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サンバルテルミの虐殺とは わかりやすい世界史用語2648 |
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著作名:
ピアソラ
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サンバルテルミの虐殺とは
1572年の夏、フランスの首都パリは、一見すると祝祭の喜びに満ち溢れていました。王国を長年にわたって引き裂いてきたカトリックとプロテスタント(ユグノー)の間の憎しみに満ちた対立に、ようやく終止符が打たれるかに見えたのです。その希望の象徴こそ、8月18日に行われた、国王シャルル9世の妹でカトリック教徒のマルグリット=ド=ヴァロワと、ユグノーの若き指導者であるナバラ王アンリとの政略結婚でした。
この結婚は、国王の母であり、フランス宮廷の真の実力者であったカトリーヌ=ド=メディシスの長年の努力の結晶でした。彼女は、10年にも及ぶユグノー戦争で疲弊しきった王国を立て直すため、両派の和解こそが唯一の道であると考えていました。この宗派を超えた婚姻によって、ヴァロワ王家と、ユグノーを率いるブルボン家という、フランスの二大貴族が結びつき、国民的な和解への道が開かれるはずでした。
この歴史的な結婚式を祝うため、フランス全土からユグノーの貴族たちが、その指導者であるナバラ王アンリに付き従ってパリへと集結しました。その中には、ユグノーの最も尊敬される軍事指導者であり、政治家でもあったガスパール=ド=コリニー提督の姿もありました。彼らは、この結婚が自分たちの信仰と安全を保障する新たな時代の幕開けであると信じ、希望に胸を膨らませていたかもしれません。
しかし、この華やかな祝祭の裏側では、不穏な空気が渦巻いていました。パリは、熱狂的なカトリック教徒が大多数を占める都市でした。彼らにとって、自分たちの聖なる都に、「異端者」であるユグノーが、しかも武装して大挙して滞在していること自体が、耐え難い屈辱であり、神への冒涜でした。カトリックの過激派の説教師たちは、説教壇からこの「不浄な」結婚を激しく非難し、ユグノーに対する民衆の憎悪を日夜煽り立てていました。街角では、武装したユグノーの従者たちと、挑発的なパリ市民との間で、小競り合いが絶えませんでした。祝祭の雰囲気は、火薬庫のような緊張感と隣り合わせだったのです。
宮廷内でも、この結婚は新たな権力闘争の火種を生んでいました。コリニー提督は、その実直な人柄と優れた見識で、若き国王シャルル9世の深い信頼を勝ち取り、宮廷における影響力を急速に強めていきました。彼は、国王に対し、当時スペインの圧政に対して反乱を起こしていたネーデルラントのプロテスタントを支援するため、カトリックの大国スペインと開戦するよう、情熱的に説いていました。この計画は、フランス国内の宗教対立を、対スペインという共通の敵に向けることで、国民的な団結を生み出そうという壮大な構想でした。
しかし、この外交政策は、何としてもスペインとの全面戦争を避けたいカトリーヌ=ド=メディシスの基本方針と真っ向から対立するものでした。彼女は、コリニーが純粋な息子シャルルを危険な戦争へと引きずり込み、自分から権力を奪い取ろうとしていると考え、彼に対して強い警戒心と敵意を抱くようになります。かつて和解の象徴として宮廷に招き入れたはずのコリニーは、今や彼女の政治的野心を脅かす、最大の障害となっていたのです。
結婚式の祝宴が数日間にわたって続く中、この張り詰めた糸が、ついに断ち切られる時が来ます。和解の祭典は、フランス史上最も暗く、血塗られた悲劇への序曲となろうとしていました。
引き金
