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18_80 ヨーロッパの拡大と大西洋世界 / 主権国家体制の成立

マキャベリとは わかりやすい世界史用語2607

著者名: ピアソラ
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マキャヴェリとは

ニッコロ・マキャヴェリの生涯は、ルネサンス期イタリアの栄光と混乱を映し出す鏡のようなものです。彼は、フィレンツェ共和国の有能な外交官として政治の渦中に身を置き、権力闘争の現実を目の当たりにしました。しかし、運命の変転によって公職を追われ、失意のうちに隠棲生活を送る中で、不朽の名著『君主論』をはじめとする数々の著作を執筆しました。彼の名は、目的のためには手段を選ばない冷徹な権謀術数、すなわち「マキャヴェリズム」の代名詞として、しばしば誤解と非難の対象となってきました。しかし、その生涯と著作を深く探求するならば、彼が単なる非道徳な策士ではなく、分裂したイタリアの未来を憂い、政治の本質を人間性の深淵から見つめようとした、情熱的で鋭い観察眼を持つ思想家であったことが浮かび上がってきます。



フィレンツェ共和国の書記官

マキャヴェリの政治家としてのキャリアは、彼の故郷フィレンツェが経験した激動の時代と分かちがたく結びついています。メディチ家の支配が一時的に終わりを告げ、共和国が再興された時期に、彼はその才能を見出され、フィレンツェの政治と外交の最前線に立つことになりました。
若き日のマキャヴェリと共和国の誕生

ニッコロ・マキャヴェリは1469年5月3日、フィレンツェで生まれました。彼の父ベルナルドは法律家でしたが、一家はフィレンツェの支配層エリートに連なるほどの富や影響力は持っていませんでした。しかし、父は教養への関心が高く、マキャヴェリは幼い頃からラテン語をはじめとする優れた人文主義教育を受けました。彼は、リウィウスやタキトゥスといった古代ローマの歴史家たちの著作に親しみ、そこから政治や戦争に関する深い洞察を得ていったと考えられています。
マキャヴェリが青年期を過ごしたフィレンツェは、ロレンツォ・デ・メディチ(豪華王)のもとでルネサンス文化の絶頂期を迎えていました。しかし、1494年、ロレンツォの死後、フランス王シャルル8世がイタリアに侵攻すると、フィレンツェの政治体制は脆くも崩壊します。ロレンツォの跡を継いだピエロ・デ・メディチは、フランス軍に無様に降伏し、市民の怒りを買ってフィレンツェから追放されました。
メディチ家追放後のフィレンツェでは、ドミニコ会の修道士ジロラモ・サヴォナローラが預言者的な影響力を行使し、神権政治的な共和国を樹立しました。サヴォナローラは、贅沢や道徳的退廃を激しく非難し、「虚飾の焼却」に象徴される厳格な改革を推し進めましたが、その過激さゆえに教皇アレクサンデル6世と対立し、やがて市民の支持も失っていきます。1498年、サヴォナローラは捕らえられ、異端者として火刑に処されました。
このサヴォナローラの失脚という政治的空白の中で、フィレンツェ共和国はより世俗的で安定した統治機構を再建しようとします。そして、この新たな共和国政府において、29歳のニッコロ・マキャヴェリは、そのキャリアの第一歩を踏み出すことになったのです。
第二書記局長としての活動

1498年6月、マキャヴェリはフィレンツェ共和国の第二書記局長に選出されました。これは、主に共和国の領内問題や軍事を担当する重要な役職でした。さらにその一ヶ月後、彼は外交と戦争を管轄する「十人委員会」の書記にも任命されます。これにより、彼はフィレンツェの外交政策の立案と実行において、中心的な役割を担うことになりました。
書記官としてのマキャヴェリの仕事は、多岐にわたりました。彼は、政府の公式な書簡や報告書を作成し、フィレンツェが直面する複雑な政治状況を分析し、為政者たちに進言を行いました。彼の任務の中でも特に重要だったのが、外交使節としての役割です。14年間にわたる在職中、彼はフランス王ルイ12世の宮廷、神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世のもと、そしてローマ教皇庁など、イタリア内外の主要な権力者のもとへ幾度となく派遣されました。
これらの外交任務は、マキャヴェリに政治の現実を学ぶ絶好の機会を与えました。彼は、君主たちの野心、欺瞞、そして冷徹な計算を間近で観察し、国際政治が道徳や理想ではなく、剥き出しの権力と国益によって動かされていることを痛感しました。彼は、詳細な報告書をフィレンツェ政府に送り、そこで見たこと、聞いたこと、そして自らの分析を書き記しました。これらの報告書は、彼の鋭い観察眼と、物事の本質を見抜く才能を遺憾なく示しています。
チェーザレ・ボルジアとの出会い

