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常備軍とは わかりやすい世界史用語2615 |
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著作名:
ピアソラ
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常備軍とは
絶対王政の時代の常備軍は、単なる軍事組織ではありませんでした。それは、絶対君主が国内の権力を集中させ、対外的には国家の威信をかけて覇権を争うための、最も重要な道具でした。中世の封建的な軍制、すなわち、有事の際に諸侯や騎士が、それぞれの家臣を率いて王の下に集まるという非効率で信頼性の低いシステムから脱却し、平時においても国家が直接維持・管理する恒久的な軍隊を創設することは、絶対王政という統治体制を確立するための根幹をなす事業でした。この常備軍の存在こそが、君主が国内の反抗勢力、特に独立性の高い大貴族を抑え込み、法と秩序を全国一律に施行する能力を担保しました。そして、それは同時に、ヨーロッパの国際政治を、王朝間の絶え間ない戦争へと駆り立てる原因ともなったのです。
16世紀から18世紀にかけて、ヨーロッパの軍事は「軍事革命」と呼ばれる劇的な変貌を遂げました。火薬技術の発展による銃や大砲の性能向上、それに対応するための新しい築城術(星形要塞)、そして歩兵の集団戦術の洗練は、戦争の規模とコストを飛躍的に増大させました。もはや、個々の貴族が自らの財力で維持できるような軍隊では、近代的な戦争を戦い抜くことは不可能になりました。戦争を遂行できるのは、広範な領土から効率的に税を徴収し、巨大な官僚機構を駆使して兵站を維持し、そして何万人もの兵士を恒常的に雇用・訓練できる、中央集権化された国家だけとなったのです。このように、戦争のあり方の変化が、より強力な国家機構の形成を促し、その国家がさらに大規模な戦争を行う、という相互作用が、絶対王政の時代の特徴でした。社会学者チャールズ=ティリーが「戦争が国家をつくり、国家が戦争をつくった」と述べたように、常備軍の建設と国家形成は、いわばコインの裏表の関係にあったのです。
フランスのルイ14世やプロイセンのフリードリヒ=ヴィルヘルム1世(兵隊王)といった絶対君主たちは、国庫収入の大部分を、この常備軍の維持と拡大に注ぎ込みました。彼らは、兵士の募集、訓練、装備、給与の支払いを国家の管理下に置き、貴族の軍事的特権を徐々に解体していきました。貴族はもはや独立した軍事指導者ではなく、国王が任命する将校として、国家の軍隊に奉仕する存在へと変貌しました。軍服の導入による兵士の均質化、厳格な規律とドリル(集団訓練)による兵士の機械化、そして兵站や兵器廠の整備といった改革は、軍隊を君主の意のままに動く、信頼性の高い暴力装置へと変えていきました。
しかし、この巨大な軍事機構は、社会に大きな負担を強いるものでもありました。増大する軍事費を賄うための重税は民衆を苦しめ、兵士の募集はしばしば強制的な徴兵や誘拐まがいの手段に頼らざるを得ませんでした。また、規律の緩んだ兵士による略奪や暴力は、平時においても深刻な社会問題でした。
常備軍の形成
封建軍制からの脱却
絶対王政の時代に常備軍が台頭する以前、中世ヨーロッパの軍事力の根幹をなしていたのは封建軍制でした。このシステムは、国王と諸侯・騎士との間の個人的な主従関係に基づいていました。国王は、家臣である貴族に封土(領地)を与える見返りとして、有事の際に一定期間、一定数の兵力を提供する軍役の義務を課しました。貴族たちは、さらにその下の家臣たちに同様の義務を課すことで、ピラミッド型の軍事組織を形成していました。