結婚式の祝祭がまだ続く1572年8月22日の朝、ガスパール=ド=コリニー提督は、ルーヴル宮殿での国王シャルル9世との会議を終え、宿舎へと歩いて戻る途中でした。彼が書物を読みながら通りを歩いていたその時、一軒の家の窓格子の中から、火縄銃の轟音が鳴り響きました。放たれた弾丸は、提督の左腕の指を吹き飛ばし、右腕を貫通しました。コリニー提督は、その場に崩れ落ちます。暗殺は、幸いにも未遂に終わりましたが、この一発の銃弾が、フランス全土を震撼させる大虐殺の引き金となったのです。
狙撃犯は、すぐに馬に乗って逃走しました。後の調査で、銃が発射された家は、カトリック過激派の筆頭であるギーズ家の関係者のものであったことが判明します。ユグノーたちは、この暗殺未遂が、長年の宿敵であるギーズ公アンリの陰謀であると即座に確信しました。ギーズ家は、かつて第二次ユグノー戦争で、コリニーの命令によって父フランソワが暗殺されたと信じており、その復讐の機会を狙っていたのです。
重傷を負ったコリニー提督の宿舎には、国王シャルル9世自らが見舞いに訪れました。国王は、涙ながらに提督の手を取り、「傷の痛みはあなたのものだが、その屈辱は私のものだ」と語り、犯人を必ず探し出し、厳正に処罰することを誓いました。しかし、この国王の言葉も、激しく憤るユグノーたちを鎮めることはできませんでした。
コリニーの宿舎に集まったユグノーの貴族たちは、怒りに燃えていました。彼らは、これは単なる個人的な復讐ではなく、和平協定を破棄し、ユグノー全体を標的とした攻撃であると考えました。彼らは、国王に対し、もし正義が行われないのであれば、自分たちの手でギーズ家に報復すると、公然と宣言します。パリの街には、「コリニー提督の復讐」を叫ぶ武装したユグノーの姿が見られるようになり、空気は一触即発の危険な状態となりました。
この緊迫した状況は、国王シャルル9世と母カトリーヌ=ド=メディシスを極度の恐怖とパニックに陥れました。彼らは、ユグノーの報復がギーズ家との全面的な市街戦を引き起こし、それが新たな内戦へと発展し、最終的には王権そのものが転覆させられるかもしれない、という悪夢のようなシナリオに怯えました。特にカトリーヌは、自らが心血を注いで築き上げた和平が、目の前で崩れ去ろうとしていることに絶望しました。
さらに、彼女には別の恐怖もありました。コリニー暗殺未遂の背後には、実は彼女自身、あるいはギーズ家と結託した彼女の意図があったのではないか、という説が根強くあります。もしそうだとすれば、調査が進めば自らの関与が露見し、ユグノーの怒りが直接自分たちに向けられることを恐れたのかもしれません。
追い詰められたカトリーヌとシャルル9世は、8月23日の夜、ルーヴル宮殿で側近たちと極秘の会議を開きます。この会議で、一体何が話し合われ、どのような決断が下されたのか、その正確な内容は歴史の闇に包まれています。しかし、その後に起こった出来事から推測するに、彼らが導き出した結論は、恐るべきものでした。それは、ユグノーの報復という脅威を根絶するためには、もはや選択肢は一つしかない、というものでした。すなわち、ユグノーの指導者たちが一堂に会しているこの絶好の機会を捉え、彼らを先制攻撃によって皆殺しにしてしまう、という計画です。それは、もはや和平の維持ではなく、敵対勢力の物理的な殲滅を目的とした、冷酷な決断でした。国王は、ためらいの末に、この計画を承認したと言われています。フランスは、後戻りのできない破滅への道を突き進むことになりました。
虐殺の夜
1572年8月24日の未明、パリの空はまだ暗闇に包まれていました。前日の夜から、パリ市当局は、国王の命令であるとして、市内の各地区の民兵を召集し、武装させていました。彼らには、ユグノーの陰謀から王家を守るためであると説明され、目印として腕に白い布を巻き、帽子に白い十字架をつけるよう指示されました。セーヌ川沿いの商人頭の家には、ギーズ公アンリをはじめとするカトリックの指導者たちが集まり、その時を待っていました。
午前3時頃、ルーヴル宮殿の対岸にあるサン=ジェルマン=ロクセロワ教会の鐘が、予定より早く、しかし大きく鳴り響き始めました。それが、虐殺の開始を告げる合図でした。