マキャヴェリの思想形成に最も大きな影響を与えた人物は、教皇アレクサンデル6世の息子であり、ロマーニャ地方の統一を目指していたチェーザレ・ボルジアでした。マキャヴェリは1502年から1503年にかけて、フィレンツェの使節としてチェーザレの陣営に滞在し、その行動を間近で観察する機会を得ました。
チェーザレ・ボルジアは、その野望を達成するためには、裏切り、暗殺、欺瞞といったあらゆる手段を躊躇なく用いる冷酷な君主でした。彼は、自らに反抗した傭兵隊長たちを、和解を装っておびき寄せて一挙に粛清するという離れ業をやってのけました(シニガッリアの事件)。マキャヴェリは、チェーザレのこの非情なまでの決断力と、幸運(フォルトゥナ)を自らの力(ヴィルトゥ)で掴み取ろうとする姿勢に、畏怖の念を抱きました。
多くの人々がチェーザレを残酷な暴君として非難する中で、マキャヴェリは彼の行動の中に、分裂し外国勢力に蹂躙されるイタリアに秩序をもたらす「新しい君主」の可能性を見出しました。チェーザレは、伝統的な道徳規範には従わないかもしれないが、国家を創設し、維持するという目的のためには、それが必要悪となりうることを体現していました。このチェーザレ・ボルジアの姿は、後に『君主論』で描かれる理想の君主像の原型の一つとなったのです。
市民軍の創設

外交官としての活動と並行して、マキャヴェリが情熱を注いだもう一つのプロジェクトが、フィレンツェ独自の市民軍の創設でした。当時のイタリアでは、戦争はもっぱら金で雇われた傭兵隊長とその部隊によって行われていました。しかし、マキャヴェリは、傭兵たちが忠誠心に欠け、信頼できず、国家の財政を圧迫するだけの存在であることを見抜いていました。彼は、自らの国を自らの手で守る気概のない共和国に未来はないと考え、傭兵に代わって、フィレンツェの市民からなる国民軍を組織すべきだと強く主張しました。
彼の熱心な働きかけにより、フィレンツェ政府はこの提案を受け入れ、1506年、マキャヴェリは市民軍を組織するための委員会の書記に任命されました。彼は自らフィレンツェの田園地帯を巡り、農民たちを徴兵し、訓練を施しました。この市民軍は、1509年に長年の懸案であったピサの再征服において一定の成功を収め、マキャヴェリの評価を一時的に高めました。しかし、この市民軍の真価が問われるのは、その数年後のことになります。
失脚と著作活動

14年間にわたりフィレンツェ共和国のために尽くしてきたマキャヴェリのキャリアは、1512年、突如として終わりを告げます。国際情勢の変化が、フィレンツェの政治体制を再び覆し、彼はその渦に巻き込まれて失脚の憂き目に遭ったのです。
メディチ家の復帰とマキャヴェリの追放