この封建軍制は、いくつかの深刻な弱点を抱えていました。第一に、軍役の期間が、慣習的に年間40日程度に限定されている場合が多く、長期的な軍事作戦の遂行には全く不向きでした。期間が過ぎれば、騎士たちは自らの領地に帰ってしまい、作戦の途中であっても軍隊が解散してしまう危険性がありました。第二に、動員される兵士の質や装備は、それぞれの領主の財力や意欲に大きく依存しており、統一性に欠けていました。訓練度もばらばらで、王の直接的な指揮系統の下にあるとは言い難い、寄せ集めの軍隊でした。
第三に、そして最も重要な点として、このシステムは、国王の軍事力が、有力な貴族たちの協力に依存していることを意味しました。大貴族は、自らの領地で独立した軍事力を保持しており、彼らが徒党を組んで反抗すれば、国王の権威は容易に揺らぎました。フランスの百年戦争後期や、イングランドの薔薇戦争のように、貴族間の内乱が国家を分裂させ、王権を無力化する事態は頻繁に発生しました。国王にとって、貴族の私的な軍事力は、外敵と戦うための資産であると同時に、自らの権力を脅かす潜在的な脅威でもあったのです。
このような状況を打開するため、中世後期からルネサンス期にかけて、君主たちは徐々に封建軍制からの脱却を図り始めます。その最も重要な手段が、傭兵の活用でした。傭兵は、金銭契約に基づいて雇用されるプロの兵士であり、封建的な軍役の義務に縛られることなく、長期間の作戦に従事させることができました。特に、スイスのパイク兵(長槍兵)やドイツのランツクネヒト(傭兵歩兵)は、その高い戦闘能力で知られ、ヨーロッパ中の君主たちに重用されました。
傭兵の活用は、君主の軍事力を、貴族の協力からある程度独立させることを可能にしました。国王は、都市の商人や金融業者から借金をし、税収を担保にすることで、貴族の力を借りずに、自らの軍隊を編成することができるようになったのです。フランスのシャルル7世は、百年戦争の末期、貴族の抵抗を排して恒久的な直接税(タイユ)を導入し、その税収を元に、国王直属の騎兵隊(勅令隊)を創設しました。これは、ヨーロッパにおける常備軍の先駆けと見なされています。
しかし、傭兵にも大きな問題がありました。彼らの忠誠心は、契約と報酬によってのみ保証されており、支払いが滞れば、平気で敵方に寝返ったり、略奪に走ったりしました。戦争が終わって失業した傭兵団は、武装したまま各地を徘徊し、深刻な社会不安の原因となりました。君主にとって、傭兵は便利な道具でしたが、同時に制御の難しい危険な存在でもありました。真に信頼できる、君主の意のままに動く軍隊を創設するためには、傭兵制度をも乗り越え、国家が直接管理する恒久的な軍隊、すなわち常備軍を組織する必要があったのです。この課題への挑戦が、絶対王政の時代の幕開けを告げることになります。
軍事革命の影響
16世紀から17世紀にかけてヨーロッパで進行した「軍事革命」は、常備軍の形成を決定的に加速させました。この言葉は、歴史家マイケル=ロバーツが提唱した概念で、軍事技術と戦術の革新が、戦争の規模、コスト、そして社会に与える影響を根本的に変えたことを指します。この革命的な変化に対応できるのは、強力な中央集権的財政=軍事国家だけであり、それが絶対王政の確立を促したのです。
軍事革命の第一の要素は、火薬兵器、特に歩兵が携行する火縄銃(マスケット銃)の普及と、それに対応した戦術の革新でした。16世紀末から17世紀初頭にかけて、オランダのマウリッツ=ファン=ナッサウや、スウェーデンのグスタフ=アドルフといった軍事改革者たちは、新しい歩兵戦術を開発しました。それは、兵士たちを比較的薄い横隊に並べ、前列が射撃すると後列に下がって装填し、その間に次の列が射撃するという「反転行進射撃」と呼ばれるものでした。この戦術は、途切れることのない連続的な火力を提供することを可能にしましたが、その効果を最大限に発揮するためには、兵士たちが寸分の狂いもなく、機械のように正確に動くことが不可欠でした。これを実現したのが、反復的なドリル(集団訓練)です。兵士たちは、何百時間もかけて、銃の装填から発射、行進に至るまでの一連の動作を、号令に合わせて体に叩き込みました。これにより、兵士は個々の戦士から、巨大な戦争機械の歯車へと変貌しました。このような高度な訓練は、臨時に集められた封建軍や、規律に乏しい傭兵では不可能であり、平時から兵士を雇用し、継続的に訓練する常備軍の必要性を際立たせました。