最初の標的は、暗殺未遂で負傷し、ベッドに横たわっていたガスパール=ド=コリニー提督でした。ギーズ公アンリに率いられた一団が、提督の宿舎を襲撃しました。護衛の者たちはたちまち殺害され、襲撃者たちは提督の寝室へと押し入ります。一人の男が「お前がコリニーか」と問うと、提督は「いかにもそうだ。若者よ、私の白髪を敬いたまえ」と威厳をもって答えたと伝えられています。しかし、彼らは容赦なく提督を剣で突き刺し、まだ息のあるその体を窓から下の通りへと投げ落としました。通りで待っていたギーズ公は、死体の顔を確認すると、満足げにその場を去りました。コリニー提督の遺体は、その後、激怒した民衆によって切り刻まれ、凌辱の限りを尽くされました。
コリニー提督の殺害を皮切りに、パリの街は血に飢えた狂気の渦に飲み込まれていきました。国王の衛兵と民兵、そしてギーズ公の部下たちは、あらかじめ作成されていたリストに基づき、ユグノー貴族たちが宿泊している家々を次々と襲撃しました。眠り込んでいた彼らは、抵抗する間もなく、寝室で殺害されていきました。
ルーヴル宮殿の中でも、虐殺が行われました。結婚式のために招待され、宮殿内に宿泊していた多くのユグノー貴族たちが、衛兵によって叩き起こされ、中庭へと引きずり出されて、次々と殺されていきました。その中には、フランソワ=ド=ラ=ロシュフコーのような、国王の親しい友人さえ含まれていました。
虐殺の対象となったのは、ナバラ王アンリ(後のアンリ4世)と、その従兄弟であるコンデ公アンリも例外ではありませんでした。彼らは国王の前に引き出され、死か、さもなければカトリックへの改宗かを迫られました。二人は、命乞いのために、その場で改宗を誓うことを余儀なくされ、宮殿内に軟禁されることで、かろうじて死を免れました。
この計画的な指導者の殺害は、すぐに制御不能な民衆の暴動へと発展します。教会の鐘の音と、「王の命令だ、異端者を殺せ」という叫び声に煽られたパリ市民は、武器を手に街へ繰り出しました。彼らは、ユグノーと見なした人々を、手当たり次第に襲い始めます。隣人、商売敵、借金の相手など、日頃の恨みつらみが、宗教的な憎悪を口実として一気に爆発しました。
家々は打ち壊され、店は略奪され、人々は路上で、あるいは自宅から引きずり出されて殺害されました。男も、女も、子供も、赤ん坊でさえ、容赦なく殺されました。セーヌ川は、投げ込まれたおびただしい数の死体で赤く染まり、その流れを堰き止めるほどであったと、当時の記録は伝えています。ある金細工師は、自分の幼い子供を殺害し、その血で自分自身に洗礼を施したと言われています。狂気は、人間性の最も暗い部分を白日の下に晒しました。
このパリでの虐殺は、少なくとも3日間続きました。国王シャルル9世は、当初、指導者の殺害のみを意図していたのかもしれませんが、一度解き放たれた民衆の暴力の奔流を、もはや止めることはできませんでした。彼は、虐殺の翌日、事態を正当化するため、ユグノーが国王と王家を殺害する陰謀を企てていたため、それを未然に防ぐための措置であった、と公式に発表しました。この国王による追認は、虐殺に正当性のお墨付きを与え、その狂気をさらに加速させる結果となりました。
地方への拡大
パリを血で染めた虐殺の狂気は、首都の中だけに留まりませんでした。国王シャルル9世が、ユグノーの陰謀を防ぐための正当な行為であったと虐殺を追認し、地方の総督たちに「同様の事態」に備えるよう指示する手紙を送ったことで、殺戮の波はフランス全土へと広がっていきました。
8月25日以降、パリでの虐殺のニュースは、驚くべき速さで地方の主要都市へと伝わっていきます。そして、オルレアン、リヨン、ルーアン、ボルドー、トゥールーズといった、ユグノーのコミュニティが存在する多くの都市で、パリの惨劇が繰り返されることになりました。
そのパターンは、多くの場合、似通っていました。まず、パリからの知らせが届くと、都市の過激なカトリック教徒や、市政を牛耳る者たちが、地元のユグノーを「保護」するという名目で、牢獄や公共の建物に集め、監禁します。そして、数日後、扇動された民衆や民兵がその建物を襲撃し、非武装のユグノーたちを無差別に殺害する、というものでした。
