教を公認し、325年にはニケーア公会議を開きアリウス派を異端とし、アタナシウス派が正統なキリスト教の教義となった。

330年には、ビザンティウムに遷都し、自らの名前を冠したコンスタンティノープルに改称する。その他にも、帝国民の身分や職業の固定化、官僚制度の整備、ソリドゥス金貨の鋳造などを行い、専制君主制が確立されていった。

東西分裂と帝国の滅亡

・コンスタンティヌス帝による専制政治も長くは続かず、375年にゲルマン民族の大移動が始まったことで、ローマ帝国の衰退が加速する。

・紀元前379年にテオドシウスが即位すると、392年にキリスト教をローマ帝国の国教と定めた。テオドシウスはローマ帝国の再統一を果たすが、最終的に395年に広大な帝国を東西2つに分けた。

東ローマ帝国は、テオドシウスの長男アルカディウスに与えられ、ビザンツ帝国として1453年まで存続した。

西ローマ帝国は、テオドシウスの次男ホノリウスに与えられたが、その後首都がローマからミラノラヴェンナに移り、帝国の領土は縮小していった。最終的に476年、力をつけたゲルマン人傭兵隊長オドアケルによって滅ぼされた。

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