第二の要素は、大砲の性能向上と、それに対応する新しい築城術の発展です。イタリア戦争期に登場した、青銅製で移動可能な攻城砲は、中世以来の高い石造りの城壁を容易に粉砕する能力を持っていました。これに対抗するために生まれたのが、「イタリア式築城術」あるいは星形要塞として知られる新しい要塞の形式です。これは、城壁を低く、しかし分厚くし、その前面に傾斜した土塁を設け、さらに、城壁から突き出た稜堡(バスティオン)を星形に配置することで、死角をなくし、十字砲火を浴びせられるように設計されていました。この星形要塞は、攻略に非常に時間がかかり、多くの兵力と資源を必要としました。これにより、戦争は、野戦による決戦よりも、要塞をめぐる長期的な包囲戦が中心となっていきました。このような包囲戦を遂行するためには、何万人もの兵士を長期間にわたって維持し、彼らに食糧と弾薬を供給し続ける、巨大な兵站システムが不可欠となりました。これもまた、強力な国家機構と常備軍なしには不可能なことでした。
第三に、これらの技術的・戦術的変化の結果として、軍隊の規模が爆発的に増大しました。1500年頃には数万人規模であったヨーロッパ主要国の軍隊は、三十年戦争(1618年ー1648年)の時代には10万人を超え、ルイ14世の治世末期(18世紀初頭)には、フランス軍は平時でも20万人、戦時には40万人という、ローマ帝国以来の巨大な規模に達しました。この巨大な軍隊を維持するためのコストは、国家財政の大部分を占めるようになりました。例えば、17世紀末のフランスでは、国家歳入の75%以上が軍事費に充てられていたと言われます。君主は、この莫大な費用を賄うために、新たな税を創設し、徴税システムを効率化し、官僚機構を拡大する必要に迫られました。軍事革命は、戦争のあり方を変えただけでなく、ヨーロッパの国家そのものの構造を、財政=軍事国家へと作り変えていったのです。
[h1]常備軍の構造と特徴[/h11]
兵士の募集と構成
絶対王政の時代の常備軍を構成した兵士たちは、どのような人々だったのでしょうか。その募集方法と社会的出自は、近代的な国民皆兵制度とは大きく異なり、多様かつしばしば過酷な現実を伴うものでした。
最も一般的な兵士の供給源は、志願兵でした。しかし、その「志願」の内実は様々でした。平時の軍隊生活は、厳格な規律と低い給料、そして過酷な労働を伴うものであり、安定した職や土地を持つ人々が積極的に志願することは稀でした。多くの場合、兵士になったのは、農村の貧しい次男坊や三男坊、職を失った都市の労働者、あるいは社会から疎外された人々でした。彼らにとって、軍隊は、少なくとも日々の食事と寝床が保証される、最後の避難場所であったかもしれません。募兵官は、酒場などで若者たちに酒を振る舞い、軍隊生活の魅力を誇張して語り、彼らが酔った勢いで契約書に署名させる、といった半ば詐欺的な手法を常套手段としていました。