例えば、フランス第二の都市であったリヨンでは、虐殺は特に大規模で組織的でした。8月31日、市の参事会はユグノーたちを牢獄に集めましたが、公式の処刑人が殺害を拒否したため、民衆が牢獄に押し入り、数百人のユグノーを殺害しました。その遺体は、ローヌ川に投げ込まれました。
オルレアンでは、8月26日から3日間にわたって虐殺が続き、約1000人が犠牲となりました。ルーアンでは、9月17日から4日間にわたり、約600人のユグノーが殺害されました。ボルドーやトゥールーズといった南西部の都市でも、同様の悲劇が繰り返されました。
しかし、全ての都市で虐殺が起こったわけではありません。地方総督や市長の中には、国王の曖昧な指示にもかかわらず、自らの良心に従い、虐殺の命令を拒否したり、あるいは巧みに回避したりして、市民であるユグノーを保護した者たちもいました。ナント、バイヨンヌ、ディジョンなどの都市では、指導者の賢明な判断によって、大虐殺は未然に防がれました。これは、この事件が、単なる中央からの命令による一方的な殺戮ではなく、それぞれの地域の宗教的対立の度合いや、指導者の資質に大きく左右された、複雑な現象であったことを示しています。
このフランス全土にわたる虐殺の連鎖は、秋まで続きました。最終的に、このサン=バルテルミの虐殺によって、どれだけの人が命を落としたのか、その正確な数を特定することは不可能です。パリだけで約2000人から3000人、地方を合わせると、控えめな見積もりでも5000人、多い説では3万人もの人々が犠牲になったと推定されています。それは、16世紀のヨーロッパにおいて、単一の事件としては最大級の市民虐殺でした。
この事件は、ユグノーのコミュニティに壊滅的な打撃を与えました。多くの指導者が殺害され、生き残った者たちの多くは、恐怖からカトリックへの改宗を強制されるか、あるいは財産を捨てて国外へ亡命するしかありませんでした。ジュネーヴやイングランドといったプロテスタント国には、フランスからの難民が殺到しました。虐殺は、ユグノーの勢力を物理的に大きく削ぐとともに、彼らの心に、決して癒えることのない深い傷跡を残したのです。
国際的な反応
サン=バルテルミの虐殺のニュースは、ヨーロッパ中の宮廷に衝撃と、そして全く異なる二つの反応を引き起こしました。カトリック諸国とプロテスタント諸国とでは、その受け止め方は天と地ほども異なっていたのです。
カトリック世界では、この事件は、神の敵である異端者に対する輝かしい勝利として、熱狂的に歓迎されました。特に、カトリックの守護者を自任するスペイン国王フェリペ2世は、この知らせを聞いて、生涯で数少ない満面の笑みを浮かべたと伝えられています。彼は、フランスがようやく異端の根絶に乗り出したことを称賛し、シャルル9世に祝辞を送りました。
ローマ教皇庁でも、反応は同様でした。教皇グレゴリウス13世は、虐殺の報告を受けると、感謝の祈りを捧げるためのミサを執り行い、テ・デウムを歌わせました。さらに、この「勝利」を記念して、虐殺の場面を描いたフレスコ画をヴァチカン宮殿に描かせ、記念のメダルを鋳造させました。そのメダルには、天使が剣を手にユグノーを打ち倒す場面と、「ユグノーの虐殺、1572年」という銘が刻まれていました。これらの反応は、当時のカトリック教会が、この事件を、宗教的な正義の執行として、いかに肯定的に捉えていたかを物語っています。
一方で、プロテスタント諸国は、このニュースに戦慄し、激しい怒りと恐怖に包まれました。イングランド女王エリザベス1世の宮廷は、喪に服しました。フランス大使が弁明のために謁見を求めた際、宮廷の誰もが黒い喪服を身にまとい、重い沈黙の中で彼を迎えたと言われています。エリザベス女王は、この野蛮な行為を厳しく非難しましたが、現実的な政治家として、フランスとの同盟関係を完全に断ち切ることはしませんでした。
