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【第一次世界大戦の終結、ヴェルサイユ条約、ワシントン会議、国際協調の時代】 受験日本史まとめ 67
著作名: Cogito
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ヴェルサイユ条約の締結

第一次世界大戦は各国の総力戦となり、動員総兵力6500万人、死者1億8000万人、戦費1860億ドルという当時史上最大の被害をもたらしました。1917年にアメリカが連合国として参戦し、ドイツ経済の崩壊など、次第に同盟国側の敗色が濃厚となっていきました。

1918年1月、アメリカ合衆国大統領ウィルソン(1856〜1924)は平和原則一四カ条を発表し、和平を提唱しました。また、同時期ドイツでも、ロシア革命の影響を受け、労働者のストライキが頻発し、革命運動が高まり、1918年11月にドイツ帝政が崩壊し、同盟国の敗北により第一次世界大戦は終結しました。

1919年1月から、パリ講和会議(対独講和会議)が開催され、日本は西園寺公望を首席全権とし、牧野伸顕とともに代表団として派遣しました。パリ講和会議では、イギリス・アメリカ・フランス・イタリア・日本の五大国、中でも英米仏の三大国が主導権を握り、同年6月にヴェルサイユ条約が締結されました。この条約ではウィルソン大統領が提唱した平和原則は採用されず、実際は大国の利害に基づくもので敗戦国ドイツに非常に不利な内容でした。

(1)ドイツは国土の一部と海外植民地をすべて喪失する。
(2)1320億マルクという巨額の賠償金。
(3)空軍の保有を禁止。
(4)陸海軍の大幅な軍備制限。

こうした対独賠償問題は、第一次世界大戦後のドイツの負担となり、1921年に1320億マルクだった賠償金は1929年には358億マルクに減額されましたが、世界恐慌によりドイツの支払いが不可能となり、ヒトラー政権成立後ヴェルサイユ条約は破棄され、第二次世界大戦へと続く遠因となります。

この条約により成立した世界体制をヴェルサイユ体制とよび、民族自決の原則によりポーランド・チェコ・ハンガリー・ユーゴ・フィンランドなどの新国家が誕生しました。しかし、この原則はアジアやアフリカの植民地には適用されませんでした。

日本はこの講和会議により、山東半島の領土権を中国に返還し、代わりにドイツの山東省の権益を引き継ぎ、赤道以北南洋諸島を国際連盟から委任統治することとなりました。また同時期、日本は国際連盟の規約の中に人種差別禁止の項目を入れるように提案しましたが、アメリカやイギリスなど大国の反対により実現しませんでした。

日本が山東省の旧ドイツ権益を継承したことで、中国では激しい反対運動が起こりました。1919年(大正8年)5月4日、北京の学生を中心とした五・四運動と呼ばれる大規模な日本製品のボイコットやデモが活発になり、最終的に中国代表はヴェルサイユ条約に調印しませんでした。

また、朝鮮でも同年3月1日、京城(ソウル)で独立運動がはじまり、各地に広がりました。この三・一独立運動(万歳事件)に対し、日本は軍隊や警察を投入し鎮圧にあたりました。朝鮮総督府による武力統治や民族同化政策などに反発して起こったこの運動に対し、日本政府は朝鮮総督の任用資格を現役軍人から文官まて拡大し、憲兵警察を廃止し、新任の斉藤実総督のもとで文化政治を実施し、産米増殖計画など朝鮮統治を融和的に行うようになりました。




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