志願兵だけでは巨大化する軍隊の需要を満たせなくなると、各国は様々な形の強制的な徴兵制度を導入し始めました。しかし、これは国民全体に公平に課される義務ではありませんでした。多くの場合、都市や農村の共同体に対して、一定数の兵士を供出する割り当てが課され、共同体の内部で、くじ引きや、あるいは厄介者を押し付ける形で人選が行われました。裕福な者は、身代わりを立てて兵役を免れることが一般的であり、兵役の負担は、事実上、貧しい階層に集中しました。プロイセンで導入されたカントン制度は、各連隊に特定の地区(カントン)を割り当て、そこから兵士を徴募する、より体系的な徴兵制度でしたが、これもまた、多くの免除規定があり、主に農民層がその対象となりました。
さらに、常備軍のかなりの部分は、外国人傭兵によって構成されていました。絶対君主にとって、外国人傭兵はいくつかの利点を持っていました。第一に、彼らは自国の人的資源を消耗することなく、軍隊の規模を迅速に拡大することを可能にしました。第二に、彼らは国内の民衆に対して、何の共感も抱かないため、反乱の鎮圧といった国内の治安維持任務に、ためらうことなく使用することができました。フランスのブルボン朝が、長年にわたってスイス人傭兵を国王の護衛隊として重用したのが、その典型例です。18世紀のフランス軍では、兵士の約15%から20%が、スイス、ドイツ、アイルランドなどからの外国人傭兵で占められていました。
兵士たちの生活は、極めて過酷でした。給料は低く、しばしば支払いが遅延しました。兵舎が整備されるまでは、兵士たちは民家に強制的に宿泊することが多く、住民との間で絶えず摩擦を引き起こしました。食事は単調で栄養に乏しく、衛生状態の悪さから、伝染病が蔓延することも珍しくありませんでした。戦闘による死者よりも、行軍中の疲労や、劣悪な環境での病気によって命を落とす兵士の方が、はるかに多かったと言われます。脱走は日常茶飯事であり、軍隊はそれを防ぐために、鞭打ちや烙印、さらには死刑といった、極めて厳しい刑罰を科しました。絶対王政の常備軍は、その輝かしい軍服の裏に、社会の最下層から集められた人々の、名もなき苦難の歴史を隠していたのです。
将校団と貴族
常備軍の兵士たちが主に社会の底辺から供給されたのに対し、その指揮官である将校団は、ほぼ例外なく貴族階級によって独占されていました。絶対王政は、貴族から独立した軍事力を奪い、彼らを国王の軍隊に奉仕する将校へと転換させることで、その支配を確立しました。将校になることは、剣帯び貴族(帯剣貴族)にとって、その名誉と家名を維持するための、最も重要なキャリアパスとなったのです。
中世以来、戦争を指揮することは、貴族に与えられた特権であり、その存在意義そのものでした。絶対王政は、この貴族の尚武の精神を否定するのではなく、それを国家の軍事機構の中に巧みに取り込み、制度化しました。ルイ14世は、貴族の子弟を将校として養成するための士官学校を設立し、彼らに軍事的なキャリアを歩むことを奨励しました。将校の地位は、もはや個人の武勇や家臣の数によって決まるのではなく、国王が授与する階級によって定められるようになりました。大佐、中佐、少佐、大尉といった、近代的な軍隊の階級制度が、この時代に確立されていきました。
しかし、将校の地位は、完全に実力だけで決まるものではありませんでした。多くの場合、連隊の所有権(連隊長としての地位)は、個人資産として売買の対象となっていました。裕福な大貴族は、多額の資金を投じて連隊を購入し、その指揮官となることで、自らの名誉を高め、国王への奉仕を示しました。これは、国王にとっては、軍隊の装備や維持にかかる費用の一部を貴族に肩代わりさせるという、財政的な利点も持っていました。一方で、この官職売買の慣行は、才能や経験に乏しい若年の貴族が、高位の指揮官になることを可能にし、軍隊の効率性を損なう要因ともなりました。
将校団の内部にも、厳格な階層が存在しました。宮廷に出入りできるような大貴族は、若くして連隊長などの高位の階級に就き、輝かしいキャリアを歩むことができましたが、地方の貧しい貴族は、下級将校の地位に長年留まることがほとんどでした。彼らは、兵士たちと生活を共にし、部隊の日常的な管理や訓練といった、地味で骨の折れる任務に従事しました。この将校団内部の格差は、特に18世紀後半になると、不満の原因となっていきます。
