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ジェントリ(郷紳)とは わかりやすい世界史用語2641 |
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著作名:
ピアソラ
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ジェントリとは
イギリスの歴史を語る上で、ジェントリという社会階層の存在は欠かすことができません。彼らは貴族とヨーマン(独立自営農民)の間に位置し、イギリス社会の骨格を形成する上で極めて重要な役割を果たしてきました。このジェントリという階層がどのようにして生まれ、発展していったのか、その起源をたどることは、イギリスという国の成り立ちを理解する上で、一つの鍵となるように思います。
ジェントリの起源は、中世後期、特に14世紀から15世紀にかけてのイングランド社会の変動にまで遡ることができます。この時代、封建制度の根幹をなしていた騎士階級に変化が生じ始めました。かつて騎士は、領主への軍事奉仕を主な役割とする戦士階級でしたが、戦争の形態が変化し、国王が傭兵や常備軍に依存するようになると、その軍事的な重要性は相対的に低下していきます。一方で、彼らは地方社会における行政や司法の担い手としての役割を強めていきました。国王は、地方の治安維持や統治を、貴族だけでなく、地域の有力な土地所有者である彼らに委ねるようになります。これが、後のジェントリの原型となる「カウンティ=コミュニティ」の支配層の形成につながったと考えられます。
「ジェントリ」という言葉自体は、フランス語の「gentil」(高貴な生まれの)に由来し、当初は貴族を含む広い意味での上流階級を指していたようです。しかし、次第に、世襲の爵位を持つ貴族とは区別された、土地を所有する非貴族の上流階級を指す言葉として定着していきました。彼らは貴族のように議会に議席を持つわけではありませんでしたが、その地域の有力者として、社会に大きな影響力を持っていました。
この階層の形成を加速させたのが、15世紀の薔薇戦争です。ランカスター家とヨーク家という二つの王家が王位を巡って争ったこの内乱は、多くの旧来の貴族を没落させました。その一方で、戦争を生き延び、あるいは混乱の中で巧みに立ち回って富を築いた者たちが、新たな土地所有者として台頭する機会を得たのです。彼らは、没落した貴族の土地を買い集め、自らの経済的基盤を固めていきました。
さらに、16世紀のテューダー朝、特にヘンリー8世による宗教改革は、ジェントリの地位を決定的に押し上げる要因となりました。ヘンリー8世は、ローマ=カトリック教会との決別を宣言し、国内の修道院を解散させ、その広大な土地と財産を没収します。そして、その没収された土地の多くが、王室の財政を潤すために、ジェントリ層に安価で払い下げられました。この「修道院解散」によって、ジェントリはかつてない規模で土地所有を拡大し、その経済力を飛躍的に増大させたのです。彼らは、単なる地方の有力者から、イングランド全土に広がる強固な土地所有階級へと変貌を遂げました。
こうして、中世末期からテューダー朝にかけて、ジェントリは軍事的な奉仕義務から解放され、土地経営と地方行政を担う、独自の社会的・経済的基盤を持つ階層として確立されていきました。彼らは貴族ではないものの、その生活様式や価値観は貴族に近く、紋章を使用する権利を持つなど、一定の社会的威信を認められていました。この、貴族と平民の中間に位置する流動的でありながらも強力な階層の存在が、後のイギリス社会の大きな特徴となっていくのです。
ジェントリの構成
ジェントリという階層は、一枚岩の均質な集団ではありませんでした。その内部には、富や社会的地位に応じて、いくつかの階層が存在していました。この内部構造を理解することは、ジェントリがイギリス社会で果たした多様な役割を把握する上で助けになります。
最上位に位置するのが「バロネット」です。これは、1611年にジェームズ1世によって創設された世襲の準男爵位で、貴族ではないものの、爵位の一種と見なされていました。バロネットは、ナイトの称号よりも上位に位置づけられ、その称号は代々長男に受け継がれました。彼らは広大な土地を所有し、しばしば貴族と姻戚関係を結ぶなど、ジェントリの中でも別格の存在でした。
その下に位置するのが「ナイト」です。ナイトの称号は、中世の騎士に由来しますが、この時代には国王への功績などに対して与えられる一代限りの名誉称号となっていました。ナイトに叙されることは、ジェントリにとって大きな名誉であり、社会的地位の証とされました。
ナイトに次ぐのが「エスクワイア」です。元々はナイトの従者を意味する言葉でしたが、次第にナイトに次ぐ地位のジェントリを指すようになりました。バロネットやナイトの長男、治安判事、高級官僚、法廷弁護士などが、慣習的にエスクワイアと見なされました。彼らはジェントリの中核をなす層であり、地方社会において重要な役割を担っていました。