フィレンツェ共和国は、フランスとの同盟関係に依存していましたが、1512年、教皇ユリウス2世が組織した神聖同盟(スペインと教皇庁の連合軍)がフランスをイタリアから駆逐しようと動くと、その運命は風前の灯火となりました。神聖同盟軍はフィレンツェに迫り、共和国政府にフランスとの同盟を破棄し、メディチ家の復帰を認めるよう要求しました。
フィレンツェ近郊のプラートで、スペイン軍はマキャヴェリが組織した市民軍と対峙しました。しかし、経験の浅い市民軍は、歴戦のスペイン兵の前にあっけなく総崩れとなり、プラートの町は悲惨な略奪に見舞われました。この敗北により、共和国政府は崩壊し、フィレンツェの門は開かれ、メディチ家が18年ぶりに市の支配者として帰還しました。
メディチ家が復帰すると、旧共和国政府の役人たちは一掃されました。マキャヴェリも例外ではありませんでした。彼は全ての公職を解かれ、フィレンツェ市内への立ち入りを一年間禁じられ、市外のサンタンドレア・イン・ペルクッシーナにある父祖伝来の小さな農場へと隠棲することを余儀なくされました。
さらに不幸は続きます。1513年初頭、メディチ家の支配に反対する陰謀が発覚し、マキャヴェリの名が容疑者リストに含まれていたことから、彼は逮捕され、投獄されてしまいました。彼は、謀議への関与を激しく否定しましたが、拷問(両腕を背後で縛り上げて吊るし上げる「ストラッパード」)にかけられました。しかし、彼は屈することなく無実を主張し続けました。幸運にも、ちょうどその頃、フィレンツェ出身のジョヴァンニ・デ・メディチが教皇レオ10世として選出されたため、祝賀のための大赦が行われ、マキャヴェリは釈放されました。
『君主論』の執筆

九死に一生を得たマキャヴェリは、再びサンタンドレアの農場での隠棲生活に戻りました。政治の第一線から完全に排除され、将来への希望も絶たれた失意の日々。彼は、この時期の生活を、友人のフランチェスコ・ヴェットーリに宛てた有名な手紙の中で生き生きと描写しています。昼間は、森で木こりと口論したり、宿屋で村人たちとカード遊びに興じたりして、退屈な時間を過ごす。しかし、夜になると、彼は仕事着を脱ぎ捨て、宮廷風の正装に着替えて書斎に入る。そこで彼は、古代の偉人たち、すなわちローマの歴史家や政治家たちとの「対話」に没頭しました。
この古代との対話と、彼自身が14年間の外交官生活で得た「近代の事柄に関する経験」とを結びつける中で、彼の最も有名で、最も物議を醸すことになる著作『君主論』が生まれます。この小冊子は、1513年の後半、わずか数ヶ月のうちに書き上げられたと考えられています。
『君主論』は、伝統的な「君主の鑑(君主かくあるべしと説く教訓書)」の形式をとりながら、その内容において革命的でした。従来の君主論が、君主は寛大であるべき、慈悲深くあるべき、約束を守るべき、といったキリスト教的な道徳規範を説いていたのに対し、マキャヴェリは、そのような理想論は政治の現実の前では役に立たないと断じました。彼は、君主の第一の目的は、国家を創設し、維持し、その安全と繁栄を確保することであり、そのためには、伝統的な善悪の基準を超越しなければならない時があると主張したのです。
彼は、「愛されるよりも恐れられる方が安全である」と述べ、君主は必要とあらば、残酷さや欺瞞を用いることを躊躇してはならないと説きました。しかし、それは単なる非道徳の推奨ではありません。君主の冷酷な行為は、あくまで国家の利益という目的によって正当化されなければならず、無意味な残虐行為や私利私欲のための悪は、軽蔑と憎悪を招くだけで、結局は君主の破滅につながるとも警告しています。彼は、政治の世界を、道徳が支配する領域とは別の、それ自体の法則を持つ領域として捉えようとしたのです。
マキャヴェリは、この『君主論』を、フィレンツェの新たな支配者となったロレンツォ・デ・メディチ(豪華王の孫)に献呈しました。彼は、この著作を通じて自らの政治的洞察力と有用性をメディチ家に示し、再び公職に復帰する機会を得ようと望んだのです。しかし、その願いがすぐに叶うことはありませんでした。
その他の著作