プロイセンでは、フリードリヒ=ヴィルヘルム1世とフリードリヒ大王の下で、より実力主義的な将校団の育成が進められました。プロイセンの貴族(ユンカー)は、国家に奉仕することが至上の義務であると教え込まれ、幼い頃から士官学校で厳しい訓練を受けました。官職売買は制限され、昇進は、年功と勤務態度によって、より厳格に管理されました。この規律正しく、忠誠心の高い将校団の存在が、プロイセン軍の強さの源泉の一つとなりました。
絶対王政の時代を通じて、貴族は、その社会的な役割を、封建的な領主から、国家に仕える軍人へと大きく変化させました。彼らは、国王の常備軍を指揮することで、その特権的な地位を維持し続けました。しかし、その権威は、もはや自らの土地や家臣に由来するものではなく、国王から与えられた階級と命令に由来するものでした。常備軍は、貴族を無力化すると同時に、彼らを新たな形で国家体制に組み込むための、極めて効果的な装置だったのです。
規律と訓練
絶対王政の常備軍を、それ以前の傭兵団や封建軍から区別する最も重要な特徴の一つが、その厳格な規律と、体系化された集団訓練(ドリル)でした。君主の目的は、個々の兵士を、自らの意志を捨て、命令に絶対服従させる、巨大な戦争機械の交換可能な部品へと作り変えることでした。この人間機械を創り出すための技術が、規律と訓練だったのです。
この分野の先駆者は、17世紀初頭のオランダ軍でした。マウリッツ=ファン=ナッサウは、古代ローマ軍の文献を研究し、兵士たちに、マスケット銃の装填から発射に至る数十の動作を、号令に合わせて一斉に行う訓練を導入しました。この反復訓練は、兵士の動きを自動化し、戦場の混乱と恐怖の中でも、機械的に射撃を繰り返すことを可能にしました。また、行進の歩調を合わせる訓練は、部隊が隊形を崩さずに、整然と戦場を移動することを可能にしました。これらの訓練は、兵士の身体から、その自律性を奪い、指揮官の命令に即座に反応する身体へと改造するプロセスでした。
この訓練方法をさらに徹底し、完成させたのが、プロイセンのフリードリヒ=ヴィルヘルム1世(兵隊王)でした。彼は、軍隊の訓練に異常なまでの情熱を注ぎ、「プロイセンのドリル」として知られる、極めて厳格で精密な訓練システムを創り上げました。兵士たちは、毎日何時間も、広場で単調な行進と銃の操作を繰り返すことを強いられました。少しでも動きが乱れたり、命令に従わなかったりすれば、容赦なく鞭や杖による体罰が加えられました。兵士にとって、敵よりも、自軍の将校や下士官の方が恐ろしい存在であったと言われます。この過酷な訓練の目的は、兵士の個性を完全に消し去り、恐怖心を通じて、命令への絶対的な服従を体に刻み込むことでした。フリードリヒ大王は、この父が創り上げた軍隊を継承し、「兵士は、自分の将校を、敵よりも恐れなければならない」と語ったと伝えられています。
規律を維持するためには、訓練だけでなく、厳格な軍法と刑罰が不可欠でした。脱走、命令不服従、窃盗、上官への反抗といった罪には、極めて過酷な罰が科せられました。最も一般的な罰は、ガントレット(笞刑の一種)でした。これは、罪を犯した兵士が、二列に並んだ兵士たちの間を、上半身裸で歩かされ、その際に、全員から棍棒や鞭で殴られるというものでした。脱走兵は、見せしめとして絞首刑に処されることも珍しくありませんでした。このような残忍な刑罰は、恐怖によって兵士たちを支配し、軍隊という閉鎖的な社会の秩序を維持するための、必要悪と考えられていました。