神聖ローマ帝国内のプロテスタント諸侯も、同様に激しく憤慨しました。スイスのジュネーヴや、ドイツの諸都市には、虐殺を逃れてきたユグノー難民が殺到し、彼らが語る悲惨な体験談は、カトリックに対する不信感と憎悪を一層かき立てました。
この虐殺は、ヨーロッパにおける宗派間の対立を、もはや妥協の余地のない、決定的なものへと変質させました。プロテスタント側は、カトリック教会とその背後にいるスペインが、ヨーロッパからプロテスタントを根絶やしにするための国際的な陰謀を進めているという確信を強めました。サン=バルテルミの虐殺は、単なるフランス国内の事件に留まらず、ヨーロッパ全土を巻き込む、より大規模な宗教戦争への道を開く、重大な転換点となったのです。それは、異なる信仰を持つ者同士が、いかに容易に互いを非人間化し、残虐行為に走りうるかという、恐るべき実例を世界に示しました。
虐殺の責任
サン=バルテルミの虐殺は、誰が、どのような意図で計画したのか。この問いは、事件直後から現代に至るまで、歴史家たちの間で激しい議論の的となってきました。その複雑さと、信頼できる一次資料の欠如から、単一の明快な答えを出すことは極めて困難です。しかし、いくつかの主要な説と、その背後にある要因を探ることは可能です。
カトリーヌ=ド=メディシスの役割
伝統的に、虐殺の首謀者として最も強く非難されてきたのが、国王シャルル9世の母、カトリーヌ=ド=メディシスです。この説によれば、彼女は、コリニー提督が息子シャルルに与える影響力を排除し、自らの権力を維持するために、まずコリニーの暗殺を計画しました。しかし、その暗殺が未遂に終わり、ユグノーの報復を恐れた彼女が、パニックの中で、ユグノー指導者全員の殺害へと計画をエスカレートさせた、とされます。彼女を「黒い王妃」として描く、ユグノー側のプロパガンダによって、このイメージは長らく定着してきました。彼女が、決断の過程で中心的な役割を果たしたことは、多くの歴史家が認めるところです。しかし、彼女が当初から大規模な市民虐殺まで意図していたかどうかについては、疑問が残ります。彼女の行動は、権力への執着と、王家の存続を脅かす危機に対する、場当たり的でパニック的な反応であった可能性も高いのです。
国王シャルル9世の役割
国王シャルル9世の責任もまた、重大です。彼は、最終的に虐殺の実行を承認した最高権力者でした。当初はコリニー提督を深く信頼し、暗殺未遂に涙を流した彼が、なぜ一夜にして指導者たちの殺害を命じるに至ったのか。多くの記録は、彼が優柔不断で、精神的に不安定な人物であり、母カトリーヌや側近たちの強い圧力に屈して、不本意ながら同意したことを示唆しています。虐殺の後、彼は「ユグノーの陰謀」を口実に自らの行為を正当化しましたが、その後の彼は、虐殺の罪悪感に苛まれ、精神を病んでいったと言われています。彼の決断は、弱い君主が、極限の状況下でいかに恐ろしい選択をしうるかを示しています。
ギーズ家とパリ市民の役割
ギーズ家、特にその当主であるギーズ公アンリが、虐殺において積極的な役割を果たしたことは間違いありません。彼らは、父の仇であるコリニー提督への復讐心と、カトリックの擁護者としての立場から、虐殺の実行部隊として動きました。しかし、彼らが虐殺全体を計画した首謀者であったというよりは、王家の決定に乗じて、自らの目的を果たしたと見るべきでしょう。
そして、忘れてはならないのが、パリ市民の自発的な暴力です。王家やギーズ家が計画したのは、あくまでユグノー指導者の殺害であったかもしれません。しかし、それが数千人規模の市民虐殺へと発展したのは、長年にわたって蓄積されてきた、パリ市民の宗教的憎悪、経済的な不満、そして異質なものへの恐怖が一気に爆発したためです。彼らは、単に命令に従っただけではなく、自らの意志で、隣人を、商売敵を、異端者を殺害しました。この民衆の熱狂と残虐性なくして、サン=バルテルミの虐殺は、あれほどの規模にはならなかったでしょう。
結論として