そして、ジェントリ階層の最も広い基盤を形成していたのが、「ジェントルマン」です。ジェントルマンとは、明確な定義があるわけではありませんが、一般的には、自らの労働によらず、土地からの地代収入などで生活できるだけの財産を持ち、紋章を使用する権利を持つ者を指しました。彼らは、必ずしも広大な土地を所有しているわけではありませんでしたが、その地域社会において尊敬を集める存在でした。
これらの階層は、決して固定的なものではありませんでした。法曹家、商人、あるいは富裕なヨーマンなどが、土地を購入し、ジェントリの仲間入りを果たすことも珍しくありませんでした。特に、ロンドンなどの都市で貿易や金融業によって富を築いた商人たちが、その富を土地に投資し、カントリー=ハウス(田舎の邸宅)を建ててジェントリとなるケースは、テューダー朝からステュアート朝にかけて頻繁に見られました。このような社会的流動性の高さは、大陸ヨーロッパの多くの国々で見られた厳格な身分制度とは対照的であり、イギリス社会の活力の源泉の一つであったとも言えるでしょう。
ジェントリの収入源は、主に土地からの地代収入でした。彼らは自らが所有する土地を小作人に貸し付け、その小作料を生活の糧としていました。そのため、効率的な土地経営は、彼らにとって極めて重要な関心事でした。農業技術の改良や、囲い込み(エンクロージャー)による農地の集約など、農業生産性を高めるための様々な試みが行われました。また、鉱山経営や、地域の商工業への投資なども、ジェントリの重要な収入源となることがありました。
このように、ジェントリは多様な背景を持つ人々から構成され、その経済活動も多岐にわたっていました。しかし、彼らに共通していたのは、土地所有者としてのアイデンティティと、地方社会における指導者としての自負でした。
ジェントリの役割
ジェントリは、その経済力と社会的威信を背景に、近世イギリスの政治、社会、文化のあらゆる面で中心的な役割を果たしました。彼らの活動なくして、この時代のイギリスを語ることはできないでしょう。
地方行政の担い手
ジェントリが果たした最も重要な役割の一つが、地方行政の担い手としての役割です。近世のイングランドには、国王の権力を地方の隅々まで行き渡らせるための強力な官僚機構が存在しませんでした。その代わりに、国王は地方の統治を、無給の名誉職である「治安判事」に委ねていました。そして、この治安判事の職は、その地域のジェントリから選ばれるのが通例でした。
治安判事は、国王から任命され、カウンティ(州)の行政と司法を担う絶大な権限を持っていました。彼らは、四半期ごとに開かれる四季裁判所において、窃盗や暴行といった軽犯罪から、より重大な刑事事件まで、幅広い裁判を行いました。また、道路や橋の修繕、救貧法の施行、物価の統制、徴税など、地方行政のあらゆる側面に関与しました。彼らは、まさに地方における国王の代理人であり、その統治は「ジェントリによる統治」と呼べるものでした。
治安判事のほかにも、カウンティの長官である「シェリフ」や、民兵隊の指揮官である「カウンティ統監」といった地方の要職も、主にジェントリの中から選ばれました。これらの職務は無給であり、むしろ持ち出しになることも多かったのですが、ジェントリにとっては、自らの社会的地位を確認し、地域社会への影響力を示すための名誉ある機会と見なされていました。彼らは、こうした公的な役割を通じて、地方社会の秩序を維持し、中央政府の政策を地域レベルで実行するという、国家統治の根幹を支える役割を担っていたのです。
議会政治の中心
ジェントリは、地方行政だけでなく、国政においても中心的な役割を果たしました。イギリス議会の下院(庶民院)は、各カウンティから2名、そして各都市(バラ)から代表が選出されて構成されていましたが、その議席のほとんどはジェントリによって占められていました。
カウンティの代表は、その地域の有力なジェントリから選ばれるのが通例でした。選挙は、一定額以上の自由土地を所有する者(40シリング自由土地所有者)による投票で行われましたが、実際には、地域の有力ジェントリ間の話し合いによって候補者が事実上決定されることも少なくありませんでした。
一方、都市の代表も、その多くがジェントリでした。有力なジェントリが、自らの影響下にある都市から、自分自身やその親族、あるいは子飼いの法律家などを議員として送り込むことが一般的でした。これは、ジェントリが単なる農村の支配者ではなく、都市の政治や経済にも深く関与していたことを示しています。
こうして議会に集ったジェントリたちは、国王の政策を審議し、法律を制定し、そして何よりも重要なこととして、課税に同意する権限を持っていました。特に、17世紀のステュアート朝の時代、国王と議会の対立が激化すると、ジェントリは議会を拠点として国王の専制的な統治に抵抗し、イギリス国民の「古来の権利と自由」を守るための戦いの中心となりました。清教徒革命(イングランド内戦)において、議会軍の指導者であったオリバー=クロムウェルもまた、ジェントリ階層の出身でした。この革命は、国王の権力に対する議会の優位を確立する上で決定的な出来事となり、その後のイギリスにおける立憲君主制の基礎を築きました。