軍服の導入もまた、規律と一体感を強化するための重要な手段でした。17世紀後半、ルイ14世のフランス軍が、ヨーロッパで初めて大規模に統一された軍服を採用しました。同じ色の軍服を着用することは、兵士たちに所属部隊への帰属意識を与え、彼らを一般市民から視覚的に区別しました。また、色やデザインによって連隊や兵科を識別することを容易にし、戦場での指揮統制を助けました。鮮やかな原色の軍服は、黒色火薬の煙が立ち込める戦場において、敵味方を識別するための実用的な意味も持っていました。軍服は、兵士の個性を奪い、彼を国家に属する均質な存在へと変える、象徴的な意味を持っていたのです。
このようにして創り出された、規律正しく、機械のように動く常備軍は、絶対君主にとって、対外戦争を遂行するための強力な武器であると同時に、国内の秩序を維持するための暴力装置でもありました。民衆の暴動や反乱が発生した際、君主は、ためらうことなくこの軍隊を投入し、それを鎮圧することができたのです。
常備軍の役割と影響
国内の治安維持
絶対王政の常備軍が果たした役割は、対外的な戦争だけにとどまりませんでした。国内において、それは君主の権威を強制し、社会の秩序を維持するための、決定的な暴力装置として機能しました。常備軍の存在そのものが、潜在的な反抗勢力に対する強力な抑止力となり、君主が中央集権的な統治を推し進めることを可能にしたのです。
絶対王政が確立される以前、国王が国内の反乱、特に有力な貴族の反乱に直面した場合、その鎮圧は容易ではありませんでした。国王は、他の貴族の協力を得て、反乱軍と同様の、封建的な寄せ集めの軍隊で対抗するしかありませんでした。しかし、国王が、貴族の私兵とは比較にならないほど大規模で、規律正しく、そして何よりも国王個人に忠誠を誓う常備軍を保有するようになると、力関係は劇的に変化しました。貴族が国王に対して武力で反抗することは、もはや自殺行為に等しくなりました。フランスでフロンドの乱(1648年ー1653年)が、貴族が主体となった最後の大規模な反乱となったのは、偶然ではありません。ルイ14世が親政を開始し、常備軍の建設を本格化させて以降、貴族は武力による抵抗を諦め、ヴェルサイユの宮廷で王の恩寵を競う廷臣へと変貌していったのです。
常備軍はまた、民衆の暴動や反乱の鎮圧にも、威力を発揮しました。絶対王政の時代は、増大する税負担や食糧不足を原因とする民衆蜂起が頻発した時代でもありました。かつては、このような暴動の鎮圧は、現地の貴族や都市の民兵に委ねられていましたが、彼らはしばしば、暴徒に対して同情的であったり、鎮圧に非協力的であったりしました。しかし、国王は、常備軍を派遣することで、地域のしがらみにとらわれることなく、反乱を徹底的に鎮圧することができました。兵士たち、特に外国人傭兵は、地元の民衆に対して何の共感も抱いていなかったため、容赦なく武力を行使することができました。軍隊の駐屯は、それ自体が民衆に対する威圧となり、不穏な動きを未然に防ぐ効果も持っていました。
さらに、常備軍は、徴税という国家の最も基本的な活動を支える役割も担いました。重税に抵抗する共同体に対して、国王は軍隊を派遣し、強制的に税を取り立てることができました。フランスで、プロテスタントの反抗を抑えるために行われた「竜騎兵の迫害」は、兵士をプロテスタントの民家に強制的に宿泊させ、その生活を破壊することで改宗を迫るという、軍隊を治安維持と宗教的統一のために利用した典型的な例でした。
このように、常備軍は、君主の権力が、法や伝統といった抽象的なものだけでなく、最終的には圧倒的な物理的暴力によって裏付けられていることを、国内のすべての人々に対して明確に示すものでした。それは、国家による暴力の独占が完成に近づいたことを意味していました。もちろん、当時の国家の統治能力には限界があり、広大な国土の隅々まで完全に支配することは不可能でした。しかし、常備軍という切り札の存在が、絶対君主の権威を、それ以前の時代とは比較にならないほど強固なものにしたことは、疑いようのない事実です。