結論として、サン=バルテルミの虐殺は、単一の首謀者による計画的な犯行というよりは、複数の要因が連鎖し、相互に作用し合った結果として発生した、複合的な悲劇であったと言えます。カトリーヌの権力闘争、シャルル9世の弱さ、ギーズ家の復讐心、そしてパリ市民の宗教的狂信。これらの要素が、コリニー提督暗殺未遂という偶発的な事件をきっかけに、制御不能な暴力の連鎖を引き起こしたのです。それは、特定の個人の悪意だけでなく、当時のフランス社会が抱えていた構造的な対立と、集団心理の恐ろしさがもたらした、必然的な帰結だったのかもしれません。
虐殺が残したもの
サン=バルテルミの虐殺は、フランスの歴史、そしてヨーロッパの宗教史において、一つの決定的な転換点となりました。その影響は、政治、宗教、思想のあらゆる側面に及び、その後数十年にわたって、フランスを深い混乱の渦に巻き込んでいきました。
ユグノー戦争の激化
虐殺の最も直接的な結果は、ユグノー戦争の性格を、より妥協のない、イデオロギー的な総力戦へと変質させたことでした。虐殺以前、戦争は、貴族間の権力闘争の側面が強く、和平と戦闘が繰り返されていました。しかし、虐殺によって、カトリックとプロテスタントの和解の可能性は完全に断ち切られました。
ユグノーたちは、ヴァロワ王家を、もはや信頼できない裏切り者、神の法に背く「暴君」と見なすようになります。彼らは、虐殺を生き延びた指導者の下で再結集し、南フランスに、独自の議会、税制、軍隊を持つ、事実上の独立共和国(「ユグノー共和国」とも呼ばれる)を形成しました。彼らの戦いは、単なる自衛から、圧政に対する革命的な抵抗へとその意味合いを変えたのです。これにより、第四次ユグノー戦争が勃発し、フランスはさらに泥沼の内戦へと沈んでいきました。
抵抗権思想の発展
この政治状況の変化は、ユグノーの思想家たちに、急進的な政治理論を発展させるきっかけを与えました。彼らは、国王が神の法と民衆との契約を破った場合、民衆は、その暴君に抵抗し、さらにはこれを打倒する権利を持つ、と主張しました。フランソワ=オットマンの『フランコ=ガリア』や、フィリップ=デュ=プレシ=モルネーの偽名で書かれた『暴君に対する反抗の権利』といった「モナルコマキ(暴君放伐論)」の著作は、ヨーロッパの政治思想史に大きな影響を与えました。これらの理論は、後のオランダ独立戦争やイギリス革命、さらにはアメリカ独立革命における抵抗権の思想の源流の一つとなっていきます。皮肉なことに、絶対王政の強化を目指したはずの虐殺が、王権を制限し、それに抵抗する理論を生み出す土壌となったのです。
ポリティーク派の台頭
一方で、この果てしない宗教的対立と、虐殺が示した狂信の恐ろしさは、宗派間の対立よりも国家の平和と統一を優先すべきだと考える、穏健派の人々を生み出しました。彼らは「ポリティーク」派と呼ばれ、カトリック、ユグノーのどちらの過激派とも距離を置き、宗教的寛容に基づく現実的な解決策を模索しました。彼らは、国家の安定のためには強力な王権が必要であるとしつつも、その王権は、全ての臣民の上に立つ公平な存在でなければならない、と主張しました。このポリティーク派の思想は、後のアンリ4世による国家再建の理念的な基盤となり、ナントの王令へと結実していくことになります。
歴史的記憶
サン=バルテルミの虐殺は、フランス国民の記憶に、決して消えることのない深い傷跡として刻まれました。ユグノーにとっては、それはカトリックの不寛容と裏切りの象徴であり、その後の世代にわたって語り継がれる悲劇の物語となりました。カトリック側にとっても、この事件は、宗教的な熱狂がもたらす暴力の恐ろしさを示す、負の遺産となりました。
この虐殺の記憶は、フランスにおける政教分離(ライシテ)の原則が確立される過程においても、重要な役割を果たしたと言えるでしょう。国家が特定の宗教と一体化し、宗教的な統一を強制しようとすることが、いかに悲惨な結果を招くか。サン=バルテルミの虐殺は、その最も痛ましい歴史的教訓として、フランスの集合的記憶の中に生き続けているのです。
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