17世紀末の名誉革命を経て、議会主権の原則が確立されると、ジェントリの政治的影響力はさらに増大しました。彼らは、ホイッグ党とトーリー党という二大政党を形成し、議会を通じて国政を主導していきました。18世紀のイギリス政治は、まさにジェントリ寡頭制と呼ぶにふさわしい様相を呈していたのです。
文化のパトロン
ジェントリは、政治や行政だけでなく、文化の発展においても重要な役割を果たしました。彼らは、自らの富と社会的地位を示すために、壮大なカントリー=ハウスを建設し、美しい庭園を造営しました。これらのカントリー=ハウスは、単なる住居ではなく、地域の社交の中心であり、また、ジェントリの権威と洗練された趣味を誇示するための舞台でもありました。イニゴー=ジョーンズやクリストファー=レンといった著名な建築家が設計した壮麗な邸宅は、イギリスの建築史における輝かしい遺産となっています。
また、ジェントリは芸術家や文学者のパトロンとしても活動しました。彼らは、肖像画家に自らの肖像を描かせ、音楽家を雇って私的な演奏会を開き、文学者に作品を献呈させました。シェイクスピアの劇団が、有力な貴族やジェントリの庇護を受けていたことはよく知られています。このようなパトロネージは、芸術家たちの生活を支えるとともに、イギリスの文化を豊かにする上で大きな貢献を果たしました。
さらに、ジェントリは教育にも熱心でした。彼らは、自らの子弟をオックスフォード大学やケンブリッジ大学といった大学や、法曹院に送って高等教育を受けさせました。大学で古典や神学を学び、法曹院で法律を学ぶことは、ジェントリの子弟にとって、将来、治安判事や国会議員として活躍するための必須の教養と見なされていました。このような教育熱は、イギリスにおける知識層の形成と、学問の発展に寄与したと考えられます。
ジェントリの変容
18世紀後半から19世紀にかけて、イギリス社会は産業革命という未曾有の変革を経験します。工場制機械工業の発展、都市への人口集中、そして新たな社会階級の台頭は、ジェントリを中心とした従来の社会構造を根底から揺るがしました。この大変動の時代の中で、ジェントリという階層もまた、大きな変容を遂げざるを得ませんでした。
産業革命は、富の源泉を土地から工業や商業へと移行させました。工場経営者、銀行家、貿易商人といった産業ブルジョワジーが新たな富裕層として台頭し、その経済力は、多くの土地所有ジェントリを凌駕するようになりました。彼らは、自らの経済力を背景に、政治的な発言力を強め、ジェントリが独占してきた政治の世界への参入を求め始めます。
この新しい社会階級の挑戦に対し、ジェントリの対応は一様ではありませんでした。一部のジェントリは、自らの土地の下に眠る石炭や鉄鉱石といった鉱物資源を開発したり、運河や鉄道の建設に投資したりするなど、産業革命の波に積極的に乗ることで、その富をさらに増大させました。彼らは、伝統的な土地所有者でありながら、同時に近代的な資本家としての側面も併せ持つようになります。
一方で、多くのジェントリは、旧来の地主としての生活様式に固執し、変化する社会から取り残されていきました。農業からの収入は、工業や商業から得られる利益に比べて見劣りするようになり、彼らの経済的地位は相対的に低下していきました。
政治の世界でも、大きな変化が訪れます。1832年の第一次選挙法改正は、ジェントリ寡頭制に風穴を開ける画期的な出来事でした。この改革によって、腐敗選挙区が廃止され、マンチェスターやバーミンガムといった新しい工業都市に議席が与えられました。また、選挙権も、従来の土地所有者に加えて、一定の資産を持つ都市の中産階級にも拡大されました。これにより、産業ブルジョワジーが議会に多数進出する道が開かれ、ジェントリによる下院の支配は終わりを告げました。
さらに、19世紀後半には、農業不況がジェントリに追い打ちをかけます。アメリカ大陸やロシアから安価な穀物が大量に輸入されるようになると、イギリスの農業は深刻な打撃を受け、地価は暴落し、地代収入は激減しました。多くのジェントリが経済的に困窮し、先祖伝来の土地やカントリー=ハウスを手放さざるを得なくなりました。
20世紀に入ると、二度の世界大戦と、それに伴う高率の相続税の導入が、ジェントリの没落を決定的なものにしました。多くのカントリー=ハウスが維持できなくなり、ナショナル=トラストに寄贈されたり、学校やホテルとして転用されたりしました。土地所有者としてのジェントリは、かつてのような社会の中心的な存在ではなくなっていったのです。
しかし、ジェントリという階層が完全に消滅したわけではありません。彼らが築き上げてきた文化や価値観、例えば、公的な奉仕の精神(ノブレス=オブリージュ)、スポーツマンシップ、そして「ジェントルマン」としてのあるべき姿といった理念は、パブリック=スクールなどの教育機関を通じて、イギリス社会のエリート層に広く受け継がれていきました。土地を基盤とした旧来のジェントリは衰退しましたが、その精神は、形を変えながらもイギリス社会の中に生き続けていると見ることもできるかもしれません。
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