対外戦争と勢力均衡
絶対王政の時代のヨーロッパは、絶え間ない戦争の時代でした。常備軍という、いつでも即座に投入できる強力な軍事力を持つようになった君主たちは、それを自らの王朝の栄光と、国家の領土を拡大するために、ためらうことなく使用しました。常備軍の存在そのものが、戦争を誘発する要因となったのです。
この時代の戦争の多くは、王朝間の継承問題や、領土の帰属をめぐる争いでした。スペイン継承戦争、オーストリア継承戦争、七年戦争といった、ヨーロッパ全土を巻き込む大規模な戦争が、次々と勃発しました。これらの戦争は、中世の戦争とは異なり、明確な政治的目標を達成するために、国家の組織的な能力を総動員して行われる、近代的な国家間戦争の性格を帯びていました。戦争の勝敗は、もはや個々の将軍の才能や、一回の決戦の結果だけで決まるものではなくなりました。兵士を補充し、彼らに食糧と弾薬を供給し続ける兵站能力、そして戦争を継続するための財政力といった、国家の総合的な力が問われるようになったのです。
このような状況の中で、ヨーロッパの国際政治を規定するようになったのが、「勢力均衡(バランス=オブ=パワー)」の原則でした。これは、一つの国家が突出して強大になり、ヨーロッパの覇権を握ることを防ぐために、他の国々が同盟を結んで対抗するという考え方です。ルイ14世のフランスが、その強大な常備軍を背景に、領土拡大政策を推し進めた際には、イングランド(後のイギリス)、オランダ、オーストリアといった国々が、何度も対仏大同盟を結成して、その野望を阻止しました。同様に、18世紀半ばにプロイセンが、フリードリヒ大王の下で急速に台頭した際には、オーストリア、フランス、ロシアが同盟して、これを叩こうとしました(七年戦争)。
勢力均衡の外交は、敵と味方が目まぐるしく入れ替わる、冷徹な国益計算に基づいたものでした。昨日の敵が今日の友になることは、日常茶飯事でした。この複雑な外交ゲームの背後には、常に各国の常備軍の存在がありました。軍事力は、外交交渉における最も重要な切り札であり、国家の国際的な地位を決定する最大の要因でした。君主たちは、平時においても軍備の拡張を続け、潜在的な敵国に対して、常に有利な立場を確保しようと努めました。こうして、ヨーロッパでは、恒常的な軍拡競争が続くことになりました。
常備軍の存在は、戦争のあり方を、より限定的で、規律あるものに変える側面もありました。三十年戦争のような、宗教的熱情に駆られた無制限の破壊と略奪は、次第に影を潜めていきました。絶対君主たちは、自らの貴重な資産である、高度に訓練された兵士を無駄に失うことを嫌い、決戦を避けて、要塞の攻略や、敵の補給線を断つといった、より計算された機動戦を好むようになりました。戦争は、民衆全体を巻き込む総力戦ではなく、プロの軍人同士が行う、国家の「最後の手段」と見なされるようになったのです。この時代の戦争は、しばしば「レースの戦争」あるいは「内閣戦争」と呼ばれ、その限定的な性格が特徴とされます。
しかし、この限定戦争の時代は、フランス革命によって終わりを告げます。革命によって生まれた国民軍は、イデオロギーに燃え、祖国のために戦う市民兵士から構成されており、その規模と熱意は、絶対王政の規律正しいが厭戦的な常備軍を圧倒しました。ナポレオンは、この新しい国民軍を率いて、ヨーロッパの古い軍事秩序を打ち破り、戦争を再び、国家と国民の存亡をかけた総力戦へと変貌させたのです。絶対王政の常備軍は、近代国家の形成を促すという歴史的役割を果たし終え、国民国家の時代の、新しい軍隊にその座を譲ることになりました。
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