公職復帰の道が閉ざされたまま、マキャヴェリはその後も精力的に著作活動を続けました。彼は、フィレンツェのルチェッライ家の庭園(オルティ・オリチェッラーリ)に集う若い人文主義者たちとの交流の中で、新たな知的刺激を受けました。
この時期に書かれたのが、もう一つの主著である『ディスコルシ(ローマ史論)』です。これは、古代ローマの歴史家リウィウスの著作を論じた形式をとりながら、共和制の政治体制について深く考察した大著です。『君主論』が君主制、特に「新しい君主」による国家創設の技術を論じているのに対し、『ディスコルシ』は、市民の自由と参加を基盤とする、安定的で長続きする共和国のあり方を探求しています。この二つの著作は、一見矛盾するように見えますが、独裁的な君主制は腐敗した国家に秩序を回復するために、共和制は健全な国家を維持するために、それぞれ異なる状況で必要とされるという、マキャヴェリの現実主義的な政治観の二つの側面を示していると解釈できます。
政治論以外にも、マキャヴェリは多彩な才能を発揮しました。彼は、イタリア・ルネサンス期を代表する喜劇の一つである『マンドラゴラ』を執筆しました。この戯曲は、人間の欲望や偽善を辛辣なユーモアで描き出し、大成功を収めました。また、彼は『フィレンツェ史』の執筆をメディチ家から依頼され、故郷の歴史を鋭い分析とともに叙述しました。
晩年と遺産

1520年代に入ると、マキャヴェリの運命にもようやく変化の兆しが見え始めます。メディチ家も彼の才能を認めざるを得なくなり、少しずつ彼に小規模な任務を依頼するようになりました。
最後の公務と死

1521年、彼はフランシスコ会への使節という、彼の能力には見合わない小さな任務を与えられました。1525年には、メディチ家の教皇クレメンス7世から『フィレンツェ史』の執筆を公式に依頼され、報酬を受け取りました。そして1526年、皇帝カール5世の軍がイタリアに迫ると、マキャヴェリはフィレンツェの城壁の防御を監督する役職に任命され、ついに念願であった公務への本格的な復帰を果たしました。
しかし、彼の幸運は長くは続きませんでした。1527年、皇帝軍がローマを侵略し、略奪するという衝撃的な事件(ローマ劫掠)が起こります。この事件により、ローマにいた教皇クレメンス7世の権威は失墜し、その報がフィレンツェに届くと、市民は再び蜂起してメディチ家を追放し、共和国を再興しました。
皮肉なことに、マキャヴェリが生涯擁護し続けた共和制が復活した時、彼はもはやその担い手として信頼されていませんでした。彼は、晩年にメディチ家と協力したことから、「メディチ家の友人」と見なされ、新しい共和国政府から何の役職も与えられませんでした。長年の努力の末に再び手にした公職を、わずか一年で失ったのです。この最後の失望が、彼の健康を決定的に損なったのかもしれません。1527年6月21日、ニッコロ・マキャヴェリは58歳でその波乱に満ちた生涯を閉じました。
マキャヴェリズムという遺産

マキャヴェリの死後、特に『君主論』は、ヨーロッパ中に大きな波紋を広げました。カトリック教会は、その非道徳的な内容を糾弾し、1559年に禁書目録に加えました。プロテスタント側もまた、彼を無神論者、悪魔の手先として非難しました。イングランドのエリザベス朝演劇では、「マキャヴェル」という名の人物が、目的のためには手段を選ばない冷酷な悪役としてしばしば登場しました。こうして、「マキャヴェリズム」という言葉は、政治における権謀術数や非情な策略を指す、否定的な意味合いで広く使われるようになりました。
しかし、スピノザやルソーといった後の思想家たちは、マキャヴェリの著作の中に、君主の圧政を暴き、人民に警告を与えるという、共和主義的な意図を読み取りました。19世紀以降、イタリア統一運動(リソルジメント)の中では、彼は外国勢力をイタリアから追放することを訴えた愛国者として再評価されるようになります。
マキャヴェリの真の遺産は、政治というものを、宗教や伝統的な道徳の束縛から解放し、それ自体の法則を持つ人間的な営みとして、科学的に分析しようとした最初の近代的な政治思想家であったという点にあります。彼は、人間が常に善であるとは限らないという厳しい現実を直視し、理想の世界ではなく、ありのままの世界でいかにして秩序を築き、国家を維持するかという、政治の永遠の課題に正面から向き合いました。
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『世界史B 用語集』 山川出版社

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